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「ユダヤ人問題の最終解決(Endlösung der Judenfrage)」に関するナチス政策について(7)

前回:

トーマス・クエス(TK)という修正主義者は、否定論者たちがしがみついて決して離さない馬鹿げた「絶滅収容所じゃなく通過収容所だった!」説を最も詳細に論じた修正主義者だったそうです。しかしTKは2013年に「失踪」してしまったそうです。こちらによると、


トーマス・クエスはもはや活動的な修正主義者ではない

これはユルゲン・グラーフがここで述べていることだ。グラーフの主張の真偽を確かめる術はない。彼の陰謀論や願望的思考が介在しているからだ。単に情報を掲載し、他者が読んだりコメントしたりできるようにしているだけだ。クエスは「想像力豊かな」移住説や荒唐無稽な仮説で否定派シーンを盛り上げていたし、少なくともM/Gにソビボルに関する何か(いかに愚かであろうと)を発表させる動機を与えた。そういう意味で彼の不在は惜しまれる。否定派シーンは今後、アウシュヴィッツ以外の話題がほとんどなくなるだろうと予想されるからだ。


なのだそうです。ちなみに、グラーフがどう言っていたかというと、以下の通りです。


トーマス・クエスの行方不明

投稿者 ヴェルト » 2015年12月13日(日) 4:23 am
メールを数通やり取りし、細かい点を調整した後、グラーフは彼の言葉を公表する許可をくれた。

2014年10月、カルロ・マットーニョからこんな連絡があった:

トーマス・クエスについては、彼に何が起きたか知らない。だから彼が修正主義をやめたとは断言できない。

2015年12月、グラーフからこんな連絡があった:

トーマス・クエスは「姿を消した」。彼は生きていて健康だが、我々が彼に連絡することを禁じた。どうやら彼は死ぬほど怖がっているらしい。理由は知らない。だから彼を頼りにすることはもうできない。残念なことだ。だが彼の修正主義への貢献は計り知れない。

気をつけて。

ユルゲン

ユルゲンは本日、さらに詳細なメールを私に送ってきた。

以下の情報を広く拡散してほしい。私を著者として明記し、誤りを訂正すること。(英語は私の第三言語だ。)

トーマス・クエスは2013年7月に「姿を消した」。1年後、我々の友人の一人がトーマスの親族に連絡を取り、トーマスへの伝言を依頼したところ、トーマスはこの親族を通じて、自分が健在であり、あるヨーロッパの国にいると返答した。その国名を明かす権限は私にはない。彼は友人や他の修正主義者全員に対し、自分に連絡を取ろうとすることを禁じた。彼は自身の「臆病さ」を謝罪したが、修正主義的見解を撤回はしなかった。そのメッセージの口調からは、彼が恐怖に震えていることが伝わってきた。

現在の居場所や「失踪」の理由に関わらず、クエスは修正主義研究に極めて重要な貢献をした。彼の積極的かつ実り多い参加がなければ、マットーニョと私がソビボルについて執筆した書籍は、現在の水準には到底達しなかっただろう。実際、クエスはソビボルについて私やマットーニョさえも知らないことを多く知っていた。占領下の東部地域へ「ガス処刑された」ユダヤ人を移送した件に関する彼の記事(「不都合な歴史」誌掲載)も極めて重要だ。

トーマス・クエスの本名は知らない。彼について知っているのは、まだ若く、2013年7月までスカンジナビア諸国に住み、日本語からオランダ語まで11言語を流暢に読めるということだけだ。明らかに非常に聡明で、修正主義運動に全身全霊を捧げている。なぜ彼が「姿を消す」ことを選んだのか、また今後再び彼の消息を聞くことがあるのかは、私にはわからない。だが彼は最高の敬意に値する人物だ。

時々、荒らしに餌を与えないようにするのを忘れてしまう。https://www.rodoh.info/forum/viewtopic.php?f=8&t=1986 ; https://www.rodoh.info/forum/viewtopic.php?f=13&t=2142; https://www.rodoh.info/forum/viewtopic.php?f=8&t=2073; https://rodoh.info/forum/viewtopic.php?f=20&t=2037; https://www.rodoh.info/forum/viewtopic.php?f=13&t=2095


https://web.archive.org/web/20160331231311/https://rodoh.info/forum/viewtopic.php?f=8&t=2383

かつては、概ね2000年頃までだと思いますが、ホロコースト否定論者界隈も賑やかだったのですが、世界的に有名でもあった否定論者界隈のジャンヌ・ダルクたるウルスラ・ハーバーベックは2024年に亡くなられ、尊師であったロベール・フォーリソンは2018年に亡くなっており、その他多くの著名否定論者も同様に鬼籍。ゲルマー・ルドルフやカルロ・マットーニョ、ユルゲン・グラーフはまだご健在ですが、トーマス・クエスのように活動をやめてしまう否定論者も多く、歴史評論研究所(IHR)の所長であるマーク・ウェーバーが実質的なホロコースト否定辞めます宣言をしてから15年ほど経っており、もはやかつての勢いを取り戻すことはなさそうです。

つっても、アンネの日記贋作説がそうであるように、ホロコースト否定論が完全に消える日もなく、どんだけ否定されようとも繰り返し繰り返し同じネタを何度も何度も使い続けて生きながらえるのだと思われます。

もちろん、「絶滅収容所じゃなく通過収容所だった!」説が証明されることも永久にありません。今回は、ナチスドイツは実際のところ、何百万人ものユダヤ人を避難させるための場所すらなかったことに関する記事を紹介しています。


▼翻訳開始▼

「再定住」を裏づけるための資料の歪曲

いわゆる「肯定的修正主義」を確立しようとする試みの中で、カルロ・マットーニョ、ユルゲン・グラーフ、トーマス・クエス(以下MGKと略す)の三人は、世界的にガス殺されたと認識されているユダヤ人の「真の運命」を描こうと積極的に行動してきた。彼らの著作では細部はいまだ曖昧なままであるが、この三人は占領下ソ連領の特定地域への「再定住」という考えに依拠している。MGKがこの主張を支持するために用いる主要な資料の一つが『American Jewish Yearbook(アメリカ・ユダヤ年鑑)』であり、クエスはこれを「世界中のユダヤ人共同体に関する最も包括的な戦時資料の一つ」と評している。

