ぶどう味の謝罪
美緒はガムテープを歯で切ろうとして、やめた。
代わりに床に置いてあった鋏を拾った。
「それ、持ってく?」
私は食器棚の前に立っていた。
白いマグカップを二つ持っていた。
どちらも縁が少し欠けている。
十一年前、駅前の雑貨屋で買ったものだったと思う。
値段は忘れた。
高くはなかった。
「いらない」
美緒は段ボールから顔を上げずに言った。
「二つとも?」
「うん」
私はマグカップをゴミ袋に入れた。
陶器同士がぶつかって、軽い音がした。
結婚生活の最後の日にすることとしては、ずいぶん事務的だった。
粗大ごみの回収は翌朝だった。
そして、電気は明日の午前中に止まる。
水道は月末まで、鍵は管理会社から届いた封筒に入れて返す。
私はそれを全部知っていたし、美緒はたぶん知らなかった。
こういうことは昔から私がやった。
「冷蔵庫の跡、結構ついてるな」
私は床を見た。
冷蔵庫が十一年間置かれていたところだけ、床の色が少し違っていた。
「敷金から引かれるかな」
「どうだろう」
「写真撮っといた方がいいな」
私は携帯を出した。
美緒が笑った。
ほんの少しだった。
「最後までそれなんだね」
「何が」
「いや」
美緒はまた箱に向き直った。
私は床を三枚撮った。
別におかしなことをしたつもりはなかった。
退去するときには写真を残した方がいい。
何か言われたときに証拠になる。
そういうことは、ちゃんとしておいた方がいい。
写真を確認してから携帯をしまった。
部屋にはもうほとんど何もなかった。
ソファもテレビもない。
ダイニングテーブルも先週運び出した。
カーテンも外されていて、夕方の光が直接床まで入ってきていた。
窓の向こうには交差点がある。
信号が赤になると、向かいの建物の壁が少し赤く見えた。
前からそうだったのかもしれない。
十一年住んでいたが、私は初めて気づいた。
「水、そこ置いといた」
私は言った。
「ありがとう」
美緒はペットボトルを手に取った。
炭酸ではない。
美緒は炭酸をあまり飲まない。
私はそれを知っている。
キャップを開けて一口飲むと、美緒はまた作業に戻った。
私たちは離婚することになっていた。
正確には、もうほとんど離婚していた。
紙を出していないだけだった。
今日この部屋を片づけて、来週、提出する。
美緒は三か月前から別の部屋に住んでいる。
私はその間、この家に残っていた。
家という呼び方が正しいのかは、少し分からなかった。
美緒の物がなくなったあとも、洗面所の棚は左半分を空けたままだった。
歯ブラシは右側。
髭剃りも右側。
美緒が使っていた左側には何もなかった。
最初の一週間は、そこに何か置くことを考えもしなかった。
二週間目に整髪料を置こうとして、やめた。
理由はなかった。
三か月たっても空いたままだった。
それを寂しいと思っていたのかどうかは分からない。
ただ、一人分の生活というものは意外と面倒だった。
味噌汁を作ると余る。
洗濯物がなかなか溜まらない。
ゴミ袋がいっぱいになるまで時間がかかる。
テレビの音は少し大きくなった。
以前は二十二くらいだった音量が、気づくと二十七になっていた。
大きすぎると思って、二十五まで下げた。
「押し入れ、もう空?」
美緒が聞いた。
「たぶん」
「上の段は?」
「見たよ」
「奥」
私は押し入れを開けた。
上段の右奥に、小さな段ボールが一つ残っていた。
「あった」
「ほら」
「忘れてた」
「私も」
私は箱を下ろした。
埃が積もっていた。
日付も内容も書いていない。
「これ、どっちの?」
「分かんない」
「開ける?」
美緒は少し考えた。
「一応」
私はカッターを探した。
美緒が黙って鋏を差し出した。
「ありがとう」
テープを切ると、古い紙の匂いがした。
中には、本当にどうでもいいものばかり入っていた。
映画の半券。
使っていないキーホルダー。
どこかのホテルでもらったボールペン。
古い携帯電話。
割れた写真立て。
