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ホロコースト否認論 トレブリンカでは蒸気で殺された?(2):神話の修正主義的捏造(PartA)

追記:前記事に続きこちらの記事も翻訳部分のみ、2025年12月に全面改訂しています。それに伴い、以前は私自身がよくわからない名称等について私自身で独自の別資料からの引用翻訳を追記していましたが、それらは削除しています。わからないことは御自身で調べることをお勧めします。


前回:

思っていたよりも話がずっと細かくて、「分からない事が分からない」状態にあり、翻訳も四苦八苦しております。が、ホロコースト否認派がこの蒸気殺人の話がかなり好きらしいのは分かります。一度捕まえた話(気に行った否認論)は絶対離さないという否認論者の習性ですからね。ルドルフ・ヘスの拷問話やアウシュビッツのクレマトリウムⅠガス室捏造話など、否認論者はずっと武器を持っていたいのでしょう。反否認派側はその武器を解体して使えなくしていくのがお仕事だったりします。

基本的な否定派の主張構造としては、

■トレブリンカ「絶滅収容所」などなかった
■ガス室などなかった
■トレブリンカはあくまでトランジット収容所(通過収容所)である

という大前提があります。トレブリンカにユダヤ人が大量輸送されていた事自体は、当時の文書資料などで確定している話なので、トレブリンカ収容所があった事自体は流石に否認派も否定できないのでしょう。

で、前回紹介したニューヨークタイムズ記事です。実際、ニューヨークタイムズ記事で明確に変なのは「蒸気」だけです。「二百万人」という数字はざっとみた限り否定派はあまり注目はしていない様子です。しかし、具体的な情景描写は短い記事の中に非常にリアルに描かれています。ニューヨークタイムズの記事は、その内容についてはロンドンのポーランド人向けに発行されていたらしい『Polish Labor Fights』からの転記になっているようで、否認派のいう捏造した主体は一次的にはポーランド系ユダヤ人ということになるかと思われます。

『Polish Labor Fights』の現物写真は確認できなかったが、下記のような別の刊行物の中に紹介されているのは見つけた。これ自体が何なのかは読んでないのでよくは知らないが、1942年の刊行物であり、ニューヨークで発行されていたものらしい。この刊行物自体は見つけるのは容易い。例えばこちらのpdfファイルである。

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すると、このロンドンのポーランド人向けの発行物にどうやってトレブリンカの生々しい情報が伝わったのか? という話になってきます。明らかに、ニューヨークタイムズの記事内容は誰かの目撃証言であり、どうやらそれは前回記事に出てきた「目撃者ラビノヴィッチ」ではないかと推察されるわけです。

背景事情としては、イギリスには当時、ポーランドの亡命政府があり、多数のポーランド人亡命者がいたそうです。そして、ナチスドイツ占領下のポーランド内のゲットーや収容所などの情報を、地下組織などを通じて入手していました。そして、非常に当然の話をすると、ポーランド系ユダヤ人が同胞を救いたい、あるいは酷い目に遭っていることを世界に知って欲しい、などと考えるのは本当に当たり前の当たり前の話です。

しかしながら、否認派はそのような窮状を伝えるという経緯で報道されたものではなく、その記事内容はプロパガンダであり、捏造されたものであるという理解をしているわけです。否認派ですから、そう理解するしかありませんし、そもそも「蒸気」なんか関係ないと思うんですけれど、「蒸気」が書いてあるので否認派は「ははは、お笑いネタにもならない嘘じゃん」と単純に捉えたのでしょう。

以上のように、色々と背景事情を踏まえつつ類推を行いながら、翻訳記事を読んでいただけると、様々なことが見えてくると思います。なお、元々の始まりは、今回の記事中にもありますが、これなんですけど、実は一度翻訳してみようかなと思ったことはあるのですが、あまりに量が膨大すぎて断念しました(その極一部はディーゼルエンジン問題の翻訳シリーズで翻訳していますその後、すべて翻訳完了しています)。その中に、今回批判対象となっているフリードリッヒ・ヤンソン氏という否認論者が批判しているHCサイトの執筆者であるニコラス・テリー氏の記事があるらしいのですが、今のところはどこに書いてあるのかさっぱり分かりませんあります。その気になったら、見つけ出してそこも訳すかもしれませんが、ともあれ、HCサイトへの臨時投稿者であるらしい統計力学者(Statistical Mechanic)氏による三つの記事を翻訳してまいりたいと思います。

▼翻訳開始▼

トレブリンカの「蒸気物語」の起源という神話に関する修正主義者の捏造(パートA)

フリードリヒ・ヤンソンとその混乱の塊の事例

パートA ヤコブ・ラビノヴィッチ
パートB アブラハム・クシェピツキ
パートC ラビノヴィッチ、クシェピツキ……そしてトレブリンカに関する初期報告の負担

フリードリヒ・ヤンソンは最近、ワルシャワ・ゲットーとトレブリンカ絶滅収容所に関して、言及に値するいくつかの主張を行った。彼の主張は、トレブリンカ絶滅収容所からの二人の初期脱走者、ヤコブ・ラビノヴィッチとアブラハム・クシェピツキによる報告に対する誤解に大きく依存している。ヤンソンの主張の背景には、『ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ:ホロコースト否認とラインハルト作戦:マットーニョ、グラフ、クエスによる虚偽への批判日本語訳)』(Holocaust Controversies 2011年)の出版があった。ヤンソンの特定の標的は、修正主義者による「トレブリンカの蒸気室」という主張に対して「Holocaust Controversies」の論評の中でなされた反論である。「Holocaust Controversies」側の議論は、修正主義者が異なる資料の相対的な証拠価値を誤解しており、この誤解を利用して偽の問題を作り出しているというものである。これから見ていく通り、「Holocaust Controversies」の執筆者たちによる議論は妥当である。

