考察系ドラマはなぜ「ムリゲー」なのか?『良いこと悪いこと』が仕掛けた社会派ミステリーの真意
この記事は、ドラマ『良いこと悪いこと』最終回を軸に、SNS時代の「考察系ドラマ」が抱える構造的限界を解剖する。結論として、本作は本格派ミステリーの仮面を被ることで視聴者を惹きつけ、真の目的である「いじめの不可逆性」という社会派メッセージを見事に突きつけた傑作であると論じる。
#ネタバレ にご注意ください
考察系ドラマの構造的敗北:なぜ私たちは「真犯人」を外すのか
犯人は誰なのか?で世の中が盛り上がりを見せていた考察系ドラマ「良いこと悪いこと」が遂に終わりを迎えた。
自分もブームに乗って犯人探しに挑んでみたが、結果はどうだっただろうか?
ここでは反省を含めて、答え合わせをおこなってみる。
多すぎる探偵と回収されない伏線のジレンマ
・実行犯:宇都見(木村昴)
・共犯:今國(戸塚純貴)と東雲(深川麻衣)
実行犯は、第9話で明かされたとおり宇都見(木村昴)であった。動機は、婚約者であるドの子(瀬戸紫苑)の自殺だった。ドの子(瀬戸紫苑)は小学生の頃のキング(間宮祥太朗)たち6人組によるいじめがトラウマとなっていて、偶然キング(間宮祥太朗)に再会したことをきっかけとして、死を選んでしまった。
今國(戸塚純貴)と東雲(深川麻衣)はフリースクールのタクト学園でドの子(瀬戸紫苑)の同級生であることが、最終話で明かされた。ドの子(瀬戸紫苑)の死をきっかけに、宇都見(木村昴)に協力して犯行に至ったのだった。
東雲(深川麻衣)は記者という立場を活かして、キング(間宮祥太朗)たちの過去の行いを糾弾した。今國(戸塚純貴)は店長を務めるスナックを情報収集の場として活用し、最後は拳銃で自分を殺させることで、キング(間宮祥太朗)を殺人犯の立場に追い込もうとしたが、未遂に終わった。
当初は、第8話までの情報で、消去法から犯人はゆっきー(剛力彩芽)と予想していた。
ゆっきー(剛力彩芽)
これは見事に外れた!(笑)
言い訳をさせてもらうと、この時点で、イマクニの店長・今國(戸塚純貴)、警視庁の宇都美(木村昴)、週刊アポロの東雲(深川麻衣)の3人がかなり怪しいと認識していた。
しかし、それを決定づける証拠がなかったため、スルーしてしまったのだ。
これは正直悔しい…(笑)
第9話では、宇都美(木村昴)の犯行であることが明らかとなった。
しかし、最終話の予告で、さらに「真犯人」がいると告知されたため、宇都美(木村昴)を起点に「真犯人」の予想をおこなってみた。
A.今國(戸塚純貴)サイコパス説
B.加奈(徳永えり)紫苑の姉説
C.真犯人はメタ的な表現だった説
「真犯人」がいるという前提で、3パターン考えてみたが、
これもことごとく外してしまった!
最終話で明かされたタクト学園の知り合い今國(戸塚純貴)と東雲(深川麻衣)は、「真犯人」というよりも「共犯」と表現すべき存在だったため、ちょっと納得感が無かったが、それをいくら言ったところで負け犬の遠吠えにしか聞こえないだろう…(苦笑)
前の考察記事にも書いたことだが、全部観終わって抱いた感想は、「考察系ドラマはムリゲー」だということだ。
何しろ探偵役が多すぎるのだ。
推理小説 1:1 探偵は読者一人
考察系ドラマ 1:多数 探偵は視聴者全員
推理小説の場合は、読者ひとりで作者の仕組んだトリックや伏線を追う。
それに対して、考察系ドラマでは、数えきれないくらい多数の探偵(視聴者)が、SNSなどで互いに情報交換しながら、どこに伏線が隠されているのかを探るのだ。
真っ当に伏線を示していたら、それらの大半は暴かれ、放送回の途中で犯人が明らかとなって面白みに欠けてしまうだろう。