期限の切れたポイントカード。
「なんでこんなの取ってたんだろ」
私は映画の半券を持ち上げた。
題名を見ても、最初は思い出せなかった。
少しして、暗い映画館と、帰りに食べたラーメンのことを思い出した。
「これ、つまんなかったな」
美緒が半券を見る。
「私は結構好きだったけど」
「え」
「何?」
「いや。嫌いだったろ」
「そうだっけ」
「途中からずっと黙ってたじゃん」
「映画って普通、黙って見るでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
美緒は半券を裏返した。
「私は好きだったよ」
「へえ」
それだけだった。
人間の記憶なんて、そんなものなのだろうと思った。
十一年前の映画を好きだったか嫌いだったか。
間違っていたところで、何も困らない。
私は半券をゴミ袋に入れようとした。
「それは取っとく」
美緒が言った。
「好きだったから?」
「なんとなく」
私は美緒に渡した。
美緒はそれを自分の段ボールに入れた。
次に古いレシートが出てきた。
文字はほとんど消えている。
金額だけがかろうじて読めた。
七百八十二円。
「何買ったんだろう」
「さあ」
「二人分で七百八十二円って安いな」
「昔お金なかったからね」
「今もそんなにないけど」
美緒が少し笑った。
今度は私も笑った。
私たちが一緒に暮らし始めたころ、金はなかった。
給料日前になると、夕飯を買うだけで妙に慎重になった。
コンビニのおにぎりを一つ増やすか、菓子を買うか、本気で考えた。
私は値段を見ていた。
美緒は味を見ていた。
結局、美緒が欲しがったものを買って、あとで私が、
「こっちの方が十二円安かった」
などと言った。
美緒は、
「十二円くらいいいじゃん」
と笑った。
その十二円を気にしていたころの方が、二人で何かを選ぶ時間は長かった。
今なら欲しければ二つ買う。
その方が早い。
いつからそうなったのかは分からない。
箱の底に、小さな透明の袋があった。
中に赤と黄色と青の包み紙が見えた。
私は手に取った。
「うわ」
美緒も覗き込んだ。
「まだあったんだ」
「信号機」
私は言った。
昔、二人でそう呼んでいた。
赤はいちご味。
黄色はレモン味。
青はぶどう味。
三色並んでいるから信号機。
本当の商品名は別にあったと思う。
しかし私たちはいつも信号機と呼んだ。
青だけは、私が「信号機ぶどう味」と呼んでいた。
理由はない。
その方が馬鹿みたいで面白かったのだと思う。
「これ、何年前だよ」
裏を見た。
賞味期限の数字がほとんど消えていた。
「食べない方がいいよ」
美緒が言った。
「さすがに食わない」
袋の中には四つ残っていた。
赤が一つ。
黄色が一つ。
青が二つ。
私は青い包みを一つ手に取った。
「お前、これ嫌いだったよな」
美緒が私を見た。
「何が?」
「青」
「嫌いじゃないよ」
「ぶどう味だぞ」
「知ってるよ」
「いつも俺にくれてたじゃん」
美緒はしばらく黙った。
私は自分が何か変なことを言ったのかと思った。
「好きだったよ」
「何が」
「ぶどう味」
私は青い飴を見た。
「いや、嫌いだっただろ」
「好きだった」
「でも毎回俺にくれたじゃん」
「うん」
「なんで」
美緒は少し困ったような顔をした。
こんな質問をされるとは思っていなかったのかもしれない。
「あなたが一番好きだったから」
私はすぐには意味が分からなかった。
「俺が?」
美緒は頷いた。
「俺が好きだから、お前がくれた?」
「そう」
「でも、お前も好きだったんだろ」
「好きだったよ」
「じゃあ食べればよかったじゃん」
美緒が笑った。
「そうだね」
「半分ずつにするとか」
「そうすればよかったね」
私は青い飴を袋に戻した。
何かがおかしい気がした。
しかし、何がおかしいのか分からなかった。
別に大した話ではない。
たかが飴だ。
それも十年以上前の飴だ。
妻がぶどう味を好きだった。
私は嫌いだと思っていた。
