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ホロコースト否定論者の筆頭格マットーニョ論文を自分でやっつけてみよう(1)

さて、今回は、いつものHolocaustControversiesブログサイトなどの海外サイトには解説のないマットーニョによる否定論記事の翻訳をします。目的は一応別にあるので、その為に訳すのが第一目的ですが、ある程度の知識は必要かもですが、じっくりよーーーく読めば、否定論者が非常に姑息な手段を使っていることが読めるというものです。

本来は、我々の方でも色々と資料収集が必要なのですが、そんなの素人にはほとんど無理な話ですので、とにかく騙されないようじっくりと読解に挑戦してもらいたいと思います。というわけで、基本的には私の方ではあまり解説はしません。私だってわからない部分もあるし、これを読まれるということは、ホロコースト否定論に気持ち的に反論したい方だと思いますので、一度じっくり読んでみて下さい。

否定論者の論文は、必ず否定方向へと誘導する文章になっていますので、注意深く読めば「あれ?」と思うところ程度は分かるはずです。要するに、騙される人はそうした「あれ?」と思う部分を油断してすっ飛ばしてしまうから騙されるのです。マットーニョの論文は一見、非常に緻密そうに見えて、どこかに必ず「?」があります。単純に例えれば、「水道局の方から来ました」とは言っていても、水道局員だとは言っていない、みたいなものです。

なお、最初は歴史修正研究会にある翻訳をコピペで引っ張ってこようかなと思ったのですが、どーも信用できないので、原文から自分で翻訳することにしました。ただ、いつもは英語なので、まぁなんとか意訳も出来ましたが、今回は英語よりもはるかに全然わからないドイツ語の為、やむを得ず歴史修正研究会の翻訳記事を参考にはしています。以前に、全然違う翻訳が飛び出してガッカリしてますからね。ただ、あちらは基本的にはそんなにメチャクチャな翻訳ではないようで、総合的な翻訳精度では軍配はあちらかな? という気はします。流石に一応はあちらさんは大学教授ですからね。

というわけで、私の方で入れる注釈は最低限にしますので、注意深く読んでみて下さい。元論文にある脚注(脚注番号はそのまま)や写真資料は省略します。また、何本も記事を起こしてきた私でも分からないところは多々ありますので、分からなければ読み飛ばしてもいいかとは思います。ただし、「あれ?」という感覚は忘れないように。

追記:
以下翻訳内容は2026年9月以降に全て翻訳し直しました。翻訳は全てChatGPT+手修正です。従って以下翻訳内容は歴史修正主義研究会版を一切参照していません。翻訳内容より前及び後の私自身の文章は書き換えていませんが、翻訳内の「翻訳者註」は全て新たに書き起こしたものです。


▼翻訳開始▼

文書から見たビルケナウ火葬場の死体地下室

カルロ・マットーニョ

デイヴィッド・アーヴィングがデボラ・リップシュタットを相手取って起こした名誉毀損訴訟は、2000年1月11日から4月11日までロンドンで行われた。この裁判でロバート・ヤン・ヴァン・ペルトは、被告側の専門家証人を務めた。ヴァン・ペルトは、主張されているガス室でのユダヤ人絶滅の現実について、いかなる証拠も見つけることができなかったため、利用可能なすべての「状況証拠」を持ち出した。その大部分はすでにJ.-C.プレサックによって収集されていたものであるが、彼はそれらを濫用的に「証拠」と称した。彼は「証拠の収束」が存在すると主張したが、それは本質的には文書を体系的に誤って解釈することに基づいているにすぎない。このような誤った解釈に利用できないすべての文書を、彼は単純に無視した。ヴァン・ペルトはその報告書の中で、修正主義派の歴史家たちが「歴史修正」という課題にまだ本格的に取り組んでさえいないと非難し、さらに次のように付け加えた。[1]

「真の修正主義的歴史は、過去について受け継がれてきたイメージを破壊するだけではなく、それに代わるものを提示する。[…]今日に至るまで、ホロコースト否定者たちは、40年にわたる努力にもかかわらず、アウシュヴィッツの歴史についての従来の叙述に対して、独自の、代替的な叙述を提示することができずにいる。」

私自身について言えば、私はすでに何年も前から、まさに「独自の、代替的な叙述」を提示してきた。それは私の論文においても、また私の著書においてもそうであり、そのうち最新のもの――『Sonderbehandlung in Auschwitz. Entstehung und Bedeutung eines Begriffs(アウシュヴィッツにおける「特別処置」。この用語の由来と意義)』[2] ――は、「Sonderbehandlung」および「Sonderaktionen」について、十分な資料的裏付けを備えたアウシュヴィッツの歴史叙述を提示するものである。私はその際、ヴァン・ペルトがその大部分を知らないか、あるいは意図的に無視している文書に依拠している。彼が私を、その報告書においても、また最近刊行された著書『The Case for Auschwitz. Evidence from the Irving Trial(アウシュヴィッツの立証。アーヴィング裁判における証拠)』[3](これは彼の報告書を拡張した版である)においても、一度たりとも引用していないことは、到底偶然とは考えにくい。

本研究では、アウシュヴィッツ史研究の中心的テーマの一つ、すなわちビルケナウの火葬場に存在したとされる人間殺害用ガス室について、さらに一つの積極的な論考を提示する。この研究は四つの部分から成り、それぞれ異なる四つの観点からこの問題に取り組み、それら全体として実際の証拠の収束を示すものである――ただし、それはビルケナウにおける人間殺害用ガス室の不存在を示す証拠の収束である。私の論述の基礎となっている豊富な資料群を、R・J・ヴァン・ペルトが当然のことながら体系的に無視している。

I)ビルケナウ収容所における「衛生設備改善のための特別措置」の枠内でのビルケナウ火葬場の死体地下室

1)1942年7月17日および18日のヒムラーのアウシュヴィッツ訪問とKGLビルケナウの新たな機能

1942年7月17日および18日にアウシュヴィッツを訪問した際、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、KGL(戦争捕虜収容所)ビルケナウの収容能力を拡大し、20万人の収容者を収容できるようにすることを決定した。中央建設局は直ちに作業に着手し、8月3日、その責任者である親衛隊大尉カール・ビショフは、SS-WVHA(親衛隊経済管理本部)のC V局(中央建設監察局)に新たな配置図を提出した。この図面は、1942年7月8日付の配置図第1453号を修正したものであり、前述の新たな収容定員に対応した収容所の拡張を示していた。ビショフは添付書簡の中で、2週間前に行われたヒムラーの訪問について明確に言及している。[4]

