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ホロコースト否定論者の筆頭格マットーニョ論文を自分でやっつけてみよう(3)

追記:
以下翻訳内容は2026年9月以降に全て翻訳し直しました。翻訳は全てChatGPT+手修正です。従って以下翻訳内容は歴史修正主義研究会版を一切参照していません。翻訳内の「翻訳者註」は全て新たに書き起こしたものです。翻訳前後の私自身の文章はこの記事ではそのままにしてありますが、今となっては多少不適切な内容を含むようです。

ここでの主要なマットーニョの議論内容は、一つ目は主に当時の文書に「脱衣室」という文言が火葬場建物に関して出てくることをどうにかしてガス処刑の文脈では読ませないようにすることです。当然、犠牲者がシャワー室に偽装されたガス室に入るために脱衣する部屋のことだと普通読むわけですが、否定派としては当然それは否定されなければならず、そこでマットーニョは収容所内から運ばれてきた遺体から衣服を脱衣させるための部屋だったということにしようとします。でもそれは無理筋で、そもそも誰もそんなこと証言すらしていません。ダヴィッド・オレールも以下のように描いています。

二つ目は1970年代くらいから延々と、あれやこれやの否定派説が出て、否定派的には混乱してきた「Vergasungskeller」文書についてです。「Vergasungskeller」は普通にガス室と読めるのに、絶対に否定派は認めません。認めたら今まで必死こいて否定してきた苦労が水の泡だからです。マットーニョは過去の否定派が認めなかった、そこがガス室であるということを認めた上で、殺人ガス室であることを意味しないという方向で処理しようとしました。詳細は内容を読んでください。もちろん、そんな証拠は証言すらなく、証言者はそこが殺人ガス室だったとしか言ってません。従って、「Vergasungskeller」文書は証言の裏付けとなっているのに、否定派はそれをあれやこれやの屁理屈で絶対に認めないだけなのです。


マットーニョ論文を前々回前回で見てきましたが、ネット、というか一般の否定派は、マットーニョの論理の誘導に引っ掛かって、「アウシュヴィッツ・ビルケナウの火葬場の図面に書いてあった死体置き場はやはり書いてあるとおり死体置き場だったんだ! ガス室じゃなかったんだ!」と納得してたりするのでしょう。

その理屈が単なるハリボテ理論に過ぎないことを見抜けない限り、説得力はそれなりにあるとは思われます。ネットの素人さんのお話を見ていると、当時の文書資料を豊富に使って論証しているところに魅力を感じている様子です。しかも、マットーニョ理論を反論するのはなかなか大変です。わかって仕舞えばそのトリックは簡単ですが、ガス室否定・大量殺戮否定の結論へと導くためのその理屈は長いので、例えば一言で済むような「ここにこう書いてあるのでそれは間違っている」のような単純な反論ではなかなか反論しにくいものがあります。

しかしながら、ハリボテはハリボテです。どんなに精巧に人の顔そっくりに作られたハリボテのお面でも、ほんのわずかに突っついてそのハリボテお面に小さな穴を開けるだけで、誰もがそれがハリボテだと気づく、みたいなものです。例えば前回までの部分で言えば、肝心の「死体シュートが図面から消え去った」ことをマットーニョは否定出来ていなかったので、実はすでにマットーニョ理論は全面崩壊しているのです。チフス死亡者数の誤魔化しもそうですし、火葬場へのシャワー設備設置計画も実は殲滅作戦終了後の話だったとか、死体安置部屋(場所)は別に図面上の位置を正確に指しているわけではないとか、どれひとつ欠けてもマットーニョ理論は成立しません。

それをこうやって、そのハリボテ自体を一つや二つの穴を開けるだけでなく、ボコボコにして完全破壊するのが今回の論破目的なのですが、ハリボテと言っても、その理屈は当時の文書資料などの様々な情報でその骨組みの補強は施されているので、簡単には崩せません。我々素人には専門家であるマットーニョらのプロ否定派の情報収集力には敵わないので、真正面から論破するのはなかなか困難です。

しかしながら、以前も述べましたが素人でも「あれ?」と思う箇所に気づくことが出来ます。その「あれ?」という箇所を見つけることは割と簡単で、例えば文章の末尾が「であろう」と推測形になっていたり、「であるに違いない」などと実はそれとは違う可能性があるのに、希望的に否定している表現になっていたりする場合です。他にも、例えば火葬場の焼却能力理論のように証明もされていない仮説理論をさも確定しているかのように言うなど、様々なこれに類する手法はありますが、要するに自身の理屈の弱い部分に疑いの目をかけられないように誤魔化してるのです。マットーニョの論理がどういう結論に導こうとしているかに注意して読むと意外と簡単に分かりますよ。

さて今回は、以下の翻訳記事を参考にすると分かりやすいかも知れません。

これは今回の記事の後に出されたマットーニョの記事への反論記事の翻訳ですが、内容は踏襲されていますので、参考になるかと思います。

一応前知識として、私が理解している「正史派」側の内容を如何に簡単に説明しておきます。

「正史派」側が推定する火葬場2の利用開始までの流れ

1943年3月にビルケナウに建てられた火葬場2が稼働開始しますが、建設完了は遅れました。個人的な推測をすれば、当初設計では火葬場2(および3)にはL字型に配置された二箇所の死体安置用地下室が設定されていましたが、1942年12月頃にガス室併設案に設計変更がされたのに伴って、こうした設計変更が色々とあった為に建設が遅延したのだと思います。ガス室は当初案の死体安置用地下室1に設定されましたが、死体安置用地下室2の方を脱衣室に設定する変更はそれよりも後になりました。ここでまず基本的な位置関係をおさらいしておきます。

さて、話は前後しますが、1942年12月に何故ガス室に設計変更されたのがわかるかというと、上の図面で階段Bとある位置付近の古い図面1311(プレサック本p.294)にあったはずの死体を死体安置用地下室に下ろすためのシュートが、1942年12月の図面2003(同p.302)から消えたからです。また新たに上の図面のように階段Bが火葬場2と3の間にある道路側に設けられています。それが以下の図面2003(地下部分)です。

一方で、階段A、つまり脱衣用地下室にガス処理される人々が降りるための階段は最初は設計にはなかったのです。では、最初は脱衣所をどうしようと思っていたのでしょう? よーく見て欲しいのですが、地下ガス室に降りるには階段Bで降りるしかありません。しかしその前には脱衣しなければなりませんので、脱衣所が死体安置用地下室2に設定されていたとすると、地下へ階段で降りて小部屋のようなところを抜けた後、左へ曲がって脱衣所に入ってから、脱衣してガス室に向かう必要があります。するとこの曲がり角は地上から降りてくる人と、すでに裸になってガス室へ向かう人とで混雑が起きてしまうのと、犠牲者たちを間違いのないよう案内しないといけないため、かなり不合理です。要するにこうなってしまいます。

ということは、1942年12月の設計変更時には、火葬場にガス室を併設することには決めたものの、脱衣所までは併設する考えはなかったと推定されます。ではどうしようと思っていたかの答えは、以下の図面です。

この火葬場2の階段Bの位置するところのすぐ側に、上の図で示される長方形が示すバラックを建てたのです。このバラックについて、ゾンダーコマンドのヘンリク・タウバーは次のように証言しています。