だからどうした、という話だった。
私は箱の続きを片づけた。
少しして、さっきの映画の半券が目に入った。
美緒の箱の上に置かれていた。
「さっきの映画」
「うん?」
「本当に好きだった?」
美緒は私を見る。
「好きだったよ」
「俺、ずっと嫌いだったと思ってた」
「そうなんだ」
「なんで言わなかった?」
美緒は少し考えた。
「言ったと思うけど」
「言ってないよ」
「そう?」
「俺、覚えてない」
「じゃあ言ってないのかも」
美緒はそれ以上争わなかった。
その感じが、妙に気になった。
「ほかにもある?」
「何が」
「俺が勘違いしてること」
美緒は答えなかった。
「何」
「今それ聞く?」
「今だから聞いてる」
「どうして」
私は答えようとして、やめた。
どうしてだろう。
離婚するからかもしれない。
もう関係が終わるから、間違いを知っても困らない。
そういうことなのかもしれない。
「別に」
私はゴミ袋を縛った。
「ちょっと気になっただけ」
美緒は何も言わなかった。
しばらく、二人とも作業をした。
「旅行」
美緒が突然言った。
「何」
「旅行、嫌いじゃなかったよ」
私は手を止めた。
「誰が?」
「私」
「旅行嫌いだったろ」
「嫌いじゃない」
「毎回疲れたって言ってたじゃん」
「疲れてた」
「じゃあ嫌いじゃん」
「旅行が嫌いなんじゃなくて」
美緒はガムテープを切った。
「あなたの旅行が疲れたの」
私は笑った。
「何それ」
美緒は笑わなかった。
「覚えてる? 京都」
覚えていた。
結婚して三年目だった。
十一月だったと思う。
私は一か月前から予定を組んだ。
朝七時二十分の新幹線。
ホテルへ荷物を預け、寺を二つ見て、昼は予約しておいた蕎麦屋へ行く。
午後は紅葉で有名な寺へ移動し、夕方には一度ホテルへ戻る。
夜は美緒が行きたいと言っていた店を予約した。
我ながら、よくできた予定だった。
初日の朝、駅を出たところで美緒が言った。
「今日、予定決めないで歩かない?」
私は最初、冗談だと思った。
「今日しか回れないところあるよ」
と答えた。
美緒は、
「そうなんだ」
と言った。
私は地図を開いた。
寺へ向かった。
昼を食べた。
二つ目の寺に着くころ、美緒は口数が減っていた。
「足痛い?」
と聞いた。
美緒は、
「ちょっと疲れた」
と言った。
私は近くの喫茶店を調べた。
十五分休んだ。
そのあと美緒が、
「午後の一個、やめない?」
と言った。
私は、
「もう前売り買ってるから」
と答えた。
「明日じゃだめ?」
「明日は別の予約ある」
「そっか」
そのあとも予定どおり回った。
夜の店では美緒も楽しそうだった。
だから私は、旅行全体としては成功だったと思っていた。
帰ってきたあとも、美緒は、
「紅葉きれいだったね」
と言った。
私は今まで、それを美緒が旅行を楽しんだ証拠として覚えていた。
「私、あの日、川沿い歩きたかったんだよ」
美緒が言った。
「川?」
「駅から見えたでしょ」
「覚えてない」
「私、あそこ行きたかった」
「言えばよかったじゃん」
言ったあとで気づいた。
「言ったよ」
美緒は静かに言った。
「予定決めないで歩きたいって」
「でも、川って言ってないだろ」
「言ってない」
「じゃあ分かんないよ」
美緒は頷いた。
その頷き方が嫌だった。
責めているわけでもない。
許しているわけでもない。
もう訂正する必要がない人に向ける返事に見えた。
「俺、お前が困らないようにやってたんだけど」
「知ってる」
「店閉まってたり、電車乗れなかったりしたら嫌だろ」
「そうだね」
「だから調べてた」
「分かってる」
「それで疲れたって言われても」
美緒は少し考えた。
「準備してくれたことが嫌だったんじゃないよ」
「じゃあ何」
「全部もう決まってたのが嫌だった」
「決めた方が楽だろ」
「あなたはね」
私は黙った。
美緒は続けた。
「私は一回くらい、行き止まりの道に入って、戻ったりしてみたかった」
「旅行で?」