「計画の拡張については、1942年7月17日および18日の全国指導者の訪問に際して、C局グループ長であるSS旅団長兼武装親衛隊少将、工学博士カムラーのもとに提出されていた[……]。」

8月15日、中央建設局はさらに別の「アウシュヴィッツ上部シレジア戦争捕虜収容所配置図」を作成した。この図面では、実際に20万人の収容者を収容する規模が予定されていた。[5] 8月27日、ビショフはSS-WVHAのC局に、「縮尺1:20,000の配置図2部」を添付した書簡を送り、その中で次のように確認した。[6]

「添付の配置図には、最近要求された戦争捕虜収容所の、20万人の収容定員への拡張がすでに盛り込まれている。」

その後の数か月間に、KGLビルケナウに予定されていた収容規模は13万人から14万人へと縮小されたが、収容所拡張の理由そのものは変わらなかった。

9月15日、ベルリンで帝国軍需大臣アルベルト・シュペーアとSS-WVHA長官、SS上級集団指導者オスヴァルト・ポールとの会談が行われた。この会談には、SS-WVHAのC局長であるSS旅団長ハンス・カムラーを含む、さらに5人の高位国家官僚が参加した。その翌日、ポールはヒムラー宛てに詳細な報告書を作成した。そこで討議されたのは4項目であり、その第1項目は「東方への人口移動に伴うアウシュヴィッツのバラック収容所の拡張」であった。これについてポールは次のように記している。[7]

「帝国軍需大臣のシュペーア教授は、アウシュヴィッツのバラック収容所の拡張を全面的に承認し、さらにアウシュヴィッツのために1,370万ライヒスマルクの追加建設予算を確保した。

この建設予算には、必要な供給設備および付属設備を備えた約300棟のバラックの設置が含まれている。

必要な原材料は、1942年第4四半期ならびに1943年第1、第2、第3四半期に割り当てられる。

この追加建設計画が実施されれば、アウシュヴィッツには合計13万2,000人を収容できるようになる。」

ポールは次の点を強調した。

「関係者全員が、今や強制収容所に存在する労働力を、大規模な軍需生産のための業務に投入しなければならないという点で一致していた。」

ドイツ人および外国人の民間労働者をアウシュヴィッツの軍需施設から引き上げ、他の事業所における人員不足を補充させ、その代わりに強制収容所の囚人を配置する必要性を強調した後、ポールは続けて次のように述べた。

「帝国軍需大臣のシュペーア教授は、この方法によって、当面5万人の労働能力のあるユダヤ人を、既存の収容設備を備えた閉鎖された既存事業所に短期間のうちに投入することを保証したいと考えている。

この目的に必要な労働力は、第一にアウシュヴィッツにおいて、東方への移動によって到着する者の中から確保する。それによって、既存の事業所の設備が、労働力の恒常的な入れ替わりによって、その生産能力および構成を妨げられることがないようにする。

したがって、東方への移動に向けられた労働能力のあるユダヤ人は、その旅行を中断し、軍需関連の労働に従事しなければならない。」

「東方への移動」とは、ユダヤ人の東方への移送を意味していた。この最後の文は、文脈に照らして明らかなように、労働能力のないユダヤ人、および「東方への移動」の対象とされたユダヤ人は、その旅行を中断する――すなわち、アウシュヴィッツに留まる――のではなく、東方へ向けてさらに移動していったことを意味している。


翻訳者註:
この箇所の原文は当然ドイツ語ですが、次のように書かれています。(以下noteでは二重引用を示せないため、以下区切り線でマットーニョ論文であることを示しています。)


»Reichsminister Prof. Speer will auf diese Weise kurzfristig den Einsatz von zunächst 50.000 arbeitsfähigen Juden in geschlossenen vorhandenen Betrieben mit vorhandenen Unterbringungsmöglichkeiten gewährleisten.

Die für diesen Zweck notwendigen Arbeitskräfte werden wir in erster Linie in Auschwitz aus der Ostwanderung abschöpfen, damit unsere bestehenden betrieblichen Einrichtungen durch einen dauernden Wechsel der Arbeitskräfte in ihrer Leistung und ihrem Aufbau nicht gestört werden.

Die für die Ostwanderung bestimmten arbeitsfähigen Juden werden also ihre Reise unterbrechen und Rüstungsarbeiten leisten müssen.«

Unter der »Ostwanderung« verstand man die Deportation der Juden nach Osten. Der letzte Satz bedeutet, im Zusammenhang gesehen, ganz eindeutig, daß die arbeitsunfähigen und für die »Ostwanderung« vorgesehenen Juden ihre Reise nicht unterbrachen - also nicht in Auschwitz blieben -, sondern nach Osten weiterfuhren.

(強調部はいずれも私によるものです)


マットーニョの意図は明らかなのですが、「Ostwanderung」とはあくまでも字義通りの意味しか持たないことをここでわざわざ述べているだけなのです。というのは、いわゆる「正史」側では、この「Ostwanderung(東方への移動)」はユダヤ人絶滅を別の言葉で言い換えて言葉上で隠そうとしていた、と捉えているからです(隠語やコードワードなどと呼ばれる)。だからマットーニョは、一見トートロジー(同語反復)にしか見えない「「東方への移動」とは、ユダヤ人の東方への移送を意味していた」と、事情がわからない人にとっては「当たり前で無意味な文章」のように述べているのです。

しかし、アウシュヴィッツでは、「労働能力のないユダヤ人」が東方へ移送されていた証拠など何もありませんし、「「東方への人口移動」の対象とされたユダヤ人」がいたという証拠もありません。その証明もマットーニョら修正主義者は何もしていません。さらに、よく知られているように、親衛隊全国指導者のヒムラーは1943年10月4日、ポーランドのポズナン(ポーゼン)で、主に親衛隊の将校たちを前にした演説で、次のように述べています。

Ich meine die "Judenevakuierung": die Ausrottung des jüdischen Volkes.
私が言っているのは「ユダヤ人の強制移送」、つまりユダヤ民族の絶滅のことだ。

https://note.com/ms2400/n/nab96e71d65f1

だからこそ、このヒムラーの演説は修正主義者にとっては断じて否定されなければならないものなのです。


会談が行われた当日、すなわち1942年9月15日、カムラーは「K.L. Auschwitzのための特別建設業務」を件名とする書簡を建設経済規制全権委員に送り、アウシュヴィッツについて下された決定を彼に知らせた。[8]