1943年3月中旬頃、夕方の仕事が終わった頃、当時の火葬場の親衛隊長であったヒルシュが来て、「仕事があるから火葬場にいてくれ」と指示されました。日が暮れると、最初のトラックが到着し、年齢も性別も違う人たちを運んでいきました。お年寄りの男性、女性、そして子供たちがたくさんいました。トラックは1時間ほど駅まで行ったり来たりして、どんどん人を運んでいきました(註:当時はまだビルケナウ敷地内直行の特別ラインはありませんでした)。トラックが到着し始めた頃、ゾンダーコマンドは奥の部屋に閉じ込められ、そこには先にも述べたように、検死を行った医師たちが住んでいました。その部屋からは、庭先のトラックから降ろされている人たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。彼らは、火葬場の建物に垂直に、火葬場IIの庭への入場ゲートの側にあったバラックに入れられていました。人々は門に面した扉からバラックに入り、焼却炉の右手にある階段(註:階段Bの事)を下りて行きました。当時、そのバラックは脱衣所として使われていました。しかし、一週間ほどしか使われず、その後解体されました。その後、火葬場の地下部分には、先ほど説明した地下脱衣所へ続く階段(註:階段Aの事)を通って、人々が追い込まれていきました。

なぜ最初は、脱衣所をバラックにしようと考えていたかについての答えは簡単です。ビルケナウの火葬場でガス処理を行う前はビルケナウ敷地外のブンカーでガス処理(1942年3月〜1943年3月)を行なっており、その時は脱衣所はブンカー近くにいくつかバラックを作ってそこで脱衣してもらっていたため、単純に同じ発想をしたからだと考えられます。

これらは、ホロコーストの事情をほとんど知らないレベルの人からすれば、あまりに打算的で無計画に見えるかと思われます。それらの人は最初からビシッと具体的な「ユダヤ人絶滅計画」なるものがあってそれに基づいて行動を起こしたと思っていますが、実情は全く違っていて、上部組織から降りてくる命令を可能な範囲で実行しようとして、現場の実情を考えつつ様々に試行錯誤を繰り返しながら、現場でその都度計画を立てて柔軟に変更を加えつつ実行に移していったのです。実際は、それらのホロコースト否定の初心者の考えよりもはるかに現実的でした。

では、マットーニョの以下の論文を、以上の解説および前々回前回の内容を踏まえた上で読解してみて下さい。マットーニョが極めて強引な論理展開をしていることがある程度は自力でわかるかと思います。今回は、一箇所の注意事項を除き、翻訳中には一切注釈を入れません。それをやろうとすると、細かい注釈が増えて非常に読みにくくなるからです。それくらい指摘可能な箇所はたくさんありますが、実際には翻訳終了後にマットーニョの論述より短い批判だけで論破完了なのです。いずれにせよまずはじっくり読んでみてください。マットーニョは非常に微に入り細に入り小細工を施してますので、騙されないように注意してください。


▼翻訳開始▼

III)ビルケナウ火葬場IIの脱衣室:その起源と機能

1)脱衣室:生者のためか、それとも死者のためか?

第I節では、ビショフが1943年5月13日付の報告書で取り上げた「火葬場IIIの脱衣室へのシャワー設備」の設置計画について言及した。以下では、ビルケナウの火葬場におけるそれぞれの「脱衣室」の起源と機能を検討する。

J.-C.プレサックの学説によれば――そしてR・J・ヴァン・ペルトもこれを無条件に受け入れているのであるが――ビルケナウ火葬場IIは通常の衛生・公衆衛生施設として計画され、建設された。しかし、[1]

「それによって、1942年10月末には、バンカー1および2で行われていたガス処刑を、機械換気設備を備えた火葬場の一室へ移すという、それ自体としては論理的な考えに至った。これは、1941年12月に火葬場Iの死体安置室で行われたのとまったく同じ方法であった。」

プレサックによれば、この考えは1942年11月に具体的な形を取り、「親衛隊建設局が火葬場内にガス室を設置することを決定した」[2]。この点に関するプレサックにとっての最初の状況証拠は、すでに見たように、1942年12月19日付の計画2003、すなわち「図面932および933の表紙。地下室入口の道路側への移設」であり、そこでは死体搬送シュートが削除されたとされている。この解釈によれば、通常の衛生・公衆衛生施設として計画・建設された火葬場が、後になって絶滅施設へと転用されたことになる。しかし、この解釈は、第II節で挙げた文書に照らすだけでも根拠を欠いている。なぜなら、その場合、自然死した収容者の死体を火葬場の死体安置ホールおよび死体安置用地下室に安置し、焼却炉で火葬することが、もはや不可能になってしまうからである。

したがってプレサックによれば、火葬場での人間のガス処刑を実施する決定は、1942年12月19日の時点ですでになされており、それ以後、中央建設局の計画に反映されていったことになる。死体安置用地下室1にだけ給気・排気設備が計画されていた以上、この論理に従えば、この部屋は必然的にガス室として予定されていたことになる。そして、大量殺害を計画したのであれば、死体安置用地下室2にも、将来の犠牲者のための脱衣室という機能が必然的に与えられていたはずである。これは――やはりプレサックによれば――すでにアウシュヴィッツ本収容所の火葬場Iで実行されていたことであった。

したがって、死体安置用地下室1を人間殺害用ガス室へ転用する決定は、死体安置用地下室2を脱衣室へ改造することを必然的に伴い、両方の決定は同時になされていなければならなかった。実際、いくつかの文書では火葬場IIの死体安置用地下室2が「脱衣室」または「脱衣地下室」と呼ばれており、これはプレサックにとって「犯罪の状況証拠」を意味し、この火葬設備に想定された絶滅機能を示すものとなっている。「脱衣室」という表現が初めて登場するのは、1943年3月6日付でビショフがトプフ社に宛てた書簡である。中央建設局長は、死体安置用地下室2に言及して、次のように書いている。[3]

「同様に、脱衣室の排気設備を変更するための追加見積書を送付されたい。」

しかし、この脱衣室は、本当に計画されたガスによる大量殺害の犠牲者のためのものだったのだろうか?

2)ビルケナウ火葬場IIにおける脱衣室の起源と機能

プレサックが知らなかった2つの文書が、火葬場IIの地下階に脱衣室を設置するという決定に言及しており、先ほど提起した問題に明確な答えを与えてくれる。

1943年1月21日、アウシュヴィッツのSS駐屯地医師は、収容所所長に次の内容の書簡を提出した。[4]

1 . 「アウシュヴィッツSS駐屯地医師は、ビルケナウの新築火葬場に予定されている解剖室を間仕切りによってさらに2つの同じ大きさの部屋に分割し、そのうち最初の部屋に洗面台を1台または2台設置するよう要請する。というのも、前者は本来の解剖室として必要である一方、後者の部屋は、解剖学的標本の作製、記録文書・筆記用具・書籍の保管、染色組織切片の作製、および顕微鏡を用いた作業のために必要だからである。」