しかし、MGKがこの資料を自らの目的に利用するためには、都合のよい箇所だけを切り取って引用し、多くの他の記述を無視せざるを得ない。さらに、彼らが選び出した引用部分でさえ、文意を歪める形で読まねばならない。

三人が最も頻繁に引用するのは『年鑑』の1943年版であり、これは主に1942年の出来事に焦点を当てている。『ソビボル』の中でグラーフはこの書を次のように引用している。

「当該年度[1942年]を通じて、前年と同様に、何万ものユダヤ人が都市や町の自宅から強制的に追放された。[…] これら人口移送のうち特に重要なものとしては、クラクフのユダヤ人のうち『経済的に有用』とされた一万一千人を残し、残りを追放したことが挙げられる。追放された五万人以上はワルシャワ、ルブリンおよび他の都市へ送られた。ルブリンへ送られた者の滞在は短く、その大部分はさらに東方へ送られ、残った者は市の郊外の一つのゲットーに押し込められた。さらに、帝国に併合された西ポーランド諸州にまだ残っていたユダヤ人の大多数も東方へ送られた。[…] また、ドイツ、チェコ、オランダ、フランスのユダヤ人も強制的にポーランドへ送られ、ゲットーまたは労働収容所に移された。」

Yearbookは、ルブリン以東に移送されたユダヤ人について、ポーランド国内で既に挙げられた都市以外の具体的な再定住先を何ら示しておらず、したがって、移送者たちの実際の運命や所在は不明なままであり、この報告が再定住の証拠として持つ価値を大きく損なっている。

実際、クエスとグラーフが共に引用している1944年版Yearbookの別の箇所には、次のように記されている。

「オランダやその他の西方諸国からのユダヤ人追放者が軍事労働のために占領下ソ連領へ送られたという報告があるが、その人数や運命はいまだ闇に包まれている。」

(MGK, Sobibor, 360)

ここでいう「占領下ソ連領」は極めて曖昧な表現であり、Yearbook自身が「人数や運命はいまだ闇に包まれている」と認めている点は、MGKの再定住説を支える証拠としての脆弱さを明確に示している。

この報告が再定住の証拠として弱いにもかかわらず、グラーフは「主流の歴史学」とYearbookを対立させ、「克服しがたい問題」を提示しようと試みる。これは、前者に対して後者の信頼性を強調するための入り組んだ試みのようである。グラーフは次のように述べている。

1)正統派の「ホロコースト」説によれば、アウシュヴィッツでのユダヤ人ガス殺は1942年2月に始まったとされている。だとすれば、なぜクラクフから追放されたユダヤ人は、車でわずか1時間の距離にあるこの収容所へ送られず、ワルシャワやルブリンへ移送されたのか。

グラーフは、この「正統派のホロコースト説」がアウシュヴィッツでのガス殺の開始を1942年2月とするという主張の典拠を一切示していない。実際のところ、当時のビルケナウにはガス室として転用できる地下室はまだ存在しておらず、同収容所での最初のガス殺はごく限定的なものであった。ダヌータ・チェヒの記録によれば、最初のガス殺が行われたのは1942年3月下旬の「ブンカーI」であり、一方でクラクフのユダヤ人の多くが送られたベウジェツ収容所はすでに完全に稼働しており、列車ごとにガス殺を行っていた。

グラーフの二つ目の(実質的に無意味な)指摘は、報告書がルブリンのユダヤ人が「さらに東方へ移送された」と述べている点にすぎない。だが実際には、ルブリンのユダヤ人は1942年にベウジェツおよびソビボルへ移送されており(同時期にスロバキアのユダヤ人がルブリン地区へ移送されている)、グラーフの言う「東方移送」は史実とは一致していない。

第三に、グラーフおよびクエスは、アメリカ・ユダヤ人年鑑の記述における「東へ送られた」という表現を、占領下ソ連領への移送を意味するものと解釈し、ヘウムノが通過収容所であったと読み込もうとする。グラーフは次のように書いている。

3)「帝国に併合された西ポーランド地域にまだ残っていたユダヤ人たち」――そのうちウッチ・ゲットーに割り当てられた者を除けば――は、今日の公式な歴史観によれば、ヘウムノでガス車によって殺害されたことになっている。しかしアメリカ・ユダヤ人年鑑はこの点について何も述べておらず、むしろこれらのユダヤ人の大部分が「東へ移送された」と記している。もし彼らがヘウムノに移送されたのちさらに移されたのだとすれば、ヘウムノは通過収容所であったに違いない――これは修正主義者たちが同意するところであろう。

しかしながら、このような解釈は文脈に即した正確な読解とは言い難い。年鑑における「東へ送られた」という表現は、占領下ソ連領を意味するのではなく、単に「より東の方向へ」という一般的な意味で用いられていると理解すべきである。実際、ヘウムノは併合地域の東側に位置しており(下図参照)、この「東へ送られた」という記述は、単に地理的方向を示したものにすぎない。したがって、MGKによる「通過収容所」とする読み込みは、望ましい結論を先に置いた恣意的な誤読といえる。

グラーフは、ポーランドにおけるヨーロッパ・ユダヤ人の送致先に関する記述をさらに誤読して、次のように結論づけている。

「ある数のドイツおよびチェコのユダヤ人がポーランドのゲットーに移送されたことは主流派歴史家によって認められているが、これはオランダおよびフランスのユダヤ人には当てはまらない。これらのユダヤ人はアウシュヴィッツおよびソビボル、さらには(より少ない数が)マイダネクに送られたとされているが、いかなるゲットーにも送られたとはされていない。」

しかし『アメリカユダヤ年鑑』の該当箇所は、先に挙げられたさまざまな国籍のユダヤ人が「強制的にポーランドに送られ、ゲットーまたは労働収容所に入れられた」と述べている。この文は、オランダやフランスのユダヤ人がゲットーのみに送られたことを意味していない。「または」という語によって、労働収容所も別の送致先として列挙されており、この「労働収容所」は当時オランダやフランスのユダヤ人が実際に送られていたアウシュヴィッツを指していると理解するのが自然である。

