「ユダヤ人問題の最終解決(Endlösung der Judenfrage)」に関するナチス政策について(11)
前回:
というわけで、今回は少々長くなりますが、Holocaust Controversiesブログサイトの「ナチス政策」リスト編の完了です。知らないことが結構書かれている記事ばかりで、自分としては積読状態が増える一方なのです(つまり自分自身では全然読めていない💦)が、興味ある方向けには情報提供量が増えるのはいいことかなと思っています。元々のホロコースト否定記事翻訳を始めたきっかけの一番の理由はそれですしね。
ただー、何故か、今回というか最近、生成AIによる翻訳がどうも気に入らなくなってきました。一言で言えば、感じとしては生成AIが手を抜くんですよ。そんなバカなと思うかもしれませんが、翻訳箇所を完全にすっ飛ばすとか(以前のDeepLの挙動とはまた違って、本当にすっ飛ばしているとしか言いようがない)、そんなのコンピューターならあり得ないでしょ? ChatGPTでは、それがしばしば発生しています。あるいは、Geminiは指示通りにやらない(強調とかいらんつってるのに入れてくる)。
これは、動画生成AIでも似てます。こっちのイメージするような動画に近づけるようにプロンプトに様々な試行錯誤を組み込んでいくわけですが、そこそこは近づけられても「イメージ通り」とまでにはなかなか行きません。たぶん、生成AIでの映像制作者さんたちも、相当苦労、あるいは我慢しているような気がします。
想像するに、膨大な人の要求を受け入れているうちに、生成AI側は「人間は大体こうして欲しいと願っている」みたいな結果を出力するように設計されているように思えます。Geminiの翻訳で、勝手に強調表示や区切り線、原文にないタイトルを付加したりするのは、それを多くの人が求めているからなんだろうと。でも、こっちはそういうの要らないんです。
このままAIが進化していくと、世の中にはどんどんAI任せの部分が増えていくのはもう間違いないと思いますが、人間の方は便利になる反面で、我慢を強いられる部分が増えていくのではないか?と思ったりもします。極端な想像例になりますが、例えば自動運転車の普及はもう間近ですが、自動運転車はおそらく絶対に交通ルールを違反しないようにするでしょう。でも、ルールってある意味では逸脱していいものでもあるのです。「ある意味」っていうのは、臨機応変的なことです。それが許されると言っているのではありません。しかし、例えば信号無視って全くしない人なんていないと思います。
そういう「ルールからの逸脱」こそが、人間の創造力の素晴らしさの源泉のようにさえ思っています。……関係ない話ばっかしてすみません💦
そういうわけで、今回はラストの方の記事では参照的にしか使わなくなっていた翻訳専業のDeepLに全面依存した翻訳になっている(DeepLもAI翻訳だが、生成AIとは異なって、関係する情報を考慮したりは出来ない。だから例えば「Transport」という単語は、ホロコーストの文脈では単に「輸送」あるいは「移送」とだけ名詞にすれば良いのに、DeepLでは「輸送船」となってしまうことが多い。もちろん見つけ次第こちらで修正しています)ので、若干ですが翻訳文の質は落ちていますが、翻訳が抜けるなどと言ったことは多分ないと思います。それ以外の記事もできるだけこちらの方で気をつけています。
▼翻訳開始▼
否認論のお役所的形式主義
(註:原文では以下はそれぞれタイトル名にリンク先が付加されていただけですが、ここではそのリンク作の記事内容も併せて掲載します)
1 . 台本化された証言と「異常点」の強調
この表(註:このリンク先は既に使用不可)は、戦後のナチス関係者裁判について否認論者が流布するミームを分析するための枠組みを示している。このブログ・シリーズでは、否認論文献からの具体例でこの枠組みを説明している。
最初のブログでは、SS構成員の供述は「台本化されていた」にもかかわらず、多くの「異常点」が含まれていたとする否認論の主張を取り上げる。この「台本化」主張はシュテークリヒの著作に見られ、彼はさらに、非協力的な加害者は裁判前に殺害されたという陰謀論と結びつけている。
ベーア[239]がこの主張に断固として反論し、その不条理さを示すことができていたなら、彼らが主要な目的――すなわち「ガス室」神話を補強し、それを反論不能な「歴史的事実」として確立すること――を達成するのを困難にしただけでなく、訴訟の流れをまったく別の方向に向かわせることさえできたかもしれない。ベーアはその不動の態度によって共被告たちの模範となり、裁判の他の参加者たちにも影響を与えた可能性がある。したがって、ベーアが台本で与えられた役割を演じることを拒否したために、彼の死後まで裁判が始められなかったという非難には一定の信憑性を与えるべきである。
フリッツ・ベルクも、T4ガス処刑に関するベッカーの証言について、ここ(註:このリンク先は既に利用不可)で別の「台本」主張をしている。
同文書の9ページ(上のリンク参照)には、ベッカーの署名のあとに「ベッカー博士は眼鏡をかけても読むことができず、供述書を読み上げるよう求めた」と記されている。つまり、誰かが彼のために供述書を作成したのである。なんということだ! ここに「捏造者たち」の仕業がある。供述書自体によれば、ベッカーは病状のために取り調べを中断せざるをえないほど病んでいた。病弱な老人は、自分で読むことすらできない馬鹿げた「自白」を強要されたに違いない。
しかし、ここには西ドイツの警察が通常の手続き――すなわち、聞き取り内容を正確に記録した供述書を作成し、署名を求める――から逸脱した証拠は何一つない。それにもかかわらず、ベルクは陰謀を見いだす。
シュテークリヒの「台本」ミームと、拘留中の自殺が「捏造」を守るための他殺だったという主張は、トーマス・クエス(ローレンツ・ダール)に大きな影響を与えている。彼はこちら(註:このリンク先は既に利用不可)で上記のシュテークリヒの記述を肯定的に引用している。彼自身のシナリオ化ミームの解釈はこちらに示されている:
この写真のキャプションではゴメルスキを冷酷で残忍な殺人者と記している。これは本当だろうか?1950年当時にシェルヴィスが示唆するように、彼は本当に公正な裁判を受けたのだろうか?取り調べ官や弁護士に自由に意見を述べることができたのか?それともアウシュヴィッツSS隊員ハンス・オーマイヤーのように、「ガス室」について「知っていたこと」を述べるように誘導質問を手渡されたのだろうか?