三つのパートに分けて掲載されるこの論評の焦点は、ここで確認できるヤンソンの詳細な議論の二つの柱にある。私は、ヤンソンの主張――すなわち、トレブリンカに関する初期の報告は、ユダヤ人が収容所内で蒸気を用いた部屋で殺害されたという見解を強く推し進めていたという主張――が、収容所の脱走者やその他の人々による初期のトレブリンカ報告に関する膨大な証拠を無視していることを論証する。この論評を文脈の中に位置づけるために、私はジョン・ハリソンによるブンドのトレブリンカ調査任務(1942年7月下旬)の年表[1]、および『Oyf der Wach』[2](1942年9月20日)に掲載されたブンドのトレブリンカに関する報告[3]に言及する。この文脈において、私はまた、二人のトレブリンカ脱走者、ヤコブ・ラビノヴィッチとアブラハム・クシェピツキからの報告についても取り上げる。彼らの証言はヤンソンの主張にとって極めて重要であるが、それらが果たした役割をヤンソンがいかにひどく歪曲しているかを私は示すつもりである。

私は、トレブリンカに関する初期情報の理解が、少数の「蒸気証言」に対する修正主義者の固執によっていかに妨げられているかを説明する。そして、これら少数の証言を文脈の中に位置づけた広範な調査こそが、トレブリンカに関する初期報告を検討し、トレブリンカ収容所で何が起きていたのかを判断するための適切な出発点であることを示す。この論評は、戦時中のトレブリンカに関する知識を網羅的に扱うことを目的としているのではなく、むしろそのような議論を主要な問題や、考慮に入れる必要のある容易に入手可能な資料の範囲へと方向づけることを目的としている。

この長い論評を通じて、トレブリンカや他のラインハルト作戦の収容所であるソビボルやベウジェツに関する「初期のニュース」や「初期の報告」について、さらなる意見が引き出されることを期待している。まずは、トレブリンカ脱走者ヤコブ・ラビノヴィッチに関するヤンソンの議論から始めよう。

PartA:ヤコブ・ラビノヴィッチ

ヤコブ・ラビノヴィッチは、1942年夏の終わりにワルシャワ・ゲットーからトレブリンカへと移送された青年であった。ラビノヴィッチは収容所から脱走してワルシャワ・ゲットーへと戻り、そこでゲットーの活動家たちにトレブリンカに関する証言を行った。その証言は、アブラハム・レヴィンの日記やエマヌエル・リンゲルブルムの手帳に記録されていることが特によく知られている。ラビノヴィッチは名門の宗教的な家系の出身であったようで、シオニスト組織であるハボネ(Haboneh)に属しており、ワルシャワのユダヤ人コミュニティの重要人物たちとつながりを持っていた。

トレブリンカと蒸気に関する記事の中で、ヤンソンは、9月20日の有名なブンドの報告書と、ラビノヴィッチのものとされる報告書(リンゲルブルム・アーカイブの名称に従い、以下「II/298」と呼ぶ)[4]が単一の共通のソースに由来していると示唆することで、ヤコブ・ラビノヴィッチがいつトレブリンカにいたのか、そしてこの青年がいつ収容所から戻ったのかについて推測を行っている。ヤンソンによれば、その含意は次の通りである。「これら類似点から、『ラビノヴィッチ』文書と『Oyf der Wach』の記事が共通のソースに由来すると推測するならば、ラビノヴィッチが9月21日から25日の間にワルシャワ・ゲットーに戻ったことを考慮すると、彼が『ラビノヴィッチ』文書の著者であるはずがない」。

ヤンソンはこの疑わしい結論を、年表に対する誤解と二つの報告書間のいわゆる類似点に基づかせている。ヤンソンの推測と、資料が我々に何を伝えているのかをより詳しく見てみよう。

1 . ラビノヴィッチのトレブリンカ移送とワルシャワ帰還に関する時系列の問題

「ラビノヴィッチは9月21日から25日の間にワルシャワ・ゲットーに戻った」(ヤンソン)

ラビノヴィッチはいつトレブリンカにおり、いつトレブリンカからワルシャワに戻ったのか。これを知る手がかりは何だろうか。

ラビノヴィッチがいつトレブリンカにいたかを確定させることは、彼がどの報告書を執筆、あるいは寄稿した可能性があるかを理解するために――そして特に、ラビノヴィッチはII/298の著者ではなく、『Oyf der Wach』のトレブリンカに関する記事の情報源であったとするヤンソンの推測を評価するために――不可欠である。

ヤンソンによれば、ラビノヴィッチがワルシャワに戻った日付は(一定の範囲内で)判明している。それは9月21日から25日の間である。ヤンソンは、ラビノヴィッチとブンドの『Oyf der Wach』トレブリンカ報告との関連性を主張し、この日付範囲を導き出している。

実際には、ヤンソンはこの主張を行うにあたってアブラハム・レヴィンの日記を誤読している[5]。レヴィンの日記にはラビノヴィッチに言及した箇所が2回あり、いずれも名前が記されている(これらの記述の日付は9月25日と9月27日である)[6]。ヤンソンは、9月21日付の別の脱走者に関するレヴィンの日記の記述も、ラビノヴィッチを指していると暗に示している。

レヴィンが9月21日に論じたその脱走者(この記述では名前は伏せられている)は、トレブリンカの「墓掘り人」であったとされている。「3週間前にここから連行され、トレブリンカで9日間か11日間、墓掘り人として働いた後、殉教者たちの遺品が運び出される貨車に乗って脱走したユダヤ人が、我々の作業場に戻ってきた」。これから見ていくように、ラビノヴィッチはこの記述の3週間前に「連行」されたわけではない。実際、その時期はラビノヴィッチがトレブリンカからワルシャワに戻った頃にあたる。また、ラビノヴィッチはトレブリンカで墓掘り人だったわけでもない。さらに、ラビノヴィッチはトレブリンカに9〜11日間も留め置かれていなかった。したがって、9月21日を帰還の最短日とするヤンソンの推測は不要であり、誤った仮定に基づいている。

これから示すように、より直接的な方法を用いて、ラビノヴィッチのワルシャワ帰還はヤンソンの推測よりもずっと早かったと特定することができる。

まず背景を説明する。7月にワルシャワ・ユダヤ人の一斉検挙が始まった後、ラビノヴィッチとレヴィンは同じ作業場――ドイツ人によってOBWと改名された、有名なランドゥ兄弟の作業場(ゲンシャ通り30番地)――で働いていた。レヴィンは8月3日にそこに避難した可能性がある[7]。レヴィンの日記によれば、その作業場が最初に襲撃されたのは1942年8月7日であり[8]、その際、主に女性や子供、そしてラビたちも連行された。スモラルの妻も連行された一人であり、レヴィンによれば、8月11日にソコロフに電話をかけ[9]、「Tr.(トレブリンカ)」が死を意味することを確認したのはスモラルであった。その2日前に労働カード保持者に対する行動が始まっていたが[10]、8月12日にランドゥ作業場に対して再び行動が行われ、レヴィンの妻ルバが連行された[11]。同日および翌日、レヴィンは様々な作業場での行動が激化していることを記している[12]。8月17日、レヴィンは作業場へのさらなる襲撃で最近「連行された」他の数人のユダヤ人の名を挙げているが、そこにラビノヴィッチの名前はない[13]。最終的に、作業場で大規模な一斉検挙が起こったのは8月末、後述するように27日のことであった。

