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電気の川を渡る ご先祖さま。

最初から最後まで見えない世界の話です。ほぼ実話。
今から数十年前に、ひ孫の顔を見て亡くなった夫の祖父は茨城県、潮来(いたこ)に行きたがったという。

わたしの家系は、父方に数十年にわたり納骨していない喉仏さまがあったり(いとこのおかげで今は納骨済み)

母方には妻にひどく恨まれた夫がいたり、

夫いわく、「何というか、、、大変な一家だね」。
しかし、わたしからすると夫の生家も同じである。

新婚当時、夫は言った。
「いろいろあって、うちを根絶やしにしようとする人がいて、分家して引っ越し、名前の読み方を変えた」

このときのわたしは、母方の恨まれた夫の話も父方の喉仏様の話も知らない。子どもを産んだばかりで、その事実を知ってちょっとおびえた。

もう少し話を聞くと、「うちを根絶やしにしようとする人(ここでは茨城県の県木、梅から名前をもらい梅花党と呼ばせてほしい)」が一方的に悪いとは思えなかった。

梅花党も、それに対抗した夫の先祖が加わった党も、どちらの人々も自分の信じる正義に身をささげ、行動した。その結果、どちら側にも、地域全体にも、他の県にも多くの被害者がでた。そういう事件だった。

ニンゲンは今を生きる。
乳飲み子は育つし、おびえてばかりで過ごせない。いつしか忘れるようになった。

それからどのくらい経ったのか。母方の件をnoteに書いて、その次に父方を書いて、今年は夫の番が来たらしい。

夫の家系の始まりは男性だった。男性の名は、太郎(仮名)。

梅花党事件の頃、太郎は家を残すために明治12年(1879年)茨城県潮来村(いたこむら)から、千葉県粟生村(あわうむら)に来た。

夫に伝わる伝承によれば「潮来からサクラに移転した」事になっていたが、公式の記録では粟生村だった。ここからさらに分かれていく。

太郎 粟生へ ー次男・二郎(本家) サクラへ
       ー長女・市子(分家1) 九十九里へ
       ー三男・良三(分家2)ー忠ー清ー夫(わたしはここ) 
                
太郎は家を次男の二郎に相続させた。二郎は姉の市子と弟の良三を分家した。この良三が夫の高祖父(ひいおじいさん)。位牌も良三から始まっている。

長男はどこ? となるか、市子の戸籍には「長男→長女」と訂正してある。市子が長男として記載されたのかなあ。

「本家、分家1,分家2は梅花党に見つからないために、分家した時点で関りを絶った」という。

分かっているのは夫の系譜の分家2。
千葉県那古町に引っ越した良三に、二人の娘と一人の息子が生まれる。
長女・とも(結婚。除籍)
次女・敏(とし、結婚。除籍)
長男・忠(長男=夫の祖父)

ここで良三一家は再び引っ越しをする。

忠は成長し、
長男・清(長男=夫の父)
次男・スグル
三男・リュウ、
長女・ふみ
次女・かずが生まれた。

清には長男(夫)、次男(夫の弟)が生まれた。
夫には二人の娘が生まれ、夫の弟は結婚したが夫婦二人の生活である。

忠の家系は令和の時代、こんなふうになっていた。
 長男・清の家系 夫(既婚、女児2名)と夫弟(既婚子なし)。
 次男・スグルの家系 女性2人(独身、既婚男児1名)、
 三男・リュウの家系 男性2名(独身と、成人した頃から音信不通)
 長女・ふみの家系 女性、既婚子なし
 次女・かずの家系 女性(既婚子なし、既婚女児1名)、

既婚女性はすべて夫となる男性側の氏を名乗っている。つまり、忠の家系は終わりの可能性がつよい。したがって良三の分家2はここに終わる予定である。

同時期に分家した長女市子と次男二郎の家はどうなったか?