RGVA, 502-1-83, S. 338

「帝国軍需大臣シュペーア教授とSS上級集団指導者兼武装親衛隊大将ポールとの協議を参照し、K.L.アウシュヴィッツの特別計画に関する追加建設量について、以下のとおり報告する。

1.必要とされる追加建築物およびそれに付随する建設量の一覧。
2.必要とされる建築資材およびバラックの一覧。

工事は基本的に収容者によって実施される。建設計画全体の工期として50労働週が見込まれている。収容者のほかに、平均して350人の熟練労働者および補助労働者を必要とする。これは105,000人日となる。」

1942年10月、「戦争捕虜収容所アウシュヴィッツ」という建設計画は、「特別処置(sonderbehandlung)の実施」という正式名称を与えられた。これは、収容所の新たな機能を公式に承認するものであった。その機能とは、広範な建設計画によって、強制収容所を、アウシュヴィッツおよびその周辺ですでに存在していた、あるいは建設中であった工業施設に供給する労働力の貯蔵庫へと変えることであった。

ヒムラーがアウシュヴィッツ訪問の際に決定したこの収容所の機能変更の意味については、1943年5月22日、カムラーおよびその他の幹部を前にした演説の中で、ルドルフ・ヘスが明確に強調している。この演説でヘスは、アウシュヴィッツの成立と任務の発展について概略を述べた。[9]

「ヴィスワ川とソワ川の合流地点の三角地帯に、1940年、7つのポーランド人村落を疎開させた後、砲兵兵舎の敷地を拡張し、大量の解体資材を利用しながら、多くの増築、改築、新築を行うことによって、アウシュヴィッツ収容所が成立した。当初は検疫収容所として予定されていたが、その後、帝国収容所となり、それによって新たな目的を与えられた。帝国と総督府との境界に位置することは、情勢がますます緊迫していったことから、とりわけ好都合であることが判明した。というのも、収容所を労働力で満たすことが保証されていたからである。これに加えて、最近ではユダヤ人問題の解決があり、そのためには、当初6万人の収容者を、短期間のうちに10万人へと増加させることのできる収容能力を整備しなければならなかった。[10] 収容所の収容者は、その大部分が近隣で発展しつつある大規模工業のために予定されている。収容所はその管轄区域内にさまざまな軍需工場を擁しており、そこに定期的に労働力を供給しなければならない。」

したがって、「アウシュヴィッツにおけるユダヤ人問題の解決」には、決して絶滅施設は必要とされておらず、10万人の収容者を収容するための建設措置が必要とされたのであり、そして収容所に絶滅機能があったという主張は、その主要な目的ではなかっただけでなく、そもそも存在しなかったのである。


翻訳者註:
ユダヤ人問題の解決のために、10万人の収容能力をアウシュヴィッツに持たせるというのは、意味不明と言って良いでしょう。なぜなら、修正主義者にとってのユダヤ人問題の解決とは、東方への移送だからです。なのにどうして、アウシュヴィッツをそのためのユダヤ人抑留施設にする必要があるのでしょうか? 

ここでも、ナチスドイツの方針として、ユダヤ人絶滅のことは明示的には一切語らない秘匿事項だとすれば、アウシュヴィッツでは到着時点で「選別」を行い、労働不適格なユダヤ人のおよそ75%を殺害、残りおよそ25%を労働適格者として囚人登録していたと考えれば、その登録囚人に対して収容能力を持たせる必要があったため「10万人の収容者を収容するための建設措置が必要とされた」と考えることができます。

従って、上記のヘスによる記述内容にある「ユダヤ人問題の解決」とはユダヤ人絶滅を前提としたものであった、と考えた方がより妥当でしょう。

アウシュヴィッツが「通過収容所」だったと主張しようとしても、それを明記した文書資料も証言もありません。極少数がアウシュヴィッツから他へ移送されているようではありますが、それは映画『シンドラーのリスト』で見られた程度の輸送人員レベルが多少あった程度のようで、フランチシェク・ピーパー博士によるアウシュヴィッツへの移送数である130万人、あるいはそのうち登録囚人数と判明しているおよそ40万人を除いた概ね90万人には遠く及びません(以下を参照のこと)。


1942年10月末、中央建設局は、シュペーアとポールが発した命令に沿って、KGLの拡張に関する総合計画を作成した。関連文書には次の名称が付されていた。[11]

「計画:戦争捕虜収容所アウシュヴィッツ(特別処置の実施)。施主:親衛隊全国指導者;SS経済管理本部C局グループ。ベルリン、リヒターフェルデ=ヴェスト。VIII Up a 2。」

この計画では、総額1,376万RMの支出が予定されており、その中には、とりわけ、14万人の収容者を収容できる規模に合わせたビルケナウの新たな配置図が含まれていた。[12]

しかし、1943年1月の時点で、アウシュヴィッツ=ビルケナウの収容者数は3万人未満であった。[13] これは基本的に、1942年後半の極めて高い死亡率の結果であった。この時期には、7月に発生した恐ろしい発疹チフスの流行が猛威を振るっており、さらにビルケナウ収容所の衛生状態も危機的であった。1943年4月末には、収容者数は5万3,000人を超えるまでに増加していたが、[14] それでもなお、目標とされた収容規模を大幅に下回っていた。

APMO, BW 30/34, S. 40

翻訳者註:
ソ連崩壊直前ごろにソ連の公文書館から発見されたアウシュヴィッツの登録囚人についての死亡記録簿(いわゆる「アウシュヴィッツ死の本」)では、欠落期間があるものの、判明している約69,000件の死亡記録のうちで、チフス死亡者数は約2,000件しか見つかっていないことが判明しています。

68,864人の死者のうち、チフスによるものはわずか2060人であったことが示されている。

https://note.com/ms2400/n/nf9c27b1a837a

1942年8月頃、アウシュヴィッツでは囚人の間にチフスが蔓延し、対策が迫られました。これに関し後述しますが、マットーニョは同時期の死亡者数の全てがチフスであるかのように述べます。しかし、囚人の死亡要因は基本的にはソ連から見つかった死亡記録簿を見ないとわかりません。この死亡記録簿からわかるのは、チフスが要因と記述されているのは前述の通り、判明している期間のみですが、およそ2,000件だけなのです。

以前に、アウシュヴィッツ博物館が公開している死亡記録データを使って作成した以下のグラフがあります。

これを見ると、同時期に最大でおよそ8000名の死亡者が発生しているのは事実のようです。チフス流行期とされる時期と一致しているのに、全期間で判明しているチフス死亡者はそれよりもはるかに低い約2000件であるのは非常に不可解です。これはおそらく、アウシュヴィッツでは死亡記録に記載する死亡原因を改竄していたからだというのがもっとも合理的な説明になります。つまり、チフスの流行があったのは事実だが、ほとんどのチフス患者はチフスを理由に死んだわけではないということです。では、どうして上記グラフのように実際の死亡者数がチフス流行時期に多くなっているのか?