「うん」
「時間もったいなくない?」
「だから、そういうところ」
私は少し腹が立った。
「何でも俺が悪いみたいだな」
「悪いって言ってない」
「でも今、そういう話してるだろ」
「あなたが聞いたから答えてるだけ」
その言い方は正しかった。
だから余計に腹が立った。
「記念日も」
美緒が言った。
「何」
「別にどうでもよかったわけじゃない」
「気にしないって言ってただろ」
「盛大に何かしたいわけじゃなかった」
「じゃあ気にしてないじゃん」
「違う」
美緒は少し考えた。
「覚えてるんだ、って思いたかっただけ」
「覚えてたよ」
私はすぐに言った。
「忘れてた年ないだろ」
美緒は小さく頷いた。
「仕事だっただけで」
「うん」
「帰り遅くなったけど、別の日に飯行ったじゃん」
「行ったね」
「じゃあ何」
美緒は私を見た。
「そういうところ」
「どういうところ」
「私が何か言うと、すぐ説明が返ってくるところ」
私は黙った。
今度は本当に腹が立った。
「じゃあどうすればよかったんだよ」
美緒は目を伏せた。
「知らない」
「知らないって」
「私も分からなかった」
「それじゃ無理だろ」
美緒は返事をしなかった。
「だったら言えばよかったじゃん」
声が少し大きくなった。
部屋に響いた。
家具がないからだ。
私はそれが嫌だった。
自分が怒鳴ったように聞こえた。
美緒はしばらく黙っていた。
それから言った。
「最初は言ってたよ」
私は何も言わなかった。
「旅行のときも言った」
「それは今聞いた」
「旅行だけじゃなくて」
私は記憶を探した。
見つからなかった。
言われていなかったのか。
言われたのに覚えていないのか。
どちらなのか分からなかった。
「途中から言わなくなった」
「なんで」
「面倒になったから」
「俺に言うのが?」
「違う」
美緒は首を振った。
「訂正するのが」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「訂正?」
「あなたの中で、私はもう決まってたから」
私は少し笑った。
「そんな大げさな」
美緒は何も言わなかった。
「俺、お前の好きなものだって普通に知ってるよ」
「知ってるよ」
「コーヒーに砂糖入れないとか」
「うん」
「炭酸嫌いとか」
「嫌いではないよ」
私は黙った。
美緒も黙った。
「……炭酸嫌いじゃないの?」
「嫌いじゃない」
「いつも水じゃん」
「家ではね」
「じゃあなんで」
「胃が疲れるから」
「それ嫌いってことじゃないの」
「違うと思う」
私はペットボトルを見た。
さっき私が買ってきた水だった。
美緒も見た。
「でも、水でよかったよ」
と言った。
慰められたようで、余計に嫌だった。
私は床に座った。
もう作業を続ける気にならなかった。
美緒も少し離れたところに座った。
「俺」
私は言った。
「何」
「聞かなくても分かるようになったと思ってた」
美緒はすぐに答えなかった。
「十一年いたし」
自分で言いながら、言い訳だと思った。
「何食べたいとか、どこ行きたいとか。最初はいちいち聞いてたけど、そのうち聞かなくても大体分かるようになったと思ってた」
「うん」
「実際、大体合ってただろ」
「合ってたよ」
「じゃあ」
そこで言葉が止まった。
美緒は少し笑った。
「私もそう思ってた」
「何を」
「言わなくても分かるようになったんだと思ってた」
私は美緒を見る。
「何それ」
「あなたが私のこと、分かってくれるようになったんだって」
「同じじゃん」
「たぶん」
「じゃあ何が違うの」
美緒は自分の膝を見ていた。
「あなたは聞かなくなって、私は言わなくなった」
私は返事をしなかった。
結婚して最初の数年の方が、よく喧嘩をした。
何を食べるか。
どこへ行くか。
洗濯物の干し方。
休日の過ごし方。
そのうち喧嘩をしなくなった。
私はそれを、うまくいくようになったのだと思っていた。
「でもさ」
私は言った。