分家1,長女市子は妹の四女を養子として、その後は記録が取れない。

本家の二郎の家は途中まで判明している。
長女は19で結婚。除籍。
長男は出生記録だけ。
次男、三男、次女、は1週間で他界。
四男、三女も出生の記録だけ。

良三が分家した後は、傍系なので記録がとれない。色々考えると次男二郎の家も分家1もお墓参りする人がいなくなってしまったのかもしれない。

話しは、夫の祖父・忠(明治43年・1910年生まれ)に戻る。
忠は生前、故郷の話が出ると「潮来に行きたい」と言っていたという。

忠もその妻も、清もその妻も運転免許がなかった。さらに潮来と言っても今は市である。どこへ行ったらいいのか分からない。清は調べたことがあるが、よく分からないままだった。

というわけで、旅行好きの舅姑も潮来へ行ったことがない。
しかし、電子化・令和に生きる夫には物好きな妻がいた。わたしである。直系血族の夫なら、生年月日と本籍が分かれば、他県に住んでいてもとれる。

とはいってもこの「家を絶やそうとする」件、関係者の数が多くてぼかすことしかできない。
最期まで書けるとおもうけど、アップすることはできるかどうか。

案の定書いてたのが消えたので簡単に書く。不思議なことに1時間ほどパソコンに向かいながら別の事をして、この記事を書かないと風もないのにカレンダーがカサッと揺れることが二日続いた。やはり書くべきらしい。

夫の高祖父、良三(忠の父)の戸籍がとれたのが2026年1月21日。
夫が受け取りに行ったのはその翌日の22日。

戸籍の申請は朝9時から夕方5時まで。受け取り時間はもうちょっと長い。土日、夜8時まで受け取りできる。

ちまちま解読。聞いたことのない地名を聞き興奮するわたし。
わたし「潮来へ行こうよ」
夫「潮来より、サクラが先でしょ。潮来は何か怒られそうでコワイ」

わたし「ふうん。」
サクラはなんか違うんだよねえ、と思いつつネットであれこれ検索。当時高3の高校受験が佳境に入ってこの問題は棚上げ。

2月に入る。建国記念日の夜、わたしがレンコンを切ろうとしてざっくり左手の小指を切った。縫うほどでもなかったけど意外と深くて、2週間ほどたっても痛い。この記事を書くために調べたら、レンコンは茨城県の特産物で全国トップらしい。

ここで、ここ数年のケガと病気をあげてみる。もともと夫は40才くらいから腰痛持ちで通院。尿管結石の体質で忘れた頃に石がでる。

2021年7月 夫の子孫繁栄の部分に炎症ができた。痛みがひどくなって受診。別の日に手術。しばらく通院。
(今回のお参りにいったあと、「最近股ずれが再発したから下着を変えた」と。うん、よく分からないけどお参りに行って良かったね。たぶん。)

2021年12月、上の子(当時16才)に左手にイボができて痛いと言うので通院して切り取った。

2022年9月以前(お正月だったかな?)に夫婦でコロナに感染、入院。
2022年12月の暮からお正月にかけて全員がコロナ感染、自宅療養。

2023年6月、上の子(当時17才)が、体育の授業中に右手中指を骨折。
     8月、舅(当時85才)の子孫繫栄の部分に病気が見つかる。高齢者にはよくある病気で、現在様子見です。
     9月 下の子(当時15才)が、体育の授業中、左手の人差し指を骨折。15才は昔の成人年齢。
    9月から2024年12月までわたしが歯の治療で断続的に通院。(物心頃ついて以来傾いていたわたしの実家のお墓を直したのがこの頃。お墓を直して実家側の運が良くなったのかどうか、正直分からない)。

2024年12月、夫の叔母(80代、次男スグルの妻)のお葬式。信心深い人だったと夫は言う。

2025年10月 姑(当時82才)の子孫繁栄の部分に病気が見つかり、手術。高齢者にはよくある病気でした。

15日に高3の受験発表が終わり、進学する学校が決まった。
ふと、思った。「潮来へ行こう」

調べたら、潮来は車で行く地だった。わたしはペーパードライバー。夫にねだろう。
わたし「潮来に連れて行って。高3の受験も終わったし、その報告も兼ねてお墓参りする」
 夫「いくの? 実はなんだか潮来へ行ってもいいかなと思ったんだよ」

行くと決まれば、目的地をはっきりさせよう。でないと車のナビが使えない。
というわけで、いつ聞いたかも忘れた舅の話を参考にグーグルの地図をみて、お墓の場所にあたりをつけ、2月22日に100年前以上前ご先祖様のお墓を探す旅にでた。お花は夫が要らないと言うので、もっていかなかった。

