見出し画像

AIの鳥肌(6)

 無知だったのはなにも事務職への適性の欠如の程度だけでも、履歴書の顔写真の存在理由に関することだけでもない。その頃の私は多くの劇団、ことにアングラ、小劇場系には──死ぬほど苦手なはずの──体育会系が多いとも知らない。
 募集公告を目にした折にも、
「面白いことしたいもの、この指とまれ!」
 そう言われているものとばかり思い込み、はーいと能天気にとまっただけの話だった。
 ところがいざ輪の中へと入ってみると、なにか「面白いこと」をするために馳せ参じた仲間たち、というようにはどうも見えない。それどころかむしろ、つつき順序が定まったあとのニワトリの群れに似て見える。下に位置する者たちは上の目にとまらないよう、標的にはされないようにと戦々恐々で、そのストレスはさらに下へと発散されていく、という例のニワトリたちの群れの方に。
 パワハラという言葉も、やりがい搾取などという言葉もまだなかった頃の話だ。場の磁気をすぐに身に帯びてとでもいうように、同期たちの多くがみるみるうちに列の一部と化していく様子を、なんなんだかなあ、と思いながらぼんやりと私は眺めていた。磁場の影響を受けないらしい人たちも若干名いはしたが、そんな人たちはやはりねというか、親しくなる機会も十分には持てないうちに姿を消していくようなのだった。
 気持のいい眺めではなかったものの、飛ぶ罵声や叱責をとくにおそろしいとも感じはしなかった。直接の対象には幸運にもされずにいたからだけのことでも、離人症のせいだけなのでもたぶんない。あきらかなアルファ個体に生まれつき、家庭内に限っていえばだが、鬼軍曹みさえあったあの母親をここまでしのいできたのだ、
(あれにくらべれば……)
 と、かなりな本気で私は考えていた。愛、なんていうややこしいものが介在しない分、こっちの方が楽に決まっているではないか? 遥かに。
 これもまた幸運なことに、私は俳優志望ではなかった。
 いるなら向こうの方でしょう、と思ったのは舞台の上ではなくて裏、なりたかったものは、いるに違いないとそのときにはつい思い込んだ美術専任のスタッフだったのだ。
 これもいざ入ってみると、そんな枠はべつにとくになかったものらしく、舞台の上に引っぱり出される可能性もゼロではないのだという。やなこった、と私は思ったが、さいわい、当面はその心配もどうもしないですみそうなのだった。