さらにグラーフとクエスの両者は、関係する『年鑑』の巻を都合よく切り取って引用する「引用のつまみ食い」にも手を染めている。自らの「移住」論を補強する部分だけを取り出し、ヨーロッパ・ユダヤ人の殺害と絶滅に関する無数の言及を意図的に無視しているのである。『年鑑』全体を見れば、彼らの恣意的操作は容易に明らかになる。以下に、1943年版からいくつかの例を挙げる。

p.236:
征服されたソ連地域に残ったユダヤ人は、ナチ侵略者の手で計り知れない苦難を味わった。ナチによるユダヤ人への暴虐、殺害、追放の報告がほとんど毎日のように外部世界に届いた。(…)信頼できる確認済みの情報によれば、オデッサだけでもルーマニアの兵士220名がソ連の時限爆弾で死亡した後、ナチの同盟者であるルーマニア人によって25,000人が処刑された。ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフの公式声明によれば、ナチはソ連占領地全域で恐るべき虐殺とポグロムを組織した。クラクフの親ナチ系ウクライナ紙『Krakiwski Wisti』は、ジトーミルではもとのユダヤ人人口5万人のうち6,000人しか残っていないと報じた。同紙はまた、ナチ占領前に15万人のユダヤ人がいたキエフにはもはや一人のユダヤ人もおらず、最後のユダヤ人は1941年9月29日に追放されたと記した。

(…)

p.242:
1942年5月から6月にかけてこの国に届いた最新の報告は、バルト諸国においてこれまでになく大規模な虐殺が行われたことを示している。ヴィリナや他のバルト諸都市から脱出に成功した目撃者たちは、ヒトラーが「戦争の結果がどうであれユダヤ人をヨーロッパから一掃する」と誓った言葉を実現するため、数万人のユダヤ人がゲシュタポによって殺害されたと報告している。

(…)

p.247:
1942年3月、ドイツ・ゲシュタポの長官ハインリヒ・ヒムラーがポーランドを訪れた。この訪問の後、同国全域でナチのテロが著しく激化した。数万人のポーランド人とユダヤ人が虐殺され、地域全体が壊滅した。亡命ポーランド政府の声明によれば(その後いくつかの信頼できる情報源により確認された)、ナチによるポーランド占領以降、20万人のユダヤ人が殺害され、その大多数は1942年3月以降に殺されたという。報告によれば、リヴォフで3万人、スタニスラヴォフで1万5千人、タルノポルで5千人、ルブリンで2千五百人が殺害された。また、地下情報源によって、数千人のユダヤ人がゲシュタポによってガス殺されていることも確認された。

そして1944年版からは次のように記されている。

p.232:
過去一年間の出来事は、ナチがあらゆる手段を用いて可能な限り短期間でヨーロッパのユダヤ人を絶滅させようとしているという確信を、改めて裏づけるものであった。

(…)

p.304:
ドイツによるポーランド占領の第四年目は、近代史上最も恐るべき大量絶滅の運動によって特徴づけられた。犠牲者と生存者の数はいまのところ確定できない。しかし、この絶滅運動が行われたという事実については、いかなる疑いも存在しない。ポーランドの何千ものユダヤ人が、銃殺隊の前で、あるいは過密な貨車やガス室の中で命を落とした。さらに何千人もの人々が、過酷な労働や飢餓、その他の直接的または間接的な殺害方法によって死んだ。

(…)

p.305:
初期の報告(『Polish Fortnightly Review』1942年7月1日号)によれば、ルブリン・ゲットーのユダヤ人の一部は貨車に押し込められ、町外れの側線に二週間放置され、その間に中の全員が餓死したという。ルブリンのユダヤ人の大多数は、ヴウォダヴァ近郊のソビボルの地に連行され、そこでガス、機関銃、銃剣によって殺害された。

1943年版および1944年版の多数の関連箇所から選ばれたこれらの引用は、『年鑑』がナチによる殺害作戦を把握していたことを示している。もちろん、戦時中の資料であり、正確な情報が限られていたため(『年鑑』自身もその点を認めている)、いくつかの点では誤りがあった。たとえば、キーウのユダヤ人が9月末までに追放されたとする報告は、これらのユダヤ人の運命について今日わかっている事実とは一致しない。この点については、セルゲイ・ロマノフが複数のブログ記事(here日本語訳)、herehere、およびhere)で論じている。

また、『年鑑』の文言は、クエスとグラーフが引用した表現と比較して、絶滅についてはるかに断定的であり、後者が示すような曖昧さや限定的表現(「いまだ闇に包まれている」など)は見られない。MGKはこの絶滅に関する記述も受け入れるべきだろうか。1944年版の最後の引用はまた、ルブリンのユダヤ人の運命に関するグラーフの「克服不可能な問題」という第二の主張をも反駁している。

MGKの「肯定主義的」議論は、このような引用の切り取りや歪曲に満ちており、彼らが再定住という自説を裏づける資料を得ようと必死であることを示している。

投稿者: ジェイソン・マイヤーズ 2011年6月2日(木曜日)

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トランジット・キャンプ説支持者への挑戦

(こちらの記事はすでに以下で翻訳紹介済みです)

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さらなる「通過収容所」――グラーフ氏が無視するもの

ロワイユ
ボルツァーノ(ボーゼン)
ヤヌフスカ[1]
ヤヌフスカ[2]

すでに言及したヒンツェルトゾルダウを加えると、
グラーフの称賛する人物たちは、ユダヤ人だけでなく、数多くの人々を殺害していたことになる。

投稿者:匿名 投稿日:2011年12月9日金曜日

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クエスによるトランスニストリア論の終焉

エリック・コンラッド・スタインハルトによる優れた論文は、ホフマイヤーが指揮し、地元の民族ドイツ人で構成されたゾンダーコマンドRが1942年にトランスニストリアで数万人のユダヤ人を殺害したことを詳述している。トランスニストリアには13万4,000人の民族ドイツ人が居住しており、オデッサから移送されたユダヤ人がこれら民族ドイツ人に対して発疹チフスの脅威になると考えられていた。スタインハルトが発見した文書の中には、ニコラエフのGkからエーリヒ・コッホ宛に、埋葬されていないユダヤ人の遺体が衛生上の危険をもたらしているとする苦情も含まれている。したがって、トランスニストリアがユダヤ人の再定住地になることはありえなかったという証拠がここにある。