これについてはその理由を記述しているであろう論文を見つけているので、以下引用します。

彼(註:エードゥアルト・ヴィルツ(Eduard Wirths))がこの巨大な収容所における医師のトップに任命された主たる理由は、発疹チフスなどの感染症を撲滅させることだった。伝染病は囚人のみならず民間人や兵士の命も奪ってしまうので、対策が急がれたのである。もちろんヴィルツの赴任前に、他の医師も感染を抑える手立てを取ってはいたが、対症療法で長期的な効果は見られなかった。その上それは、病原菌を媒介するシラミだけでなく、病人も一緒に殺してしまうという悪辣な方法だった。たとえば、命令以上の殺人を自発的にやってのけたフリードリヒ・エントレスは、 「発疹チフス患者と回復期にある人、さらには何人かの看護人まで死へと選別した5)。
メンゲレが企てたやり方も同様で、バラックを空にして消毒するため、まずそこにいた全患者1500人をガス室へ送るというものだった6)。そもそもエントレスは囚人病棟の患者を恣意的にフェノール注射で殺害させていたため、それを恐れた囚人は病気になっても病棟には赴かず、結果的に周囲に感染を広げ続けるという悪循環に陥っていた。ユダヤ人の虐殺に反対し、一般の犯罪も憎んでいたヴィルツは、ラングバインからこうした実情を知らされると、すぐに毒物注射を禁じた。そして新しいシラミ駆除法を導入するだけでなく、 患者の栄養補給に肉の缶詰を特別に与えたり衛生施設を改善したりするなど、根本的な対処法を実行した結果、チフスを撲滅したのである。ユダヤ人絶滅を推進しようとして彼と反目していた政治部長のマクシミーリアン・グラープナーでさえ、「ヴィルツは収容所から伝染病を一掃した唯一の医師と見なされており、一般に収容所最高の医師と考えられていた」と語っている7)。

柴嵜雅子、「アウシュヴィッツの医務長、 エードゥアルト・ヴィルツをめぐって」、国際研究論叢 20 (1) , 2006、大阪国際大学、pp.31~45

ここで柴嵜氏が参照しているのは、アウシュヴィッツの元囚人であったヘルマン・ラングバインの『People in Auschwitz』なのですが、INTERNET ARCHIVEで公開されているのも知っているのですけれど、この手の本の例に漏れず大著ですので未読です。しかし、もし本当の死亡原因が殺害によるものだったとするのであれば、辻褄は合います。ただし、柴嵜氏はその明確な時期については書いてはいませんが、メンゲレがアウシュヴィッツに赴任したのは1943年5月以降のことなので、上で書かれている「全患者1500人をガス室へ送る」が1942年8月前後の時期の話だとするのであれば、時期が合いません。エントレスの方は1941年12月11日から1943年10月頃までなので時期は合ってます。いずれラングバインの本も確認してみたいとは思っています。

ともあれ、ここではマットーニョは囚人の死亡要因がわかるわけがないのにそれをチフスであると断定的に語っているということを踏まえておけば良いでしょう。


2)ビルケナウの火葬設備の拡張

ビルケナウにおける殺人的な発疹チフスの流行と、それによって引き起こされた極端に高い死亡率を経験したことから、SS当局は、ビルケナウ収容所の拡張と並行して、同地の火葬設備についても相応の拡張を計画するようになった。周知のように、この収容所には当初、一つの火葬場(後の火葬場II)のみが予定されていた。[15]

すでに述べた1942年8月3日付の書簡で、ビショフは次のように報告している。[16]

「さらに、新しい火葬場の建設場所が、検疫収容所に隣接する場所に決定された。」

したがって、1942年8月3日の時点で、アウシュヴィッツ中央建設局長は、計画されている火葬場について一つしか知らなかったのである。

1942年8月21日にSS少尉エルトルが作成した覚書には、2日前にエアフルトの炉製造会社トプフ・ウント・ゼーネから派遣された技師クルト・プリューファーが訪問した件について、次のように記されている。[17]

「5基の三炉式炉を備え、給気および排気設備を有する第2火葬場の建設については、割当量の配分に関して国家保安本部との間ですでに進行中の交渉の結果を、まず待たなければならない。」

したがって、この時点では火葬場IIIの建設決定はまだ下されていなかった。

同じ文書からは、もともと白ロシアのモギリョフ向けに予定されていた8炉式炉2基をアウシュヴィッツへ移送するというプリューファーの提案が、8月19日に提示されていたことも読み取れる。手書きの欄外注記から分かるように、この提案は8月24日にWVHAによって承認された。これは、少なくともこの時点では、将来の火葬場IVおよびVに設置される炉の数がまだ確定していなかったことを意味する。

1942年8月、アウシュヴィッツ収容所の歴史上、月間死亡率が最高となった。この月には約8,600人の収容者が死亡し、[18] これは7月の死亡者数(約4,400人)のほぼ2倍であった。3つの追加火葬場を建設する決定についての最初の手掛かりは、8月14日にさかのぼる(この日に火葬場IV・Vの図面1678が作成された)。[19] その月の1日から13日までに2,500人の収容者が死亡しており、1日平均では190人を超える死亡者数であった。14日から19日まで(21日付覚書で言及されている協議が行われた日)には、さらに高い死亡率が記録された。約2,400人の収容者が死亡しており、1日平均では約400人であった。最も悲惨な日は8月19日で、この日には500人を超える収容者が死亡した。

8月1日、男性収容所には21,421人が収容されていた。19日までに4,113人の収容者が死亡し、1日平均では216人であった。そのうち1,675人が14日から19日までに死亡しており、1日平均では279人であった。1日から19日までの期間における収容者数の平均は、およそ22,900人であった。――もし20万人の収容者を抱える収容所で、これと同程度に破壊的な発疹チフスの流行が発生していたとしたら、その結果がどうなっていたか、想像してみるがよい!