2 . 「さらに、地下室に脱衣室を設けるよう要請する。」

この書簡から、われわれの問題にとって極めて重要な結論を導き出すことができる。

  1. 火葬場に脱衣室を設置するという決定を下したのは、収容所管理部(ヘス)でも中央建設局(ビショフ)でもなく、SS駐屯地医師であった。

  2. SS駐屯地医師は、この申請を他の申請よりも重要なものとはみなしていなかった。それどころか、それは解剖室に関する厳密に衛生・公衆衛生上の申請に付随する、単なる付記事項として現れている。

  3. 火葬場は、衛生・公衆衛生および法医学の観点からSS駐屯地医師の管轄下にあり、彼は関連する計画をよく把握しており、時には――この場合のように――変更を提案するために中央建設局に介入した。いま引用した書簡は、SS駐屯地医師が、将来のガス処刑犠牲者のために死体安置用地下室2を脱衣室へ転用するという、いわゆる計画について少しも知らなかったことを証明している。彼は「地下室に」脱衣室を設置するよう一般的に要求しただけであり、死体安置用地下室2を具体的に指すことも、死体安置用地下室1を明示的に除外することもしていない。SS駐屯地医師の重要な立場を考えれば、2か月前に死体安置用地下室2に脱衣室を設置するという決定がなされていたのであれば、彼がそれを知らなかったはずは到底ない。しかし、彼がそのことを知らなかったのであるから、論理的に導かれる結論は、そのような決定は存在しなかったということだけである。引用した文書から明らかなように、脱衣室という発想は1943年1月にSS駐屯地医師のもとで生じ、その月の21日にアウシュヴィッツ収容所管理部へ伝えられたのである。

1943年2月15日、戦時捕虜収容所建設局(すなわちビルケナウ)の建設責任者であるSS少尉ヤーニシュは、SS駐屯地医師に手書きのメモで次のように回答した。[5]

「1)については、手配済み。
2)脱衣のため、地下室入口の前に馬小屋兵舎を設置した。」

火葬場に脱衣室を設けたのは何のためだったのか。そして、そのためになぜ兵舎を建設することが検討されたのか?

プレサックは、火葬場IIの前、まさにヤーニシュが告げた場所、すなわち「地下室入口の前」に馬小屋兵舎が、実際に1943年3月20日付の「アウシュヴィッツO/S戦時捕虜収容所配置図」に現れていることを強調している。彼はこの事実について、次のようにコメントしている。[6]

「この図面は、1943年3月に火葬場IIの北側の中庭に、堅牢型の兵舎が建設されたことを裏付けている。われわれはこの兵舎についてほとんど何も知らないが、ただ、この火葬場でガス処刑された最初のユダヤ人集団の脱衣室として使用された後、速やかに取り壊されたことだけは分かっている――特別部隊の証人ヘンリク・タウバーによれば、わずか1週間後だったという。PMOのアーカイブで発見された、死体安置用地下室2を通る進入階段についての最初の記載、BW 30/40、68eページは、1943年2月26日付となっている(文書7a)。この入口が使用可能になると、脱衣用の小屋はもはや必要なくなった。」

プレサックは後にこの問題に再び立ち戻るが、今度は新たな説明を提示している。[7]

「1943年3月14日日曜日、メッシングは死体安置用地下室2の換気設備の設置作業を続けており、彼はこれを『脱衣地下室II』と呼んでいた。その夜、クラクフ・ゲットーから約1,500人のユダヤ人が、火葬場IIにおけるガス処刑の最初の犠牲者となった。彼らは、工具や換気設備の部品でなお満たされていた死体安置用地下室2では脱衣せず、火葬場の北側の中庭に仮設された、厩舎のような小屋で脱衣した。」

その後、プレサックは再び最初の解釈に戻っている。[8]

「この建設局に由来する資料は、1943年3月中旬に、火葬場IIの北側中庭に南北方向に延びる小屋が建設されたことを裏付けている。ヘンリク・タウバーの証言によれば、この小屋は脱衣室として使用されたとされており、どうやら地下の脱衣室(死体安置用地下室2)へ通じる階段がまだ完成していなかったためである。」

ここでプレサックは、ヘンリク・タウバーの以下の証言を根拠としている。[9]

「これらの人々[犠牲者]は、当時、火葬場の建物と平行して、入口部分から火葬場IIの中庭まで設置されていた兵舎に押し込まれた。人々は入口部分にある扉からこの兵舎に入り、製炉[原文ママ]の右側にあった階段を下りて[地下階へ]行った。この兵舎は当時、脱衣室として使われていた。しかし、それはわずか1週間ほどしか使用されず、その後取り壊された。」

プレサックは1943年3月20日付の計画2216を完全な形で公表しているが、図面中の注記は判読できない状態になっている。[10] しかし彼は、別の(アウシュヴィッツ博物館に別のネガとして保存されている)この計画の版を拡大したものについても言及しており、そこでは図面中の注記を容易に判読することができる。[11] そこでは、火葬場IIの前にある兵舎が、明るい長方形によって示されている。この記号は、完成した兵舎を示すものではない――完成した兵舎には暗い長方形が用いられていた――また、建設中の兵舎を示すものでもない。後者には斜線を施した長方形が用いられていたからである。それは、計画された兵舎を示す記号である。このことは、プレサックが公表したこの計画を別の箇所で拡大したものから、さらに明瞭に読み取ることができる。[12]

ところで、プレサックが引用した計画の直前に作成されたビルケナウの計画がもう一つ存在する。そこには、先に述べた兵舎は登場しない。「強制収容所および戦時捕虜収容所の建設・拡張のための配置計画、計画番号2215」[12a]であり、1943年3月付である。計画番号が2215であることから、これは先に述べた、1943年3月20日に完成した計画番号2216の直前に作成されたものである。

この兵舎が計画番号2216にだけ登場する理由は明らかではない。同じく計画中、建設中、および完成済みの兵舎が記載されている1943年2月17日付の計画番号1991[12b]にも、この兵舎は登場しない。それにもかかわらず、ヤーニシュの覚書によれば、この兵舎はすでに2月15日には建設されていたのである。その理由は、おそらくこの兵舎が暫定的な性格を持ち、緊急に設置されたものであったことにある。この兵舎がいつ建設されたのかは知られていない。しかし、この兵舎が、いわゆる人間のガス処刑とは何の関係もなかったことは確実である。

さらに、プレサックによる最初の説明、すなわち、この兵舎が設置されたのは死体安置用地下室2への入口がまだ完成していなかったからだという説明も、ほとんど意味をなさない。というのも、火葬場IIIについてプレサックは次のように書いている。[13]

「1943年2月10日、フータ社の職長コルベの指揮のもと、火葬場IIIの死体安置用地下室2(将来の脱衣室)へ通じる西側の進入階段の開口部を作る作業が開始された。この作業には6日間を要し、15日に完了した(PMO資料BW 30/38、25~27ページ)。火葬場IIで対応する作業がいつ行われたのかは分かっていない。それについての唯一の手掛かりは2月26日付のものであり、火葬場IIIでの当該作業が完了してから11日後のことである。」

1943年3月20日、ビルケナウ収容所の計画2216が作成されたその日に、アウシュヴィッツのSS駐屯地医師、親衛隊大尉ヴィルツは、すでに引用した収容所所長宛ての書簡を書き、その中で次のように述べていた。[14]

「収容者病院から火葬場へ死体を搬出するために、50体の死体をそれぞれ運搬できる、屋根付き手押し車を2台調達しなければならない。」

これによって問題は最終的に明らかになる。SS駐屯地医師は、死亡した収容者が安置されていた劣悪な衛生・公衆衛生上の環境を懸念していた。死体安置スペースとして使われていたのは簡素な木造小屋であり、そこで死体はネズミに無防備にさらされていたため、ペストの流行を引き起こす危険が生じていた。このことをヴィルツは、1943年7月20日付の書簡で警告している。この危険は、明らかにすでに1月の時点で存在していた。そこでヴィルツは、死体をより衛生的に安全な場所に安置することを要求したが、そのために最も適した場所は、当然ながら、当時すでに建設がかなり進んでいた火葬場IIの2つの死体安置用地下室であった。1943年1月21日、ヴィルツは火葬場の「地下室内」に死体のための脱衣室を設置するよう要求した。1月29日、ビショフは、死亡した収容者の死体を死体安置用地下室2に安置することはできないが、そのことは問題ではなく、その目的のために「Vergasungskeller」を使用できる、と伝えた(後述参照)。2月15日、ヤーニシュはSS駐屯地医師に対し、死亡した収容者の死体のための脱衣室として、火葬場IIの「地下室入口の前に馬小屋兵舎」が建設されたと伝えた。この兵舎はしたがって、1943年1月21日から2月15日までの間に建設されたことになり、この理由から、それが犯罪目的に使用されることはあり得なかった。

