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「ユダヤ人問題の最終解決(Endlösung der Judenfrage)」に関するナチス政策について(8)

前回:

前回までで「絶滅収容所ではなく通過収容所だった!」説関連はおしまいで、今回は、人口統計的な議論について、ですね。ですが、特に細かな話ではないようです。リストにあった記事のうち二つは既に翻訳済みです。

今回興味を引いたのは、ホロコースト否定論とはあまり関係のない、「ナチスドイツは42500ものゲットーと収容所があった!」というような話への批判です。記事を書いたのはロベルト・ミューレカンプですが、このロベルトさんって以前から結構鋭いと思っています。確かに指摘通り、その事実とホロコーストはあまり関係がないのです。対象になっている記事を少しだけ翻訳紹介します。


ホロコースト研究者らが4万2500のナチス・ゲットーと収容所をカタログ化。その数は「信じがたい」

米国ホロコースト記念博物館の研究者らは、1933年から1945年にかけてのヒトラーの恐怖政治下で、4万を超えるナチス収容所とゲットーが存在したと結論づけた。
ニューヨーク・タイムズによれば、この総数はこれまで歴史家らが推定していた数をはるかに上回る

このプロジェクトの主任編集者であるジェフリー・メガギーとマーティン・ディーンは、ホロコースト博物館が刊行している多巻の百科事典に、何千もの場所をまとめた。各巻には何千もの場所が掲載され、「生活と労働の条件、ユダヤ人評議会の活動、迫害に対するユダヤ人の対応、人口動態の変化、ゲットーの清算の詳細」といった包括的な歴史が提供されている。

ホロコースト博物館のチームは、ヨーロッパ各地に点在し、1500万から2000万人の人々を投獄または殺害した施設の地図も作成した。

基本的に、この研究は、ホロコーストが歴史家たちが理解していたよりもはるかに広範囲に及んでいたことを示している。

ドイツ歴史研究所所長のハルトムート・ベルクホフは、この研究は驚くべきものだと言っている。タイムズ紙が報じた。

「収容所やゲットーでの生活がどれほど恐ろしいものかは以前から知っていた」と彼は語った。「だが、その数は信じがたいものだ」

研究者たちの仕事は、保険会社を訴えようとするホロコースト生存者や、奪われた財産を取り戻そうとする人々にも役立つかもしれない。

「被害者が収容されていたキャンプを我々が知らなかったために、どれほどの請求が却下されてきたことか」と、生存者を代理する弁護士サム・ダビンは語った。

長年にわたり、多くの研究者がホロコーストの失われた犠牲者や知られざる犠牲者を明らかにしようと努めてきた。中には、犠牲者数は教科書に記載されている数字よりも多いと主張する者もいる。殺害されたユダヤ人の数は大抵600万人前後とされている。

パトリック・デスボワ神父は2009年、ロンドン・タイムズ紙に対し、ウクライナにおける集団墓地を長年調査した結果、犠牲者数は上方修正されるべきだと感じていると述べた。

この最新の研究は、ホロコーストが起きたことを否定し続ける過激な運動や、その恐ろしい遺産が政治的利益のために誇張されているという主張を反駁するために利用できる、さらなる証拠の一つである。


この研究を行った研究者の見解は、別にそれまでの歴史を覆すような調査ではないというような趣旨で、こうした記事の記述の仕方には否定的です。詳細はミューレカンプの記事を読めばより詳細に分かりますが、ホロコーストに関する素人的印象として「ナチスの強制収容所でユダヤ人が虐殺された」の一文で表されるようなものがありますこのイメージは明確に誤りです。

何故なら、おおよそ600万人のユダヤ人犠牲者の大半は、絶滅収容所と現地での銃殺やガス車(等)によって殺されたからです。その上、収容所とゲットーは大きく違いますし、個々の収容所も似ている場合もあれば全然違う場合もあります。あるいは、その4万箇所強の中には多くの非ユダヤ人収容者も含まれますし、戦時捕虜収容所に至っては、もはやホロコーストの中には含まれないでしょう。つまり、数字として「4万箇所強」は「そんなにもあったの?」と驚くイメージはあるかもしれませんが、重要なのはその数字の持つ意味であり、その詳細な内容の方なのです。

従って、ハフィトン・ポストのような大手ネットメディアが、適当なことを書き散らかすのは如何なものかと思ったりもします。

では以下翻訳紹介です。


▼翻訳開始▼

アーロルゼン文書館論争:否認論者にとっての冷たい慰め

本日の『ワシントン・ポスト』は、ドイツ・アーロルゼンに所在する国際尋問局(International Tracing Service, ITS)に保管されている記録をめぐる論争の続報を伝えている。この問題が最初に明るみに出たのはわずか1か月ほど前であり、20か国以上がドイツに対して、アーロルゼン文書館を歴史家および遺族に公開するよう求めていることが明らかになったときであった。


翻訳者註:何の話か分かりにくいと思った(私自身が初見です)ので、「明るみに出た」のリンク先にある記事を以下で翻訳紹介しておきます。

非公開の記録はホロコースト否定の主張につながる。

・ドイツに秘密の保管庫を公開するよう求める声
・文書には1700万人の個人ファイルが含まれる

アメリカとドイツは、歴史家や一般の人々がまだ目にしていない膨大なホロコースト関連文書群の扱いをめぐって対立している。

これらの文書は世界最大級のナチ時代の記録群の一つであり、1,700万人以上の人物に関するファイルを含んでいる。このアーカイブはドイツのバート・アーロルゼンにある国際尋問局(ITS)に保管されており、これは赤十字国際委員会の一部門で、家族が行方不明となった親族の運命を知る手助けをするために設立されたものである。

ドイツ政府とITSは、国際協定およびドイツの個人情報保護法のため、個人ファイルをすぐには公開できないと主張している。しかし、アメリカ政府とホロコースト研究者らからは公開を求める圧力がかかっている。

昨年、イギリスを含む20か国がアメリカの立場を支持し、バート・アーロルゼン文書を研究者に「緊急に」公開するよう求める共同声明を発表した。あるアメリカの著名な研究者は、アーカイブを公開しないことを「ホロコースト否認の一形態」とまで非難している。