投稿者:匿名 投稿日:2012年2月6日(月)

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マットーニョの不誠実さ:フェールの手紙

MGKの『Riposte』の546ページで、マットーニョは次のように書いている。

1942年6月21日、総督府人口・福祉局(Abteilung Bevölkerungswesen und Fürsorge des Generalgouvernements)の副局長ヴァルター・フェールが、以下の内容を含む手紙を書いた。

“Wir nehmen jeden Tag Züge mit je über 1000 Juden aus ganz Europa an und verarzten sie hier, bringen sie mehr oder weniger provisorisch unter und schieben sie meist weiter, hinein in die weißruthenischen Sümpfe Richtung Eismeer, wo sie alle – wenn sie es überleben (und das tun die Juden vom Kurfürstendamm oder aus Wien und Preßburg bestimmt nicht) – gegen Kriegsende versammelt sind, nicht ohne einige Autostraßen fertig gebaut zuhaben. (Aber man soll darüber nicht sprechen).”

「我々は毎日、ヨーロッパ全土から1,000人以上のユダヤ人を乗せた列車を受け入れている。彼らに医療検査を行い、ある程度の仮宿を与え、ほとんどを白ロシアの沼地から北極海方面へと送り出している。彼らは皆、戦争終結までにはそこで集められることになるだろう――もし生き延びることができればの話だが(クアフュルステンダムやウィーン、プレスブルク出身のユダヤ人が生き延びることはまずない)。彼らは道路建設などを終えることになるだろう。(しかしこのことについては口外してはならない)」

フェールの手紙を正気に読むならば、それは皮肉を込めた論評であることが明白である。すなわち、RSHAがかつて提案していた三つの方策――プリピャチ沼地への追放、シベリアの収容所での拘禁、東方での道路建設――が、いまやアクツィオン・ラインハルト収容所での絶滅政策に取って代わられたという点を風刺しているのだ。ただし、DG IV計画の道路建設などの作業に従事する、わずかな体力のあるユダヤ人のみが例外である。

フェールの皮肉な語調は、「白ロシアの沼地から北極海方面へ」という荒唐無稽な表現に明確に示されている。一方で、実際の殺意は「もし生き延びることができればの話だが(クアフュルステンダムやウィーン、プレスブルク出身のユダヤ人が生き延びることはまずない)」という一節に込められている。これはヴァンゼー会議で使われた「自然減少」という婉曲的表現にも呼応している。

ところが、マットーニョは「これは実際の『再定住(Aussiedlung)』のさらなる証拠を提供する」と述べている。これこそが、マットーニョという人物の本質を如実に物語っている。

投稿者:匿名 投稿日:2015年4月26日(日曜日)

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さて、真面目に問おう。東方へ「避難」させられたユダヤ人たちは一体どこへ行ったのか?

ホロコースト否認論者を追い詰めるための極めて単純な問いである。

ナチスによって労働不適格と見なされ、「東方へ避難」させられたユダヤ人たちはどこへ行ったのか?

図1:ヨーロッパの衛星地図(Google Earth画像)。第三帝国の選定された政治行政区域を強調表示。この地図には以下の情報も表示されている:1941年6月から1943年4月までに「移送」されたユダヤ人の数、1943年時点での残存ユダヤ人人口、ドイツ軍後方地域および作戦地域内のパルチザン活動地域、1942年半ば時点での作戦地域境界線と東部戦線。

1942年12月15日、アドルフ・アイヒマンのRSHAユダヤ問題課(IV B4)は、「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終的解決に関する作戦および情勢報告(Operation and Situation Report on the Final Solution of the European Jewish Question)」という「国家機密(Geheime Reichssache)」報告書を提出した(残念ながら現存していない)。しかしヒムラーはこの報告を「専門的正確さに欠ける」として不満を示し(左図、マイクロフィルム画質)、自らの主席統計官リヒャルト・コルヘアに、アイヒマンの部署からデータ分析を引き継ぐよう命じた(BArch NS 19/1577)。

1943年3月23日までに、コルヘアはヒムラー向けに16ページの文書『ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終的解決(Die Endlösung der europäischen Judenfrage)』をまとめ、1942年12月31日までのデータを網羅した。さらに翌月4月19日には、1943年3月31日までのデータを含む要約版を作成し、RSHAがアドルフ・ヒトラー向けに編纂中であったより大規模な(現存しない)報告書に組み込まれる予定であった(BArch NS 19/1570、スキャン独文英文テキスト)。

コルヘアの結論はこうである。ナチスの作戦によって約260万人のヨーロッパ・ユダヤ人が「東方へ避難(evacuated)」させられたというのだ。重複計上、労働力選抜、アウシュヴィッツベウジェツクルムホーフ、ソビボル、トレブリンカといった絶滅収容所に送られなかった輸送を考慮に入れると、1941年6月から1943年4月の間に「東方へ避難」させられたユダヤ人の実数はおよそ230万人である。この数字をホロコースト否認論者たちはいまだに説明できずにいる(詳細は付録参照)。

カルロ・マットーニョ、トーマス・クエス、ユルゲン・グラーフのような否認論者たちは、『The “Extermination Camps” of “Aktion Reinhardt”』という膨大な著作の中でもこの問題を処理できなかった。彼らは労働可能なユダヤ人が東方へ移送されたと弱々しく推測するにとどまり、絶滅収容所へ送られた「労働不適格者」の運命については説明できていない。グラーフは同書のエピローグで「我々は移送者たちの行き先および運命に関するドイツ戦時中の文書を提示することができない」と認めている(TECOAR, p.1503)。