これは、火葬場IIが1943年2月20日に稼働を開始したという事実によっても裏付けられる。1943年3月29日付のキルシュネックの報告書には、この火葬場について次のように記されている。[14a]

「石積み工事全体が完成し、1943年2月20日をもって稼働開始。」

したがって、この火葬場は、死体安置用地下室1への換気設備の設置がまだ完了していない段階で稼働を開始しており、この死体安置用地下室は、理論上、人間用ガス室として機能し得るようになる以前から、すでに死体の保管に使用されていたのである。

では、そもそもなぜ兵舎が必要だったのだろうか? 答えは簡単である。1943年1月には、死体安置用地下室2はまだ使用できなかったからである。1943年1月23日付でカムラーに提出されたビショフの「第1報告書」、『戦時捕虜収容所火葬場・建設状況』において、火葬場IIについては次のように記されている。[15]

「地下室II。鉄筋コンクリート天井のコンクリート打設完了(型枠の取り外しは天候に左右される)。」

1943年1月29日付の報告書で、技師クルト・プリューファーは次のように記している。[16]

「死体安置用地下室2の天井は、凍結のため、まだ型枠を取り外すことができない。」

同じ日、親衛隊中尉キルシュネックも覚書で次のように確認している。[17]

「死体安置用地下室2は、天井の型枠を取り外す作業を除いて、ここまで完成している。この作業は、凍結していない日を待って行う必要がある。」

最後に、ビショフは1943年1月29日付でカムラーに宛てた書簡の中で、次のように記している。[18]

「火葬場IIは、利用可能なあらゆる人員を投入し、言語に絶する困難と凍結した天候にもかかわらず、昼夜を通して作業を行い、建築上の細かな点を除いて完成した。

炉は、施工会社であるエアフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社の主任技師プリューファー氏立ち会いのもとで点火され、申し分なく機能している[原文ママ]。

死体安置用地下室の鉄筋コンクリート天井は、凍結の影響により、まだ型枠を取り外すことができていない。しかし、これは重要なことではない。なぜなら、そのためにはガス処刑地下室を使用できるからである。」

1943年2月前半の2週間、ビルケナウでは少なくとも10日間、朝の気温が氷点下1度から8度まで下がっていた。夜間の最低気温はさらに低く、一方、午後の最高気温は氷点下3度からプラス6度の間で変動していた。[19] したがって、死体安置用地下室2がまだ使用できなかったのは、鉄筋コンクリート天井の型枠を取り外すことができなかったためである可能性が高い。死体安置用地下室2への外部からの入口(地下室入口)の建設に関して現存する唯一の文書は、1943年2月26日付のものである。[20] 該当する作業は、おそらくその日に、あるいは数日後に開始され、火葬場IIIの場合と同様、ほぼ確実に1週間以内に完了したと考えられる。3月8日、トプフ社から派遣された設置技師ハインリヒ・メッシングが、死体安置用地下室2への排気管の設置を開始した。彼は週報の中で、この部屋を一貫して「脱衣地下室」と呼んでいる。[21] 作業は1943年3月31日に完了した(「排気設備、脱衣地下室に設置完了」)。[22]

したがって、中央建設局はSS駐屯地医師の申請に沿って、すでに3月8日の時点で、火葬場IIの地下階に脱衣室を、すなわち死体安置用地下室2に設置することを決定していたことになる。3月20日の時点では、メッシングによる設置作業はまだ完了しておらず、そのためビルケナウ収容所の計画2216では、火葬場IIの前に、ヤーニシュが2月15日に設置を予定していた「脱衣室」兵舎が、ひとまず「計画中」としてのみ記載されている。その後、この兵舎が建設されることはなかった。4月初めから死体安置用地下室2を使用できるようになったためである。一方、死体安置用地下室1は、すでに3月13日に使用可能な状態になっていた(「地下室Iの給気・排気設備を稼働開始」)。[22]

2,191人のギリシャ系ユダヤ人がガス処刑されたとされる日である3月20日[23]に、SS駐屯地医師が考えていたのは、収容所病院から火葬場IIへ死体を搬送することだけであり、いわゆるガス処刑された人々については、ほんのわずかにも言及していない。

以上によって、冒頭で提起した2つの問いに対する答えが得られた。

  1. 脱衣室は、登録された収容者のうち死亡した者の死体のために設けられたものであった。1944年5月8日以来アウシュヴィッツII(ビルケナウ)の所長を務めていた親衛隊大尉クレーマーは、ベルゼン裁判において、この点について次のように証言した。[24]
    「日中に死亡した者は誰であれ、死体安置所と呼ばれる特別な建物へ運ばれ、死体は毎晩、トラックで火葬場へ運ばれた。死体は収容者によってトラックに載せられ、またトラックから降ろされた。火葬場では、収容者たちが火葬する前に死体から衣服を脱がせた。死者が伝染病で死亡したのでなければ、衣服は洗浄され、再利用された。」(英語からの再翻訳。)

  2. 脱衣室としては、当初、火葬場の前に兵舎を建設することが予定されていた。というのも、SS駐屯地医師が脱衣室の設置を要求した1月21日の時点では、死体安置用地下室2はまだ使用できず、3月31日まで使用可能にならなかったからである。


翻訳者註:
マットーニョはヨーゼフ・クレーマーの証言を利用していますが、その利用方法には問題があります。マットーニョが用いたクレーマーの証言は、マットーニョは脚注24で以下のように示しています。

[24] Trial of Josef Kramer and Forty-Four Others (The Belsen Trial). William Hodge and Company, Limited London, Edinburgh, Glasgow 1949, S. 731.

このベルゼン裁判での同証言は、以下で読むことができます。

当該証言では例えば以下のような内容があります。

3 . 私が本格的なガス室を初めて目にしたのはアウシュヴィッツだった。それは火葬場に併設されていた。火葬場とガス室を併せ持つその建物は、私が指揮を執っていた第2収容所(ビルケナウ)内にあった。私は着任して3日目に収容所を初めて視察した際にその建物を訪れたが、着任後最初の8日間は稼働していなかった。8日後、ガス室の犠牲者が選別される最初の移送団が到着し、同時に、アウシュヴィッツ収容所全体を指揮していたヘスから書面による命令を受けた。それによると、ガス室と火葬場は私の管轄区域内にあったものの、私にはそれに対するいかなる管轄権もなかったという。実際、ガス室に関する命令は常にヘスから下され、私は彼がベルリンからそのような命令を受けていたと固く確信している。もし私がヘスの立場にあり、そのような命令を受けていたなら、それを実行していただろうと思う。なぜなら、たとえ抗議したとしても、その結果、私自身も捕虜にされるだけだったからだ。ガス室に関する命令について、私は少し驚きを感じ、そのような行動が本当に正しいものなのかと自問していた。