資料の性質が極めて機微であることは争いがない。アーカイブには恐ろしい医療実験の詳細や、強制収容所の囚人の中で協力者とされた者の記録が含まれている。また、ナチ占領地でドイツ兵との間に生まれた数万人の子どもを「マスター・レース」の理念のもとに養育するため特別施設に送った「レーベンスボルン(Lebensborn)」計画の文書も含まれている。レーベンスボルンの子どもたちの中には、自らの過去を知らない者もいるとされる。

ドイツ政府はアーカイブを公開する意向を示しているが、プライバシー保護措置が整うまでは行わない方針である。外務省報道官によれば、問題は多くの国の個人情報保護法を調整しなければならない点にあるという。「研究者に無差別にアーカイブを開放する前に、この機微なデータのプライバシーと悪用に関する責任の問題を解決しなければならない」と述べている。

また、ITSも文書へのアクセスを制限しているとして批判を受けており、学者たちは過去20年間にわたって同局を率いてきたシャルル・ビーダーマンが、この膨大な国家官僚機構の産物をあたかも私的記録のように扱っていると非難している。ビーダーマン氏はコメントを求める電話に応じなかった。

ITSの公式ウェブサイトには、「個人文書群を歴史研究に利用できるようにする努力を認識している」との声明が掲載されている。ITSは「これらの正当な関心に応える」ために文書のデジタル化を進めているが、照会への対応には数年分の遅れがあり、デジタル化の完了にもまだ数年を要するとされている。

「彼らは8年間も引き延ばしている」と語るのは、アムステルダム大学で歴史・ジェノサイド研究を担当し、アーカイブ公開運動の中心人物の一人であるヨハネス・ハウウィンク・テン・カーテ教授である。

アメリカ政府関係者は祝日のためコメントを控えたが、国務省のホロコースト問題特使エドワード・オドネルはニューヨーク・タイムズに対し「我々の目的はアーカイブを公開することであり、そのための働きかけを続ける」と語った。

ワシントンのホロコースト記念博物館の幹部たちは、ドイツ側の対応を痛烈に批判している。同博物館の館長サラ・ブルームフィールドは「これはスキャンダルであり、ドイツのイメージに大きな傷をつけるものだ」と述べた。

同館のホロコースト高度研究部門長ポール・シャピロは、「この記録を隠すことはホロコースト否認の一形態である」と断言した。


1955年以来ドイツ連邦共和国が管理しているこの文書館には、1945年以降、赤十字国際委員会(ICRC)が行った行方不明者・難民・強制収容所関係者の追跡業務の過程で作成された記録が収められている。これらの記録には、推定で1,700万人以上の名前が含まれているとされる。

では、なぜこのアーロルゼン文書館がホロコースト史研究者だけでなく、ホロコースト否認論者からも注目されているのか。その理由は以下の通りである。

ICRCおよびドイツ政府の双方が頑なな態度をとる理由は、ドイツの厳格な個人情報保護法にあるようだ。クリストファー・ブラウニングなどの著名な歴史家が、なぜ「ハンスK.」といった匿名を使ったり、目撃証言者に仮名を用いたりしなければならないのか、不思議に思ったことがあるかもしれない。これはドイツのデータ保護法が犠牲者だけでなく加害者にも適用されているためである。その結果、ドイツの法廷で戦争犯罪の罪を問われたが有罪判決を受けなかった、あるいは無罪となったSS隊員については、歴史家が実名を明らかにすることができない。もっとも、米国国立公文書館に保管されているSS人事記録を参照すれば、これらの人物の身元を確認することは容易である。

本日の『ワシントン・ポスト』の記事によれば、ITSは本来の任務でも遅れをとっているようであり、身元確認を必要とする数十万件もの案件が未処理のまま滞っているという。この遅延は、行方不明の親族の消息を知ろうとする人々を苦しめるだけでなく、現行の補償制度のもとで生存者が起こす賠償請求にも悪影響を与えるおそれがある。それにもかかわらず、ドイツ政府は文書館を公開すれば新たな請求が雪崩のように押し寄せることを恐れているようである。

しかし、補償問題は、ITS文書へのアクセスをめぐる主要な論争に比べれば二次的な問題にすぎない。核心は、歴史家のアクセス権である。歴史家たちはすでに、ルートヴィヒスブルクの旧「州司法行政中央事務局(Zentrale Stelle für Landesjustizverwaltung)」のような、他のドイツの公文書館でも極めて厳しい個人情報保護の制約のもとで研究を行っている。そこには西ドイツ時代の戦争犯罪捜査記録が保管されており、プライバシー保護と研究利用を両立させるための前例も存在している。

それにもかかわらず、ドイツ側の反対により、アーロルゼン文書館を監督する11か国委員会では、歴史学者が資料の学術的価値を評価するための作業部会を設置するという合意すら、いまだに成立していない。

アムステルダム大学やアメリカ・ホロコースト記念博物館をはじめとする複数の研究機関が、アーロルゼンへのアクセス制限に抗議の声を上げている。

この論争全体の皮肉な点は、アーロルゼンの多くの資料がすでに他の公文書館、たとえばアメリカ国立公文書館(NARA)や、そこを通じてアメリカ・ホロコースト記念博物館に複製されているという事実である。

では、既存のこれらのコレクションにはどのような資料が含まれているのか。NARAに所蔵されている189本のマイクロフィルムには、ドイツの強制収容所の一部(ただしすべてではない)の記録が収められているが、さらに興味深いのは、ベルリンおよび他の複数のドイツ都市からの不完全な形の追放リストが含まれている点である。これらの資料は、1943年初頭のいわゆる「Fabrikaktion(工場行動)」の際にベルリンからアウシュヴィッツへ送られた数千人のユダヤ人を含む、ユダヤ人輸送の実態を裏付けるものであり、ヴォルフ・グルーナー(Wolf Gruner)が最近詳しく論じている

さらに、アーロルゼンの他の資料はヤド・ヴァシェム文書館にも複製されており、たとえばクリスティアン・ゲルラッハ(Christian Gerlach)は1945年の報告書の写しをそこから発見し、それによって1944年にアウシュヴィッツへ到着したユダヤ人のうち労働に選別された者の数を特定し、ハンガリー・アクションの際に移送されたユダヤ人の運命を明らかにしている。

したがって、アーロルゼン文書館は、アーネスト・ツンデルのようなホロコースト否認論者にとっては何の慰めにもならない。ツンデルは、アーロルゼンの資料がドイツの強制収容所での犠牲者数がはるかに少なかったことを示すと主張しているが、それは誤りである。