このとき夫は「お墓が見つかるはずがない。」と思っていたという。
予想に反し、わたしたちは無事お墓を見つけ、お参りした。わたしが不審な人物よろしく探し回ったのである。

お墓に眠っていた人物は、1780年年代(天明時代)に亡くなっていた。明治よりずっと前だった。枝分かれした人々は絶えてしまったのだろうか。

帰り道

駐車場で夫が音声ナビを操作しようとして「道の駅」と言った。
ナビはくるくると回り、「西(仮の地名)」と案内した。

わたし・夫「?」
夫「道の駅」

「西」を案内するナビ
わたし「うけるー!」
手をたたくわたし。

実は、梅花党は西を目指して果たせなかったのである。つまり、今はこの世にいない彼らが「隣にいますよ」とナビを使ってアピールしているに違いない。だけど夫はそれを知らないみたい。

夫はしぐさでわたしに黙るように合図してもう一度、ナビに指示する。
ナビは西を表示したまま。

わたし「お花を持ってこなくてごめんね、って言ったら道の駅に案内してくれるよ」
夫「お花をもってこなくてごめんね」
夫「道の駅(とナビに指示を出す)」
はたしてー

ナビは「道の駅」を案内した。
帰りの高速道路からは、雲の隙間からきれいな光がそそいでいた。

その晩、うなされた。「れいから」ともやもやしたものが伝わってくる。わけがわからない。
はっとするとわたしは目覚めていて、夫の方から

「れいから!」と聞こえた。

夫の声とは多少違うものの、野太いニンゲンの声。
直後に夫の声でいびき。

それで分かった。「れいから」は今は生きていない夫の関係者からのメッセージで、とても重要ならしい。しかし、今は夜。
分かったから朝起きて考えよう。と寝た。

さて、朝、考えてみた。


「れいから」という言葉は令和の人は使わない。
ふと、昔、「零戦」を今のひとは「ぜろせん」と読むけど、戦前の人は「れいせん」と呼んでいたと思い出した。

すると、そうなると、「れいから」の「れい」は「起点」という意味で使っていたらしい。
団塊のジュニアに分かる単語になおすと「ゼロから」にあたるのではないだろうか?で、何がゼロからスタートなのか。

うん、ご先祖様がひどいことをした人々(梅花党)を供養せずに他県に逃げてしまった我々はマイナスであった。しかし、ちょっぴり供養したことになり、ゼロになったのではないだろうか。

早速夫に聞いてみる。
夫が「良く寝れた?」
わたし「昼寝をしたから眠れなかった。それにうなされた。、、、あのう、梅花党の人たちの供養している? してないでしょ」
と決めつけて聞いてみた。

夫「してないと思うよ。それにその話は代々長男しか聞かされていないみたいだし」

思い出した。忠さんは自宅に神棚は置いちゃだめで、お寺も信じない人だったらしい。
舅姑もお墓参りにいくけど、法事はしないタイプだった。

その後パソコンで調べた。戦前は「0」を「とんで」とか「れい」と呼んでいたそう。これで決定だね。今日から0スタート。

夫は潮来にもう一度行ってもいいらしい。そうだね、今度はお花を持ってお参りに行こうね。

お参り後の話



戦前の戸籍から家族関係を紙にまとめて分かりやすくしてみた。
バラバラで全体像がつかめないので、パソコンで入力して年表を作り始めた。手書きなので読めない文字があったりして、ネットで検索していく。
と、あのお墓はあのままでいいのだろうか。墓じまいしたほうがいいのかな、と思った。

25日。お寺に相談してみることにした。
外出中のご住職とつながり、色々聞く。檀家に夫の同姓はいくつかあり、お墓は別にもあると言う。
次男二郎の家か長女市子の家は生き残って、そちらには男子、女子もいるという。数年前にYからお墓を改葬した人々もいるらしい。墓じまいの必要はなさそうで一安心。

帰宅してもろもろの話を聞いた夫。
夫「太郎は粟生で亡くなったんだよね? 良三さんはどこで死んだの?」
わたし「もう少し入力し終わるから。それで見てみる」

翌26日。
良三の死亡場所を戸籍から調べてみる。なんと、普段夫側のお墓として、お参りに行く駅のそばだった。
2,3年前にお店が開店していて、「そこには行って見たいなー」と言った、そのあたりだった。あら、奇遇。分かったことはまだある。