これを踏まえると、なぜヤンソンがラビノヴィッチの所在を理解するために、レヴィンの日記とその推測のみに頼ったのかという疑問が生じる。

ヤンソンは、レヴィンの記述とともに、ラビノヴィッチと彼のトレブリンカからのワルシャワ帰還について論じている別のワルシャワ日記を活用した方が有益であっただろう。それはワルシャワ・ケヒラ(ユダヤ人共同体)の文書保管係であり、アグダト・イスラエル(イスラエル連盟)の指導者でもあったヒレル・サイドマンの日記である[14]。サイドマンは、ラビノヴィッチの帰還とそのトレブリンカ証言についてかなりの長さを割いて執筆している(これは、ラビノヴィッチが残した証言はせいぜい「わずか1ページの長さ」[15]であり、「殺害技術については何も述べていない」とするヤンソンの不注意な断定に疑問を投げかけるものである――この点は後ほど詳述する)。サイドマンがラビノヴィッチとの対話を記した日記の項目は9月2日付けで、「今日、来客があった」という言葉で始まっている。その客とは、もちろんトレブリンカ脱走者のヤアコフ(ヤコブ)・ラビノヴィッチであった。ラビノヴィッチを自宅に招いて聞き取りを行ったサイドマンによれば、ラビノヴィッチは「ゲンシャ通り30番地のランドゥ作業場」から「『封鎖(ブロック・アクション)』の最中」に「捕まった」際に移送されたと語った。「封鎖」の日付やラビノヴィッチの移送のタイミングについての詳細は記されていない(ただし、8月28日にサイドマンは、ゲンシャ通りからザメンホフ通り、さらに墓地までゲンシャ通り沿いに続く、彼自身も27日に巻き込まれた封鎖について記述している)[16]。いずれにせよ、9月2日にサイドマンが記したメモによれば、ラビノヴィッチはその日までにすでにトレブリンカからワルシャワに戻っていた。これはヤンソンがラビノヴィッチの帰還可能最短日とした日よりも、3週間近く早い。

さらに、サイドマンは時系列を間接的に明らかにするのに役立つ追加情報を記録している。ラビノヴィッチの語り(後述)によれば、彼はトレブリンカに丸一日もいなかったことを示唆している[17]。ラビノヴィッチの語りは、トレブリンカへの輸送、収容所での時間、有蓋貨車の中に隠れていた時間、そしてワルシャワ郊外への旅に、およそ2日間を要したとしている。その後、ラビノヴィッチはワルシャワ郊外の草地から市内までどのようにして辿り着いたかをサイドマンに話したが、行程のこの部分については時間的な枠組みを述べていない。

サイドマンは日記をリアルタイムで付けており、ラビノヴィッチの訪問日――9月2日――を特定しているため、ラビノヴィッチが捕らえられ移送されたのは8月後半(おそらく8月17日のランドゥ作業場での一斉検挙か、より可能性が高いのはゲンシャ通りに影響を及ぼした8月27日の大規模な一斉検挙の間であり、郊外からワルシャワに戻り、サイドマンに接触するまでにどの程度の時間を要したかによる。サイドマンの日記の本文からは、彼がゲットーに到着して間もなくのことであったと思われる)であり、いずれにせよ、9月の初め頃までには確実にワルシャワに戻っていた。

これが意味するところは、後述するように、ラビノヴィッチが8月下旬のある日の日中、数時間にわたってトレブリンカにいたということである。

2 . 『Oyf der Wach』掲載のブンド記事との類似性

「1942年9月20日に出版物『Oyf der Wach』に掲載された記事は、『ラビノヴィッチ』文書と非常に密接に並行する物語を含んでいる」(ヤンソン)

AR II/298とブンドの『Oyf der Wach』記事の間に想定される「密接な並行関係」とはどのようなものか。

ヤンソンは、ラビノヴィッチのものとされるII/298と、9月20日の『Oyf der Wach』の記事には単一の共通ソースが存在すると信じており、次のように記している。「1942年9月20日に出版物『Oyf der Wach』に掲載された記事は、『ラビノヴィッチ』文書と非常に密接に並行する物語を含んでおり、多くの細部が一致している。空襲、収容所内の停電、ユダヤ人たちが集められ、ヒトラーとルーズベルトがまさにそのグループからユダヤ人をマダガスカルへ送ることに合意した(翌朝マダガスカルへ送り出される)と告げられたこと、そして空襲が終わるやいなやこの欺瞞は捨てられ、予定通り絶滅が進行したことなどである。」

議論を単純化しすぎるリスクを承知で言えば、この観察からヤンソンが導き出した結論は不当である。なぜなら、二つの文書間のより大きな相違点を無視しているからだ。

実際には、「ラビノヴィッチ」文書と『Oyf der Wach』の記事が実質的に「並行」して扱っている領域は一つしかなく、それ以外の多くの領域で大きな違いがある。ヤンソンはその唯一の領域、すなわちソ連軍による空襲とトレブリンカ内部へのその「影響」についての議論を要約している。したがって、我々はヤンソンに従って「これらの類似点(この類似点と言うべきか?)から、『ラビノヴィッチ』文書と『Oyf der Wach』の記事が共通のソースに由来すると推測する」べきではない。むしろ、『Oyf der Wach』の記事の大部分がII/298とは異なる範囲をカバーしており、いくつかの点で矛盾していることを踏まえれば[18]、より合理的な解釈は次のようなものになる。『Oyf der Wach』は少なくとも二つのソースを利用した。一つはジョン・ハリソンが論じた7月下旬のフリドリヒによるブンド調査の結果であり、もう一つはII/298に記された8月下旬のソ連軍空襲の詳細である。(II/298に関するもう一つの注記:この文書は「流血」という一般的な言及以外、殺害方法については一切触れていない。この点において、この文書はラビノヴィッチの既知の二つの証言とも、ブンドの記事とも一線を画している。)

