ホロコーストの600万人の犠牲者数についての文献紹介(8):ノルウェー
前回:
ノルウェーのホロコーストについては、近年、以下の映画が公開されています。
この映画はノルウェー本国でも大ヒットしたそうですが、実はノルウェーでは戦後長らく、ユダヤ人のホロコーストは、ドイツに占領されて自由を束縛されてきた非ユダヤ系であるノルウェーの一般国民と同等に語られてきて、ノルウェー警察等のノルウェー人がドイツによるユダヤ人へのホロコーストに加担してきたことについては、ほとんど語られてこなかったそうです。したがってこの映画も、ノルウェーでは賛否両論があったようです。
ホロコーストについて色々調べていると、どの国でも自国がドイツが行ったホロコーストに加担してもいたという事実をあまり認めたがらない実態が少しずつ見えてきます。ですから最近は、歴史修正主義というものが単なるデマにはとどまらず、「国民感情」のようなところに密接に結びついた問題であり、なかなか難しい問題であるとも思うようになってきました。
しかし。
我が国であるこの日本で、どうしてホロコースト否定に傾倒する人たちが結構たくさんいるのか? あるいはまた『ナチスは「良いこと」もしたのか?』に反感を持つような人がいるのか? 今の所はまだまだ謎でございます。
▼翻訳開始▼
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オスカー・メンデルゾーン
ノルウェー
ノルウェーで戦前に行われた最後の公式国勢調査は1930年で、その結果、ユダヤ教徒は1359人だった。ユダヤ人の大半はオスロとトロンハイムのコミュニティに属しており、後者は世界最北のユダヤ人コミュニティだった。1933年から1940年の間に、600人弱のユダヤ人難民がこの国に来たが、多くは一時的な滞在にすぎず、全員が同時にノルウェーにいたわけではない。1940年4月9日の時点でのユダヤ人人口総数は1800人以上だった[1]。親ナチス派のプロパガンダでは、その数は少なくとも5000人、ひどい場合は1万人とさえ言われていた。
1940年4月9日、オスロとトロンハイムはドイツ軍に占領された。その数日後、数週間後には多くのユダヤ人がスウェーデンに逃れた。その中には、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキアからの移民も含まれていた。夏になると、スウェーデンに逃れていた多くのノルウェー系ユダヤ人が、非ユダヤ人のノルウェー人とともに帰国した。すでに4月には、ユダヤ人も小規模な部隊に加わっていた。ノルウェー軍が降伏した際(1940年6月10日)、ユダヤ人捕虜は他のノルウェー人捕虜と同様に扱われ、解放された。
ドイツ占領の最初の1ヶ月間、ユダヤ人に対する一般的な命令は出されなかった。いくつかの小さな町では「ユダヤ人の店」という貼り紙がウィンドウに貼られたが、地元住民の抗議を受けてかなり早く撤去された。5月中旬、ノルウェー警察はドイツの命令により、ユダヤ人のラジオを没収しなければならなくなった。この件がノルウェー行政評議会(最高裁判所によって任命された行政機関で、1940年4月15日から9月25日まで活動し、そのメンバーはノルウェー憲法に忠実だった)に報告されると、評議会はオスロのドイツ帝国全権委員部に対し問い合わせを行った。これに対し、政府長官ハンス・デルブリュッゲは、この没収は総統の命令に基づいていると答えた[2]。翌年の夏、この措置はドイツの命令により繰り返された。1941年7月、親衛隊少尉エルハルト・ベームを通じて、ゲシュタポからオスロのユダヤ人コミュニティに対し、
1 . Die Zahl 1800 wurde berechnet aufgrund verschiedener Listen über Personen mit / im Ausweis, erfaßte Ju-den ohne Jim Ausweis und Juden, die vor dem 1. März nach Schweden flohen.
2 . „Protokoll for møter i Administrasjonsrådet" (für Sitzungen des norwegischen Administrationsrates 1940), S. 108 und 115 f.