そのため、製作サイドとしては、真っ当な伏線は隠し、視聴者の目先を欺くための犯人には繋がらないヒントだけをあちこちに散りばめることになる。
そしてドラマの終盤で突如として今まで知らされていなかった新たな情報が出てきたり、視聴者が犯人に繋がるヒントだと捉えていたエピソードが何も回収されないままに放置されエンディングを迎えて、失望してしまう。
本作「良いこと悪いこと」でも、正直その傾向は見られた。
製作サイドにとって、推理ドラマの制作はムリゲーだ。
視聴者サイドにとっても、その謎を解くのはムリゲーだ。
つまり、考察系ドラマはムリゲーなのだ。
これは個々の作品の品質がどうこうという問題ではなく、SNS時代における考察系ドラマというジャンル自体が抱える構造的な宿命であり、今後出てくる新たな考察系ドラマ作品もそのような目線で受け止める必要があると感じている。
自分の犯人考察が外れてしまったのもある意味、仕方のないことだったのかもしれない(と言い訳)。
本格派ミステリーの「仮面」と制作側の生存戦略
視聴率とSNS拡散を両立させるメディアミックスの功罪
ミステリーには、本格派と社会派の2つの潮流が存在する。
本格派ミステリー:謎を解くことそのものを楽しむ
社会派ミステリー:社会問題を描き、そこに潜む“現実の闇”を暴く
本格派ミステリーは、トリックやアリバイ、密室などの謎解きが主目的であり、推理に必要な手掛かりは必ず示されている必要がある。伏線の回収も気持ちいい。
それに対して、社会派ミステリーは謎解きよりも、その背景にある社会問題や犯人の動機に焦点が当てられる。
自分を含め多くの視聴者はどうも、この2つを混同してドラマを観てしまっていたようだ。
最終回まで視聴した印象として、「良いこと悪いこと」は紛れもなく、いじめ問題を扱った社会派ミステリーであった。
自分はそれを本格派ミステリーと勘違いして、犯人探しをおこなってしまっていた。
ここに、自分の敗因のひとつがあったかもしれない(と言い訳)。
しかし、これには番組サイドによる巧妙な仕掛けが関係していたと思われる。
番組HPを見ると、「イントロダクション」で次のような煽り文句が書いてある。これを見て視聴者の多くは、これを本格派ミステリーと勘違いして犯人探しを始めてしまったのだ。

ドラマ開始1分で一人目が死に、毎回「誰が犯人で誰が死ぬのか?」「真犯人はだーれだ?」と視聴者を煽り続けてきたのだ。
これは明らかに製作サイドの作為だが、製作サイドにもそれなりの事情があったように思われる。
本作品は地上波のゴールデンタイムに放送されたドラマだ。全10回放送の視聴率を一定水準以上に維持できなければ、シーズン途中での打ち切りもあり得ただろう。過去のドラマでも視聴率が振るわずに、不自然に短くまとめられて番組改変期前に終了してしまった番組は多くある。
Tverで再生回数を増やしたり、有料配信サイトのHuluへの誘導も番組としてのノルマがあっただろう。民放テレビ局と言えども営利企業である限り、株主の為に利益を追求することは当たり前のことなのだ。
そのために、製作サイドは「真犯人はだーれだ?」と煽ったのだ。
「いじめ」に対する社会的な問題提起であれば、全10回の放送回全てでそれを繰り返し訴えた方が効果的だ。しかし、それをすれば残念ながら視聴者はついてこない。番組の企画としても成立していなかっただろう。地上波のテレビ番組として成立させるには、マジメだけではないエンタメ性が必要だったのだ。
視聴者は、本格派ミステリーと勘違いしたからこそ、謎解きに夢中になり最終話まで付いてきたのだ。
その意味では、製作サイドの戦略は正しかったと思う。
「いじめ」に対する社会的な問題提起のために、本格派ミステリーの仮面を被り考察系ドラマに仕立て上げた。それが、本作「良いこと悪いこと」だったのではないか?