また、II/298の短い証言は、レヴィンによるラビノヴィッチに関する二つの記述とも、サイドマンが要約したラビノヴィッチの7ページにわたる証言とも並行していないことを理解することも重要だ。例えば、それらには空中爆撃に関する記述は一切ないのである。

一方でヤンソンは、「ラビノヴィッチが9月21日から25日の間にワルシャワ・ゲットーに戻ったことを考慮すると、彼が『ラビノヴィッチ』文書の著者であるはずがない」と記している。私が説明した通り、ヤンソンの推理は誤りである。ラビノヴィッチは9月2日の時点で、トレブリンカでの経験と脱走についてヒレル・サイドマンのインタビューを受けていたのだから、理論上、ラビノヴィッチがブンドの報告に寄与した可能性は十分にある。しかし、実際にそうした可能性は低い。もしヤンソンが、ラビノヴィッチがまだオネグ・シャバットのメンバーによる聞き取り調査を受けている最中であった(レヴィンが立ち会ったヴァッサー家での重要な証言は9月25日になってようやく行われた)と主張していたのであれば、筋は通っていただろう[19]。

ヤンソンの議論(およびアラドの議論[20]も同様に)とは対照的に、可能性が高いと思われるのは以下の通りである。II/298は、7月下旬からのブンドの資料の一部を確認し、それに新たな要素(空襲)を加えた後の報告書であった。おそらくオネグ・シャバットがII/298を『Oyf der Wach』特別版の執筆者たちと共有し、ブンド記事の著者たちはフリドリヒの調査結果を更新するためにII/298の爆撃に関する資料を利用したのだろう。ブンド報告の終盤に空襲の記述が配置されていることも、この要素が後付けされたものであり、報告の大部分を構成する調査結果よりも後に起きた出来事を記録したものであることを示唆している。そして、フリドリヒによって遂行されたブンドの任務は、ブンドの活動家たちが記している通り、ワルシャワからの移送者たちに何が起きているかを探り出したいという彼ら自身の望みに促された、ブンド独自のイニシアチブによるものであった。

要するに、ヤンソンが試みたように、ブンドの記事を用いてラビノヴィッチの行程を特定する根拠はどこにもないのである。

3 . ワルシャワ・ゲットーにおけるラビノヴィッチのヒレル・サイドマンへの報告

1942年9月2日、ラビノヴィッチは自身の移送、トレブリンカでの経験、そして脱走についてサイドマン[21]に何を語ったのか。

背景を補足すると、サイドマンの日記は1946年にヘブライ語で、1947年にイディッシュ語で出版された。サイドマンがラビノヴィッチから聞いたとして記録したトレブリンカの内容には、一部不明瞭な点も含まれている。しかし、この日記はラビノヴィッチの経験に光を当てるとともに、彼がリンゲルブルム・アーカイブのII/298のソースである可能性が低いことを強調しており、さらにワルシャワのユダヤ人、特に活動家たちが「大移送」についてどのような結論を下していたかという我々の知識を補強するものである。

サイドマンは戒律を遵守する正統派ユダヤ人であり、共同体の文書保管係、かつユダヤ評議会の職員でもあった。彼の出来事(具体的にはラビノヴィッチの経験)に関する記述は、より知られているオネグ・シャバット(OS)側の記述とは異なっている。ここでのOS側の記述とは、レヴィンに与えられた報告、およびOSの記録保管係がラビノヴィッチのものとした報告(II/298:「報告の著者は、トレブリンカから脱走し1942年9月後半にゲットーに戻ったヤクブ・ラビノヴィッチと思われる」[22])を指す。サイドマンはラビノヴィッチの証言に関するメモの冒頭に、「これは彼が私に語ったことである(彼の報告からいかなる詳細も漏らさないよう、私はそのすべてを書き留めた)」[23]というコメントを付している。サイドマンによるラビノヴィッチの様子の描写に基づけば、この証言はワルシャワ帰還後極めてすぐに行われた可能性が高い。すなわち、ラビノヴィッチもサイドマンもまだ他の報告を耳にしておらず、それらの要素をラビノヴィッチの経験と混同する可能性が生じる前のことである。

サイドマンによる記録では、ラビノヴィッチはトレブリンカにおけるガス殺害について2度言及している。サイドマンが用いたイディッシュ語は「fargazt(ガス死した)」および「fargasn(定形:ガスで殺す)」であった。これについては以下でさらに論じる[24]。

  • サイドマンによる要約は、ラビノヴィッチの語った以下の内容を伝えている。有蓋貨車(ボックスカー)内でのワルシャワ出発待ち(約4時間)、貨車の換気口から目撃したウムシュラーグプラッツ(移送用広場)の光景(ウクライナ人警察、押し合いへし合い、叫び声、手荷物)、様々な停車駅を含む列車移動中の状況と「一人の老人」の死、トレブリンカへの到着(「最終目的地に到着した時にはすでに朝であった」)、収容所到着時に離れ家の建物にあったトレブリンカの標識を目撃したこと。

  • さらに到着後のプロセスとして、窓のない大きな建物内での「シャワーのための」脱衣、国防軍兵士[25]とSS隊員の双方の立ち会い、別のホールへの移動、SS将校による他の7人の若者とともに受けた選別、少し傾斜した屋根を持ち窓のない4つの長い建物があるエリアでの待機、待機中に聞いた悲鳴や叫び声、そして15分後にSS将校によって再び脱衣バララックへと連れ戻されたことなどが記されている。

  • ラビノヴィッチがサイドマンに語ったところによれば、彼はその後、自分と一緒に到着した人々が脱衣の建物に残していった所持品を収集し、仕分けする作業を割り当てられた。「我々がこれらの所持品を収集するのを手伝っていたのは、ポーランド人労働者のチームであった」[26]。

  • ラビノヴィッチはポーランド人労働者の一人に「一体何が起きているのか?」と尋ねることができた。

  • そのポーランド人は自らを政治犯であると名乗り、ラビノヴィッチに対し「3番目の建物を指差して、『あそこから生きて逃げ出せる者は誰もいない。1日に1万人、それが何週間にもわたってあそこでガスで殺害された[fargazt]人々の1日の合計数だ』」と語った。「ポーランド人たちは、我々がこれらすべての衣類の移送を終えた後、我々もまた逃げ場のない3番目のブロックへ強制的に送り込まれるだろうと説明した」[27]。