研究者にとってアーロルゼン文書館の価値は、主要な強制収容所に関する記録の公開にあるのではない。なぜなら、これらの多くはすでにNARAで一般公開されているからである。さらに、マイダネクやノイエンガンメなど多くの収容所の詳細な記録は破壊され、もはや回復不能である。アーロルゼンにはアクツィオン・ラインハルトの収容所に関する資料も含まれていない。もっとも、アーロルゼンが、前述のグレーザー報告書のようにユダヤ人移送者の運命に関連する新たな文書を含んでいる可能性は否定できない。しかし、アーロルゼンの保管資料はそれだけにとどまらない。

むしろ、国際追跡サービス(ITS)のアーカイブは、文字通り何百万もの他の被追放者の運命を明らかにする助けともなり得る。とりわけ、西ヨーロッパおよび東ヨーロッパから強制労働者として連行された非ユダヤ人、さらには1945年以降の中央および東ヨーロッパにおける民族追放の犠牲者などである。したがって、アーロルゼンはホロコースト史研究者のみならず、第二次世界大戦およびその余波全体を研究する歴史家たちにとっても関心の対象である。700万人を超える外国人労働者のドイツへの強制移送、戦後の避難民の移動、送還計画、民族追放の研究などは、ITS資料へのアクセスによって計り知れないほど豊かになるであろう。

この意味で、ホロコースト否定論者たちは、ヨーロッパ・ユダヤ人の運命だけに固執することで、想像力と人間性の欠如を露呈している。彼らはまた、ナチスの追放政策によって苦しんだ何百万もの非ユダヤ人の運命を無視しているのである。さらには、鉄のカーテン以東から追放された民族ドイツ人の運命にもほとんど関心を示さない。おそらく、後者の場合は、きちんとした調査を行うよりも、表面的な出典に基づく数字を並べ立てるほうが容易だからであろう。

追記:AAARGHへの回答はここにある

投稿者:ニコラス・テリー 投稿日:2006年3月26日(日曜日

▲翻訳終了▲

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アーロルゼン:AAARGH、あの名前たち……

セルゲイが今週初めに報告したように、この小さなブログがフランスの否定論者グループAAARGHの注目を集めたようだ。どうやら、彼らにとって私は「intéresant(興味深い)」存在らしい――彼らの退屈な駄文に比べれば、それだけでも上等だろう。しかし、議論の初めから侮辱の応酬をするのは控えておこう。というのも、AAARGHは私が1か月前に書いたアーロルゼン・アーカイブ論争に関する投稿転載する価値があると判断したようだからである。

しかし残念なことに、彼らは私が書いた内容を注意深く読むことすらしなかった。

さらに滑稽なのは、我々が「ダメージコントロールの専門家」だと主張している点である。そもそも私の最初の投稿の主旨は、否定論者たちが、アーロルゼンから複写された資料がすでにNARAやヤド・ヴァシェムに保管されており、それがホロコーストに対する歴史家の理解を一変させるとともに、数十万人の大量殺害を示す強力な文書証拠となっているという事実にまったく無自覚である、ということを指摘することにあったのだ。以下は、AAARGH自身がこの件を歪曲しようとした際に述べた内容である。

Les spécialistes du damage control, sur l'intéresant site "Holocaust Controversies" disent qu'une bonne partie des données concerne des non-juifs, qui pourraient réclamer aussi, et sur le sort desquels les révisionnistes sans cœur n'ont pas voulu se pencher. C'est évidemment là un mensonge très grossier.

私の翻訳。

ダメージコントロールの専門家である「Holocaust Controversies」という興味深いサイトは、多くのデータがユダヤ人以外に関するものであり、彼らもまた補償を請求できる可能性があるが、その運命については冷酷な修正主義者たちが関心を示そうとしない、と述べている。これは明らかに非常に下劣な嘘である。

ああ、そうか? ではAAARGHは、アーロルゼン文書館が公開された暁に、次のいずれかの集団についてでも研究を委託してみてはどうだろうか。
a) 非ユダヤ人のFremdarbeiter(外国人労働者)
b) 非ユダヤ人のKZ-Häftlinge(強制収容所囚人)
c) ドイツ人のVertriebene(追放者)
d) 戦後のDisplaced Persons(避難民・難民)

これらこそが、アーロルゼンの文書群に含まれるとされる1700万人分の名前の中で、最もよく記録されているはずの人々である。もしかすると、第二次世界大戦中にドイツへ連行された700万人以上の外国人労働者、しかもその大半が強制的に動員された人々の運命が、ようやく明らかになるかもしれない。あるいは、1939年から1945年の間に少なくとも50万人の非ユダヤ人が姿を消し、二度と出てこなかったとされる「通常の」強制収容所の混乱した実態が、少しは解明されるかもしれない。

また、アーロルゼンが開かれれば、ドイツ人追放者の死者数が本当に200万人だったのか、それともドイツの歴史家リューディガー・オーヴァーマンスが算出したようにわずか50万人だったのか、確かな手がかりが得られるかもしれない。

はは、そんなこと考えたこともなかっただろう?

もしかしたら、アーロルゼンが公開された今、戦争中および直後のドイツ人死者が1500万人を超えると主張するドイツの右翼的民族主義者たち、特にジェームズ・バックのような事実無根の資料を利用するベリンガー教授のような愚か者たちから、謝罪が聞けるかもしれない。

もちろんAAARGHは、それで満足するような連中ではなく、彼らお気に入りの否認論の決まり文句を持ち出してくる。最初は地殻を揺るがすほど重大な主張のように聞こえるが、実際はいつものありふれた馬鹿げたたわごとに過ぎない。
否認論者の常套句その367番は――ヤド・ヴァシェムがホロコーストの犠牲者500万~600万人全員の名前を集めきれていないという事実である。

イスラエルの追悼事業専門機関ヤド・ヴァシェムは、資料をデータ化するために千人規模の入力作業員を急遽動員しなければならなかった。その結果は大惨事だった。60年にわたる熱心な収集活動の末に判明したユダヤ人犠牲者の数は300万人を超えず、しかも重複した名前が多数含まれていた。実際の数字は200万から250万人の間にある可能性が高い。最後の希望はバート・アーロルゼンである。ワシントンの巨大な売春宿――すなわちホロコースト記念博物館――は、すでにバート・アーロルゼンの資料の一部を入手しており、今度はその全コピーを求めている(全長25キロ分の文書と、さらに数十万単位のマイクロフィルムやマイクロフィッシュ)。おそらく彼らは「600万人」という神話を鉄のように信じ込んでおり、ヤド・ヴァシェムの「パンク」後にそれを再び膨らませようとしているのだろう。