同証言を利用しているのですから、これを知らないわけがなく、実際マットーニョは別の本(『The Bunkers of Auschwitz』)ではクレーマーのこうしたガス処刑を認めている部分を否定しているそうです。何故なら、クレーマーは最初はガス室の存在を否定していたからです。それを上のように後に認めたことを、「裁判で要求された真実を受け入れたからであろう」のように解釈を述べているそうです。もちろんそんな証拠は何もないのですが、それならそれで証言者の当該証言の信用度について何某かの説明は必要でしょう。そうでなければ、「都合の良い部分を利用し、都合の悪い部分を無視した」の誹りを免れません。

さらに、マットーニョが引用した部分がたとえそうであったとしても、クレーマーは火葬の前に脱衣させたと言っているだけであり、その場所が火葬場の脱衣室であったとは一言も言っていません。従って、クレーマーの証言は火葬場に脱衣室が設定されていたという証拠にはなりません。


3)ビルケナウ火葬場IIの「Vergasungskeller」

周知のように、プレサック以前から、公式の歴史学は、先に引用した1943年1月29日付のビショフからカムラーへの書簡に登場する「Vergasungskeller(ガス処刑地下室)」という用語を、火葬場IIにおける人間殺害用ガス室の存在を示す状況証拠、さらにはその証拠とさえ評価してきた。ここでわれわれが第一に関心を持つのは、この表現が登場する文脈、および文全体の意味である。

ビショフは、霜のために鉄筋コンクリート製の地下室天井の型枠を外すことができなかったが、それは重要ではない、なぜなら「hierfür(このために)」「Vergasungskeller(ガス処刑地下室)」を使用することができるからだ、と書いている。この書簡によれば、実際には「Vergasungskeller」は、死体安置用地下室2の機能を果たすことができたのである。

では、死体安置用地下室2が犠牲者の脱衣室として、「Vergasungskeller」がガス室として使用されていたと仮定すると、ガス室が同時に脱衣室として使用されることなど、どうして可能だったのだろうか。

ここで、ガス室は同時に脱衣室としても使用することができた、と反論することはできる。しかし、それならば、中央建設局は、タウバーとプレサックがわれわれに保証しているように、なぜ火葬場の前に犠牲者の脱衣室として兵舎を建設したことになっているのだろうか。

強調しておくべきなのは、ビショフの書簡で取り上げられている問題は、厳密に言えば一時的なものであり、「死体安置用地下室2」がまだ使用可能になっていなかった間だけ重要だったということである。1943年1月29日およびその後の数日間、「Vergasungskeller」は「hierfür(このために)」――つまり死体安置用地下室として――使用することができた。しかし、この時点では、ビショフが先に述べた書簡で強調しているように、トプフ社は「Waggonsperre(貨車輸送の停止)」のため、まだ「換気・排気設備」を納入していなかったのであり、そのため「Vergasungskeller」は、いかなる場合にも人間殺害用ガス室として使用することはできなかった。

したがって、通常の衛生・衛生設備として計画・建設された火葬場が、その後になって殺害施設へと改造されたというこの解釈――その結果、死体安置室に死体を安置し、その後それらを炉で火葬することができなくなったという解釈――は、ましてや意味をなさない。もし換気・排気設備がないためにガス室が機能できなかったのであれば、なぜ犠牲者をわざわざ脱衣させる必要があったのだろうか。そして、そもそも誰が犠牲者だったというのか。誰もガス処刑することができなかったというのに。

要約しよう。犠牲者たちは、死体安置用地下室2が使用不能だったため、そこで脱衣することはできなかった。彼らは「Vergasungskeller」で脱衣することはできたが、そこでも、死体安置用地下室2でも、ガス処刑されることはできなかったのである。

したがって、ビショフの書簡はまったく別の意味に解釈されなければならないことは明白である。死体安置用地下室2は、まだ使用可能な状態になっていなかったため、「自然な」死によって死亡した登録済み収容者の死体を安置する死体安置室、すなわち脱衣室として使用することができなかった。しかし、それは大きな問題ではなかった。なぜなら、死体を「Vergasungskeller」で脱衣させ、そこに保管することができたからである。だが、ここでさらに、なぜ死体安置用地下室1が「Vergasungskeller」と呼ばれたのかを明らかにしなければならない。

ビルケナウ火葬場IIの地下階における、いわゆる犯罪的改造が始まった時期には、1942年7月にビルケナウで発生した発疹チフスの流行は、まだ決して制御されてはいなかった。収容者の死亡率には明らかに低下傾向が見られたものの、それでもなお非常に高かった。8月には約8,600人の死亡者が記録され、9月には約7,400人、10月には約4,500人、11月には約4,100人、12月には約4,600人、そして1月には約4,500人に達していた。[25]


翻訳者註:
前にも述べたことですが、マットーニョはその死亡者数がチフスによるものだとは書いていません。なのにどうして、「1942年7月にビルケナウで発生した発疹チフスの流行は、まだ決して制御されてはいなかった」などと言えるのか、マットーニョは何の説明もしていません。そこにある脚注番号[25]は、それも前述した死亡簿の話であり、記録が残されている期間のトータルでさえもチフス死亡者数は2,060件しかないのです。


1943年1月9日、ビショフは「アウシュヴィッツK.L.およびK.G.L.における衛生設備」という件名でカムラーに書簡を送り、すべての防疫・除菌設備および駆除設備を列挙した。それによれば、K.L.アウシュヴィッツには5基、K.G.L.ビルケナウには4基が存在していた。ビショフは書簡を次のような注記で締めくくっている。[26]

「以上から明らかなように、衛生設備についてはほぼ十分に整えられており、とりわけ民間労働者用の通過処理兵舎が完成すれば、いつでも多数の人々を駆除・除菌することが可能となる。」

しかし、その後数日のうちに火災によって、本収容所の第1ブロックにあった、トプフ・ウント・ゼーネ社が製造した熱風装置、「KGLの男性・女性用防疫兵舎」にあった、すなわち駆除兵舎BW 5aおよび5bにあった、ホッホハイム社製の熱風装置、そして最後に「部隊用防疫設備」にあった熱風装置が、相次いで使用不能になった。[27]

1942年12月17日、ビショフは「ビェリッツ徴兵事務所W係」に宛てて、次のように記した。[28]

「12月8日付の貴所からの問い合わせに対し、中央建設局は、今後3か月間は収容所封鎖の解除を見込めないと回答するものである。利用可能なあらゆる手段を投入して流行病を効果的に防止しようとしているものの、新たな感染を完全に阻止することはまだできていない。」

同日、ビショフは収容所所長に、次の内容の書簡を提出した。[29]

「SS駐屯地医師の命令に従い、1942年12月19日土曜日に、民間労働者に対する最初の駆除、すなわち防疫処置を実施する予定である。そのためには、K.L.の防疫設備を使用できるようにする必要がある。12月22日から実施する民間労働者の個別駆除についても同様である。承認をお願いする。」

1943年1月8日付の「駐屯地命令第1/43号」において、アウシュヴィッツ所長は次のように通達した。[30]

「1月4日の無線電報により、D III局長から、K.L.アウシュヴィッツに対する収容所封鎖が依然として継続しているとの通達があった。」

1943年1月5日、アウシュヴィッツの北約20kmに位置するミスウォヴィツの警察刑務所で、発疹チフスの患者が数名発生した。病気は収容者の間で急速に広がった。カトヴィツェ県政府長官は、患者をアウシュヴィッツへ移送することを提案し、収容所所長に次のように書いた。[31]