  • この時点でラビノヴィッチは、衣類を貨車に積み込む作業に転じた。彼は衣類の山の中に飛び込み、「あやうく窒息しそうになりながら」そこに隠れた。彼はドイツ軍が自分を捜索していることに気づいていた。ラビノヴィッチは「丸一日」貨車の中に隠れ、その時に列車はワルシャワに向けて出発した。

  • 走行から「30分後」、ラビノヴィッチは衣類の山から這い出し、外が昼間であることを確認した。

  • ワルシャワの郊外で、ラビノヴィッチは貨車から草むらへと飛び降り、日没までそこに横たわっていたとサイドマンに語った。
    「私がどのようにして非ユダヤ人のもとで隠れ通したか、あるいはどのようにしてゲットーに戻ることができたかは、重要ではない」。

  • ワルシャワに戻ってきてさえ、ラビノヴィッチは安全だとは感じられないと説明した。「何千人もの人々が死の列車へと残酷に移送され、その後、毒ガスによって殺害される[fargasn]。……私はトレブリンカから来たが、間違いなくまたそこへ戻ることになるだろう」[28]。

9月初旬に行われたサイドマンによるラビノヴィッチへのインタビューは、同月末にレヴィンがラビノヴィッチとの会話について記したメモと比較して、かなり内容が豊かであり、いくつかの異なる詳細を記録している。

関連する2つの日記の記述[29]において、レヴィンは以下の内容を記録している。ラビノヴィッチは、到着したユダヤ人を「出迎える」トレブリンカの標識、トレブリンカにある「総統のための墓」、いかに「女性たちが全裸で浴場へ入っていくか」について語り、「例外なく全員が抹殺される」こと、そして殺害方法が「単純な蒸気(steam)」であることを知ったと述べている[30]。レヴィンの記述から、彼は9月27日にヘルシュおよびブルマ・ヴァッサーと共に、ラビノヴィッチから直接以下の内容を聞いたと結論づけることができる。「『総統のための墓』。女性たちは全裸で浴場へ入る。死体の状態。彼らは何で殺しているのか?単純な蒸気(steam)である[31]。死は7、8分後に訪れる。到着時に不幸な人々から靴を取り上げる」。ここでもまた、レヴィンは到着したユダヤ人を迎える布告の存在を記録している。

対照的に、サイドマンの報告は、移送者の全般的抹殺や、殺害のためにシャワー棟へ連れて行かれる前の犠牲者の脱衣については扱っているものの、重要な点でレヴィンの報告とは異なっていた。一つには、サイドマンの報告はトレブリンカ内部で起きたことと同じくらい、収容所への輸送に焦点を当てていた。レヴィンの記録とは異なり、ラビノヴィッチがサイドマンに語った内容には、トレブリンカに滞在した期間(一日のうちの一部)や、彼の徴用(衣類仕分け人として)が含まれていた。一方でサイドマンの記述には、犠牲者が埋葬された墓に関する言及は一切なく、死体の状態についても触れられておらず、死の部屋で犠牲者が死に至るまでの時間の推定も欠けていた。最後に、ラビノヴィッチはサイドマンに対し、トレブリンカの労働者から殺害はガスによるものだと知らされたと語っている(これを2度述べている。彼の知識は伝聞であったが、ラビノヴィッチはトレブリンカの犠牲者がガスで殺害されたと理解していた)。一方、レヴィンはラビノヴィッチから、殺害には「単純な蒸気(steam)」が使われたと聞いたのである。

不運なことに、レヴィンのメモは非常に簡潔であり、言及されたトピックに関する詳細ははるかに少ない。例えば、ラビノヴィッチはサイドマンに対し、いかにして殺害方法を知ったか(ポーランド人労働者からであり、その労働者はさらに別の人から聞いたと推測できる)を語っているが、レヴィンの記述にはそのような説明はない。また、レヴィンの記述にはラビノヴィッチがいかにして脱走したかも記されていない。ラビノヴィッチがレヴィンやヴァッサー夫妻と会った9月下旬までには、殺害方法に関する彼の推測が、ワルシャワ市内で交わされていたこの問題に関する議論を反映し始めていた可能性があり、それゆえに2つの報告はこの点で食い違ったのかもしれない。

この相違やその他の違いは、二人の異なる「著者」を想定させるほど大きなものではない。いくつかの点では良好な一致が見られる。サイドマンの報告は、すでに見た通り、移送やラビノヴィッチの脱走に関してより詳細で、より多くの資料を含んでいる。レヴィンの記述は収容所内の状況に重きを置いているが、これはおそらく質問の内容によるものであろう(ヴァッサー夫妻とレヴィンはこの時点で脱走者への聞き取りの熟練者となっており、レヴィンだけでも8月から9月にかけて少なくとも4人のトレブリンカ脱走者にインタビューしていた)。この焦点の移り変わりは、サイドマンがインタビューした時点では移送が進行中であり、その目的地がようやく判明しつつあったのに対し、レヴィンが会った9月下旬には「大移送」が終了しており、トレブリンカが輸送の目的地であると理解されていたため、トレブリンカ内部で何が起きていたかにより焦点が当てられたという事実にも起因している可能性がある。

レヴィンとサイドマンが同じ「ラビノヴィッチ」について言及していたことは確実と思われる。レヴィンはその脱走者を「ラビノヴィッチ……ラビノヴィッチの親戚」[32]と表現した。同様に、サイドマンは対話相手を「パルチェフ・レベの息子であり、若きムンカッチ・レベの兄弟であるヤアコフ・ラビノヴィッチ」と特定している。彼は「イェシバの学生で、25歳くらい、ワルシャワの宗教組織ハボネのメンバー」である[33]。サイドマンの方がレヴィンよりもラビノヴィッチのことをよく知っていたようで、例えばサイドマンは彼の住所や宗教的所属を記し、家族のつながりについてもより詳細な情報を与えている。