少し立ち止まって、ヤド・ヴァシェムのデータベースが実際に何を収録しているのかを考えてみよう。それは、生存した親族や友人が提出した証言ページ(Pages of Testimony)に基づく犠牲者の名前である。私の見る限り、アーロルゼンや世界中にある他の無数の公文書館で見つかるような膨大な一次資料の多くは、まだ反映されていないようだ。反映されているように見える一次資料のひとつは、オランダ赤十字社が戦後すぐに発見した輸送リストであり、そこにはアウシュヴィッツ、ソビボル、テレージエンシュタット、ベルゲン=ベルゼンへ送られた10万5千人のオランダ系ユダヤ人全員の氏名が記載されていた。

そう、オランダのユダヤ人たちのことだ。ホロコースト否認論者たちは、オランダ系ユダヤ人について特に沈黙を保つ傾向がある。おそらく、オランダの記録がいかに詳細であるかをよく知っているからだろう。では、ヤド・ヴァシェムが各国ごとにどれだけの名前を収録しているかを見てみよう。

データベースには以下の人数分の名前が記録されている。
ポーランド:1,260,256件
ドイツ:225,284件
旧ソ連(1938年の国境内):198,189件
ルーマニア:163,628件
チェコスロヴァキア:124,591件
オランダ:100,000件

次に、各国の犠牲者数の一般的な推定値を比較してみよう。
オランダ:名前10万人/犠牲者10万人
チェコスロヴァキア:名前124,591人/犠牲者143,000人
ドイツ:名前225,284人/犠牲者160,000人
ポーランド:名前1,260,256人/犠牲者270万人
旧ソ連(1938年国境内):名前198,189人/犠牲者110万人

これをまとめるとどうなるか。オランダについては100%一致、チェコスロヴァキアについても80%を超える一致を示している。そしてドイツの場合、名前の数が多すぎるように見えるが、これはドイツとオーストリアを合わせた数字(『Dimensionen des Völkermords』によればドイツ16万人+オーストリア6万5千人=22万5千人)か、あるいは収容所ではなくホロコースト期間中に自殺や自然死した者たちも含めているためかもしれない。

つまり、西欧ではかなりの範囲で重複が見られる一方、東欧では名前の記録がはるかに少ないということだ。これは驚くべきことではない。東欧全域では共同体そのものが壊滅し、生存者も、友人や家族の死を報告できる親類や隣人もほとんど残っていなかったからである。また、旧ソ連ではホロコーストが長らくタブー視されていたこと、さらに多くのソ連系ユダヤ人がロシア社会に広く同化し、1945年以降ヘブライ語やイディッシュ語の使用が急速に減少したことも理由の一つである。このため、ヤド・ヴァシェムは最近(註:このリンク先はすでにありません)、データベースにロシア語の検索・提出フォーム(註:アーカイブには当時のサイトの形式はありますが機能していないのでアーカイブアドレスは示しませんでした)を追加した。

事実として、ヤド・ヴァシェムのデータベースもアーロルゼンの記録も、否認論者にとっては「どちらを選んでも詰む」ような状況を突きつけている。もし彼らが「すべての犠牲者の名前がデータベースに載っていない」と繰り返し主張するならば、なぜオランダのユダヤ人の名前がすべて記録されているのか、そしてこの同化が進んだオランダ語を話す非イディッシュ語系ユダヤ人たち(その生存者が一人も確認されておらず、一部の遺灰が1960年代にHydrokop社のボーリング調査でビルケナウ跡地周辺から60か所も発見された)の行方をどう説明するのか、説明しなければならない。おっと、これは都合が悪い話だろう。

さらに、チェコ人、スロヴァキア人、ドイツ人、オーストリア人などの名前もあり、それらはアーロルゼンや他の公文書館の資料と相互に裏付けられている。加えて、100万人を超えるポーランド系ユダヤ人の名前も存在する。そしてここで指摘しておくべきは、ヤド・ヴァシェムのデータベースには、少なくとも現時点では、ソ連非常委員会(Soviet Extraordinary Commission)の名簿や、戦後すぐにポーランド系ユダヤ人がまとめた1,000冊を超えるイツコル書(追悼記録集)の名簿が含まれていないように見えるということだ。

もちろん、ホロコースト犠牲者500万~600万人全員の名前が完全に判明することは決してない。東欧での重要記録の破壊や、第二次世界大戦でポーランドやソ連といった国々が戦死・民間死を合わせて約3,000万人もの人々を失ったという社会的惨禍を考えれば、完全な名簿作成が不可能であることは当然だ。驚くことではない。ロシア政府でさえ、赤軍兵士として戦死した全員の身元確認に今なお苦闘しているのだから。

そして否認論者たちは得意げになるべきではない。彼らの「英雄」であるSSは、自らの行為の証拠を大量に残していったのだ。文書の形でも、あるいはドイツ軍の撤退後にソ連非常委員会によって発掘・検証されたロシア、ベラルーシ、ウクライナ各地の無数の集団墓地の形でも。それについては、いずれこのブログでも改めて取り上げる予定である。

さて、アーロルゼンの話題に戻ろう。AAARGHがきっかけで、私は1980年代の「虚偽報道」裁判でのアーロルゼン所長シャルル・ビーダーマンの証言を再読する機会を得た。これが実に典型的な例を示している——否認論者たちがどのように事実をねじ曲げ、データを誤引用してきたかということを。

多くのホロコースト否認論者の論法に詳しい人なら、「アーロルゼン国際追跡局(ITS)と赤十字が、ドイツの強制収容所で死亡した犠牲者をわずか30万〜40万人しか記録していない」との主張を耳にしたことがあるだろう。この数字は一体どこから出てきたのか? ビーダーマンはその経緯をこう説明している。