「さらに私は、これらの囚人によって、場合によっては新たな感染者がアウシュヴィッツ収容所に持ち込まれることになる可能性も認識している。他方、発疹チフスはアウシュヴィッツ収容所において、これまで決して消滅したわけではなく、そこで大規模な衛生警察上の防疫措置が講じられていることから、私はこの問い合わせを行うに至ったものである[…]。」

1月13日、ルドルフ・ヘスは、収容所内では現在「発疹チフスの散発的な症例」しか発生しておらず、もはや発疹チフスの流行は存在しないと回答した。しかし、彼は県政府長官の提案を、「それによって再び発疹チフスの流行が発生する危険が非常に大きくなる」ことを理由として拒否した。[32]

しかし、カトヴィツェ警察長官は、ミスウォヴィツ刑務所で発疹チフスによって死亡した囚人の遺体について、シラミを殺す薬剤で処理し、棺に納めたうえで、「火葬のため[……]霊柩車によってアウシュヴィッツへ移送」しなければならないと命じた。[33]

アウシュヴィッツの衛生・防疫状況は、ルドルフ・ヘスが述べたほど良好なものでは決してなかった。1月25日、ビショフは「家屋内通達第86号」において、次のように通達した。[34]

「アウシュヴィッツK.L.のSS駐屯地医師の命令に基づき、中央建設局の建設局宿舎兵舎に居住しているすべての中央建設局所属SS隊員について、直ちに3週間の隔離措置を課すものとする。」

1943年1月中、発疹チフスの流行は再び断続的に発生し、2月最初の10日間にはその規模が非常に憂慮すべきものとなったため、SS経済管理本部D局集団の長である親衛隊少将リヒャルト・グリュックスは、思い切った措置を講じざるを得ないと判断した。このことは、1943年2月12日付、ビショフからカムラーに宛てた「発疹チフス罹患率の上昇」に関する書簡から分かる。[35]

「警備部隊における発疹チフスの罹患が著しく増加したため、1943年2月9日、親衛隊少将兼武装親衛隊少将グリュックスによって、アウシュヴィッツK.L.に対する全面的な収容所封鎖が実施された。これに関連して、2月11日以降、すべての収容者に対して防疫処置を実施し、収容所から出ることを禁止している。その結果、主として収容者が作業に従事していた建設物については、工事を停止せざるを得なくなった。工事の再開については、中央建設局から報告するものとする。」

「Vergasungskeller(ガス処刑地下室)」に戻ろう。上述した劇的な衛生・防疫状況を背景として考えれば、最も合理的な説明は、SS当局が1月末、火災によって使用不能となった防疫設備の代替として、火葬場IIの死体安置用地下室1に仮設の青酸ガス式防疫室を設置することを計画した、というものである。この部屋が「Vergasungskeller」と呼ばれたのは、BW 5aおよび5bの青酸ガス式防疫室もまた「Vergasungsraum(ガス処理室)」と呼ばれていたためであるらしい。[36]

このような応急的な防疫室の設置を提案したのは、おそらくSS経済管理本部C局であった。というのも、ビショフは1943年1月29日、まさにこのC局の局長であるカムラーに宛てた書簡の中で、「Vergasungskeller」という表現を用いているが、それが何を意味するのかを説明していないからである。したがって、少なくともカムラーはその意味を知っていたはずである。このことは、SS経済管理本部C/III局(技術専門分野)がベルリンのハンス・コリ社に、アウシュヴィッツ収容所に設置する「Heißluft-Entwesungsanlage(熱風式防疫設備)」の見積書を要求していたという事実によって裏付けられる。コリ社は2月2日に回答し、同局に「アウシュヴィッツ強制収容所用駆除設備」という件名の書簡を送付した。[37] そこには、合計4,152kgの金属について「アウシュヴィッツ強制収容所用熱風式駆除設備に必要な鉄材量一覧」[38]と、総額4,960.40ライヒスマルクの「強制収容所アウシュヴィッツ用熱風式駆除設備の費用見積書」[39]が添付されていた。

同じ2月2日、SS経済管理本部C/VI/2主要課(経営経済担当)の長である親衛隊大尉コターは、「アウシュヴィッツK.L.の防疫・サウナ設備の視察」を行った。これに関するSS経済管理本部C/VI局長、親衛隊大佐アイレンシュマルツの「防疫設備」に関する報告書には、熱風装置は当初、30℃の温度を必要とする青酸による防疫処置を想定していたが、その後、必要温度が95℃となる熱風式防疫処置に使用されたため、「過負荷」になっていた、と記されている。[40]

「毎日増加する多数の保護拘禁囚の流入によって、現在、設備への負荷が増大しており、連続使用による摩耗に対処するためには、この目的に適したコークス燃焼式空気加熱器を設置するしかない。

ここで予想される設備の故障に対処するため、当方ではすでに、管理部門の既存の防疫設備用として鋳鉄製熱風加熱器を発注することを予定している。納入業者に問い合わせたところ、これらは3週間以内に納入される予定であり、それによって必要な防疫措置を引き続き実施できるようになる。

発生した火災の大部分は過熱によるものであり、したがって、このような設備を使用する際には、正確な運転技術上の規定を遵守することが緊急に必要である。」

その後、火葬場IIの死体安置用地下室1を防疫室として使用するという構想は、他の火葬場にも拡大され、それに対応する文書上の痕跡は、後にプレサックによって、人間殺害用ガス室の存在を示す「状況証拠」あるいは「ミス」とみなされた。

中央建設局が3か月余りにわたってこのようなさまざまな計画を抱いていた後、カムラーはビルケナウ収容所における「衛生設備改善のための特別措置」の計画を実施し、火葬場内部に防疫室を設置するためのすべての計画は、一挙に放棄された。

1943年7月末までには、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所複合体において、毎日54,000人の収容者の所持品を駆除することが可能な防疫・消毒設備が、稼働中、建設中、または計画中となっていた。[41] しかし、すでに5月以降、アウシュヴィッツ中央建設局の文書には、火葬場に緊急防疫設備を設置する計画についての言及はまったく見られなくなっている――あるいは、プレサックの解釈を採用するならば、火葬場の犯罪的な悪用を示す「状況証拠」ないし「ミス」も見られなくなっている。

私はすでに1994年に、ビルケナウ火葬場IIについては、この火葬場が収容所管理部によって正式に引き渡された日である1943年3月31日以降、「犯罪的状況証拠」のいずれも現れなくなることを強調していた。これは、その後20か月間、この建物で大量殺害が最高潮に達していたはずなのに、それを示す取るに足りないような文書上の「状況証拠」すら一つも存在しないことを意味する。一方、他の火葬場のいずれかについての最後の「犯罪的状況証拠」は、1943年4月16日付である。[42] 公式の歴史家は、この一見奇妙な事実をどのように説明できるのかという問題を、誰一人として提起したことがない。このことを単なる文書不足に帰することは到底できない。唯一可能な説明は、1943年5月に決定された通常の防疫設備の改善によって、火葬場に応急的な駆除室を設置するためのすべての計画が不要になった、というものである。また、火葬場に収容者用の100基の非常用シャワーを設置する計画も、建造物5aおよび5bの100基のシャワーが恒常的に機能しており、すでにI.4)で述べたように、中央サウナの稼働開始も目前に迫っていたため、取り下げられた。


翻訳者註:
このマットーニョの「Vergasungskeller」に関する議論に対する論駁は以下で尽きていると思います。

▲翻訳終了▲

●「脱衣所は死体から服を脱がせる場所」論は成り立たない。

まず、脱衣室(脱衣用地下室や脱衣スペース)ですが、姑息にもマットーニョは、否定派が滅多に使わない裁判証言を根拠に持ち出してきました。その内容はこうでした。戦後の証言は信用ならないんじゃなかったのでしょうか?