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すべてのユダヤ人は3日以内にラジオを引き渡すよう命令が下された。
1940年春、ドイツ警察はドイツとチェコスロバキア出身のユダヤ人に関する調査を行った [3]。5月、ノルウェー警察はドイツ警察当局の命令により、ユダヤ人コミュニティに対し、そのメンバーのリストを要求した(オスロでは、いくつかの他のユダヤ人組織に対しても同様だった)。次に、ドイツ当局は、ユダヤ教徒のコミュニティのメンバーではないユダヤ人の数に関する概要をコミュニティに要求した。ベルリンの外務省は、ドイツ帝国全権委員部に対し、ユダヤ人の総数と、産業および商業における彼らの財産や所有物の内訳に関する完全な一覧を求めた [4]。この一覧は1941年夏になってようやく完成し、ユダヤ人の数は1106人と記されていた。1941年3月24日、ドイツのユダヤ人帝国連合はオスロのユダヤ人コミュニティに質問票付きの手紙を送った。彼らは、「ユダヤ教徒および人種的ユダヤ人」の数について、4つの年齢層に分け、職業を明記した上で情報提供を求めた。1942年1月のヴァンゼー会議に提出された、ドイツ占領下のヨーロッパ諸国における全ユダヤ人人口の概要には、ノルウェーのユダヤ人人口は1300人と記載されている [5]。
1940年9月25日、ノルウェー行政評議会は、ドイツ帝国全権委員ヨーゼフ・テルボーフェンの主権下にある、ノルウェー人の臨時大臣で構成された協力者政府に取って代わられた[6]。これ以降、ノルウェーにおけるユダヤ人迫害は、ドイツ占領軍のみならず、その政府によっても行われることになった。だが、当初、そのための正式な布告はなかった。戦前に難民としてノルウェーに来た少数のユダヤ人医師は、職業を続ける権利を失った。1941年秋には、一部の弁護士が免許を取り消され、臨時の法務大臣は、ユダヤ人所有の土地を一覧にまとめるよう地方長官に密かに命じた。彼はまた、農業大臣に対し、ユダヤ人への土地売却をすべて禁止するよう提案した。内務大臣は、公務員の人種的出自に関する調査を命じた[7]。
また、ノルウェーの報道機関やラジオにおける反ユダヤ主義プロパガンダはますます激化した。ユダヤ人は戦争の責任を負わされた。「ユダヤ的」という形容詞は、ナチスの支配下にある全領域と同様に、「金権的」「資本主義的」「共産主義的」「マルクス主義的」といった言葉と同義になった。反共産主義の展覧会「ソビエト・パラダイス」にはユダヤ人に関するセクションがあり、そこでフリーメーソン運動が1万人のノルウェー人を「人工的な」ユダヤ人にしたと主張し、「人種混合」を禁止すべきだと要求された。ドイツ占領軍は、ナチス系の報道機関の力を借りて、ユダヤ人問題がノルウェーの問題でもあることをノルウェー国民に意識させようと試みた。ノルウェーのナチス運動「ナショナール・サムリング」の指導者で、
3 . RA, Stapo, Jødeaksjoner, Mappe 25, Sachachten C II B2 (9: Auswärtige Juden und 8: 468/40).
4 . Yad Vashem, JM 2261.
5 . Towiah Friedmann, Dokumentensammlung über „Die Deportierung der Juden aus Norwegen nach Ausch-witz", Ramat Gan 1963, S. 61.
6 . Vgl. Hans-Dietrich Loock, Quisling, Rosenberg und Terboven. Zur Vorgeschichte und Geschichte der natio-nalsozialistischen Revolution in Norwegen, Stuttgart 1970, S. 331 f.
7 . RA, Straffesak Riisnas, Dok. 6. Grundbesitze 2. Oktober 1941, Nr. 794/41; Dok. 4 Schreiben an den Mini-ster für Landwirtschaft; Norsk Tidend, Nr. 74, London 1942. Untersuchungen über Rassenangehörigkeit der Angestellten in der öffentlichen Verwaltung.
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1942年から1945年までテルボーフェン政権下で首相を務めたクヴィスリング自身もこれに貢献した。とりわけ、1941年3月28日にフランクフルト・アム・マインの「ユダヤ人問題研究所」で行った演説や、ノルウェーで行った様々な演説を通じて行った。1942年秋の移送の後、彼は、ユダヤ人はノルウェーから、そしてヨーロッパ全体から姿を消さなければならないと述べた[8]。宗教的な発言さえも、反ユダヤ主義のプロパガンダに利用された。1942年11月26日の移送の数日前、複数の新聞が、マルティン・ルターの著作『ユダヤ人と彼らの嘘について』からの反ユダヤ主義的な発言を、同じ見出し「ユダヤ人を追い出せ」と、以下のような文言で掲載した。「ユダヤ人が私たちの道を使うことを禁じろ!彼らの金と財産をすべて奪え!彼らの家を破壊しろ!ユダヤ人を永久に、永遠に追い出せ!」
個々のユダヤ人の逮捕は、1940年にもすでに起こっていた。最初の拘束は主に外国人ユダヤ人を対象としていたが、そのほとんどは再び解放された。1941年6月までは、ユダヤ人という集団に対する物理的な暴力行為はなかった。これは、ドイツがソビエト連邦に侵攻する直前の数日間で変わった。北ノルウェー(ハルスタ、ナルヴィク、トロムソなど)では、ほぼすべてのユダヤ人男性が逮捕された。彼らはトロムソ近郊の収容所(「シッドスピッセン」)で9ヶ月以上を過ごし、そこで恐怖にさらされた。合計12人が1942年3月末にオスロ近郊のグリーニ収容所に移送され、その後8月から3ヶ月間、他のユダヤ人や非ユダヤ人の囚人とともに北ノルウェーで強制労働に従事し、11月に再びグリーニに移送され、その後強制移送された。1941年6月以降のソビエト連邦との戦争に関連して、南ノルウェーでは無国籍のユダヤ人男性が収容された。オスロ地域から60人以上のユダヤ人がグリーニ収容所に送られ、そこでひどい扱いを受けることになった。これはノルウェーの戦時文学で描写されている [10]。数週間後、彼らは再び解放された(7月3日、5日、14日)。トロンハイムの無国籍ユダヤ人12人も、1941年7月に刑務所から釈放された [11]。
その年の秋から冬にかけて、トロンハイムのユダヤ人に対する措置が実施された。すでに1941年4月21日には、シナゴーグがドイツ軍の通過宿舎として徴用されていた。鉛枠にはめられた窓のダビデの星は取り外され、その代わりにハーケンクロイツが取り付けられた。ほぼ1年間、礼拝はシナゴーグの幹事長の自宅で行われたが、1942年5月にはこの家も没収された。その後、トロンハイムのメソジスト教徒コミュニティが、集会所の屋根裏部屋にある小さな部屋を提供し、そこでユダヤ教の礼拝が1942年10月上旬まで行われた。礼拝用具は、終戦までそこに隠されていた。
1941年秋、トロンハイムに保安警察の新たな司令官として、親衛隊少佐で上級参事官のゲルハルト・フリードリヒ・エルンスト・フレッシュが任命された。彼はこの街に到着して間もなく、ユダヤ人に対する過激な政策を追求した。何人かのノルウェー人ナチスの協力を得て、ユダヤ人の会社が次々と没収された。複数のケースで、所有者たちは同時に逮捕され、市内の刑務所に連行された後、
8 . Quislings Rede in Drontheim am 6. Dezember 1942 (in verschiedenen Zeitungen referiert und kommen-tiert).