 ──とここまで書いてから、
(いつしたんだっけ? あの書き込みは)
 ふっと気がついてfacebookを遡ると三月ほど前、四月二十五日の夜もかなり更けてからのことで、私は、
「ビールを飲んで一眠りして、起きてみたらクマさんが亡くなっていた。
 わずか三ヶ月強だったけれど、状況劇場での私の“ボス”だったクマさん。
『人生はデーヤモンド』にも出てくるエピソードのいくつかを安保さんの部屋で生で聞かされ、涙が出るほど笑ったこと。お供して歩いた初ゴールデン街の路地で、からんできた酔漢をあっという間に殴り倒したこと……。今はもう昔の話をいろいろと思い出しました。
 どうぞ、安らかに」
 と、新聞の訃報記事を貼りつけた上に書いている。
 年表なんかは作る前の投稿だから、ということか、「わずか三ヶ月」などと書いてしまってはいるが、辞めたのは東京での公演もすべて終わってからのこと。七月には入ってからか、早くても六月の末で、クマさんは、五ヶ月強のあいだの私の"ボス"だったのだ、ほんとうは。
「じゃ、今日からはクマについて」
 との唐さんの指示に従って、初日以降の多くの時間を私はクマさんこと篠原勝之さんについて過ごし、チラシの版下作り、小道具作りの見習いを相務めていた。
 稽古場は手狭だったから、小道具作りの作業場に主に使われていたのは劇団の音楽担当、安保由夫あんぼよしおさん宅で、いくらかはもうとっくに忘れたが、
「この家賃でなんと二部屋!」
 というのがご自慢の格安のアパートだった。
 二部屋にそれぞれあった収納のうち、二けんの方の押し入れは上下二段の寝室になっていたから、実質三部屋と言って言えないこともなく、昔風のキッチンの使い勝手もわりによかった。つまりはまあ、居心地のなかなかいい隠れ家だったということだ。部屋の主が帰ってくる夕刻以降には、二人とは仲がよかった小林薫さんもたまに訪れて、ときどきはにぎやかな宴会にもなった。
 ポスターを含む美術のすべてを担当していたクマさんは、劇団の言ってみれば客分で、例のつつきの序列からは外れた場所にいた。だから──というだけのことなのでもなかっただろう。ことづかった用を足しにあれこれと動きまわりはしたものの、クマさんからなにかを命令された、という気がしたことは一度もなかった。
 突っ込み専門のクマさんを受け、おっとりとボケをつとめていた安保さんはもちろんのこと、すでに根津さんと並ぶスターになっていた小林さんも、例の序列をうまく回避した人というように私には見えた。当然、部屋の居心地は稽古場よりもよく、その部屋でする人形用の型取り、張子張りその他の作業もまた私は気に入っていた。
 どんなに作業が佳境に入っていても、あの話、この話に笑い転げるさなかでも、11時が近づくと私は新高円寺駅へと急ぎ、赤坂見附、渋谷と何度も乗り継いでは川越行きの最終電車に飛び乗った。
 例によって気持の記憶なんかは大してないのだが、たぶん──外で一人で飲むような折と同様に──「お嬢さん」の線でここは行こうと考えていたのだと思う。部屋や稽古場での宴会では無論、ゴールデン街をハシゴしていてさえ飲まず、少しでも上の人には敬語をよく使い、遅くなっても人様の家に泊まりなどはせずに、
(当然のことですので……)
 とでもいうように自宅へと帰るなどという線で。
 猫をかぶり過ぎていたせいなのか、お嬢さんは、居心地のいいその部屋からも脱走したい気持にときとして駆られ、だれも来そうにない時間をみはからっては、実際にもたまには逃げ出した。
 短い逃避行の先は、新高円寺の駅の近くでみつけた古民家風の喫茶店で、磨き込まれた梁と白壁が目立つ店内は奥へと広く、ドアから遠く離れた隅の席に腰を下ろすと、押し入れの中にでも隠れたように気持が落ち着いた。その席で何度か深煎りのコーヒーを飲んだ。といったってたぶん二、三度程度のことでしかなかったはずだ。安保邸での呑気な作業もやがては片づいてしまい、稽古場でのあわただしい日々がじきに始まったはずなのだから。

 その店はまだある。
「レトロな喫茶店」として今ではかなり有名な店なのでもあるらしく、「七つ森/高円寺」で検索すればすぐに何本もの記事が出てくる。
 判で押しでもしたように、老舗、タイム・スリップ、創業'78年と並ぶ言葉を目で追いながら、タイム・スリップから十分には戻り切らない頭で私は思う。ああ、そうか。まだできたばかりの店だったということなのか、あのときには。
 店内の画像をあらためて眺めてみれば、壁はたしかにその年月としつきの分だけ煤け、ずいぶんと増えている調度もまたどれもが骨董めいている。
 せいぜいが四、五年ほど前のこと、という遠さにしか感じられないどのできごとからも、長い長い年月がほんとうは過ぎ去っていて、クマさんはだからいなくなり、安保さんだってとっくにもういなくなってしまっている。
 例によって「今・ここ」に立ち戻る夜の六畳間のゴーストの中には、胡坐をかいたクマさん、腕枕で寝転ぶ安保さんも静止したままで淡く存在しているが、二つのどの体もその下のみみで畳も、アパートそのものも実際にはとっくにないもので──などという至極当然の事実にいつものことながら、頭がくらくらとしてきそうになる。
 たぶん、その界隈の記憶のネットワークかなにかが発火中だというわけなのだろう、あちこちで、ただし、「できごとの時期を提示することは、そのシステム上不可能なのです」とでもいったおもむきで。
 今・ここへとさらに出てきたがっているらしいいくつもの時間、いくつもの場面をなんとか押し戻し、facebookへと戻った私は、
「ついにね、オサラバの時がきちゃったよ。いろいろ、みんなに親切にしてもらって、ありがとう。いっぱい感謝して、旅にいきます。アバヨ」
 なんていう、いかにもその人らしい別れの挨拶を半ばは耳で聞くようにして読み返しながら、
(いつだったっけ? あれは)
 とふと考える。
 例のコーヒー・ショップにログインして購入履歴を確認すると、ピンク・ブルボンを注文したのは四月二十二日。豆が届くのとその訃報に気がついたのと、さあ、どっちの方が先だったんだろう? 


AIの鳥肌・7