わたし「ほぼ皆さん水運が盛んな場所の人と結婚してた」
夫「え? 茨城の内陸のひとは? 海ないじゃん」
調べるよ。

27日。

嫁いだ場所を調べまくる。
ふん!
夫に結果を報告する。「今は流通は車でしょ。当時内陸でもは舟運が盛んだったから、舟運と言ってもいいと思う。」
夫「そうなんだー」

その夜。もやっときた。今は生きていない夫の関係者らしい。「さく〇、、」
喉も乾いたのでついでに起きる。「ああ、さく何とかも調べるのか」
実はさくま、サクラ、とあって、サクラはお城の近くだったと突き止めた。さくまは調べなかった。すると調べるのは「さくま」のほうか。

翌朝、調べる。
まずウィキペディアで調べて、個人ブログや自治体のブログをみる。特段明治時代に栄えていたとか、有名な人物がでたとか、と書いた個人ブログもあたらない。発想を変えてみた。

「佐久間」。
はその土地から有名な武士の一族・佐久間氏がでたらしい。

「これか」
この地域は夫の伯母さんの嫁ぎ先になる。最初ひらがなで書いた。その後「佐久間」の漢字をよく見たので、漢字にしてお名前も出すことにしました。

さて、わたしの出身地(高校まで育った地)は長野県安曇野市です。

安曇野市は「北九州から船でやってきた一族、安曇族が開拓した」と言われています。6世紀ごろらしいです。

「安曇族の起源は古く、航海技術と稲作技術をもち、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっています。」←関東農政局のHP※より。

余談ですが、794年東北討伐中の坂上田村麻呂がきて、当時の安曇野の人々を困らせていた盗賊・八面大王を打ち取ったことになっています。

そのとき、131年前に朝鮮まで渡ったという安曇族は何をしていたのでしょう。
航海時術を持っていたのなら、当然ある程度の備えとしての戦闘力を持っていたはずなのに? 100年を超える時間が海の民だった安曇族を農耕の民にしたのでしょうか。

私見ですが、盗賊・八面大王は本当に盗賊だったんでしょうか。
小学校で八面大王が立てこもったという場所に遠足に行きました。「八面大王の一部分を埋めたと言われる土地は、「耳塚」などにその名が残っている
」と勉強した気がします。

探しました。個人ブログにありました。神社の名前はわたしが仮名にしました。耳、神社と検索すればでてきます。

田村麻呂は大王の復活を怖れ、遺体を切り刻んで、耳は有明の耳塚(大塚神社)へ、足は立足へ、首は松本の○○神社へ、胴体は○○神社(大王わさび農場内)という離れた場所に埋めたのでした…という地元の人なら誰もが知っているらしい?有名な民話が残っているためだそうです。

 「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」「○○神社」より

倒した敵をおそれ、神としてまつるのはよくあることです。○○神社(松本市)の創建は延暦13年(794年)時代的にはあっています。

ただ、大王わさび農場のHPには違う話が載っています。本当はここに引用したかったのですが、パソコンが不調になったため書けません。ウィキペディアも読みました。こちらも面白かったです。

わき道にそれました。ともかく、安曇族の北限は長野県らしい。そんな安曇族のお祭り、安曇野市穂高神社のおまつりは御船祭りと書いておふねまつり、と読みます。当然、山の中なのに「船」が登場します。

夫よ、わたしと結婚したのも水(船)つながり(?)だったね。

おまけ
安曇族についてはこちら。
【ホーム > 農村振興 > 国営事業所の取り組み > 中信平二期農業水利事業所 > 1.安曇族の開発【「農」と歴史】 > さらに詳しく 安曇氏】関東農政局のHPより。

この記事をいつ投稿しようかな、やめとこうかな、と軽く迷っていたら、左手の親指に小さな切り傷を作り、数日後には左手の手の平に軽く針が刺さった。というわけで本日投稿しました。

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水亀 由紀子 1日1にっこり。 たまに違う「ほっこり」でないものも書きますが、よろしくお願いします。「いただいたサポートはノート内で使う」というポリシーの方を見習い中です。