9 . Norsk Fangeleksikon-Grinifangene, redigiert von Børre R. Giertsen, Oslo 1946, Häftlinge Nr. 2399-2410.
10 . Norges krig 1940-45, Hauptredakteur Sverre Steen, Oslo 1947-50, Bd. 3, S. 50; Griniboken, Hauptredak-teure August Lange und Johan Schreiner, Oslo 1946-47, Bd. 1, S. 331; Grinifangene Nr. 206-266. Übergriffe gegen Juden im Grini Lager 1942-43 Odd Nansen Fradag tildag, B. 1-2, 1947-48.
11 . RA, RK, Polizei Haftbuch, Kommando der Sicherheitspolizei und des SD Drontheim.
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1941年12月にトロンハイムの80キロ北に新設されたファルスタッド収容所へ移送された。1942年1月8日には、BBCのノルウェー向けニュースを聞いて広めたという容疑で、ユダヤ人5人と数人の他の人々が逮捕された。ユダヤ人5人を含む6人は、2月28日にドイツの警察裁判所によって死刑を宣告された。スウェーデン国籍を持つ一人のユダヤ人を除いて、彼らは1942年3月7日に銃殺された。
1942年夏までには、ほとんどのユダヤ人経営の事業所が没収されていた。ファルスタッド収容所のユダヤ人たちは、8月から11月まで、グリーニから移送されてきたユダヤ人囚人たちと同じ、北ノルウェーの収容所で過ごした。そして、1942年10月6日にトロンハイムとその周辺地域で戒厳令が発令されると、ユダヤ人の女性と子供たちは家から追い出され、いくつかの「ユダヤ人の家」に集められた。14歳から15歳以上の男性全員(合計約30人)が逮捕され、ファルスタッド収容所に連行された。そこで彼らは非人道的な扱いを受けながら石切り場で働かされた。戒厳令が敷かれた初日に、サボタージュ行為の「償いの犠牲者」として処刑された10人の中には、ユダヤ人が1人含まれていた。1942年11月には、3人の高齢で病気のユダヤ人が、病院に連れて行かれると言われて森に追いやられ、そこで銃殺された。11月25日には、ファルスタッド収容所のすべてのユダヤ人とその家族が、強制移送されるためにオスロに連れて行かれた。春から夏にかけて、トロンハイム南の沿岸部の町からユダヤ人の囚人がファルスタッドに到着していた。オスロとその南東部の地区のユダヤ人たちは、オスロのラビや他の10人のユダヤ人を含むが、グリーニ収容所に送られた [12]。
ノルウェーに残っていたユダヤ人の逮捕の直接的なきっかけとなったのは、1942年10月22日に、オスロとスウェーデン国境の手前の町ハルデンを結ぶ列車内で起きた事件だった。乗客の中には、スウェーデンへ逃亡しようとする10人(うち9人がユダヤ人)がいた。乗客の身分証明書を調べていた国境警察官が、逃亡グループのリーダーに射殺されたのだ。グループのメンバーは全員逮捕された。この事件は、数日後にユダヤ人に対する法律や命令の発令、そして故郷から間に合って逃げられなかったノルウェー全国のユダヤ人男性全員の逮捕へとつながった。国家警察長官による、翌朝6時から15歳以上のユダヤ人男性全員を逮捕せよという命令は、10月25日日曜日の午前10時30分に電報で全国の警察署に送られた。女性には毎日の出頭義務が課せられた [13]。翌月には強制移送が始まった。
逮捕と強制移送の根拠となったのは、ユダヤ人の身分証明書に「J」のスタンプを押すという1941年末の警察省の命令に基づいて、ノルウェー警察が1942年春に作成したユダヤ人のリストだった。そのため、ユダヤ人は1942年3月1日までに地元の警察に出頭しなければならなかった。ユダヤ人コミュニティのすべてのメンバー、
12 . Grinifangene Nr. 4399-4407, 4459-60.
