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本能寺の変1582 坂本にて 4 ② №6-230 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

坂本にて 4 ② №6-230

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮
 
 1戦国時代=相互不信の時代
  2美濃
  3尾張
2 光秀の実像
 
 1信長という男
  2光秀という男  1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
  3光秀の後継者  1 信長の後継者 2 光秀の後継者 3 明智の将来
  4 先祖の教訓
  5 大量殺戮
  6 三人の謀叛人
3 志向の相違
 
 1粛清の怖れ
  2 光秀の老い
  3 四国問題 躓き
  4 事態急変
  5 志向の相違
4 武田の滅亡
 
 1甲斐遠征
  2勝頼の首
  3武田効果
5 信長の油断 大要 概略
  
「事態急変」
  1 勝利の余韻  概略 4月21日
              4月24日
  2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
              5月11日
  3 足蹴事件 概略 5月12日  1/5  2/5  3/5  4/5
                     5/5
            5月15日
            密室にて   1/3  2/3  3/3
                         ④ 概
                     ⑤ 概
  4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
              5月17日
            坂本にて 目次
                          
                        5 6 
              5月19日 大 概
              5月20日 大 概
              5月21日 大 概
  5 謀叛人の顔
  時は今、・・・・・
              5月26日 大 概
              5月27日 大 概
              5月28日 大 概
              5月29日 大 概
さる程に、不慮の題目出来候て、

【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
【抜粋】
【注目ポイント】 目次
【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
「その一因」 目次大 概説大 目次中 
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

坂本にて 4 ② №6-230

【記事一覧】【五大要因】  5 信長の油断>4 中国出陣
>坂本にて    
           →【四国問題】 天正十年 目次 0517 0526
           →「その一因」 目次大 概説大 目次中
            3光秀と光慶  (2)光秀の年齢 そ第78話⑨
           →本能寺への道
           →2光秀という男 2 光秀の年齢

光秀の心は、重く沈んでいた (1~6) 。

4石谷頼辰、未だ、帰らず。

②土佐は、僻遠の彼方。

                            →そ第78話⑨
 信長は、素早かった。
 五月七日、「四国出陣命令」。            →【重史012】
 すでに、動き出していた。

 元親は、油断していた。
 元親は、このような機運を察知することができなかった。
 地理的要因 → 情報不足 → 危機意識の欠如 = 油断 。
 信長を甘く見ていた、と言うことである。
 決断するのが、遅すぎた。

 残念である。

 結局、頼辰は、間に合わず。             →【 重史 042】
 これもまた、宿命。
 「是非に及ばず」
 である。

 このことが、光秀の意思決定に大きな影響を及ぼすことになる。
 重要ヶ所!!
 要注意!!

 当時の交通事情。
 
土佐からの、所要時間について。
 
少なくとも、一ヶ月以上は、かかったものと思われる。

 したがって、
 頼辰が、到着した時、光秀は、もう、この世に、存在していない。
 山崎の合戦は、すでに、終わっていた(天正十年1582六月十三日)。
 
 頼辰は、元親を頼り、土佐へ落ち延びた。
 「石谷家文書」(五月二十一日付)が後の世に残されたのは、それ故なの
 だろう。                      →【 重史 042】
 
 
なお、この数値(一ヶ月以上)は、以下①②を根拠とした。

 ①摂津→土佐 凡そ、一ヶ月。 
  天正六年1578十二月十六日付 石谷頼辰宛長宗我部元親書状。
  この時、頼辰は、光秀とともに、荒木村重の有岡城攻めに参陣していた
  らしい。

  「去る月(十一月)十七日、御礼、一昨日、拝披候」
                          (「石谷家文書」)

 ②?→土佐 凡そ、一ヶ月半~二ヶ月。
  天正八年1580十一月二十四日付、羽柴筑前守宛長宗我部元親書状。
  元親は、秀吉とも、接触していた。
  この年の、秀吉は、多忙だった。
  転戦、また、転戦。
  播磨・但馬・因幡・伯耆。
  それ故、発送地がよくわからない。

  この書状が、手元に着くのは、翌年一月頃だろう。
  その頃、姫路城は、改修工事中。
  終盤(仕上)の時期である。
  おそらく、秀吉は、そこにいたのだろう。
  とすれば、着地は、播磨となる。
    
  「六月十九日の御返礼、八月中旬、拝見を遂げ候」
  「九月朔日御報、去る月(十月)中旬、下着」
                 (「史料で読む戦国史」「吉田文書」)



 ⇒ 次へつづく




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