現実は明白である。これらのユダヤ人が絶滅収容所で殺害されず、単にさらに東方へ再定住させられたという主張は事実ではない。現存するドイツの同時代文書は、「避難」させられたユダヤ人が民間統治下の占領ソ連領内で再び現れなかったことを示しており、また軍政下の地域もパルチザン活動で混乱し、ユダヤ人の存在はほとんど確認されていない(図1参照)。

ホロコースト否認論者たちは、「東方避難者」の再定住地として、国家弁務管区ウクライナと東部占領地域ヴァイスルテニエンの間に位置するプリペト湿地帯を提案してきた(マットーニョ、グラーフ、クエス『TECOAR』p.597以下、およびシュテッフェン・ヴェルナー『Die zweite babylonische Gefangenschaft』)。しかし1942年当時、何十万もの「避難」ユダヤ人をこの湿地に再定住させることなど到底考えられなかった。彼らの多くは労働不適格者であり、この地域で要求される重労働に耐えることは不可能だったのである。

さらにプリペト湿地地帯はパルチザン活動が活発な地域であった。ヒムラーは、ピンスク・ゲットーに集中していたわずか3万人のユダヤ人についてさえ、「プリペト湿地におけるギャング戦の中心」であるとして警戒し、1942年10月にその即時殲滅を命じた(ベルリンの「Topographie des Terrors」展に展示された資料を参照)。これは、ナチスの政策がユダヤ人居住地域からパルチザンを一掃するものであり、ユダヤ人をそのような危険地帯へ送ることではなかったことを示している。1942年10月4日には、ドイツ陸軍のある兵站将校が、コーカサスのパルチザン地域にいたわずか30のユダヤ人家族を問題視し、彼らをアルマヴィルへ移送するよう命じている(NARA, T501/R69)。30家族でさえ「問題」とされたのであれば、230万人のユダヤ人をどう扱うつもりだったのかは明らかである。

アウシュビッツ、ベウジェツ、クルムホーフ、ソビボル、トレブリンカへの大量移送の過程で、ヴァイスルテニエンのユダヤ人人口は1943年4月までに15万人から3万人へと減少した。新たにユダヤ人を受け入れるどころか、当局は残存するユダヤ人のさらなる削減に積極的に取り組んでいた。1943年7月には、国家弁務管区オストラントがユダヤ人人口を7万2千人と報告し、これを5万人にまで減らすことを目標としていた[1]。同様に、国家弁務管区ウクライナでは、1942年の大規模な絶滅作戦の結果、1943年4月までにユダヤ人がほぼ一掃され、文書日本語訳)上の死者数は36万3,211人に達した(親衛隊および警察高級指導者ハンス=アドルフ・プリュッツマンの報告による)。

1942年12月31日には、ヴォルィニエン行政地区委員が「ユダヤ人問題」について「地域の浄化はほぼ完了している」と記している日本語訳)。1943年7月には、ヒトラー自身がガウライター・エーリヒ・コッホの言葉を引用して「ユダヤ人はすべていなくなった」と述べた。さらに1943年11月25日になっても、保安警察官ヨーゼフ・ルーアが、大隊の「ユダヤ人問題解決のための特別行動。ウクライナはユダヤ人から解放された」と記している[2]。

ナチスが230万人もの「無用の食い扶持」(彼らの言葉による)を東部戦線へ移住させたという考えは、論理的にも証拠的にも成り立たない。ナチスが、労働不能者のユダヤ人大集団を、激しいパルチザン活動と逼迫した補給線の存在する軍の後方地帯に配置するはずがない。また、そのような膨大な人口が軍管理下の東部地域に存在したことを示す痕跡——収容施設、物資、文書、または生存証言——は一切存在しない。

したがって、否認論者の言う「再定住」説がもし真実であるならば、ナチスの基準で労働不能とされた230万人のユダヤ人が軍の後方地域に送られたことになる。しかし、そのような大規模な人口移動が、ナチス自身が「危険分子」と見なした人々を、戦闘部隊の背後、補給路沿い、あるいはパルチザンが活発な地域に送り込むというのは、軍事的にも政治的にも到底理解不能である。さらに、東部軍支配地域にアウシュビッツ規模の収容所が多数存在したことを示す証拠(施設、物資、警備体制、生存者など)も皆無である。

1942年4月までに、プスコフ周辺の北部軍事区域はすでに「ユダヤ人から解放」されており、その後の月次報告でもユダヤ人の存在や移送についての記述はない。1942年8月には、油母頁岩の採掘のためにスランツィに強制収容所を設置する計画が「警備要員・資材・労働力の不足」を理由に却下された[3]。中央軍事区域でもユダヤ人人口はほぼ一掃されており、アインザッツグルッペンの活動により1942年初頭の22,767人から、1943年半ばにはわずか1,615人の労働者にまで減少した[4]。南部軍事区域も同様に、現地の軍報告によればユダヤ人の姿はほとんど確認されていない。さらに、1942年7月まで激戦が続いたクリミア半島も移住地としては除外される。

したがって、アウシュビッツ、ベウジェツ、クルムホーフ、ソビボル、トレブリンカといった絶滅収容所に「移送」された約170万人のユダヤ人は、単に姿を消したのである。東部地域にユダヤ人が現れた形跡はまったく存在しない。

当初、コルヘアは1943年の統計報告書の中で、ヴァルテガウおよび総督府内(クルムホーフ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカを含む)の収容所への「避難(evacuation)」は、ユダヤ人の「特別処置(special treatment)」を意味すると記していた。これは殺害を示す一般的な婉曲表現であった。この表現が広く知られるようになったため、ヒムラーは1943年4月10日付のルドルフ・ブラントの書簡で、それを「輸送(transportation)」に置き換えるよう命じた。実際、コルヘアの結論は明白であった。「避難」させられたユダヤ人たちはヨーロッパ・ユダヤ人社会から「失われた」とされ、他のどこにも再登場することはなく、実質的に死亡したものとして扱われていたのである。彼の報告結果は絶滅収容所における大量殺害の記録と一致している。さらに、占領下ロシア領内で「避難」させられたユダヤ人63万3300人が姿を消しており、これはアインザッツグルッペによるユダヤ人の大量殺害数(クルグロフ『К вопросу о количестве евреев, уничтоженных эйнзатцгруппами в 1941-1943 гг』)とおおよそ一致する。