「お前だって俺のこと分かってるつもりだったんじゃないの」
美緒がこちらを見る。
「そうだと思う」
「俺、一人が好きだと思ってただろ」
「違うの?」
驚いた顔をした。
私は少し笑った。
今度は本当におかしかった。
「ほら」
「何」
「お前も知らないじゃん」
美緒も笑った。
しかしすぐ真顔になった。
「一人、好きじゃないの?」
「好きじゃないよ」
「でも、放っておいてほしそうだった」
「疲れてるときは」
「休日も一人で出かけてたじゃん」
「お前が一人でいたいと思ってたから」
美緒が黙った。
「私?」
「そう」
「なんで」
「疲れてるとき、一人にしてほしいって言ってたじゃん」
「それ、仕事で疲れてるときだけだよ」
「知らないよ」
私は笑った。
美緒も笑った。
二人とも少し笑って、それから黙った。
笑うような話なのかは分からない。
十四年一緒にいた二人が、相手は一人でいるのが好きなのだと思い込んで、それぞれ相手を一人にしていた。
馬鹿みたいだった。
「俺、迷惑かけない方がいいと思ってた」
私は言った。
「何の」
「何でも」
美緒は少し考えた。
「私は、あなたが一人の方が楽なんだと思ってた」
「楽じゃないよ」
「そうだったんだ」
「そう」
美緒が黙った。
その顔を見て、少しだけ満足した。
私だけが間違っていたわけではない。
そう思った。
その考えが自分でも情けなかった。
「お互い様だな」
と言いそうになって、やめた。
「これ、燃えるゴミ?」
美緒が古い携帯電話の箱を持ち上げた。
私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「箱?」
「うん」
「紙だから資源」
「じゃあこっち?」
「そっち」
美緒は箱を紙袋に入れた。
それから私たちは、また片づけを始めた。
さっきまで結婚生活について話していたのに、十分後にはコード類を束ね、説明書を分別していた。
少し拍子抜けした。
しかし腹は減るし、ゴミは残る。
段ボールも勝手には閉じない。
美緒が台所から小さなプラスチック容器を持ってきた。
「これ何ゴミ?」
「容器包装」
「洗ってない」
「じゃあ燃える方でいいんじゃない」
「適当」
「もういいだろ」
美緒が笑った。
私も笑った。
しばらくすると、さっきの話を本当にしたのか分からない気がしてきた。
でも床には信号機の飴が残っていた。
美緒が青い包みを一つ拾った。
「それ、取っとくの?」
「一個だけ」
「食うの?」
「食べないよ」
「じゃあ何で」
「なんとなく」
私はもう一つの青い包みを見た。
「ほんとに好きだったの?」
「まだ言ってる」
「だって十四年知らなかったから」
「十四年ずっと聞かなかっただけじゃない?」
美緒は冗談のように言った。
私は笑えなかった。
少しして言った。
「俺、お前のこと分かってると思ってた」
美緒は何も言わなかった。
「かなり」
「うん」
「たぶん、今も結構分かってると思う」
「そうだと思う」
「でも」
私は手の中の青い包みを見た。
「分かったつもりでいて、ごめん」
美緒はすぐには答えなかった。
窓の外を車が通った。
タイヤの音だけが聞こえた。
「私も、途中から言わなくなった」
美緒は言った。
私は頷いた。
それ以上はなかった。
謝罪というものは、もっと何かを変えるものだと思っていた。
しかし何も変わらなかった。
離婚はする。
美緒は別の家へ帰る。
私はこの部屋を出る。
来週には紙を出す。
それでも、さっきまでより少しだけ話すことがなくなった。
悪い意味ではなかった。
最後の段ボールを閉じた。
時計を見ると、八時を過ぎていた。
「終わったな」
「うん」
私は部屋を一周した。
押し入れ
風呂
台所
ベランダ
忘れ物はなかった。
冷蔵庫の跡
ソファの跡
美緒の机があった壁
壁紙の一部分だけ色が違う
ここで十一年暮らした。
私は妙に感傷的になるかと思ったが、ならなかった。
ただ、結構狭かったんだな、と思った。
家具がないせいかもしれない。