「日中に亡くなった人は、死体安置用建物(Leichenhaus)と呼ばれる特別な建物に運ばれ、遺体は毎晩、トラックで火葬場に運ばれた。囚人がトラックに乗せたり、トラックから降ろしたりしていた。彼らは火葬の前に、火葬場の囚人たちに服を剥がされた。着用者が伝染病で死亡していなければ、衣服は洗浄されてリサイクルされた。」(英語からの逆翻訳)

私は注意して、翻訳ではっきり「死体安置用建物」と書いて騙されにくいようにしておきました。これを「死体安置所」と安易に書いてしまうと、火葬場にある死体安置所と誤解しかねません。「haus」ですから、これは単純に「家」のようなものを示すので「建物」にしたのです。明らかに火葬場の死体安置用地下室は独立した建物ではありません。要するに一旦、収容所内で出た死体は、どこかは知らないけど、定められた囚人区画の建物内に一旦運ばれてから、トラックで火葬場に運ばれた、と言ってるのです。で、火葬の前に服を剥がされたと。ここでは特に火葬場のどこで衣服を剥がしたとかは一切述べられていません。なぜマットーニョはこれを入れたかというと、明らかに、火葬場に関連した「脱衣スペース」は死体から衣服を剥がすためのスペースのことだ、と読者に思い込ませるため、つまり意図的な印象操作です

ですが、じっくり読んで下さい、一切どこにも脱衣スペースがマットーニョの言う通りのものだったことを示す明確な根拠は何もありません。脱衣スペースで死体を脱衣させていたことをはっきり示した当時の文書も証言も何もないのです。マットーニョはいろんな理屈を使い、そうした結論に誘導しようとしているだけなのです。

まずマットーニョの誘導はここから始まります。

したがって、死体安置用地下室1を人間殺しのガス室に改造するという決定は、死体安置用地下室2を脱衣スペースに改造することを意味しており、この2つの決定は同時になされたに違いない。

だから私は、翻訳に入る直前で、図面まで書いて説明しておいたのです。そうではなく、最初は死体安置用地下室1をガス室として使うと決めただけだったのです。当初はブンカーと同様に犠牲者の脱衣にはバラックを使うことにしていたのです。

なぜ、マットーニョはそのように死体安置用地下室1がガス室に設計変更されたなら、死体安置用地下室2も同時に脱衣所に変更されていなければならないと最初から断定したのかと言うと、実際にはそうではなかったのでガス室に設計変更されたわけではなかった、と読者に思い込ませるためです。マットーニョは以下のように述べています。

彼(註:ヴィルツ)の重要な立場を考えれば、2ヶ月前に死体安置用地下室2に脱衣スペースを作るという決定を、SSの現場医師が知らなかったということはありえないだろう。しかし、彼は何も知らなかったので、そのような決定はなかったというのが論理的な結論である。

設計変更はあくまでもアウシュヴィッツ中央建設管理部が主体になって行なっていたものであり、医師であるヴィルツが全てを把握する立場にあったとは決して言えません。確かに、後述するようにヴィルツは殺人ガス室の運用に密接に関わっていたアウシュヴィッツ医療部のトップですから、死体安置用地下室1をガス室へ設計変更することは知っていた可能性は高いです。医療部に属する消毒係は、チクロンBをガス室の天井の穴から落とす重責を担うのですから。しかし、設計変更案では脱衣用バラックを建設する設定であったことまでは知らなかった可能性は十分あり得ます。脱衣室は基本的には医療部の担当範囲外の話です。

じゃぁヴィルツは何故、火葬場の死体安置用地下室2を脱衣所に変更して欲しいなどと要望をしたかというと、参考のためにリンクで示しておいたHCサイトの記事中にも以下のようにあります。

しかし、ヴィルツは衛生状態や衛生状態だけでなく、アウシュヴィッツでのユダヤ人の駆除の実施にも頭を悩ませていた。アウシュヴィッツで殺される人々は親衛隊の医師によって選ばれ、実際にガス室を操作したのは、ヴィルツ自身の親衛隊の医師と親衛隊の救急隊員であった。ヴィルツは殺害処理装置の重責を担っていたので、地下室に直接脱衣場を設けるようにとの要請をヘスに提出したのはヴィルツであったというのは、もっともらしいことである。

ヴィルツは単にヴィルツなりに、死体安置用地下室1をガス室に変更するならば、死体安置用地下室2も脱衣室にすればいいのでは? と思っただけなのかも知れません。ヴィルツは脱衣用バラックで既に設定されているとはしらず、「もしかして、建設管理部は脱衣所をブンカーと同様にバラックにしようと考えているのではないか? それなら……」と要望した、というのは非常にありそうなことだと思います。脱衣所は医療部の担当範囲外ですが、ヴィルツは医療部のトップであり、他の部署に対して要望程度出せる立場にはあるわけです。もしかすると、医療部の内部でガス室への変更案が知られてから、誰かがヴィルツにそうした提案をしたのかも知れません。

以上で、基本的には論破完了です。その後だらだらとマットーニョは色々述べていますが、結局のところ前述した通り、火葬場に関連した「脱衣スペース」が、死体から衣服を脱がせるための脱衣スペースを意味した、についての直接的な言及は当時の文書にも証言にも一切示されていない上に、その脱衣室はガス室の犠牲者用の脱衣室であったこと、を全く崩せてもおらず、証言や証拠は豊富に揃っており(証言は決してタウバーの証言だけではない。また崩せていない以上、ヴィルツやヤニシュの文書も証拠である)、翻訳文の前に述べたような状況で脱衣室がバラックだったり地下だったりすることは説明できるので、脱衣室はガス処理犠牲者のためにあったものとしか考えられません。そもそも死体シュートはマットーニョの失態であり、計画から消えたこと自体は消えていませんのでマットーニョの脱衣スペース理論は最初から矛盾してます。

付け加えるなら、「これで一件落着だ」などとマットーニョは言っておりますが、囚人病棟から火葬場に死体を運ばないといけなくなったのは単純に火葬場が稼働し始めたからです。その他についてはこちらを確認するなど読者様にお任せします。「これで一件落着」どころではなく、こちらからマットーニョに対して言えば「お前は既に死んでいる」です。

●「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)は臨時の害虫駆除室だった」論は成り立たない。

この問題は、マットーニョの理屈を詳細に反論する必要性はないと思います。「臨時の害虫駆除施設? はぁ? そんなの誰も言ってねー」でおしまいです。強いて反論する箇所があるとしたら以下の箇所です。

強調しておきたいのは、ビショフの手紙(註:「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」の記述がある1月29日の手紙のこと)で提起された問題は、厳密には暫定的な性質のものであり、「死体安置用地下室2」がまだ稼働していない間だけの問題であったということだ。1943年1月29日とそれに続く日には、「ガス処理用地下室」を「この目的のために」、つまり死体安置用地下室として使用することができた。しかし、当時、ビショフが前述の手紙で指摘しているように、トプフ社は「貨物の封鎖のために」「吸気・排気装置」をまだ納入しておらず、したがって、「ガス処理用地下室」はいかなる場合にも人殺しのガス部屋として使用することはできなかったのである。

この解釈によれば、通常の衛生施設として計画・建設された火葬場が、その後、殺戮施設に変更され、死体を死体安置部屋に安置する可能性や、その後のオーブンでの火葬の可能性が排除されたことになるが、これは先験的に無意味なことである。換気装置がないためにガス部屋が機能しなかったのであれば、なぜ犠牲者がまだ服を脱ぐことが許されるのか? そして、実際、誰もガスを浴びることができなかった場合、どのような犠牲者が出るのだろうか?