13 . RA, Stapo, Jødeaksjoner, Mappe 26.
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そして少なくとも3人のユダヤ人の祖父母を持つすべての人物がユダヤ人と見なされた。この命令は新聞広告で周知された [14]。ユダヤ人には詳細な質問票が提出され、記入された用紙を通じて、当局は個々のユダヤ人、各警察管区におけるその人数、およびその他の重要な情報を把握した。その時点で暫定的な人数は約1400人だった。1942年10月から11月にかけての強制捜査の間に、多くの名前が追加された。身分証明書に「J」のスタンプを押して識別する措置は、ドイツの主導によるものだった [15]。
1942年3月12日の法律も同様だ。クヴィスリングは2月1日にテルボーフェン帝国全権委員によって首相に任命されていた。クヴィスリング政権は3月12日、1851年に廃止された、ユダヤ人のノルウェー入国を禁じる1814年のノルウェー憲法の規定を復活させることを決定した [16]。帝国全権委員部はこの禁止令の復活について自ら先陣を切ることはせず、その役割をクヴィスリング当局に任せた。1月9日の帝国全権委員部での会合で、部門長ロルフ・シーダーマイアーは「ユダヤ人問題の解決に向けて、帝国全権委員部は抜本的な措置を講じる意図はない。しかし、ユダヤ人が公務員を辞任するよう取り計らう」と述べていた [17]。クヴィスリング政権は、ユダヤ人迫害を大規模に行うための「法的」根拠を、ユダヤ人という言葉は含まれていないが、1942年10月24日の法律によって確保した。この法律は、1941年10月6日の命令に従い、帝国全権委員の命令に違反した、あるいは民族や国家に敵対的な企てを助長した、または助長していると疑われる人物に対して安全確保措置を講じる権利を拡大した。その2日後の10月26日には、首相クヴィスリング、内務大臣、法務大臣が署名した、ユダヤ人資産の没収に関する法律が続いた。この法律の実施規定は、11月20日に財務大臣によって発令された。ユダヤ人の資産は清算委員会に引き渡され、その後数ヶ月間にわたり、資産を没収された人々の長いリストが国営新聞に掲載された。これらのリストには合計で1500以上の名前が含まれていた。事業が継続されるべき場合、以前ユダヤ人が所有していた企業には「アーリア人」の経営者が据えられた。ユダヤ人の所有物を没収から免れるのを手伝った者は、最高6年の懲役刑に処せられる可能性があった。1942年11月17日には、ユダヤ人の登録義務に関する法律が発令された。この法律は、ドイツの例にならって、誰をユダヤ人(完全なユダヤ人、半ユダヤ人、または4分の1ユダヤ人)と見なすべきかを規定した。しかし、ドイツ人たちは、ノルウェーの規定が、混血者に関する点でドイツの規定ほど詳細ではないことを発見した。
14 . Kunngjøringer til politiet Nr. 2, 15. Januar 1942 (Rundbrief vom Leiter der norwegischen Sicherheits-polizei)
15 . RA, Politidepartementet, Lederen for Sipo. Der Bericht der Polizeimeister, Umschlag: Registrering av jøder 1941-43 und die Briefe vom Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD, Heinrich Fehlis, 10. Okt, 22. Nov., 15. Dez. 1941.
16 . Norsk Lovtidend, 2. avdeling (Norwegisches Gesetzblatt, 2. Abteilung) 1942, S. 136; Grunnlovsbestemmelse (Grundgesetz, Verfassungsbestimmungen), 12. Mars.
17 . RA, RK, HAVO Allgem. Abteilung (Zentralabteilung), Pakke 7. Vermerk über die Besprechung der Haupt-
abteilung Verwaltung, 9. Januar 1942.