もちろん、エンターテイメントとしても十分に完成度が高かったがゆえに、番組が成功したのは間違いないことだ。
さまざまな制約を乗り越えて、あるいは逆にそれを活かして結晶化させ輝いた作品こそが傑作と呼ぶにふさわしい作品となるのではないか?そんな気がしている。
前に別記事でも書いたことがあるが、「創作とは制約の中で理想を貫くこと」なのだ。
どんな創作にも必ず制約がある。それを乗り越えて理想を貫けた作品にこそ価値がある。
本作「良いこと悪いこと」を視聴して、改めてそれを強く感じた。
伏線の回収が不十分なまま終わりを迎えた本作に対して、一部批判の声も聞く。
自分も考察ブームに乗せられた口だから、その気持ちは十分にわかる。しかし同時に、上記のような背景を無視した作品批判は筋違いにも感じてしまう。
今クール流行ったドラマのタイトルを借りてきて言えば、「じゃあ、あんたが作ってみろよ」だ。
本格派ミステリーとして考えてしまったら、ラストの展開が物足りなく感じたことは確かだ。自分が考察したような「加奈(徳永えり)紫苑の姉説」のような大どんでん返しが観たかった気持ちもある。
しかし、社会派ミステリーと捉えれば、この結末でよかったのだとも思える(と負け惜しみ)。
社会派ミステリーとしての着地:「いじめ」という不可逆の罪
制約の中で貫かれた理想と、最終回が残した余白
最終話は、このドラマが本格派ミステリーの仮面を脱ぎ去って、本当に伝えたかった「いじめ」に対する社会的な問題提起をおこなった回であった。
問題が問題だけに、最後に何が正解かという答えが示されたわけではないため、少し取っ散らかった印象もあったが、一定の結論を示さなかったことはむしろよかった。
今國(戸塚純貴)の「いじめは殺人と同じだ」「なんでいじめるんだよ」「なんで嫌なことするんだよ」というセリフは心にブスブスと刺さった。
SNSのドラマの感想でも、過去にいじめに合った経験から「いじめっこは一生変わらないから、早くキング(間宮祥太朗)も殺されて欲しい」という感想をちょくちょく見かけた。
ちょっとゾッとしたが、それだけ、いじめ被害は尾を引く根深い体験なのだなと感じた。
いじめは、本当にダメだ!
一方で、当たり前の話であるが、現実に仕返しの為の殺人をおこなうのはダメだ。問題提起のために子供のころの行為を週刊誌に晒すことで相手を追い詰め、その家族を新たないじめの被害者にする行為もダメだ。
ましてや、今國(戸塚純貴)や東雲(深川麻衣)がいじめの被害にあったのは、キング(間宮祥太朗)たちではなく、別の誰かだった。いじめの加害者という属性だけで、殺害の対象にしてしまうのは、同情の余地がない。
最終話で、主人公のキング(間宮祥太朗)は、今國(戸塚純貴)の問いかけに対して、何も返す言葉を持たなかった。終始暗い顔を見せていて、成すすべもなかった。
主人公の扱いとしては異例で、バッドエンドであったと思う。
この物語が最後に崩壊しなかったのは、もうひとりの主人公であるどの子(新木優子)の存在のおかげだろう。
「いじめをおこなった悪い子をやっつけるために協力して欲しい」という東雲(深川麻衣)の誘いを断ったどの子(新木優子)は、物語の良心だった。
「誰かにとっての良い事でも、他の誰かにとっては悪い事かもしれない。そのことに思いを巡らせて私たちは生きていくしかない」
どの子(新木優子)のセリフが、題名の「良いこと悪いこと」の意味の回収であったと自分は受け取った。
実際に、ドラマの中で正義の側に立っていると思われたどの子(新木優子)も意図せずに他者を傷つけていたエピソードが語られていた。
ラストシーンは、どの子(新木優子)と同じように体育倉庫に閉じ込められた花音(カノン)を「大丈夫?」と扉を開けて助けに来た少年が写されて終わった。少年の顔は光でよくわからない演出であった。
最初このシーンを観て、閉じ込められているのはどの子(新木優子)で、助けに来たのはキング(間宮祥太朗)だと思った。
キング(間宮祥太朗)はあの後、本当は助けに来ていたんだ…。いや、もし助けにきていれば世界は違っていたかもししれないという暗示か…。
閉じ込められていたのは、花音(カノン)だったかもと気が付いてからは、助けに来てくれた男の子は花音(カノン)のクラスメート?それなら希望に繋がるな…。いや、これはキング(間宮祥太朗)の願望を表しているのかもしれない…。
しばらくして、少年の顔が光で隠されていたのは「助けに行くべきはあなた自身では?」という番組からのメッセージかもしれないと思い直した。
「誰かにとっての良いことは、誰かにとっての悪いこと。」
このタイトルが真に牙を剥くのは、すべての謎解きが終わり、私たちが安全な場所からドラマを消費し尽くしたまさにその瞬間である。私たちは画面の向こうの悲劇に涙し、SNSで「真犯人」を無責任に考察し、誰かを断罪することで正義感を満たした。
だが、画面を閉じ、現実の社会構造に組み込まれたとき、完全に潔白な傍観者など存在するのだろうか。あなたの無自覚な「良いこと」は、今日もどこかで誰かを追い詰めてはいないか。
凄惨な結末をエンタメとして消費した私たちが、今、本当に見つめ直し、助けに行くべき相手は、画面の中の被害者ではない。
——他でもない、あなた自身ではないのか。
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