ビーダーマンは、1983年12月31日時点で、特別戸籍局およびその他のいくつかの戸籍局に登録された死亡者の総数が373,468人であることを確認した(11-2515)。この数字は、提出された申請に基づいて発行された死亡証明書を示しており、特別戸籍局に関しては戦時中にナチスによって保管されていた収容所の記録に基づくものであった(11-2516, 2517)。
ビーダーマンはまた、1977年にウィーンで開催された国際強制収容所委員会の国際会議において、当時ITSの所長であったアルベール・ド・コカトリクスが講演を行い、1976年12月31日時点で特別戸籍局に登録されていた強制収容所で死亡した者の氏名が合計357,190名であると述べたことを認めた。ビーダーマンは、これらの数字が実際にITSから出たものであることを確認した(12-2640~2646)。しかし彼は、この数字は申請に基づくものであると指摘した。家族全員が死亡した場合、死亡証明書の申請を行う者がいない。さらに、ITSが完全な記録を保有していたのは22の強制収容所のうちわずか2か所だけであった。他の収容所については、記録が一部しか存在しないか、まったく存在しなかった。そのため、これらの収容所のいずれかで死亡したとされる人物の申請が行われても、ITSには特別戸籍局に死亡証明書を請求するための裏付け記録が存在しなかったのである(12-2647)。

念のため、理解力のない者たちのために、強調された部分をもう一度繰り返しておこう。

しかし彼は、この数字は申請に基づくものであると指摘した。家族全員が死亡した場合、死亡証明書の申請を行う者はいなかった。

わかったか? だから今後、ITSや赤十字国際委員会(ICRC)が強制収容所で死亡した者の数を「たったこれだけ」と主張する否認論者の言葉に出くわしたら、その数字がどのようにして導かれたのかを教えてやり、そしてその主張をどこに突っ込むべきかも教えてやれ。

投稿者:ニコラス・テリー 投稿日:2006年5月4日(木)

▲翻訳終了▲

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ルドルフの大失態

昨年のクリスマス前、マイケル・サントマウロが次のような挑戦状をネット上に出した。

「デヴィッド・アーヴィング“思想犯罪”による投獄から早期釈放されたことを記念して、現在ドイツで投獄中のゲルマー・ルドルフが執筆した『ホロコースト講義』という本の中で、学問的に受け入れられない内容が章やテーマ単位でひとつでも見つかった者には、RePortersNoteBook.comより25,000ドルを支払う。」

RePorters Notebookの経営者であり、ルドルフの服役中に彼の業務を扱っているサントマウロが実際に支払う可能性はほぼゼロである。というのも、『ホロコースト講義』には学問的に受け入れられる要素がまったく存在しないからだ。そもそもこの本は、想像上の対話者が「賢い若きジェダイ」ゲルマーに素朴な質問を投げかけるというばかげたQ&A形式で始まり、明確な小見出し内でも話題が混乱して飛び回るという極めて雑然とした構成をとり、ホロコーストに関する文献や資料の99%について完全な無知をさらけ出している。化学者から似非歴史家に転じたルドルフの面目躍如である。

この挑戦が出回った際、我々は本書を章ごとに逐一論破してやろうかとも考えたが、あまりにもナンセンスな代物に時間を浪費する価値はないと判断した。ところが、ルドルフが最も弱い論点である人口統計の扱いをどうしているか確認していたとき、あまりにもひどい誤りを見つけたため、ここで指摘しておく価値があると思う。

まずは若きジェダイの“賢明な”発言から:

「そういう場合には非常に注意しなければならない。百科事典やその他の類の著作物は、厳密な意味で科学的に信頼できる資料とは言えない……これは新聞や雑誌にも当てはまる。結局のところ、ジャーナリストが自分の扱うテーマについて深い知識を持っていることで有名だったためしはない。」

ゲルマー・ルドルフ『ホロコースト講義』44–45頁

そして同じ“若きジェダイ”のまったく賢明でない発言がこちら:

「その通りだ。実際の数はもっと多かった可能性がある。例えば、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題を調査した英米合同委員会は、1946年2月の記者会見で、ポーランドには戦後もなお80万人のユダヤ人が残っており、全員が国外移住を望んでいると発表した。」
注55:『Keesings Archiv der Gegenwart』第16/17巻、Essen, Rheinisch-westfälisches Verlagskontor, 1948年、651頁、1946年2月15日付項目B

ゲルマー・ルドルフ『Lectures on the Holocaust』35頁

だが、その該当部分はオンライン(註:リンク先はすでに存在しませんが、こちらが移転先のようです)で入手可能な英米合同委員会報告書では次のように記されている。

「今日のポーランドで正確な統計を得ることは不可能だが、戦前のユダヤ人口3,351,000人のうち、現在も残っているのはわずか80,000人と推定される。我々の見解では、このうちの大多数はポーランドを離れたいと望んでおり、もし可能ならばそうするだろう。」

つまり、記者かルドルフのどちらかがゼロをひとつ多く加えたのである。おそらく記者だろうが、真実との関係があやしいルドルフの場合はどちらとも言い難い。いずれにしても、これは痛烈な皮肉だ。というのも、ルドルフは“疑似科学”を批判しておきながら、ヴェルナー・コーンがかつて「決定的資料の手法」と呼んだ典型例を自ら体現しているからだ。

「フォーリソンは、いわば“決定的資料の手法”の実践者である。これは狂信者の間でよく見られる手法であり、どこで見つけたか、信頼できるかどうかを顧みず、ある一文や一節を取り出して、それによって歴史や宇宙に関する全く新しい理論を“証明”しようとするのである。たいていの場合、その“資料”は新聞記事の類である——結局のところ、どんな新聞でも、どこかの時点で何かが書かれているものだ。」

この話の教訓は明白である。自分の資料は、他人に検証される前に必ず自分で確かめることだ。さもなければ、自分が狂信者だと誤解されても仕方がない。

投稿者:ニコラス・テリー 投稿日:2007年5月19日(土)

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▼翻訳開始▼

600万

[著者注・2016年10月29日土曜日:この記事の初稿は、少なくともひとりの「脳のない」誤読者によって曲解された。この記事の目的は、ホロコースト否認論者が主張する「六百万」という数字――すなわち、戦争終結時に作られた捏造であり、1939年以前に予告されていた「ユダヤ人の破滅」の予測に基づくものだという説――を反駁することにある。否認論者たちは、「六百万」という数字がホロコースト以前のユダヤ社会で、差し迫った災厄を示す象徴的な数として広く使われていたと主張する。この記事は、当時の報道記事の引用を検証した限り、そうではなかったことを示すものである。]

(このミームへの反論はここ日本語訳)を参照。)