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ノルウェーの規定では、混血者は例外なくユダヤ人と見なされた。これにより、より多くの人々が逮捕・強制移送の危険にさらされることになった。オスロの帝国全権委員部部門長シーダーマイアーが1943年3月16日にベルリンの外務省に宛てた手紙には、「この規定を可能な限り最大限に利用する予定である」と記されている [18]。
ノルウェー教会は、制度としてユダヤ人差別に対して明確な立場を取った。これは、11月10日付のクヴィスリングへの抗議書簡で表明された。すでにその前年から教会の姿勢を証明する声明は出ていたが、1942年11月の抗議ほど大きな注目を集めることはなかった。この抗議は多くの教会の説教壇から読み上げられ、広く知られることとなった。1941年春、トロンハイムでドイツ当局がユダヤ人の住居を没収する意図があることを知ると、当時の大聖堂主席司祭アルネ・フィエルブー(戦後は司教)が介入した。彼は、もしトロンハイムでユダヤ人迫害が開始された場合、国中の教会に警報を鳴らすと脅した [19]。その結果、没収された住居や家屋はごくわずかだった。同年夏、教会・教育大臣が「異人種間結婚」を禁止する婚姻法改正を提案すると、司教たちは反対した。それに対応する命令は、1942年12月になってようやく発令された [20]。1942年秋にクヴィスリング政権が反ユダヤ主義的な法律を制定し、ユダヤ人男性が逮捕されると、司教たち、いわゆる「教会戦線」の指導者たち、二つの神学部の教授たち、そして25の他のキリスト教団体が、クヴィスリング首相に厳しい抗議書簡を送付した。その中には、10月26日のユダヤ人に対する法律とユダヤ人男性の逮捕は、隣人愛の戒めと最も単純な法的原則の両方に反すると記されていた。すべての人間は原則として同じ人権を持っており、国家当局はこれを尊重する義務があるとされた。国家はキリスト教の信仰と教会の信仰告白に反する法律を制定することはできない。もしそうしたならば、国家の良心として、これに異議を唱えることは教会に神から与えられた義務である。「もし我々がこの合法化されたユダヤ人に対する不正義について沈黙するならば、我々はこの不正義の責任を負い、共犯者となるだろう」と書簡は結ばれている。教会は、ユダヤ人迫害を停止し、人種的憎悪と闘うよう求めた [21]。1942年11月の2つの日曜日には、ノルウェーのプロテスタント教会で、礼拝中にユダヤ人のために明確に祈りが捧げられた。
1941年4月から1942年5月までの間に、11人のユダヤ人が強制移送され、そのうち10人が命を落とした。最初の1人は4月27日にグロース・ローゼンに、2人目はザクセンハウゼンに送られた。さらに3人が1941年にオスロの刑務所からドイツへ送られ、そのうちの1人はハンブルクの刑務所に収容された後、アウシュヴィッツへ送られた。そして、1942年1月から5月にかけて、5人がグリーニ収容所から強制移送された。そのうちの1人は1942年1月7日にハンブルク=フュールスビュッテルに送られ、
18 . Yad Vashem JM 2217, K 212526.
19 . Arne Fjellbu, Minner fra krigsårene, Oslo 1945, S. 104-110.
20 . RA KUD (Kirche- und Unterrichtsministerium), Jnr. 2772 A und 4006/A 1941.
21 . Der Protestbrief wurde vervielfältigt und weit verbreitet, nach dem Kriege in Büchern wortwörtlich wieder-gegeben. Nur Kopien liegen im RA KUD (Feylings Archiv) vor.
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1年後にアウシュヴィッツに移送され、1945年3月27日に輸送中に射殺された。残りの4人は1942年5月21日にザクセンハウゼンに到着し、そのうちの1人は同年9月30日にそこで死亡し、残りの3人は10月24日にルブリンに移送された [22]。
1942年秋のユダヤ人迫害中、船「モンテ・ローザ」はグリーニからドイツへ2回の移送を行った。最初の移送は1942年11月19日で、21人のユダヤ人囚人(うち20人は収容所から)が乗船し、そのほとんどがオスロとノルウェー南部出身だった。この移送と、移送された人々のその後の運命については、記録がない。おそらく、彼らの大半はアウシュヴィッツ到着後まもなく死亡しただろう。彼らのうち1人だけが1945年春(ブーヘンヴァルト強制収容所)にまだ生きていたが、その後については何も知られていない。1942年11月26日、「モンテ・ローザ」はグリーニからの223人の囚人を乗せてオスロを出航した。船はデンマークのオーフスへ向かった。囚人の中には、北ノルウェー、トロンハイム、西海岸、そしてオスロ出身のユダヤ人26人が含まれていた。オーフスから、非ユダヤ人囚人はハンブルクへ運ばれ、ユダヤ人たちはベルリン経由でアウシュヴィッツへと送られ、12月11日に集団輸送で到着した。
1942年10月26日以降にオスロ地域で逮捕されたユダヤ人男性は、まずオスロ郊外のブレトヴェイト刑務所に連行され、その後オスロから南西に約100キロ離れたベルク収容所に送られた(261人)[23]。他のノルウェー各地から来たユダヤ人男性もそこに集められた。11月11日には、338人のユダヤ人が収容所にいた。この収容所とブレトヴェイト刑務所の責任者は、クヴィスリング当局とその樹立した国家警察だった。11月7日には、60歳以上の男性37人が解放された(ただし、11月25日と26日に再び逮捕されることになる)。この解放は、残された人々の間に慎重な楽観主義を呼び起こしたが、1942年11月25日の夜には完全に打ち砕かれた。午前4時に警報が鳴った。約300人のユダヤ人のうち、異人種間結婚をしている者だけがベルク収容所に残ることを許された。残りの227人は鉄道でオスロ港に運ばれた。港の岸壁と奴隷船「ドナウ」の船上には、ノルウェー警察に連行されてきた300人のユダヤ人の男性、女性、老人、子供たちが既にいた。この強制移送は、以前から準備されていたものだった。
ドナウ号による強制移送に関する文書が存在する[24]。1942年11月25日午前0時55分、ノルウェー駐在ゲシュタポ長官である親衛隊少佐ヘルムート・ラインハルトはシュテティーンの国家警察本部に次のように報告した。「特別な理由により、本日になってようやく、11月26日にオスロからシュテティーンへ、あらゆる年齢層のユダヤ人男性および女性約700〜900人を乗せた船が移送されることを報告できる。船旅にはおそらく約3日かかるだろう」。ユダヤ人たちは
22 . Grinifangene, Deportierte April-Mai 1941, Nr. 73 und 79, Januar 1942, Nr. 1015, Mai 1942, Nr. 1707-10. Oskar Mendelsohn, Jødenes historie i Norge gjennom 300 ar, Bd. 2, Oslo 19862, S. 62, die Namen der oben erwähnten und der vier anderen, die aus Gefängnissen in Oslo deportiert wurden, S. 152. Einzeldeportie-rungen 1943-44; D.A. Seip, Hjemme og i Fiendeland 1942-1945, S. 396 und 440 erwähnt die weitere Über-führung der drei Häftlinge von Sachsenhausen nach Lublin Oktober 1942.