ナチスは「避難」や「再定住」といった語を、ユダヤ人絶滅の隠蔽表現として用いた。公式には鉄道職員や現地住民などに対し、ユダヤ人は「東方へ移送される」と説明され、それ以上のことを知る必要はないとされた。しかし非公式には、逃亡した囚人、外部の観察者、あるいはうわさ話などを通じて、大量殺害の情報が漏れ広がっていった。ナチスが秘密保持に努めたにもかかわらず、それは広範に知れ渡ることとなったのである。

1943年10月4日のポーゼン演説において、ヒムラー自身がこの欺瞞的表現を率直に認めた。「私はユダヤ人の避難について語っている。それはユダヤ人の絶滅を意味する」と述べたのである。

ホロコースト否認

出典[1][2]で引用されている資料の大半は、すでに『Holocaust Controversies』によるマットーニョ、グラーフ、クエスら否認論者への批判日本語訳)の中で参照されている。それにもかかわらず、トーマス・クエスは『TECOAR』の自身の章でそれらを無視し、ユダヤ人の運命について明確にすることを怠った。その代わりに、彼は労働に適した少数の西方ユダヤ人、ヴィルナに到着したオランダ・ユダヤ人から略奪された財産、そして主としてウクライナおよびルーマニア出身のユダヤ人強制労働者がウクライナのDurchgangsstraße IV沿いで働いていたことなど、些末な問題にこだわった。しかし、彼は本質的な点を見落としていた。すなわち、ナチス支配地域から「避難」させられたユダヤ人大衆が、国家弁務管区のオストラントおよびウクライナには出現しなかったという事実である。

マットーニョに関して言えば、彼はコッホの供述の冒頭2文における引用形式や時制といった取るに足らない問題に焦点を当て、実際の内容を論じようとしなかった(TECOAR, p.785)。

さらに奇妙なことに、シュテッフェン・ヴェルナー(註:誰なのかよくわかりませんが修正主義者の一人のようです。こちらでその主張の一部は読むことが可能です)は著書『Die zweite babylonische Gefangenschaft』(1990年)で、「ユダヤ人は東部白ロシアに定住させられ、今日なおソ連によって一種の捕囚状態に置かれている」と主張した。いわゆる「修正主義者」の中でも決して最も鋭いとは言えないユルゲン・グラーフでさえ、この説は「不可能」と認めざるを得なかった。それは当然のことである。なぜならソ連はすでに存在しておらず、「隠された」ユダヤ人が出現した事実もないからである。

しかし、かつて否認論界の「有望株」とされたトーマス・クエスは、『TECOAR』においてさらに奇抜な仮説を提唱した。彼によれば、「避難」させられたユダヤ人の大部分と、西方からの移送で生き残った者たちは、鉄のカーテンの背後に留め置かれ、ロシア北部やシベリアの遠隔地へ追放された可能性があるという。そしてスターリンが「ガス室における絶滅」という「神話」を維持するためにそれを利用したのだと推測しているのである(TECOAR, p.755)。

ホロコースト否認論者たちは、ナチスがユダヤ人を大量殺害したという事実を認める代わりに、奇怪で根拠のない空想に浸ることを選んでいるようである。

現実には、アウシュヴィッツ、ベルゼツ、クルムホーフ、ソビボル、トレブリンカから姿を消したユダヤ人が、ナチス占領下で「再定住」できた場所など存在しなかった。実際、否認論者たちはこの問題を回避するために、個々の地域を恣意的に取り上げるという手法を用いている。しかし、これらすべての地域のユダヤ人総数を一括して検討すれば、彼らのごまかし、すなわち「行方不明のユダヤ人を一つの地域から別の地域へと“ブラックボックス”的に移動させる」戦法は破綻する。あらゆる証拠を並べてみれば結論は明白である。

  • アウシュヴィッツやクルムホーフから姿を消した「労働不適格」のユダヤ人は、ユダヤ人が体系的に抹消され、強制労働者だけが残された総督府には再び現れていない。

  • 総督府から排除されたユダヤ人もまた、パルチザンが多く潜むプリペト湿地帯や、ユダヤ人が同様に体系的に一掃されていた国家弁務管区のウクライナおよびオストラントに「再定住」してはいない。

  • さらに、国家弁務管区から姿を消したユダヤ人が、これらの地域間で交換されたり、あるいは軍の後方地域やパルチザン支配地に移されたりした形跡も存在しない。そうした地域には、もはやほとんどユダヤ人がいなかったからである。

結論は明白だ。ホロコースト否認論は、何度否定されても再び立ち上がるが、そのたびに完全に論破されるのである。

参考文献

[1] エドゥアルト・シュトラウヒによる1943年4月10日の演説議事録、Benz, Einsatz im Reichskommissariat Ostland, p. 235;1943年7月13日の会議に関する1943年8月20日付メモ、NO-1831, Trials of War Criminals Before the Nuernberg Military Tribunals, Vol. 13, p. 1021.

[2] 1942年12月31日付東部占領地域ヴォリンイエンの情勢報告、Pohl et al., Der deutsche Krieg im Osten 1941-1944: Facetten einer Grenzüberschreitung, p. 184;国家弁務管区ウクライナの情勢報告、Belzec, Sobibor, Treblinka. Holocaust Denial and Operation Reinhard, p. 266;アドルフ・ヒトラーとヴィルヘルム・カイテルおよびクルト・ツァイツラーとの1943年7月8日の会談、Madajczyk, Rozstrzygnięcie przez Hitlera sporu o metody eksploatacji zasobów ludzkich okupowanej Europy Wschodniej, p. 171;ヨーゼフ・ルーアによる1943年11月25日の講演用ノート、Gerlach, Kalkulierte Morde, p. 715.

[3] 1942年4月3日付作戦状況報告ソ連第189号、Mallmann et al., Deutsche Berichte aus dem Osten 1942-1943. Dokumente der Einsatzgruppen in der Sowjetunion III, p. 256;1942年7月、8月および9月の北方軍管区司令官月次報告(ユダヤ人に関する記述なし)、NARA T501/R14.