1905年、ロシア帝国(ポーランドを含む)のユダヤ人人口は6,060,415人と算出された。この数字は1917年になってもアメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)の年鑑(1916–1917年版、276頁)で使用されていた。したがって、アメリカのユダヤ人団体が同地域の同胞への援助を求める際に「六百万」という数字を引用するのは当然のことである。

しかし、Google News Archiveで1905年から1939年の期間を検索すると、以下の結果が得られる。

"Five Million Jews"(五百万のユダヤ人): 42件
"Six Million Jews"(六百万のユダヤ人): 44件
"Three Million Jews"(三百万のユダヤ人): 57件
"Millions of Jews"(数百万のユダヤ人): 1,520件

さらに、「五百万のユダヤ人が飢餓・追放・絶滅の危機に瀕している」といった記事は、ここここここ、そしてここに見られる。同様に、「三百万のユダヤ人」に関する記事もここここにあり、二つ目の記事では「三百万のユダヤ人が地上から滅び去ることのないように助けてほしい」と訴えている。

投稿者:匿名 2011年4月10日(日曜日)

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ウォルター・サニングの狂った世界(その1)

翻訳者註:こちらの翻訳は以下で読めます。

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42,500の収容所とゲットー

USHMMの研究者ジェフリー・メガギーおよびマーティン・ディーンによって主導された大規模な研究努力は大いに敬意に値するが、その成果の発表方法、特に一部の英語圏報道における発表の仕方については同様の評価は当てはまらない。

関連記事のタイトルには「ホロコースト研究者、42,500のナチス・ゲットーと収容所をカタログ化。その数は『信じがたい』」 (ザ・ハフィントン・ポスト、2013年3月2日)、「ホロコーストの全容が明らかに:研究者が42,500の収容所とゲットーを発見」(ザ・アルゲマイナー、2013年3月2日)、「ホロコーストの衝撃がさらに増した」(ニューヨーク・タイムズ、2013年3月1日)といった見出しが付けられている。

「全容」の何が「明らか」になったのか?

「ホロコースト」という語を、ナチス・ドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の試みという限定的な意味で用いる場合でも、あるいはより広い意味で、ユダヤ人のみならずナチス・ドイツの犯罪的政策と行為によって犠牲となった非ユダヤ系民間人全体を含む場合でも(これらを合わせるとユダヤ人虐殺よりも多くの死者を出している。参照:ブログ「5 million non-Jewish victims? (Part 2)」および「Nazi persecution and mass murder of Jews and non-Jews」)、今回明らかにされたのはその「全体像」ではない。明らかにされたのは、ナチスが人々を収容し、強制労働や売春を強い、虐待し、拷問し、殺害した、強制的管理下の囲い込み――すなわちゲットーや収容所――の種類とそれぞれの数である。それ以上でもそれ以下でもない。

では、USHMM研究者によって記録された膨大な数の収容所やゲットーが、ニューヨーク・タイムズが主張するように、ホロコースト(限定的または広義の意味における)を「より衝撃的」にするのはどの点においてなのか。それは、これまで想定されていたよりも犠牲者数が多いことを意味するのだろうか。この問いに対し、ドイツの週刊紙『Die Zeit』のインタビューでメガギーは明確に否定的な回答をしている(以下、私の翻訳)。

ZEIT ONLINE:ホロコーストの歴史は今、書き換えられるべきなのか?これまで知られていたよりも多くの犠牲者が出た可能性はあるのか?

メガギー:我々の研究が犠牲者数の評価を大きく変えるとは思わない。この数字は他の手段、例えば人口統計学的研究によってかなり正確に調査されてきた。我々の研究が変えるのは、ホロコーストがどのように起こったかという理解だ。

先に言及した英語の記事と同様に、メガギーが『Die Zeit』紙のインタビューで用いた「ホロコースト」という語が、ナチスの犯罪政策の非ユダヤ人犠牲者も含むより広い意味で使われていること、そして彼の研究チームが記録した強制的管理下の囲い込み施設(ゲットーや収容所など)の収容者の大部分(いや、ほとんどすべて)が非ユダヤ人であったことを、彼の発言はほとんど明確にしていない。この点についてより示唆に富むのは、ドイツの新聞『Tagesspiegel』のウェブサイトに2013年3月3日付で掲載されたベルンハルト・シュルツの記事である(以下、私の翻訳)。

詳細に見ると、980の強制収容所、数多くの分所を含む3万の労働収容所、1,150のユダヤ人ゲットー、1,000の捕虜収容所、そして少なくとも500の強制売春宿が数え上げられた。ベルリンだけでも、3,000の強制労働収容所およびいわゆる「ユダヤ人住宅」が確認されており、そこでは、住居から追放されたユダヤ人たちが収容され、後に強制収容所へ送られるまで監禁されていた。

しかしながら、この最後の数字は、すべての数を一律に合算することの問題も示している。収容所の目的と規模は大きく異なっていたのである。たとえば、労働収容所とワルシャワ・ゲットーを同列に扱うのは、あまり意味がない。また、4万2,500の収容所すべてが同時期に存在していたわけではないことにも注意すべきである。ナチ体制初期の「野放しの」強制収容所は、1934年までに大部分が解散していた。

しかしながら、この膨大な数は一つのことを明確にしている。プロジェクト責任者マルティン・ディーンの言葉を借りれば、「ドイツ国内で強制労働収容所や強制収容所に出会わずに済む場所など、文字通りどこにもなかった。それらは至るところに存在していた」ということである。したがって、この博物館の研究は、ナチスの恐怖と絶滅政策に関する知識がドイツ帝国内で一般的であったということを、すでに数多くの同時代人の証言が示している事実と一致している。そしてそれはユダヤ人に対してだけでなく、たとえば330万人のソ連軍捕虜に対しても同様であった。ヨーロッパ全域から動員された総計1,200万人にも及ぶ強制労働者の姿は、誰もが日常的に目にしていたものであった。

1941年、ナチス・ドイツが捕虜としたソ連人捕虜の数は330万人であった。1942年春までに、このうち約200万人が捕虜収容所で殺害されたか、あるいは主に飢餓と寒さで死亡した(クリスチャン・シュトライット著『同志などいない』、ボン1997年、128-137頁参照)。ブログ「スクラップブックページズ」も参照のこと。ドイツ国防軍とソ連人捕虜 1941-1945年、ボン、1997年、128-137頁参照。またブログScrapbookpages on Subhuman Cannibalism及びHCフォーラムのスレッドThe Fate of Soviet Prisoners of Warで転載・翻訳された文書も参照のこと)。シュトライットによれば、戦争全体を通じてドイツ軍の捕虜収容所で死亡したソ連人捕虜の総数は330万人であった。これは捕虜総数570万人の57.8%に相当する。これらの捕虜の圧倒的多数は非ユダヤ人であった。