したがって、3つの追加火葬場を建設する決定を促したきっかけは、ひとえに、容易に理解できる衛生・公衆衛生上の考慮であった。


翻訳者註:
ここで、マットーニョは「月には約8,600人の収容者が死亡し」などの死亡者数について、それらがチフスの死亡者数だとは一言も言っていないことに注意しましょう。マットーニョは明らかに死亡簿を用いた集計ではチフスを死亡要因とする死亡者数が極めて少ないことを知っているからであると考えられます。その上で上記のような記述を行い、その最後で「破壊的な発疹チフスの流行が発生していたとしたら、その結果がどうなっていたか、想像してみるがよい!」などと述べているのです。これを詐欺的記述というのは妥当でしょう。

さらに、感染症の蔓延を防ぐために親衛隊はアウシュヴィッツにヴィルツを送り込んで対策をしているのに、囚人の死亡者数が高い状態になると予想して三つの火葬場を追加建設するのは矛盾しています。ヴィルツの赴任を無視しても、もしマットーニョの主張通りなら、感染症の蔓延はチクロンBの毒ガスみたいなものであり、アウシュヴィッツが死の収容所であったと言っているのと変わらことになってしまいます。さらに、そのようにアウシュヴィッツが死亡率の高い強制収容所(ただし絶滅収容所の機能は除く)のままであることをナチスドイツは許容したでしょうか?マットーニョも前述したように、強制収容所の囚人労働力を強化しようとしているような状況で? 許容できないからこそヴィルツを送り込んで徹底的な感染症対策を実施したのです。

マットーニョの主張は無茶苦茶、控えめに言って強引と言って良いでしょう。いずれにしても、マットーニョが最も重視するであろう「当時の文書」には、火葬場の追加建設の理由は一切記されておらず、証言すらありません。あったら、マットーニョはそれを利用するに決まってますからね。


RGVA, 502-1-312, S. 8

3)ビルケナウ収容所における「衛生設備改善のための特別措置」

1943年5月初旬、ベルリンのSS-WVHAの責任者たち、およびアウシュヴィッツのSS管理部門は、1942年7月にヒムラーが決定した計画の実施を担っていたが、相互に密接に関連した二つの重大な問題に直面していた。すなわち、収容者の極めて高い死亡率によって生じた労働力不足と、伝染病を引き起こし、その結果としてこの高い死亡率をもたらしていた劣悪な衛生・公衆衛生状態である。このような状況のもとでは、何よりもまず、収容所の衛生設備を改善する必要があった。

1943年5月7日、SS少将カムラーは、SS-WVHAのC局(建設)局長として、アウシュヴィッツで収容所の高級幹部6名と会談した。その6名とは、収容所所長のSS中佐ヘス、SS駐屯地管理部長のSS中佐メッケル、中央建設局長のSS少佐ビショフ、農業事業部長のSS少佐ツェーザル、SS駐屯地医師のSS大尉ヴィルツ、そしてアウシュヴィッツ武装親衛隊・警察建設局の建設責任者で、アウシュヴィッツ本収容所を担当していたSS少尉キルシュネックである。その2日後、ビショフは会談で取り上げられた議題について覚書を作成し、その中で、駐屯地医師が衛生・公衆衛生設備について行った説明を次のように記録している。[20]

勤務地医による全般的な説明では、大規模な任務を遂行するために必要な収容者の健康維持が、劣悪な便所事情、不十分な下水道網、病棟兵舎および隔離された病人用便所の不足、ならびに洗濯・入浴・害虫駆除の設備の欠如によって、確保されていないように見えるとされた。

KGLの改善については、便所を、蓋を閉められるようにし、便座と蓋を備えたものへ改造することが提案された。また、頻繁に機能しなくなる下水設備については、多数の穴を並べて設置し、時々それを空にするとともに、農業利用のために糞便を運び出すことが提案された。これに対して中央建設局長は、管路網へ流れ込む手前に仕切り弁を設置し、水圧によって便所を洗い流すことを推奨した。

中央建設局長は、穴式の方式には反対の立場を示した。というのも、地下水位が高いため、地下水の汚染が予想されるからであり、必要となる浴槽による困難な隔離工事は、現時点では実施できないからである。また、概算した糞便量によれば、収容所の近辺にはそれらを収容することすらできない。主な困難を解消するには、排水全体を管路化し、さらに汲み上げポンプ場を設けることによってのみ可能であるが、そのために必要な割当量が不足している。

旅団長は、これらの問題が極めて緊急を要するものであることを認識し、可能な範囲のあらゆる手段を講じて改善措置を実現することを約束した。ただし彼は、一方では担当する医療側から、報告書の中で衛生および公衆衛生上の状況を良好なものとして説明され、他方ではその直後に正反対の報告書を提出されていることに驚きを示した。

中央建設局長は、1943年5月15日までに、現在の割当量の問題を度外視したうえで、これらの不備を改善するための可能な措置についての提案と、適正な排水設備の設計案を、C局長(Amtsgruppenchef C)に提出するよう指示された。後者の問題については、旅団長自身が処理することになった。

医師からは、馬小屋兵舎を病棟として使用することは不十分であると指摘され、また、スイス兵舎の建設区画に照明と水道がないことも問題視された。さらに、兵舎の数も不足しているため、この病棟区画にさらに兵舎を建設できるかどうかを検討する必要があるとされた。これらの不備は、詳しく検討すると、結局のところ、冒頭ですでに述べた諸困難が相互に作用した結果として繰り返し現れてくるものであり、建設関係のその他すべての問題から切り離して、特別な解決策を講じる必要性が明らかになった。

KGLにおけるシラミ駆除について最終的な解決策を講じるため、勤務地医からは、建設区画の各小区画について、それぞれ入浴設備を含む完全な害虫駆除設備を新たに設けること、すなわち10基の新しい完全な害虫駆除設備を設置することが提案された。これに対して中央建設局長は、KGLの大規模な害虫駆除施設が現在建設中であり、まずこれを完成させなければならないと指摘した。熟練労働者不足についてさらに問題が生じなければ、8月末までには完成する見込みである。SS少佐ビショフは、最終的な完成時期を確定することはできなかった。それまでの暫定措置として、旅団長は新しい短波式シラミ駆除車を貸与することにした。