23 . RA, Haftbücher für Bredtveit und Berg und auch verschiedene Listen über Häftlinge liegen vor, ua. Häft-linge, die am 26. Nov. deportiert wurden, und diejenigen, die in Berg zurückgehalten wurden. RA, Våre Falne, eskene (Kartons) 171-197.
24 . Yad Vashem, TR 3/1622; Friedmann, Dokumentensammlung, S. 1-46.
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アウシュヴィッツへ連れて行かれることになっていた[25]。前日の夜にはすでに、ゲシュタポの第IVB4b課(ユダヤ人問題)を率いる親衛隊大尉ヴィルヘルム・ヴァグナーが、ノルウェー国家警察長官マルティンセン将軍にユダヤ人に対する措置を伝えていた。マルティンセンは、さらに4人の上級警察官に指示を与えた。身分証明書に「J」のスタンプがある者は全員、英国または米国(中南米を含む)国籍を持つ者、あるいは中立国やドイツの同盟国の国民である者を除き、11月26日に逮捕され、午後3時に強制移送されることになった。逮捕された人々は、作業服と4日分の食料を持参するよう指示された。病院からは病人や老人が連行されることになっていた。強制捜査は午前5時に開始されることが決まった。警察の各部署とクヴィスリング親衛隊(「ヒルデン」)は警備員を提供する手はずとなっていた [26]。11月25日午後5時25分、帝国保安本部(親衛隊少佐ギュンター署名の電撃通報)は、異人種間結婚のユダヤ人とその家族は強制移送してはならないこと、またユダヤ人と見なされない混血者とその家族も同様であることを伝えた。「夫婦の離別、および14歳未満の子供の引き離しは避けること。さらに、移送されたユダヤ人がノルウェー領土を離れた後、ノルウェー国籍を失い、ノルウェー政府が個々のユダヤ人に関して一切の請求を行わないよう取り計らっていただきたい。移送されたユダヤ人がノルウェーに帰還することは、いかなる場合も問題外である」[27]。
ドイツの文書によると、532人が「ドナウ号」で強制移送された[28]。船内で最高齢は81歳、最年少の2人は1942年5月と7月生まれだった。嵐のため、シュテティーンへの航海は遅延した。船がシュテティーンに到着したのは11月30日午前11時10分で、その日の午後には列車がシュテティーン駅を出発した。凍えるほど寒い貨車には50人から60人が詰め込まれた。水も電気もなかった。ノルウェー当局は大量の食料を「ドナウ号」に運び込ませたにもかかわらず、5人でパンを1つ分け合わなければならなかった。翌日の午後9時、列車はアウシュヴィッツに到着した。輸送の責任者は、11月30日にシュテティーンで引き渡し書に受領者として署名した刑事書記官シャパルスだった。この引き渡し書によると、男性302人、女性と子供230人が引き渡された。アウシュヴィッツでの受領確認書も存在する(親衛隊上級曹長シュタルク署名)[29]。
25 . Friedmann, Dokumentensammlung, S. 1. Meldung von Oslo 25. Nov. 0055 an Stapoleitstelle Stettin vom BdS und SD Oslo, gezeichnet Reinhard; Yad Vashem TR 3/1622.
26 . Riksadvokatens Meddelelsesblad Nr. 36-1942 (Mitteilungsblatt des obersten Staatsanwaltes) bringt Marthin-sens Rapport über die Vorbereitung und Durchführung der Deportation am 26. November, S. 25 ff.
27 . Friedmann, Dokumentensammlung, S. 3f.; Yad Vashem, TR 3/1622. Blitz Fernschreiben an BdS Oslo (nachrichtlich an Stapoleitstelle Stettin) 25. Nov. vom RSHA 4B4, gezeichnet SS-Sturmbahnführer Günther. In diesem Fernschreiben werden auch die Länder erwähnt, deren Bürger nicht deportiert werden durften.
28 . Die Liste der auf der „Donau" Deportierten (Friedmann, Dokumentensammlung, S. 15-43) enthält nur 531 Namen, und zwei von diesen sind zweimal aufgeführt. Es kommt aber mindestens ein Name hinzu, den man auf einer anderen Liste findet, die 530 Namen enthält.