シュルツは最大1200万人の強制労働者に言及している。その圧倒的多数は民間人であり、民間人またほぼ完全に非ユダヤ人であった。1944年の夏だけで、ウェブサイトForced Labor 1939-1945ナチス強制労働ページは、「600万人の民間人労働者、200万人の戦争捕虜、50万人以上の強制収容所囚人」が「ドイツ帝国で労働を強制された」と記している。ドイツの歴史家ディーター・ポール(『ナチス時代における迫害と大量殺戮 1933-1945年』p.61)によれば、強制労働者は最大1350万人に上った。この数字は前述のウェブサイトのインタラクティブマップの傍にも記載されているが、国別の小計を合計すると13,020,000人しかならない。前述のNYT記事によれば、メガーギーとディーンは「彼らが特定した施設で1500万人から2000万人が死亡または投獄されたと推定している」。

強制収容所やその他の拘束施設の数が非常に多いことは、『Die Zeit』紙のインタビューでメガギー自身が指摘したように、犠牲者数の算定や推計にほとんど、あるいは全く影響を与えないと見られている。それでは、メガギーの言葉を借りれば、この数字はいったい何が「センセーション」なのだろうか。いくつかの収容所で行われた大量殺害や、収容所・ゲットー内での囚人たちの苦しみや死が、これまで知られていたよりも収容所とゲットーの数が多かったという事実によって、より陰惨に見えるようになったのだろうか。ニューヨーク・タイムズ紙はこの点を強調するために、ヘンリー・グリーンバウムという84歳のホロコースト生存者の例を挙げている。彼は「5年間に5つの収容所で奴隷労働を強いられ、6番目の収容所へ送られる途中で1945年にアメリカ軍によって解放された」という。しかし、こう問いかけたくなる。「それで?」と。もしグリーンバウム氏が、その5年間を「たった」1つか2つの収容所で過ごしていたとしても、彼の苦しみや体験の恐ろしさがそれほど軽減されたと言えるだろうか。

USHMM研究者たちの発見の重要性を強調するもう一つの論拠として、ナチスの収容所が広範に存在していたという事実を「戦後に頻繁に主張された無知の訴え」に対して明白な反証とするものであるとされている。マーティン・ディーンはニューヨーク・タイムズ紙の記事の中で「ドイツのどこへ行こうとも、強制労働収容所、捕虜収容所、強制収容所に行き当たらずに済む場所など文字通り存在しなかった」と述べている。ドイツの歴史家ミヒャエル・ヴィルトも同様の見解を示しており、アモリー・ブルハルトとティルマン・ヴァルネッケによる2013年3月5日付『ターゲスシュピーゲル』紙の記事では、次のように引用されている(筆者訳)「1942年から戦争終結までの間にドイツで暮らしていた者ならば、特に強制労働者や彼らが住まわされていた収容所を見過ごすことなどできなかった」。

しかし、この点に関しては、USHMMの研究が新たな知見をもたらしたとは言い難い。というのも、USHMM研究チームがヨーロッパ全土で確認した4万2,500の拘束施設のうち、約3万か所、すなわち4分の3は強制労働収容所であったからである。そして、ドイツ国民が自国の周囲に存在する強制労働者の存在をどの程度認識していたかについては、この研究以前からすでによく知られていた。むしろ、シュルツの『ターゲスシュピーゲル』記事で言及されたように、同時代人の数多くの証言がすでに示していた事実、すなわちドイツの戦時産業が依存していた膨大な数の強制労働者たちが「誰もが知る光景」であったことを、この数字は改めて裏づけているにすぎない。だが、これがドイツの一般市民が強制労働を超えた、より陰惨なナチス政策――とりわけユダヤ人の組織的な大量殺害――についても同様に認識していたことを意味するだろうか。ドイツの歴史家マルク・シュポエラーは、前述のブルハルトとヴァルネッケによる『ターゲスシュピーゲル』の記事の中で、この点について次のように述べている(筆者訳)。

レーゲンスブルク大学の経済社会史教授マルク・シュポエラーは、「ヨーロッパ・ユダヤ人の数百万におよぶ殺害、すなわちホロコーストについての知識」に関して、収容施設の多さから直接的な結論を導き出すことに対して警鐘を鳴らしている。彼は次のように述べている。「100人のフランス人が収容され、そこから毎朝強制労働者が送り出されるような捕虜収容所は、一般の人々には戦時下の状況に伴うものとして認識されていた」。シュポエラーはさらに、強制労働者たちの生活環境がしばしば非人間的であったとはいえ、そのような収容所は、強制収容所や絶滅収容所の体系とはまったく異なるものであったと指摘している。

シュポエラーの前掲の発言は、シュルツの記事でも指摘されている別の懸念にもつながる。すなわち、規模や目的がまったく異なる場所を「一括して」数に加えることに、いったいどのような意味があるのかという問題である。その性質の違いに応じて、死者数や生存者が経験した恐怖の程度にも大きな差がある。小規模な労働収容所と、ワルシャワ・ゲットートレブリンカ絶滅収容所、あるいはベラルーシにおけるドイツの歴史家クリスティアン・ゲルラッハ(ゲルラッハの著書『計算された殺人』からの翻訳抜粋を参照)が挙げたような殺人的な捕虜収容所とを並列して挙げることに、どのような意義があるのだろうか。

バラノヴィチ近郊のレスナヤ、ミンスク、ヴィテブスク、キエフ近郊のダルニツァなどの捕虜収容所は、「誰かが迫害され、強制労働させられ、拷問され、監禁され、殺害された場所」というメガギーの定義を十分に満たしている。しかし、メガギーやディーンらが数えた約1,000の捕虜収容所のすべて、あるいは各捕虜収容所のすべての区画にこの定義が当てはまるだろうか。英米の捕虜は、1929年のジュネーブ条約の規定にほぼ従って扱われていたため、ストライトが指摘しているように、その死亡率はソ連の捕虜に比べてごくわずかであった。ジュネーブ条約に基づいて運営されていた捕虜収容所やその一部を、強制収容所や、前述のソ連捕虜収容所、あるいは絶滅収容所と同列に「監禁の場」として数えるべきだろうか。