1943年5月8日18時05分、グロース・ローゼン強制収容所から「アウシュヴィッツ強制収容所司令部」宛てに、次の内容の電報が届いた。

「SS少佐ビショフは、担当者とともに、1943年5月10日月曜日11時、すべての書類、図面、割当量に関する資料を持参し、20万人の捕虜収容所の給水および排水について、SS旅団長兼武装SS少将、工学博士カムラーのもとへ出頭せよ。」

この電報には、グロース・ローゼン強制収容所の第二代所長であるSS大尉ヴィルヘルム・ギデオンが署名していた。[21] カムラーはベルリンへ戻る途中、グロース・ローゼンを経由していた。そこで彼は、ビショフをベルリンに召喚することを決定し、ギデオンに対して、その旨をアウシュヴィッツへ電報で送るよう指示した。念のため、彼は同じ内容の電報をベルリンの自分の事務所にも送った。そのため、20時05分、SS-WVHAのC/I局の事務所に勤務していたSS上級小隊指導者シュールマンによって、ビショフ本人宛ての次の電報が電報業務部(Fernschreibe-Dienst)に届いた。[22]

「SS少将兼武装SS少将、工学博士カムラーは、あなたが1943年5月10日月曜日の朝、アウシュヴィッツ捕虜収容所の給水および排水に関するすべての図面および計算資料を携えてベルリンに出頭するよう命じた。」

こうして、戦争捕虜収容所(すなわちビルケナウ収容所)の衛生設備を改善するための大規模な計画が始まった。文書では、この計画は区別なく、「即時計画(Sofortprogramm)」、「特別措置(Sondermaßnahme)」、「特別計画(Sonderprogramm)」、「特別建設措置(Sonderbaumaßnahmen)」および「特別行動(Sonderaktion)」と呼ばれていた。[23] この件に関するカムラーの命令は、5月14日にアウシュヴィッツ所長へ届けられた。[24]

RGVA, 502-1-83, S. 311 (Bericht auf den nächsten Seiten)

4)「衛生設備改善のための特別措置」とビルケナウの火葬場

ビルケナウ収容所の衛生設備改善計画は、その着手当初から火葬場も対象としていた。1943年5月13日、ビショフは「アウシュヴィッツK.G.L.における即時計画の作業分担に関する報告書」を作成し、その中で中央建設局の各将校、下士官および民間職員に、この計画の枠内でそれぞれ具体的な任務を割り当てた。民間職員ルドルフ・イェーリングの任務については、報告書の第9項で次のように記されている。[25]

「民間職員イェーリングは、洗濯兵舎へのボイラーおよび給湯器の設置を実施するほか、火葬場IIIの脱衣室にシャワーを設置する。シャワーについては、SS少佐ビショフが収容所長SS上級大尉ヘスとさらに協議する。
害虫駆除炉については、SS-WVHAからさらにOT(トート機関)の図面が送付される予定である。」

その2日後の5月15日、ビショフはトプフ社に次の電報を送った。[26]

「緊急電報!
宛先:トプフ工場、エアフルト。

本文:月曜日に、約100基のシャワーへの給湯の概略計画を持参せよ。建設中のゴミ焼却炉、火葬場IIIまたはフックスに、排ガス温度が高いことを利用するため、加熱コイルまたはボイラーを組み込むこと。大型の予備タンクを収容するために炉を高く積み上げることも可能である。該当する図面を5月17日月曜日にプリューファー氏に持参されたい。」

5月16日、ビショフはカムラーに「SS少将兼武装SS少将、工学博士カムラーが命じたアウシュヴィッツKGLにおける特別計画の実施のために講じた措置に関する報告書」を送付した。その第6項には次のように記されていた。[27]

「6.害虫駆除設備。収容者の衣服の害虫駆除のため、BAIIの各個別収容区画にそれぞれOTの害虫駆除設備を設置することが予定されている。収容者の身体のシラミを適切に駆除できるようにするため、BAIに既設の2つの収容者用浴場に暖房用ボイラーおよび給湯器を設置し、既存のシャワー設備に温水を供給できるようにする。さらに、火葬場IIIでは、地下階に建設予定のシャワー設備のための水を得るため、ゴミ焼却炉に加熱コイルを組み込むことが計画されている。この設備の設計を実施することについては、エアフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社と交渉した。」

火葬場IIIの地下階におけるシャワー設備の計画は、ほどなくして火葬場IIにも拡張された。6月5日、トプフ社は「火葬場IIおよびIII。ゴミ焼却炉」という件名の次の書簡をトプフ社宛てに送った。[28]

「同封にて、ゴミ焼却炉への給湯器の組み込みに関する図面D 60446をお送りします。同じ図面を、当社の現場監督ヴィルヘルム・コッホにも送付しました。この図面に従って設備を施工することに同意される場合は、その旨をコッホ氏にお知らせくださいますようお願いいたします。

そのような連絡をいただきましたら、追加工事についての注文を確認できるよう、当社にもその旨をご連絡ください。」

火葬場IIおよびIIIの計画が拡張されたことは、ビショフが作成した、日付は記されていないものの1943年6月に作成されたものである火葬場拡張に関する質問票によって確認される。そこでは、中央建設局長が最初の4つの質問に回答しており、火葬場II~Vには18基の炉[29]、すなわち46基の炉室(Muffeln)があり、それらは1942年および1943年にトプフ社によって建造されたこと、コークスを燃料とし、すべて据置式で、全体で6本の高さ16メートルの煙突を備えていること、そしてそれらには吸引式通風装置(Saugzuganlagen)が装備されていないことが記されている。第五の質問「排ガスは利用されるか?」に対して、ビショフは「計画されたが、実施されていない」と回答し、続く質問「もしそうなら、何の目的で?」に対しては、「火葬場IIおよびIIIの浴場設備のため」と回答している。[30]

火葬場IIIに100基のシャワー(および火葬場IIにも別のシャワー設備)を設置する計画は、当時、収容所全体を対象とした害虫駆除・シラミ駆除設備である中央サウナについて、収容者用に予定されていたシャワーがわずか54基だったことからみて、火葬場を運営していた収容者のためのものではありえなかった。ビショフが1943年6月4日にSS-WVHAのC/I局長へ宛てた書簡には、次のように記されている。[31]

「収容者用シャワー設備には54基のシャワーがあり、それぞれ3,000リットルの容量を持つ2基のボイラーから給水される。この設備は連続運転を想定して設計されている。」

実際には、中央サウナのシャワー室には50基のシャワーしか設置されなかった。[32] したがって、「火葬場IIおよびIIIの浴場設備」が収容所全体の収容者を対象としていたことは明らかである。