29 . Friedmann, Dokumentensammlung, Übergabeprotokoll Stettin, S. 11. Übernahmebestätigung Auschwitz, S. 13.
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『アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の出来事カレンダー』には、12月1日付けでこの移送に関する以下の情報が記載されている。「選別後、186人の男性が囚人として収容所に収容され、番号79064から79249を与えられた。残りはガス室で処刑された」[30]。即座のガス処刑を免れたのは、16歳から50歳くらいの男性だった。任務を終えたシャパルスはシュテティーンに戻った。彼の報告書には「輸送中に特別な困難は生じなかった。死者は出ていない」と記されている[31]。
もともと、オスロから遠く離れた地域、特にトロンハイムや西海岸のユダヤ人も「ドナウ号」に乗せる予定だった。しかし、72人のユダヤ人を乗せたトロンハイムからの列車は、船が出航してから約8時間後にオスロに到着した。ユダヤ人たちは、ブレトヴェイト刑務所に収容された。同日の午後やその後に、西海岸、北ノルウェー、オスロ近郊の町から到着した人々もそこに引き渡された。次の大規模な強制移送が行われる1943年2月25日までに、約196人のユダヤ人がブレトヴェイトに収容された [32]。囚人の中には子供も含まれていた。学齢期の子供たちのために、ユダヤ人学生が収容所で授業を組織した。ナンセン支援団体に深く関わっていたある女性は、衣類や医薬品を刑務所に持ち込むことに成功した [33]。
その間、スウェーデン政府は、まだ強制移送されていないユダヤ人に対し、スウェーデンへの自由な入国を公式に申し出ていた [34]。しかし、この申し出はドイツ側に拒否された。ブレトヴェイト、ベルク、グリーニに収容されていた約30人のユダヤ人(スウェーデン生まれ、または以前スウェーデン国籍を持っていた者)だけが、家族とともにスウェーデンへ渡航することが許された。異人種間結婚をしていた数人のユダヤ人女性は解放された。さらに、4人の男性囚人がブレトヴェイトから脱走し、スウェーデン国境を越えて身を守ることができた。
1943年2月24日、ブレトヴェイト刑務所に収容されていた133人のユダヤ人囚人が船「ゴーテンラント号」に乗せられ、さらにグリーニから25人が加わった。この移送は、主にオスロ地域に住んでいなかったユダヤ人、スウェーデンへ逃亡しようとして捕まった人々、そして11月にオスロで逮捕されていなかった病人の一部から構成されていた。158人のうち、71人が女性、62人が男性、そして25人が子供(1926年以降生まれ)だった。この移送に関する詳細は、生存者の証言、オスロのゲシュタポの親衛隊大尉ヴァグナー、帝国保安本部の親衛隊中佐アイヒマン、そして1943年2月27日に「ゴーテンラント号」が到着したシュテティーンの国家警察本部の文書から知られている。今回も引き渡し書が存在する[35]。同日の夜には、移送は主要貨物駅からさらにベルリンへと向かった。囚人たちはレーヴェツォー通りにあるシナゴーグに連れて行かれた。そこには、以前の強制捜査で集められた2000人近くのドイツ系ユダヤ人が収容されていた。ベルリンからの鉄道輸送は1700人以上を乗せていた。3月3日の深夜になってようやく、
30 . Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, 1960,
S. 104.
31 . Friedmann, Dokumentensammlung, S. 14.
32 . RA, Fangefortegnelse (Haftprotokoll) Bredtveit.
33 . Sigrid Helliesen Lund, Alltid underveis, 1981, S. 96-103.
34 . Yad Vashem, JM/2467; St, S. 740.
35 . Yad Vashem, TR 3/1621; Friedmann, Dokumentensammlung, S. 47-52.