メガギーやディーンらが、すでに刊行された、あるいは今後刊行される著作の中で必要な区別を設けている、あるいは設けることを願う。そうでなければ、彼らの多大な労力による成果が、究極の恐怖の場と、はるかに穏やかであった場所、さらには当時の状況下ではまったく陰惨とはみなされるべきでない場所(すなわち、英米の捕虜が国際条約に基づいて適正に扱われていた捕虜収容所やその区画)とを一括して扱うことによって、希釈されてしまうおそれがあるからである。

もう一つの懸念は、メディアによるUSHMM研究の報道の仕方だけでなく、研究そのものにも関係している。それは、この研究で強調されている「収容所」や「ゲットー」への焦点が、結果的に、国民社会主義者による大量虐殺やジェノサイドの大部分が、そうした強制的拘禁施設の外で行われたという事実を曖昧にしてしまうおそれがあるという点である。たとえば、レニングラード包囲戦はその典型であり、私は(ディーター・ポールとは異なり、ヨルク・ガンツェンミュラーに従って)それを正当な軍事行動ではなく、ジェノサイド的行為であったとみなしている。なぜなら、その目的は降伏を強いることではなく、市民の絶滅にあったからである。同様に、主に占領下のソ連都市住民を対象に行われた「選択的飢餓政策」も該当する。ポールによれば、この政策による犠牲者は100万人をはるかに超えたとされる。ソ連占領地域で行われた対パルチザン作戦の過程で殺害された民間人(その数はおよそ50万人)も、その多くは収容所の内部を見ることなく殺害された。そして、移動殺戮部隊によって殺害されたユダヤ人犠牲者のかなりの部分(私の推定では約190万人)にも同じことが当てはまる。カーメネツ・ポドリスキーバービ・ヤール日本語訳)の虐殺の犠牲者たちもそうであった。ゲットーに収容されていたユダヤ人のうち、移動殺戮作戦で殺された者たちは、ほとんどの場合、生活していたゲットーの外で命を奪われた。さらに、ヘウムノベウジェツソビボルトレブリンカの絶滅収容所、そしてアウシュヴィッツ=ビルケナウマイダネクのような「二重目的」の収容所も、到着直後に殺害された大多数の被害者にとっては「収容所」として経験された場所ではなかった。彼らは収容者となることなく殺され、これら前者の施設ではごくわずかな例外を除くすべての犠牲者が、また後者でも圧倒的多数がそうであった。

実際のところ、最も多くの収容者を抱えていた収容所が、最も多くの死者を出したわけではなかった。まったくその逆である。Pohl(『Verfolgung und Massenmord』61頁)によれば、ポーランドおよびソ連出身の(ユダヤ人以外の)民間強制労働者の死亡者数は15万人を超えていた。前述の地図(註:原文につけられているリンクは開けないためここでは省きました)によれば、ポーランド出身の民間強制労働者は160万人、ソ連出身は277万5千人、そのほかにチェコ人35万5千人、イタリア人96万人、ベルギー人37万5千人、オランダ人47万5千人、フランス人105万人、セルビア人21万人(うち捕虜および民間労働者を含む)、クロアチア人10万人、スロバキア人10万人、デンマーク人8万人、バルト諸国人7万5千人、ハンガリー人4万5千人、その他44万人がいたとされている。セルビア人強制労働者の半数が民間人であったと仮定すると、ドイツの戦争遂行のために動員されたヨーロッパ諸国の民間人労働者は総計853万5千人に上った(これに加え、捕虜は総計448万5千人で、その内訳はソ連195万人、フランス128万5千人、イタリア49万5千人、ポーランド30万人であった)。民間強制労働者のうち、ポーランドおよびバルト諸国を含むソ連出身者は合計で445万人であった。これらの強制労働者の死亡率は、およそ3.37%と見積もられる。これは、前述のPohlの約15万人の死者という数字をもとにしたものである。この割合は高いものの、死亡率が約60%に達したソ連捕虜の場合とは比較にならない。ましてや、ベウジェツ絶滅収容所のような場所とはまったく異なる。そこでは、43万4,508人の移送者のうち、生存者はわずか3人しかいなかった(Pohl, Verfolgung und Massenmord, 95頁)。西欧諸国出身の強制労働者の死亡率はさらに低かった。Pohl(同書61頁)によれば、フランス人の民間強制労働者のうち1万~2万人、オランダ人のうち8,500人が帝国内での労働中に死亡しており、それぞれの全体数に対して最大で1.9%および1.79%にすぎない。

メガギー、ディーンらが特定した4万2,500の強制的管理施設の大部分は、ナチの収容所およびゲットー制度によって引き起こされた死者のうち、比較的少数しか占めていなかったと考えるのが妥当であるように思われる。死者の大多数は、これらの施設のごく一部、すなわち主として絶滅収容所、二重目的の強制収容所、そしてソ連軍捕虜のための捕虜収容所で発生した。さらに、ナチのゲットーおよび収容所制度自体が、ナチ・ドイツおよびそのヨーロッパ同盟国による犯罪的政策と実践によって殺害されたおよそ1,249万5,000人から1,326万5,000人の(主としてユダヤ人以外の)非戦闘員のうちの一部しか占めていなかった(私の比較的控えめ推計による)。

このことはまた、13年間にわたって続けられ、約400人を雇用し、さらに今後12年間継続される予定のUSHMMの研究プロジェクトの相対的な重要性にも疑問を投げかける。なぜなら、ディーター・ポールが指摘しているように、ナチの迫害および大量殺戮による死者総数についてはいまだ有効な統計が存在せず、その総数を正確に確定するにはさらなる精緻な計算が必要だからである。第三帝国におけるすべての強制的管理施設を特定するためにUSHMMが費やしている資金と時間は、少なくとも歴史記述の観点からすれば、ナチの犯罪による全体的な死者数を詳細に記録する作業に投資した方がより有意義であったのではないだろうか。

投稿者:ロベルト・ミューレカンプ 投稿日:2013年3月11日(月)

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コラーストロームと1948年の国際赤十字委員会によるホロコースト報告書

翻訳者註:こちらの記事は以下で既に翻訳紹介しています。

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