1943年6月24日、火葬場IIIは中央建設局から司令部の宿営管理部門へ引き渡された。この引渡し手続きに添付された地下階の目録には、死体地下室1に関連して14基のシャワーが記載されており[33]、これらは明らかに、先に述べた計画と関係しているように見える。


翻訳者註:
この「14基のシャワーが記載されており[33]」の脚注番号で示されている内容は「RGVA, 502-2-54, Seite unleserlich.」となっていますが、マットーニョの論文にその資料画像はありません。RGVAという記号はロシアの軍事資料文書館のことですが、デジタル化資料はないようです。しかしこの文書(RGVA, 502-2-54)は、マットーニョの別の本(『An Auschwitz Doctor's Eyewitness Account』の195ページ目(本では194ページ))によると、

223 These dates are derived from the "hand-over negotiations" (Übergabeverhandlung) with which the Auschwitz Zentralbauleitung handed over control of the completed facilities to the camp Kommandantur. RGVA, 502-2-54, p. 25, 77, 84; APMO, BW 30/25, р. 14.

とあり、「APMO, BW 30/25, р. 14.」とはプレサック本のp.430で紹介されている以下の資料になります。

マットーニョは自分で長々と説明してきた衛生設備計画の一環でこの14個のシャワーが火葬場3に設置されていたかのように説明していますが、対応している設置箇所はマットーニョが書く通り死体地下室1であり、どうして死体地下室にシャワーが設置されていたのか?マットーニョは何の説明もしていません。しかも、死体地下室1は約500㎡の面積を持つ空間であり、たったの14個のシャワーでは概ね6m四方にシャワーが一基しかなかったことになります。しかし、アウシュヴィッツでのシャワーとは以下のようになっていたはずです。以下は、ビルケナウにあったセントラルサウナのシャワー室での様子を捉えた唯一のアウシュヴィッツでのシャワー利用風景の写真です。このシャワー室にはマットーニョが書く通り54基のシャワーヘッドがありました。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0080.shtml

さらに言えば、死体地下室1にシャワー用の水道配管があったという事実は一切確認されていません。

それに対し、プレサックの説明は明快で、これはダミーシャワーであると断言しています(p.429)。これについて、火葬場2の遺跡の現地調査を行ったマザールらの報告書では、ダミーのシャワーヘッドの取り付け箇所であると考えられる木片が天井の窪みに残っていたことや、ダミーシャワーヘッドの部品であると考えられる丸い金属片を発見しています。

https://note.com/ms2400/n/n9af8432f92ef
https://note.com/ms2400/n/n9af8432f92ef

同報告書では「穴の大きさはごくわずかで、板をまったく貫通していないものも多く、水が流れたとは考えにくい」と記述されています。

なお、マットーニョが述べている「100基のシャワー」は、マットーニョは曖昧にしていますが、実際には設置されませんでした。これはヘスの回想録にある「殲滅作戦終了後には、ガス室と脱衣場は、浴室に利用されることになっていたからである。」の話であると考えられます(これについては翻訳の後に説明してあります)。


シャワー計画が初めて立案されたのは1943年5月だったため、3月31日に引渡し手続きが行われた火葬場IIの地下階の目録には、シャワーは一基も記載されていない。[34] もちろん、14基のシャワーが火葬場の職員だけを対象としていた可能性もあり、それらはおそらく収容者の錠前工場によって設置されたものであろう。

当初の計画は、二つの理由から棚上げされた。まず、建設区画Iの二つの害虫駆除施設(建築物5aおよび5b)に、それぞれ50基のシャワーが設置された。[35] ビショフが1943年5月30日に作成した「KGLにおける特別措置に関する建設報告書」から分かるように、工事は5月末に始まった。[36]

「2棟のシラミ駆除兵舎(収容者用浴場)への温水供給設備の組み込みが開始された。」

7月13日には、両方の設備がすでに稼働していた。これは、ビショフが同日に作成した「KGLおよび本収容所における特別措置の工事進捗に関する報告書」から分かる。[37]

「建設区画Iの2棟のシラミ駆除兵舎(収容者用浴場)における温水供給設備が稼働を開始した。」

これと並行して、消毒・害虫駆除設備(すなわち中央サウナ)の建設も急速に進み、その完成は9月初旬に予定されていた。[38] もっとも、この設備が実際に稼働を開始したのは9月初旬になってからであり[39]、アウシュヴィッツ駐屯地管理部門への引渡しの1か月半前のことであった。[40] しかも、その運転は「昼間のみ、かつ数時間ずつ」に限られていた。

それでも、1944年3月25日、シャワー計画は再び掘り起こされた。当時、1943年10月1日にビショフの後任として中央建設局長となったSS上級大尉ヴェルナー・ヨータンは、トプフ社に「KGLアウシュヴィッツ、火葬場。排ガスの利用について」という件名の書簡を送り、次のように記した。[41]

「図解、計算および詳細な説明を添えた見積書を、できるだけ早急にこちらへ送付されたい。対象となるのは火葬場IIおよびIII、場合によってはIVおよびVも対象となる。」

1943年4月13日付のトプフ社の一覧表には、「24674/43/Ro-Pru/Pa」という番号で保管されている書簡に関連して、次のように記されている。[42]

「戦争捕虜収容所アウシュヴィッツの火葬場II用トプフ製害虫駆除炉2基。」

さらに、ヴェーダーク・シレジア事業所(Vedag Betriebe Schlesien)による1943年7月28日付の、「アウシュヴィッツ火葬場」という件名の請求書が存在する。そこでは「害虫駆除設備について実施された気密化工事」が扱われている。[43] (ただし、「トプフ製害虫駆除炉2基」が、1943年2月11日に中央建設局から建築物32、すなわち中央サウナ用としてトプフ社に発注されたものであることは分かっている〔発注148〕。[44])さらに、同じ日付で、上記の請求書と同じ文言を持つヴェーダーク社の「個別請求書」も存在し、そこでは明確に「BW 32―害虫駆除設備」と記されている。[45] これら2つの文書には誤った参照先が記載されているものの、それでも、この節で述べた火葬場の衛生目的での使用を裏付けている。

J.-C.プレサックは、次のように書いている。[46]

