『ぶどう味の謝罪』はどう作ったか
「分かったつもり」を描く心理学と文学表現
※この記事は短編小説『ぶどう味の謝罪』の内容に大きく触れています。未読の方は、先に本編を読んでから戻ってくることをおすすめします。
本編はこちら。
https://note.com/moral_coyote3851/n/n239e65c7cc19
また、ここで書くのは作者側で行った人物設計、心理学的な参照、文学表現上の意図です。
「この小説は必ずこう読まなければならない」という答え合わせではありません。
作品として公開した以上、直人や美緒の行動をどう読むか、最後の飴をどう解釈するかは、読者側にも残しておきたいと思っています。
この小説で最初にあったもの
『ぶどう味の謝罪』を書き始めたとき、最初にあったのは「離婚する夫婦を書こう」という発想ではありませんでした。
先にあったのは、一つの問いでした。
理解できなかったことと、愛していなかったことは同じなのだろうか。
誰かを愛していても、その人のことを間違って理解することはある。
好きなものを嫌いだと思っているかもしれない。
一人でいたい人だと思っていたら、本当は一人でいたくなかったかもしれない。
良かれと思ってしたことが、相手には窮屈だったかもしれない。
それでも、そのすべてを、「愛していなかったから」で説明していいのだろうか。
反対に、「愛していた」という言葉さえあれば、理解できなかったことや傷つけたことは帳消しになるのだろうか。
この二つの間にあるものを書こうとしたのが、『ぶどう味の謝罪』でした。
「すれ違う夫婦」を書きたかったわけではない
この作品を「夫婦のすれ違いの話」と説明することはできます。
ただ、それだけでは少し違い、私が特に書きたかったのは、
長く一緒にいることで相手を理解できるようになる一方、長く一緒にいるからこそ「もう分かっている」と思い始めることでした。
知らない人には質問します。
「何が好きですか?」
「どうしたいですか?」
「何を食べたいですか?」
恋人になったばかりの頃にも、似たことを聞くでしょう。
しかし十年一緒に暮らした人に、毎回、
「炭酸好きだっけ?」とは聞かない。
「旅行は好き?」とも聞かない。
「一人でいたい?」とも聞かない。
これは、それ自体がおかしいわけではありません。
人間関係には学習があるからです。
昨日までに知った相手の情報を、今日も利用する。
そうしなければ、毎朝初対面のように生活しなければなりません。
この作品で考えたかったのは、
「たぶんこの人はこうだろう」が、いつ「この人はこういう人だ」に変わるのかということでした。
ここからメンバーシップ記事になります。
・登場人物の設定
・心理学的問い
・文学的問い
・あとがき
が記載されています。
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