ラビノヴィッチに関する当時の別の言及は、リンゲルブルムの手帳に見ることができる[34]。リンゲルブルムのラビノヴィッチに関するメモは、レヴィンのものよりもさらに簡潔である。彼は次のように記している。「トレブリンキ(Treblinki)――墓掘り人(ラビノヴィッチ、ヤコブ)に関するニュース、貨車から逃げ出したストク(Stok)のユダヤ人……金と外貨を積み込んだ――『入浴』に関する一致した記述、膝に黄色いパッチをつけたユダヤ人の墓掘り人。――殺害方法:ガス、蒸気、電気」。これに加えて、リンゲルブルムはおそらくブンドを代表して派遣されたフリドリヒの任務に言及し、「そこに送られた人々の家族が送り出した調査によってもたらされたトレブリンキに関するニュース」と記している。彼はその後、死体を埋めるため、あるいは「焼かれたユダヤ人の灰を耕し埋める」ためにトラクターが使用されていると聞いた内容について論じている。ラビノヴィッチに関する短いコメントは、彼が収容所の墓掘り人に関するニュースをもたらしたことを示している可能性があり、それは墓や死体についてレヴィンが記録した内容と呼応している。

ラビノヴィッチの移送とトレブリンカでの時間に関するこれらの簡潔で示唆的な痕跡以外に[35]、彼の経験について多くの情報源から得られる豊かな詳細は存在しない。しかし、確実と思われるのは、8月中旬から下旬にかけて、ラビノヴィッチがOBW作業場からトレブリンカへ移送され、そこで短時間(おそらく1日未満)を過ごし、労働に駆り出され、到着と抹殺プロセスの断片を目撃し、到着したユダヤ人の殺害について知らされたということである。彼はガス殺のプロセスや上部収容所を直接目撃したわけではない。しかし、収容所にいる間に、ラビノヴィッチは収容所に連れてこられたユダヤ人の大量殺害や、収容所に関するその他の詳細について耳にした。ラビノヴィッチは、殺害はシャワー(あるいは浴場)とされる大きな建物で行われ、ガス(サイドマンの記述)またはある種の蒸気(レヴィンの日記)によって遂行されたと聞かされたと語っている。

このように、9月初旬までに、オネグ・シャバットの少なくとも1人のメンバーが、ワルシャワからトレブリンカに連行されたすべてのユダヤ人を殺害するためにガスが使用されたというラビノヴィッチからの証言を記録しており[36]、同月末までには、別のオネグ・シャバットのメンバーが、細部では先の報告と異なるものの、トレブリンカに連行された人々が浴場で殺害されているという内容を繰り返した記述を記録していたのである。

我々はまた、ブンドの報告やラビノヴィッチの記述に加えて、8月と9月にワルシャワの活動家たちのもとにもたらされた他の情報についても知っている。この頃、サミュエル・プテルマンはある脱走者がトレブリンカでの殺害について語った内容を記録している。「ドアが開いている。全員が静かに中に入る。建物がいっぱいになるとドアを閉め、水の代わりにガスを出す。それは13分から20分間続く」[37]。もう一人のオネグ・シャバットの活動家メナヘム・メンデル・コンは、すでに8月6日の時点で、ワルシャワからの移送は「トレブリンカと呼ばれる場所での抹殺のため」であると記していた。ラビノヴィッチがサイドマンに語った5日後の9月7日、コンは「ブラシ工場の何千人もの同胞が収容所へと送られ、同日中にガス室に入った」と記している[38]。ラビノヴィッチの報告は、ワルシャワのユダヤ人たちがこの困難で死活的なパズルの断片を繋ぎ合わせていた、こうした「情報伝達」の流れの一部なのである。コンが10月1日に総括として記したように、「そこでは毎日6千から8千人が殺害され、遺体は機械で掘られた深さ30メートルの穴に投げ込まれている……数人の墓掘り作業員が脱走し……我々生存者に『アクション』の詳細を報告した。[それによれば、犠牲者は]服を脱いだ後に入浴しに行くように告げられる。冷笑的な演説と共に、彼らは6千から8千人をガス室に追い込み、そこでは5、6分で死に至り、膨れ上がった状態で穴に投げ込まれるのである」。

そして最後に、レヴィンの9月下旬の日記に現れた以上の、ラビノヴィッチによって語られたさらなる詳細は、ワルシャワからの移送と死の収容所トレブリンカに関するオネグ・シャバットの11月の報告書でも使用されたと合理的に推測できる。この報告書は、クシェピツキに焦点を当てる本論評の第B部において主要なトピックとなる。

ここで我々が目にしているのは、開発されつつある「蒸気」の物語などではなく、移送者の絶滅とワルシャワに残されたユダヤ人が直面すべき運命に主な焦点を当て、活動家たちが必死に理解しようとした初期の報告である。殺害方法に関する限り、フリドリヒはガス殺(あるいは電流)によるものと聞き、ラビノヴィッチは伝聞に基づいてガスおよび蒸気によると語ったと記録され、コンやプテルマンの匿名の脱走者はガス室でと記した。そして、オネグ・シャバットを率いたリンゲルブルムは、単純にこう結論づけたのである。「殺害方法:ガス、蒸気、電気」[39]。


トレブリンカの蒸気に関する私のコメントを公開するための場を提供してくれた「Holocaust Controversies」に感謝したい。執筆内容を編集するために最善の努力を払った後に残るいかなる誤りも、HCではなく、私個人の責任である。— SM


[1] ヤンソンがトレブリンカからの初期報告をどう扱ったかについての個人的なメモ(ジョナサン・ハリソン)(註:既に記事は削除されています)

[2] ドイツ語版のバンド紙の記事は、クラウス・ペーター・フリードリッヒが編集した文書集『ナチス・ドイツによるヨーロッパのユダヤ人の迫害と殺害 1933年~1945年』第9巻「ポーランド:総督府 1941年8月~1945年」(ミュンヘン:オルデンブルク、2013年)443~446ページに掲載されている。この記事は、イザック・アラッド著『ベルゼク、ソビボル、トレブリンカ ベルゼク、ソビボル、トレブリンカ:ラインハルト作戦の死の収容所』(ブルーミントン:インディアナ大学出版、1987年)244-246 ページに英語で詳しく引用されている。1942年9月20日付けの Oyf der Wach は特別号だった(バーバラ・エンゲルキング&ヤチェク・レオチアク著、The Warsaw Ghetto: A Guide to the Perished City(ニューヘイブン: イェール大学出版、2009年)、691ページ。この新聞の1942年の他の2号はリンゲルブルム・アーカイブに保存されている(692ページ)。一方、Szturm は1942年の1号だけが保存されている。この新聞の別の、保存されていない号には、トレブリンカに関するバンドの以前の報告が掲載されていたと言われている。違法な新聞は、ほとんどがゲステナー印刷機で印刷されていた(エンゲルキング&レオシアック、685 ページ)。ただし、最初の 2 回のバンド紙は謄写版で印刷されていた(エンゲルキング&レオシアック、687 ページ)。