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列車はアウシュヴィッツに到着した。労働収容所に送られた男性たち、その中には26人か28人のノルウェー人が含まれていたが、彼らは104890から105424の番号を与えられた[36]。残りはガス室で処刑された。
1943年と1944年には、さらに13人が強制移送された。そのうち11人は1930年代後半にノルウェーに移住してきた人々だった。彼らのうち10人はアウシュヴィッツに、1人はシュトゥットホーフに送られ、また1人のノルウェー人ユダヤ人女性は「夜と霧の収容所」で命を落とした。13人のうち7人は生き残った。1943年2月16日には、7人の英国籍者(女性5人、男性2人)がオスロからハンブルクへ移送され、女性たちはさらにフランスのヴィッテルへ送られた。その中で最年長の女性はそこで死亡したが、残りの6人は生き延びた。
ノルウェーから来た一部のユダヤ人は、アウシュヴィッツからポーランド各地の作業現場へ移送されたり、ドイツ国内の収容所へ送られたりした。2人はザクセンハウゼンに送られ、うち1人はステレオタイプ版製作の職人として偽札製造に従事した。もう1人は時計職人だった。ザクセンハウゼンの3人目のノルウェー人ユダヤ人は学生だった。彼はスウェーデンのヨーテボリから英国へ向かうノルウェー船に乗っていたが、船がドイツ海軍によって沈められたのだ。彼と他の2人の囚人は生き残った。2人の医師はアウシュヴィッツの病棟で看護師として働くことを許された。もう1人は収容所のオーケストラに受け入れられ、トランペットを吹いた。
ノルウェー人やドイツ人の戦争犯罪者およびナチス犯罪者に対する裁判における生存者の報告や証言、そして体験記(一部は書籍として出版されている [37])を通じて、私たちはアウシュヴィッツや他の収容所での出来事、そして1945年1月の西への避難に関する詳細を知っている。ノルウェー人のユダヤ人もメンゲレ博士の実験に利用された。生存者の報告によると、1943年3月には、「ドナウ号」の移送で生き残っていたのは30人未満だった。その3ヶ月後には、1942年11月19日から1943年2月25日の間に強制移送された約735人のうち、生存者は35人ほどしかいなかった。
合計で759人がノルウェーから強制移送された。そのうち生き残ったのは25人である。この生存者数には、収容されていた7人の英国籍者のうちの6人と、捕虜となった学生1人が加わる。強制移送中に命を落とした人々に加え、他の死亡例が23件あった(戦争行為、処刑、殺人、自殺によるもの21件)。ユダヤ人の犠牲者総数は少なくとも758人で、これはノルウェーのユダヤ人人口の40パーセント以上にあたる。犠牲者の約3分の2がノルウェー国籍者であり、22パーセントが無国籍のノルウェー系ユダヤ人、残りは中央ヨーロッパからの難民だった。
終戦までに、約100人のユダヤ人がノルウェーに残っていた。そのうち40人が病院、養護施設(ユダヤ人の施設を含む)、その他の施設に、残りは未収容者と「異人種間結婚」をしていた60人がベルクとグリーニの収容所にいた。1945年5月2日、
36 . Hefte von Auschwitz 4 (1943), S. 80.
37 . Moritz Nachtstern (und Ragnar Arntzen), Falskmynter i blokk 19; Herman Sachnowitz (und Arnold Ja-coby), Det angår ogsa deg; Professor der Psychiatrie, Leo Eitinger (Pfleger im Krankenbau in Auschwitz) hat in mehreren Abhandlungen und Büchern die psychiatrischen Aspekte und die Spätschäden bei den Überlebenden behandelt, u.a. in: Concentration Camp Survivors in Norway and Israel (1964, 1972).
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これらの収容者54人は収容所を出てスウェーデンへ出国することが許可された。この釈放は、1944年秋からドイツ側(帝国全権委員部)とオスロのスウェーデン総領事館との間で交渉が行われた結果だった。当初、ドイツ側は「安全保障と防諜警察上の理由」から交渉を拒否し、その後長引いたが、交渉自体は1944年秋に始まっていた [38]。
900人以上のユダヤ人が戦争中にスウェーデンへ逃れることに成功し、そのうち140人は1942年10月の迫害が始まる前にノルウェーを離れていた。ごく少数は北海を渡って命を救うこともできた。彼らの逃亡を助けた人々は皆、自らの命を危険に晒した。1942年秋には、自発的に結成された「輸出グループ」によって逃亡が組織された。彼らはまず、差し迫った新たな、そしてより大きな危険からユダヤ人たちを警告し、その後、避難場所、食料、輸送手段、そしてスウェーデン国境を越えさせる手助けをする案内人たちを手配しなければならなかった。冬がすでに始まっていたことも事態を困難にした。年老いた人や病気の人々は、いくつかのケースでは国境まで付き添いが必要で、一部は担架に乗せられて故郷を後にした。病院にいたユダヤ人たちも救出され、オスロのユダヤ人孤児院の子供たちも2つのグループに分かれて国境を越えた。こうした難民のうち、ドイツ軍の手に落ちたのはごくわずかだった。
ユダヤ人コミュニティの正式な解散は1943年5月21日に行われ、その財産はノルウェーの管理下に置かれた [39]。オスロにある2つのシナゴーグのうち、1つは印刷物の保管に使用された。儀式用の道具は元の場所に残された。もう1つのシナゴーグは損傷を受けたが、トロンハイムのシナゴーグほど荒らされてはいなかった。市営の墓地管理委員会は、ユダヤ人墓地の管理を継続した。葬儀もいくつか行われた。オスロとトロンハイムのコミュニティは、1945年夏に活動を再開した。1946年の国勢調査では、ユダヤ教徒コミュニティに属する人は559人だった。1947年以降、避難民(DP)収容所からの移民が始まり、1950年の人口調査では、ユダヤ人の数は再び836人に増加していた。
38 . Schnellbrief 2. Okt. 1944 an das Auswärtige Amt vom Chef der Sicherheitspolizei und des SD; Yad Vas-hem, TR 3/492, JM 2217 und K 212510-11; Friedmann, Dokumentensammlung, S. 84 f. (und 82 f.)
39 . Brief vom norwegischen Innenministerium (Innenriksdepartement), 21. Mai 1943 (Id. Jnr. 3557/43 J 1) an das Finanzministerium (FD Jnr. 1462-43 M).
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