「KGLビルケナウが、健康管理と絶滅という相互に正反対の二つの機能を同時に有していたはずがないことは、明らかである。」

さて、ビルケナウの火葬場における衛生設備の計画が反証不可能な「文書上の証拠」に基づいている一方で、大量殺戮設備が設置されたとする主張は、プレサック自身の認めるところによれば「状況証拠」によって支えられているにすぎないのであるから、火葬場の実際の機能が何であったかは、まったく明白である。

▲翻訳終了▲

一応1回目はこれで翻訳終了ですが、ラストのプレサックの引用ですが、否定論者ってどうしてこれをやりたがるんでしょうね。プレサック本から当該部分を以下に翻訳引用します。図面がどうのと書いてありますが、文章だけで大体の意味は分かると思うので省略します。

写真20の図面(註:後述される図面2521のこと)は、修正主義者にとっては、まさに天の恵みであるビルケナウの第三建設段階の初期配置[KGL Bauabschnitt III]について、これは、検疫所と病院の混合収容所としてのみ機能することになっていたと正式に記載されている。公式の歴史によると、人々が大規模に絶滅された4つのクレマトリエンから数百ヤード離れたところに、健康収容所を作ることには不整合性がある。BA.IIIに計画された病気の囚人のためのバラックの図面2471[写真21]は、寝台の配置を詳細に示しており、この実証を支持している。この2つの図面は、建設管理部が4つの新しい火葬場の建設を完了していた1943年6月のものであり、強制収容所ビルケナウが、医療と絶滅という2つの相反する機能を同時に持つことができなかったことは明らかである。BA.IIIの非常に大きな病院セクションの建設計画は、SSが強制収容所の労働力を「維持」したかったために、火葬場が殺人的なガス処刑をせずに、純粋に焼却のために建設されたことを示している。

この議論は論理的であり、反論するのは容易ではない。図面は存在し、しかもベルリンのSS経済管理本部から送られてきたものであり、地元の人道的な取り組みではなかった。

しかし、ある発言、とりわけ別の建設管理部の図面[写真22]は、このもっともらしい、しかし理論的な推論に反するものである
。ビルケナウでは生と死が隣り合わせであり、唯一機能していた病院部門B.IIfは、火葬場IIIとIVのすぐ隣にあった。この死の劇場の最前列に置かれた病気の囚人たちは、選択があれば、あるいは死ねば、これらの建物で灰になることを知っていた

囚人たちが、自分たちの親族を殺戮し、今にも同じ目に遭いそうな火葬場の外で、わずかでも医療を受けるべきだったというのは逆説的に見えるかもしれないが、それは、命令がまったく矛盾していても盲目的に実行したSS階層の「二重思考」(ジョージ・オーウェルが『1984年』の中で使った言葉)の能力を無視したことになる。

図面2521が単なるプロジェクトであったことを証明する決定的な論拠は、ビルケナウの全体計画である44年3月23日の図面3764[写真22]と比較することである。ここでは、BA.IIIの収容人数は、計画通りの16,600人ではなく、60,000人となっている。このような状況では、「ホスピタル・バラックス」を語ることはナンセンスである。

そもそもここで語られているのは収容所内のバラック(セクション)配置の話であって、マットーニョの衛生面の話とはまた違うのです。否定派は相当プレサックに恨みがあるようですね。さて、それはいいとして、マットーニョが4)の項目で何が言いたいかわかったでしょうか? 実は、マットーニョのしている話と辻褄の合う話が、ルドルフ・ヘスの回想録に書いてあるのです。

火葬場は、ビルケナウの基幹になる二つの大きな建物のはずれのところに建てられた。第一には、収容所の規模と、それにともなう保安関係をこれ以上大きくしないためであり、第二には、収容所からあまりはなれないようにするためだった。というのは、殲滅作戦終了後には、ガス室と脱衣場は、浴室に利用されることになっていたからである。
(ルドルフ・ヘス著、片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、2019、p.397:強調は私)


追記(2026.9.20)
上記ヘスの自伝からの引用をドイツ語版から以下に引用・翻訳します。

Die Krematorien waren am Ende der beiden großen Achsen des Lagers Birkenau errichtet worden, um erstens die Ausweitung des Lagers nicht noch mehr zu vergrößern und dadurch auch noch die Sicherung; und zweitens [sollten sie] nicht zu weit vom Lager ent-fernt sein, da nach Einstellung der Vernichtungsaktionen die Gas-und Auskleideräume als Badeanlagen benutzt werden sollten.

火葬場は、ビルケナウ収容所の二本の大きな軸線の端に建設されていた。第一に、収容所の拡張範囲をさらに大きくすることを避け、それによって警備範囲もさらに広げないためであり、第二に、収容所からあまり遠く離れた場所にしないためであった。というのも、絶滅作戦が中止された後には、ガス室と脱衣室を浴場施設として使用することになっていたからである。

https://archive.org/details/kommandantinausc0000vari/page/164/mode/2up

ふと、日本語版の「火葬場は、ビルケナウの基幹になる二つの大きな建物のはずれのところに建てられた。」がよく読めば理解困難だと気づいたので、ドイツ語版を確かめたら案の定…でしたね。「二本の大きな軸線」はビルケナウの地図、あるいは航空写真を見ればわかります。

赤線で示した軸線は、ビルケナウの区画をBI、BII、BIII区画に区分する線になっているのです。引用のここでの利用目的とは無関係なので大した影響はない誤訳ということになりますが、やはり翻訳版はドイツ語版を一旦確認しないと怖くて使いにくいですね。


マットーニョは、偽シャワーの話と、殲滅作戦終了後の話をわざと混ぜているのです。プレサック本を知っているし、ガス室の偽装シャワーの話だってマットーニョなら知っている筈で、当然ヘスの自伝だって知ってる筈です。なのに何故、マットーニョはそんな書き方をするのでしょうか? というわけで、以下の文章はどう読めばいいのか考えてみて下さい。

1943年6月24日、クレマトリウムIIIは、宿舎管理局の中央建設管理によって司令官室に引き渡された。関連する引き渡し交渉に添付された地下室の目録では、Leichenkeller 1に関連して14台のシャワーが言及されており[33]、これらは明らかに先ほどのプロジェクトに関連している。シャワー計画は1943年5月に起草されたばかりだったので、1943年3月31日に行われた引き渡し公聴会での第二火葬場の地下室の目録には、シャワーは登場していない[34]。 もちろん、14個のシャワーは火葬場のスタッフのためのものでしかない。おそらく収容者の鍵屋(註:鍵屋とは収容所内の製作工場のことを意味する)が設置したものであろう。



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