[4] Gerlach, Kalkulierte Morde, p. 684および688.

[5] 1942年12月7日付ドン軍管区司令官情勢報告(「ユダヤ人は軍管区内では散発的にしか確認されていない」);1942年9月24日付ドネツ上級野戦司令部報告(「ユダヤ人数はウォロシロフグラード地域にのみ相当数存在、たとえばウォロシロフグラード市1038名、ウォロシロフスク周辺約100名」);1943年1月12日付野戦司令部503報告(ユダヤ人に関する記述なし);1942年12月20日付上級野戦司令部399報告(ユダヤ人に関する記述なし);1942年12月2日付野戦司令部239報告(「その他[ユダヤ人女性1名を除き]、これまでのところユダヤ人は確認されていない」);1942年8月4日付地区司令部259報告(「ユダヤ人はわずか2名」);1942年10月4日付野戦司令部668報告(「当該地域で確認されたユダヤ人はSDによって退去させられた」)、NARA T501/R19.

付録

数字について

便宜上、ここで示すユダヤ人損失の数値は、主としてRSHA統計官リヒャルト・コルヘアの報告に基づいている。

コルヘアはアイヒマンの部署からの移送およびアインザッツグルッペのデータのみに依拠していたため、ナチ政策によって生じた多くのユダヤ人の死は彼の調査には含まれていないか、明示的に扱われていなかった。これには、ゲットーや収容所での死亡、アインザッツグルッペ以外による銃殺・ガス殺、枢軸国の傀儡政権による大量殺害などが含まれる。したがって、「退去(evacuated)」ユダヤ人の数値を1943年までのホロコースト全体の死者数と混同してはならない。

総計として、総督府、ヴァルテガウ、帝国、その他のヨーロッパ諸国および占領ロシア地域におけるユダヤ人の数は約258万人である(表1の第2欄参照)。

しかしコルヘアの記録には、「退去」ユダヤ人の中から選別された強制労働者が含まれていなかったり、移送が重複して計上されていたり、オストラントへの輸送が含まれていたりする。これらを調整したうえで、絶滅収容所を経由した移送およびアインザッツグルッペによる殺害の合計は第3欄に示され、約233万人のユダヤ人となる。

表1

         * 絶滅収容所と行動部隊のみ

総督府、帝国およびその他のヨーロッパ諸国の数値は以下のように補正された。

総督府

  • マイダネクへのポーランドからの移送(12,761人)を差し引く。これは1942年12月末におけるヘフレ電報の追加分であり、1942年を通じて総督府からの移送と推定される(Schwindt, Das Konzentrations- und Vernichtungslager Majdanek, p.183–186)。

帝国(ベーメンおよびメーレン保護領、ヴァルテガウを除く東方領域を含む)

  • 帝国からリッツマンシュタット(ウッチ)への移送(19,441人)を差し引く。これはすでにヴァルテガウの数値に含まれている(Feuchert et al. 編, Die Chronik des Gettos Lodz/Litzmannstadt 1941, p.274)。

  • アウシュヴィッツでの労働選別(16,151人)を差し引く(チェヒ, Kalendarium)。

  • マイダネクへの移送(3,615人)を差し引く。これは1942年12月中旬までのヘフレ電報におけるマイダネク分から、スロバキア・ユダヤ人の移送分を除いた値である。

  • オストラントへの移送(45,212人)を差し引く。これはBundesarchiv Gedenkbuch『Opfer der Verfolgung der Juden unter der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft in Deutschland 1933–1945』の移送リストに基づく。ただし、これらの移送の多くがミンスク近郊のマリ・トロステネツでの即時殺害を含んでいた点はここでは考慮していない。

  • 帝国からルブリン地域への移送(ソビボルへの直接移送を除く)(31,092人)を差し引く。これもBundesarchiv Gedenkbuchの移送リストに基づく。ヘフレ電報が総督府のゲットーへ以前に送られた非ポーランド系ユダヤ人を含む一方、国外から絶滅収容所への直接移送は除外していたと仮定している。

  • テレージエンシュタットからオストラントおよびルブリン地域への移送(トレブリンカ、ソビボルへの直接移送を除く)およびアウシュヴィッツに登録されたテレージエンシュタット移送者(22,602人)を差し引く(同地の移送リスト(こちら)およびチェヒ, Kalendarium)。この差引きは安全側を取るための措置であり、コルヘアがテレージエンシュタットからの移送をすべて計上していたと仮定しているが、その確証はない。

フランス、ベルギー、オランダ、ノルウェー、スロバキア、クロアチア、ブルガリア、ギリシャ

  • コゼルでの選別(8,188人)を差し引く(コルヘア報告)。

  • アウシュヴィッツで登録された囚人(56,419人)を差し引く(チェヒ, Kalendarium)。

  • マイダネクへの直接移送スロバキア・ユダヤ人の選別(約4,000人)を差し引く(Schwindt, Das Konzentrations- und Vernichtungslager Majdanek, p.106)。

  • スロバキアからルブリン地域への移送(ソビボルへの直接移送を除く)(29,863人)を差し引く(Büchler, “The Deportation of Slovakian Jews to the Lublin District of Poland in 1942,” Holocaust and Genocide Studies, Vol.6, No.2, p.151–166, 1991)。

「避難した」ユダヤ民族

ナチスは、ヨーロッパのユダヤ人の大部分を労働に不適格とみなしていた(反ユダヤ的偏見、ゲットーでの過酷な生活環境による身体的虚弱、道路建設や軍需生産といった重労働への不適性などが理由である)。さらに、労働に適格とされた多くのユダヤ人は、そもそも追放の対象から除外されるか、輸送の途中で下ろされることもあった。そのため、コゼルで選別された者や収容所に登録された者を除くと、アウシュヴィッツ、ベウジェツ、クルムホーフ、ソビボル、トレブリンカに送られたユダヤ人の大多数は、ナチの基準では強制労働に不適格と分類されていた。占領下ソ連領では、「退去」(すなわちアインザッツグルッペによる殺害)は、しばしば労働の選別なしにユダヤ人全体を対象として実施された。

以下の節では、関連するいくつかの史料を引用する。

ヨーゼフ・ゲッベルスは1942年3月27日の日記にこう記している。

総政府から、ルブリンを起点に、ユダヤ人たちは今や東へ移送されている。詳細には触れないが、かなり野蛮な手続きが用いられており、ユダヤ人自身はほとんど残っていない。概して、彼らの60%は処分せねばならず、40%のみがまだ労働に利用できると言える。

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 9, p. 231).