[3] エデルマンの回想録(ワルシャワ蜂起)はハリソンの年代記の基礎となっている。この年代記はバーナード・ゴールドスタイン『星は証言する』(ロンドン:ヴィクター・ゴランツ社、1950年)118頁によって裏付けられている。グンナー・ポールソン『秘密の都市:1940-1945年 ワルシャワの隠れユダヤ人たち』(ニューヘイブン:イェール大学出版局、2003年)、74頁 - ヤコブ・ツェレメンスキーの原稿を引用。同原稿は『わが民への哀歌:ナチ占領下のポーランドにおけるユダヤ労働同盟の地下通信員回想録 1939-45年』(メルボルン:ヤコブ・ツェレメンスキー記念財団、2000年)として出版された模様 (メルボルン:ヤコブ・ツェレメンスキー記念トラスト、2000年)、124頁;ダニエル・ブラトマン『ゲットーからの生中継:ワルシャワ・ゲットーにおけるユダヤ人秘密新聞(1940-1943)』(パリ:セルフ社;エルサレム:ヤド・ヴァシェム、2005年)、476頁; マイケル・ベレンバウム「ワルシャワ・ゲットー蜂起に関する補足説明:マレク・エーデルマン及びシンハ・ロテムへのインタビューに基づく」エリック・スターリング編『ホロコースト下のゲットー生活』(シラキュース大学出版、2005年)、19頁; ファリス・グラブ『シオニストとナチス・ドイツの関係』第47巻(ベイルート:パレスチナ研究センター、1978年)、39頁

[4] ジョセフ・カーミッシュ『名誉をもって生き、名誉をもって死ぬ』(エルサレム:ヤド・ヴァシェム、1986年)、709-710頁

[5] アブラハム・レヴィン『涙の一杯:ワルシャワ・ゲットーの日記』(ニューヨークとオックスフォード:バジル・ブラックウェル、1988年)、183-186ページ[6] Lewin, pp 183-184, 185, and 186

[7] エンゲルキングとレオシアクによれば、8月2日までにゲットーでは、ランダウのような作業場が安全な避難所だと一般に考えられていた。

[8] Lewin, pp 148- 149

[9] Lewin, p 153

[10] Engelking & Leociak, p 719

[11] Lewin, p 153

[12] Lewin, p 154

[13] Lewin, p 159

[14] ヒレル・サイドマン著『ワルシャワ・ゲットー日記』(サウスフィールド、ミシガン州:ターガム・プレス、1997年)

[15] サイドマンが詳細なメモを取ったと記したラビノウィッツの証言の要約は、ほぼ7ページに及ぶ(サイドマン、pp 101-107)。これはII/298の長さをはるかに上回っている。

[16] サイドマン、87ページ;この日付のレウィンの日記には、特定の工場名を挙げずに、作業場での大規模な一斉検挙が概説されている。同じ記述には、トレブリンカからの脱走者であるダヴィド・ノヴォドヴォルスキとのレウィンの「長い話」が記されている。レウィンとグトコフスキが聞き取り調査したこの脱走者の「言葉は…すべての移送者が…殺害されるために連行され、誰も救われないことを疑いの余地なく示している」 (レヴィン、170頁)。またエンゲルキング&レオチアク、742-725頁を参照のこと。そこでは8月26-27日にわたる一連の強制連行が記述されており、ゲジア通り(ランダウの工房が所在し、レヴィンとラビノヴィッチが働いていた場所)を含む多くの地域が影響を受けた。

[17] ラビノヴィッツは、サイドマンとのインタビューで墓掘り人だと主張しなかった。これはラビノヴィッツに関するレヴィンの記述と一致している。

[18] II/298には、ユダヤ人同盟の『Oyf der Wach』記事で扱われている以下の領域に対応する記述は存在しない:到着列車内での死亡事例、移送に関するドイツ側の欺瞞、脱走者がワルシャワのユダヤ人へ送った手紙や挨拶、脱走者によるその他の報告、トレブリンカ収容所の規模と配置、有刺鉄線と枝を絡ませた柵や掘削機といった収容所の物理的特徴。両報告書の記述は、ウクライナ人その他の警備員の行動(発砲、到着ユダヤ人への挨拶と命令、バラック、選別とガス処刑の過程など)において相違がある。II/298の資料提供者は夜間に収容所に到着したが、ラビノヴィッチはそうではなかった。爆撃に関する記述を除けば、バンドの報告書はII/298よりもはるかに詳細である。

[19] ヤンソンが指摘するように、II/298のディーゼルに関する記述はトレブリンカの電力発電に関するものであり、収容所内の殺害施設に関するものではない。

[20] アラド261頁は、ラビノヴィッチの報告がトレブリンカのブンド調査を促したと主張している(「トレブリンカでの絶滅に関するラビノヴィッチの報告の結果、ワルシャワ・ゲットーのアンダーグラウンドで活動していたユダヤ労働党ブンドは、数名の使者を派遣した。). しかし、ブンドの調査は7月下旬に行なわれ、ラビノヴィッチがトレブリンカから戻ってきたのは9月初頭であったことが立証されているので、アラドの主張するようなことはありえないと結論せざるをえない。

[21] Seidman, pp 100-107

[22] ロバート・モーゼス・シャピロとタデウシュ・エプシュテイン(編)、『ワルシャワ・ゲットー:オインゲ・シャベス=リンゲルブルム・アーカイブ:目録とガイド』(ブルーミントン、インディアナ州:インディアナ大学出版局、2009年)、394ページ。