玄関で靴を履いた。
美緒が鍵を閉める。
「鍵、持ってる?」
「ある」
「明日送るから」
「お願い」
廊下を歩いた。
階段を降りた。
二人でこの階段を降りるのも最後だったが、そんな感じはしなかった。
何度も降りた階段だった。
最後だからといって、一段増えるわけでもない。
外に出る。
夜は少し涼しかった。
駅まで一緒に歩くことになった。
最初の角まで、何も話さなかった。
次の角まで来ても、何も話さなかった。
以前なら、この沈黙が気まずかったかもしれない。
付き合い始めたころ、会話が途切れると私は何か話題を探した。
天気
仕事
テレビ
夕飯
美緒も何かを話した。
長く一緒にいるうちに、黙って歩けるようになった。
私はそれを親密さだと思っていた。
今は、それが何だったのか少し分からなかった。
美緒の歩く速度は以前と同じだった。
少しだけ私より遅い。
私は無意識に合わせていた。
そこは間違っていなかったらしい。
信号のない横断歩道で車を一台待った。
美緒が先に渡った。
私も続いた。
「この辺も来なくなるな」
私は言った。
「そうだね」
「駅前のラーメン屋、なくなったの知ってた?」
「知らない」
「先月閉まった」
「好きだったのに」
「好きだったの?」
美緒が私を見た。
「またそれ?」
「いや」
私は笑った。
「知らなかったから」
「好きだったよ」
「俺、一回も一緒に行ってないよな」
「あなた嫌いだったでしょ」
「嫌いじゃない」
「え」
今度は私が笑った。
「並ぶのが嫌いだっただけ」
美緒も笑った。
「そういうこと?」
「そういうこと」
「知らなかった」
「だろ」
それで話は終わった。
途中のコンビニの前で、美緒が立ち止まった。
「ちょっと待って」
「何」
「買いたいものある」
店に入る。
私は入口で待とうと思ったが、一緒に入った。
菓子売り場で、美緒が足を止めた。
「これ」
棚には、見覚えのない袋に入ったキャンディがあった。
昔食べていたものとは、商品名も包装も違う。
ただ、中には赤と黄色と青の飴が入っていた。
三色が並んでいる、それだけだった。
「ちょっと似てるね」
美緒が言った。
「信号機?」
「偽物の」
「偽物って」
美緒が一袋買った。
店を出ると、すぐ袋を開けた。
赤
黄色
青
昔のものより少し色が薄い。
美緒は青を一つ取った。
もう一つ青を探して、私に差し出した。
「はい」
「いいの?」
「何が」
「お前も好きなんだろ」
美緒は少し笑った。
「二個あるから」
私は受け取った。
昔なら、美緒は自分の分まで私に渡したのだろう。
今は一つずつだった。
そのことについて、何か言おうと思った。
やめた。
二人で包みを開け口に入れた。
ぶどう味だった。
「こんな味だったっけ」
美緒が言った。
「別の飴だからな」
「そっか」
「でも、似てる」
「うん」
私は舌の上で飴を転がした。
「ぶどうっていうより、紫の味」
美緒が笑った。
「何それ」
「昔言ってなかった?」
「知らない」
「俺、言ってたと思う」
「じゃあ忘れた」
「十四年もいたのに?」
私は言った。
美緒は私を見た。
それから二人で笑った。
駅前の交差点に着いた。
信号は赤だった。
私たちは並んで立った。
美緒は駅へ行く。
私は反対側の道を歩く。
別れたあとにどこへ行くかについては、お互い知っていた。
少なくとも、それは間違っていないと思う。
「じゃあ」
美緒が言った。
「うん」
信号が青になった。
美緒が一歩出た。
私も反対側へ向かった。
振り返らなかった。
美緒が振り返ったかどうかも知らない。
口の中で、飴を転がした。
ぶどうの味がした。
よく知っているはずの味だった。
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メンバーシップ記事
ぶどう味の謝罪の裏側
人物の設定を通し心理学的問い、文学的問いをどの様に決めて製作したのか?
その裏側を公開