1942年6月23日、ヴィクトル・ブラックはハインリヒ・ヒムラーに対し、ヨーロッパのユダヤ人の少なくとも20~30%が労働力として利用可能だと述べた:

私の見解では、ヨーロッパのユダヤ人約1000万人のうち、少なくとも200万から300万人の男女は労働に適している。労働問題が我々に突きつける並外れた困難を考慮すれば、いずれにせよこの200万から300万人を受け入れ維持すべきだと考える。ただし、これは同時に彼らに生殖能力を奪うことを条件とする。

(BArch NS 19/1583)

ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーは、1942年12月16日付でハインリヒ・ヒムラー宛に送った電報の中で、ビャウィストク、テレージエンシュタット、オランダおよびベルリンからアウシュヴィッツへの移送における労働適格ユダヤ人の割合を20〜30%と見積もっている。

「労働不能者(老年ユダヤ人および子供)4万5千人が含まれている。この比率を適用するならば、アウシュヴィッツに到着するユダヤ人を処理するためには少なくとも1万〜1万5千人の労働者が必要である。」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 210).

1942年3月27日付、ルブリン地区人口政策担当官の覚書:

「1)ルブリン地区に送られてくるユダヤ人輸送を、出発駅において労働可能者と労働不能者に分けることが有用であろう。もし出発駅での区別が不可能であれば、ルブリン到着後に上記基準に従って輸送を分離しなければならないだろう。

2)労働不能のユダヤ人はすべて、ザモシチ地区の最も外れの駅ベウジェツに送られる。」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 219).

1942年5月11日にクラクフで行われた第5回部局長会議議事録:

「国家長官ビューラー博士は、最近の情報によれば、ユダヤ人ゲットーを解体し、労働可能なユダヤ人を残して、残りを東方へ移送する計画があると報告した。」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 278).

1942年6月18日にクラクフで行われた警察会議議事録:

「ルブリン市におけるユダヤ人問題は解決された。旧ユダヤ人地区は退去させられ、労働可能なユダヤ人は市外の特別地区に収容されている。
[…]
ラドムおよびチェンストホヴァでは、軍需産業のためユダヤ人労働者を維持しなければならない。当然ながら、これら労働者の直系家族も残されることになるが、それ以外の者はすべて再定住させられる。」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 291, 293).

1942年5月12日付、内部行政局からレンベルクのSS・警察指導者ガリツィエン宛書簡:

「件名:ユダヤ人の再定住
サドヴァ=ヴィシュニア、グロデク、ヤノフおよびヤヴォルフ各都市および周辺地域から、約1,100人のユダヤ人男性を集中収容した結果、多くのユダヤ人家庭が家族の稼ぎ手を失った。ユダヤ人評議会にはもはや福祉資金がないため、残された家族は自治体の公的扶助の負担となっている。
設立途上にある地方自治体の財政能力が低いことを考慮し、今後の再定住に際しては、可能な限り上記の町々を考慮に入れ、レンベルク=ラント郡首長が、残留家族の移送に用いる貨車をどの日・どの駅で利用可能かを把握しておくよう要請する。」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 281-282).

1942年7月22日付、ワルシャワのユダヤ人評議会宛「再定住担当官」からの指令:

「年齢・性別を問わず、ワルシャワに居住するすべてのユダヤ人は東方へ再定住させられる。以下の者は再定住から除外される:
a)ドイツ当局またはその支局に雇用されており、その証明を提出できるユダヤ人。
b)ユダヤ人評議会の構成員および同評議会の職員(期限は本命令の公布日)。
c)帝国ドイツ企業で働いており、その証明を提出できるユダヤ人。
d)まだ労働過程に組み込まれていない労働可能なユダヤ人。これらはユダヤ人居住区内に兵舎化して収容されなければならない。
[…]」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 340).

1942年9月16日付、オズヴァルト・ポールからハインリヒ・ヒムラー宛書簡:

「この目的のために必要な労働力は、主としてアウシュヴィッツで東方移送者から得る予定である。そうすることで、労働力の絶え間ない入れ替えによって既存の企業施設の作業能率や構造が妨げられないようにする。したがって、東方へ移送される労働適格ユダヤ人は、その旅程を中断し、軍需労働に従事しなければならない。」

(Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland 1933-1945, Volume 16, p. 170)

地図作成に使用した資料(コルヘア報告書以外)

青色の剣:1942年5月・6月・8月の南部軍管区司令官管轄区域におけるパルチザン活動、NARA T501/R12、T501/R19、T501/349;1942年5月11日付Lage Ost地図に基づくパルチザン活動地域。

黒剣:1942年5月・9月における中央軍管区司令官管轄区域内のパルチザン活動。NARA T501/349、USHMM RG-30.004。

東部総督府:

参考文献[1]の第二資料を参照

ウクライナ総督府:

参考文献[2]を参照。ウクライナに残留したユダヤ人の数は、ハンガリーおよびルーマニアから各軍によってこの地域を移動させられた強制労働ユダヤ人の閉鎖的集団の可能性を考慮し、1万人未満と推定されている。

軍北後方地域の白陰影:

参考文献[3]を参照

軍南後方地域の白陰影:参考文献を参照 [5]を参照。

アウシュヴィッツ及びシュメルト:1943年4月1日時点で45,000名の収容者(IPN GK 196/134, p. 280 & 284)。このうち非ユダヤ人は推定約10,000名、シュメルト収容所群の収容者は50,570名(コルヘア報告書)。

投稿者:ハンス・メッツナー 投稿日時:2020年2月1日(土)

▲翻訳終了▲

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