[23] Seidman, p 101

[24] 私はイディッシュ語を読めない。同僚がヒレル・サイドマンの『ワルシャワ・ゲットーの日記』からこの翻訳を提供してくれた。

[25] この観察には問題がある。しかし、その男たちはオルポのメンバーかトラウニキだった可能性があり、ラビノヴィッチが誤認したのかもしれない。一方、「トーマス・クース」の『トレブリンカに関する三冊の本』不都合な歴史、2012年―デンマーク人歴史家トルベン・ヨルゲンセンの著書『財団。アクシオン・ラインハルトの処刑人』 (The Foundation. The Executioners of Aktion Reinhardt, Lindhardt og Ringhof, Copenhagen 2003)は、ヨルゲンセンがエーベルル時代(1942年7月~8月)のトレブリンカにおける弛緩した状況を記述した関連箇所を引用している:「 職員たちは、ウクライナ人もドイツ人も、常に酔っぱらっていた。それに加え、許可のない者たちが収容所を訪れていた。ワルシャワ駐留のドイツ兵、特に装甲軍団(つまり国防軍)の兵士たちがその例だ。これらの部隊の成員は、封鎖されていないトレブリンカへ小旅行に出かけ、写真を撮ったり、移送された人々の末路を観察したりしていた。」

[26] サイドマンの日記には、もう一つ問題のある記述がある。当初、1942年春にはトレブリンカ強制労働キャンプのポーランド人がTIIの建設に動員されたが、すぐにSS隊員とウクライナ人によって監視されたユダヤ人が追加された。アブラハム・クジェピツキは、その長い証言(以下を参照)の中で、この時期にトレブリンカ II の作業班は「トレブリンカ第 1 懲罰収容所から 50 人の男たち(彼らは以前、我々と一緒に働いていた)」によって増強されたと記している。アレクサンダー・ドナット、The Death Camp Treblinka: A Documentary(ニューヨーク:ホロコースト図書館、1979 年)、96 ページ。チル・ライクマンは、TII に連れてこられた人々の中にはジプシーやポーランド人もいたと書いている(Rajchman, Treblinka (New York and London: Maclehose Press, 2009, 2011)、「列車でここに連れてこられた人々は誰だったか?主にユダヤ人だった。また、ポーランド人やジプシーもいた」)。ハーシュル・スペリングの証言も参照されたい。これはラビノヴィッチの証言とある程度一致する:「ここで我々は畑で働くポーランド人を見かけ、彼らと話を試みた。ただ自分たちの運命がどうなるのか知りたかったのだ。しかし彼らはほとんど仕事から目を離さず、離したとしても我々に向かって一言叫ぶだけだった:『死だ!』恐怖に襲われた。信じられなかった。我々の頭はそれを受け入れられなかった。本当に逃げ場はないのか?ポーランド人労働者の一人は焼却を、別の一人は銃殺を、三人目はガス殺を口にした。」(スパーリングの証言はこちらで引用)

[27] Seidman, p 105

[28] Seidman, p 107

[29] Lewin, pp 185-186

[30] ラビノヴィッツが情報源の候補となり得る根拠の一部は、ルーウィンの日記に記録された内容に基づいている。すなわち、1942年11月にハーシュ・ヴァッサーとエリヤフ・グトコフスキーが起草したオイネグ・シャベス報告書(ケルミッシュ、47ページ)に記載された「パイプの開口部から過熱蒸気が流入し、生きた人間をゆっくりと窒息させる」という殺害方法の記述である。例えば、レヴィン日記の英語版における注釈で、アントニー・ポロンスキーは次のように記している。「ヒルシュ・ワッサーによれば、ラビノヴィッツの証言はオネグ・シャベスによって作成されたトレブリンカに関する記述の基礎となり、『ワルシャワのユダヤ人絶滅』に提出された報告書(pp. 30-34)の付録17として追加された」(脚注355、p. 290)。pp 30-34」に添付された報告書に追加された(脚注355, p 290)。

[31] ポロンスキーは、レヴィンの日記に関する注釈(290ページ)で、レヴィンが「הבל」という語を用いたと述べている。これは息、蒸気、湯気を意味する。

[32] Lewin, p 185

[33] Seidman, p 100

[34] エマニュエル・リンゲルブルム『ワルシャワ・ゲットーからの記録』(ニューヨーク:アイブックス、2006年)、320-321頁。この記録は1942年7月から12月までの期間を扱う章に収録されており、日付は記されていない。また「通信」と題されたセクションに属している。

[35] ラビノヴィッツのもう一つの痕跡は、エステル・ファブシュタイン著『雷鳴に隠れて:ホロコーストにおける信仰、ハラハー、指導者像の視点』(エルサレム:オールド・シティ・プレス、2007年)50ページに見られる。そこではラビノヴィッツについて論じられている。ファブシュタインによれば、サイドマンの日記の記述に加え、ラビノヴィッチの兄である「ムカチのラビ、バルーク・ラビノヴィッチ師が、弟がトレブリンカから持ち帰った情報の衝撃について語った」と記されている(ラビノヴィッチ著『ビナト・ネヴォニミ』8頁)。『ビナト・ネヴォニミ』は未発表原稿であるため、私は確認できていない。

[36] さらに、この同じ活動家、サイドマンはラビノヴィッチとの初対面についてこう述べている。「その時、私はそこで誰かについてぼんやりと聞いたことを思い出した——つまり、この人物こそがその人物だったのだ」サイドマン、100ページ。これは、ワルシャワのユダヤ人たちの間で、ラビノヴィッチの体験と証言に関する知識が、ここで論じられている個人たちを超えて広がっていたことを示している。

[37] サミュエル・プターマン『我々より長く生き続ける言葉:ワルシャワ・ゲットーからの目撃証言』(ミハル・グリンバーグ編、ニューヨーク:メトロポリタン・ブックス、2002年)、210-211頁

[38] M.M.コン著『ケルミシュ』82-83ページ。1942年8月から9月にかけて、ワルシャワの活動家たちに届いた同様の報告は少なくとも十数件存在する。

[39] 上記の脚注34を参照せよ。

統計力学によって投稿された 2016年5月22日(日曜日)

▲翻訳終了▲

色々と非常に興味深くなってきました。いろんな単語というか名詞が登場して、調べるのも一苦労しておりますが、まだまだ「分からないことが分からない」ミッシングリンクは多いですけど、少しずつ霧が晴れるように見えてまいりました。

まだあと二つ記事を訳さねばならないので、即断は避け、今回は特に説明や感想は書かないことにします。以上、私自身は続きがワクワクしてまいりました。

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