これも、翻訳文直前に述べておきましたが、私の個人的な意見としての設計変更による遅延や、マットーニョ論文中に登場するトプフ車の貨物の封鎖による換気システムの到着の遅れ、冬の寒さなどで、火葬場2の完成は遅れていたのです。それは、1943年1月29日のビショフからベルリンのWVHAのカムラーに送った手紙でもわかります。こちらから、ドイツ語本文からの翻訳で以下に示します。

火葬場2は、言葉では言い表せないほどの困難と、昼夜を問わず凍えるような天候にもかかわらず、建設上の細かい部分を除いて、利用可能なすべての力を駆使して完成しました。工事を担当したトプフ・ウント・ゼーネ社(エアフルト)のチーフエンジニア、プリュファー氏の立ち会いのもと、炉に火が入れられ、完璧に機能しています。死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井は、霜の影響でまだ剥がすことができませんでした。しかし、これは重要なことではありません。というのも、この目的のためにガス処理用地下室を使用できるからです。

トプフ・ウント・ゼーネ社は、貨物の封鎖のために、中央建設管理部の要求通りに換気システムを時間通りに納入することができませんでした。しかし、吸気・排気装置の到着後、すぐに設置を開始するため、43年2月20日には完全に稼働できる見込みです。

トプフ・ウント・ゼーネ社のテストエンジニアによる報告書を同封します。

どう読んでも、これは明らかに工事が遅延している言い訳文書です。だからビショフは慌てていて「ガス処理用地下室(Vergasungskeller)」とついうっかり書いてしまったのです。この1月29日の時点ではまだ、後に地下脱衣所となる死体安置用地下室2は死体安置室としての用途しか考えられていなかったのでしょう。だから、「死体安置用地下室の鉄筋〜」とその一文をすらすら素直にそのまま書いてしまっていると考えられます。本来なら、「ガス処理用地下室」は「特別処置のための地下室」と書くべきだったでしょう。その場合でも、戦後の裁判でこの文書が取り上げられたときには、証言で明かされていたとは思いますが、否定派は否定論者同士で解釈が違うなどと言うアホなことにはならなかったでしょう。

ところが、マットーニョ論文をよく見ると、マットーニョが引用した1月29日のビショフの手紙には、私が独自に引用した部分の後半がありません。そして代わりに、キルシュネックの文書を、脱衣スペースに関連した前項で引用しています。

1943年2月20日に全ての石積みが完了し、サービスが開始された。

マットーニョが書いているようにこれは火葬場の死体焼却だけの話だと考えられます。ちなみに、それまでビルケナウ収容所(敷地内)のガス処理以外の死体はどうしていたかというと、ブンカーの方の埋葬壕に捨てていたと考えられます。ヘスの自伝にこう書かれています。

 こうして、一九四二年十一月末までには、以前の大量埋葬壕が全てカラになった。それらの郷に埋葬されていた屍体は、一〇万七〇〇〇体にのぼる。この数には、一番最初から焼却開始の時期までに、ガス死させられたユダヤ人移送者だけでなく、一九四一年から四二年にかけての冬期、看護室脇の火葬場がかなりの期間使用中止されていた時に、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者の屍体も含まれている。さらにそれには、アウシュヴィッツ収容所内で死亡した抑留者も全員含まれている

ビルケナウ、とは書いてありませんが「さらにそれには」と続けているので、ビルケナウを含めた上でのアウシュヴィッツという表現なのでしょう。

話を戻しますが、何故マットーニョは1月29日のビショフの手紙の後半をトリミングしたのかについては、まず間違いなく、それでは手紙に書いてあったガス処理地下室は殺人ガス室だったことを否定できなくなるからです。

マットーニョの理屈では、ビショフの手紙の日付、つまり「ガス処理用地下室」を殺人ガス室と解釈するならば、その1月29日時点でガス処理用地下室が使えたことを意味するとしています。

でもトリミングされた後半にあるように「43年2月20日には完全に稼働できる見込み」なのです。ややこしい話ですが、1月29日の手紙にある「死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井は、霜の影響でまだ剥がすことができませんでした。しかし、これは重要なことではありません。というのも、この目的のためにガス処理用地下室を使用できるからです。」は次のように解釈されるのです。

・手紙の時点では死体安置用地下室といったナンバーが消え失せている。

・それ故、明らかに1月29日の時点ですでに実際には、死体安置用地下室1はガス処理用地下室に変わっており、死体安置用地下室は元々の計画だった死体安置用地下室2だけを意味するようになっていた。

・おそらく、この元々の死体安置用地下室2はガス室併設案変更後は、ガス処理された死体を一時的に安置する目的を考えていた。何故なら、そうすることで1日に可能なガス処理回数を多くできるからである(次の犠牲者に見えないように一旦隠しておく)、と推測できる。

・しかし、1月29日時点で、死体安置用地下室2の天井は型枠が外れていないような状況で明らかに工事が遅れていた。そのためビショフは、1月29日の状態でも、ガス処理用地下室に変更されているとはいえ、(ガス処理回数のことを考えなければ)ガス処理用地下室にそのまま死体を安置しておくことができる状態にはなっているので、死体安置用地下室2がこのまま完成が遅れても、使用上は問題はありません、という意味で回答した。

・だから、手紙後半で「しかし、吸気・排気装置の到着後、すぐに設置を開始するため、43年2月20日には完全に稼働できる見込みです。」と期限を明確に書いた。

・しかし実際には、換気装置設置工事が完成しなかったので、ガス処理用地下室を含めた完全稼働開始は3月まで遅れてしまった。

穿った見方ではありますが、マットーニョは以上のように解釈されてしまうのを恐れて、手紙後半をトリミングしたのではないでしょうか? しかし、以上のように解釈すれば、1月29日時点でガス処理用地下室も使用できたはずという無茶な解釈をする必要はありません。ビショフは単に工事進捗状況だけを説明して、2月20日には間に合いますと言っただけなのです。

ちょっとややこしい文章になってしまったかと思われますが、簡単に解説すると、マットーニョの論理構成は以下のようになっています。

1.まず、「正史派」側の理屈を否定する。

2.その上で、証拠文書に対するマットーニョの解釈を示す。

従いまして、マットーニョの論理に反論しようとすると、この二つともに反論しなければならず、結構めんどくさいです。

閑話休題

マットーニョの解釈はさまざまな文書資料を駆使していて説得力があるように見せかけつつ、ビショフの手紙に書かれた「ガス処理用地下室」が「臨時の害虫駆除室」だったことを示す、証言も文書もありません。「これほどの衛生上の問題があったから、必要とされたに違いない」と言ってるだけです。

しかし、仮にマットーニョの理屈がビショフの書簡に対して通ったと仮定しても、ガス処理用地下室だったことを示す否定すべき証拠はビショフの書簡だけではなく、他にも山のようにあるのです。

その山のような証拠を否定しないとガス室が否定できない、という事実の奇妙さを、一般の否定派さんは気づくべきだと思うのですけどね。

では次回、マットーニョへの反論ラストです。まだ読んでないのでどんなものなのか知りませんが、マットーニョ理論を自分でボコボコにするのは一度やってみたかったんですよね(笑)。



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