否定派の自己矛盾は、こうした「台本化」が彼らのいう「異常点探し」の手法によって暴けると主張する点にある。例えばクエスはここで(註:このリンク先は既に使用不可)この手法を認めており、彼はこう述べている:
私は比較のために引用または要約が必要だ。フランツが「サウラー社エンジン」の「フランス製トラック」だったと「想起」している別のインタビューを持っている。つまり、フランツがこの点について自ら矛盾していることを示すために引用が必要なのだ。
しかしクエス/ダールは、彼自身が想定している巨大陰謀――非協力的証人を自在に殺害できるほどの全能の陰謀――が本当に存在するなら、そのような「異常点」を生じさせる余地など与えるはずがない、という明白な事実には気づかない。共通の台本があるなら、定義上、証言は均一になる。この種の台本/異常点矛盾を唱える否認論者は皆、陰謀が同時に「全能」でありながら「杜撰」であったと信じるよう読者に求めているのである。
投稿者:匿名 2009年10月30日金曜日
2 . 強制・買収・量刑操作の主張
否認論の形式主義における第二の矛盾は、裁判が完全に強制的であったと主張しながら、同時に賄賂を必要としたとする点にある。このことは、同じ被告が直面した訴因に対して量刑が軽すぎる、あるいは重すぎるとする第三の矛盾につながる。その結果、同僚のニック・テリーが指摘しているように、量刑に関する否認論者の記述は、一方の否認論者が他方を直接否定する「circular firing squad(円陣射撃隊:仲間同士が互いに攻撃し合う状況を意味する慣用句)」を構成する。
一方で、否認論者は、魔女裁判のように裁判が構造的に強制的であり、被告には「受け入れられた物語」を疑問視する余地がなかったと主張する。ルドルフはここでそのような主張をしている。
SSや同様の経歴をもつ証人たちの状況が重大である一方で、被告の状況は絶望的としか言いようがない。彼らは、検察側証人のみならずメディアの奔放な憎悪と悪意の標的となっている[292]。ここで指摘した状況を踏まえれば、被告の大多数が告発された犯罪への関与を実際に否認していることは、奇跡的とさえ言える。他方で、被告は通常、犯罪そのものを否認しない。これらの問題の「自明性」を考えれば、そのような否認はむしろ裁判所の目に彼らの信用を落とすだけだからである。被告はしばしば、告発されている犯罪に対し嫌悪と憤りを表明する。イェーガー[293]は、これらの感情表明は戦術的配慮や、後の外部からの影響によって引き起こされた心境の変化に由来する可能性があり、そのため当該時期における罪の意識を示す証拠とはほとんど見なし得ないと述べている。そして、同じ理由により、これらを犯罪そのものの証拠と見なすこともできないと付け加えたい。とりわけ、同時期の手記、書簡、演説などに記録された、いわゆる加害者の曖昧な発言[294]は、罪の意識を示唆することがほとんどない。
しかししばしば、被告は自分に向けられた告発に反論せず、あるいは思い出せないという。彼らは単に犯罪への関与を否定しようとし、その責任を第三者――多くは不明、死亡、あるいは行方不明の戦友[295]――に転嫁しようと試みる。被告自身による弁明は、裁判所と検察によって、隠蔽を目的とした虚偽の陳述[296]と解釈される。多くの被告が、告発された犯罪の場所や時点から距離を置くために、考え得る限りのあらゆる詭計を試みるのは事実であり、その成功には限界がある。しかし、こうしたしばしば失敗に終わる戦術は理解しやすい。被告には犯罪そのものを反証する機会がほとんど与えられていないからである。このように無力な防御に追い込まれた被告は、多くの訴因に対して沈黙するのである。
この主張は、1965年秋から1966年2月までの期間に行われたシニャフスキー=ダニエル裁判と比較することで反駁できる。この時期、ラインハルト作戦裁判が西ドイツで進行中であった。ソ連は明らかに西ドイツより強制性の高い社会であったにもかかわらず、同裁判の被告たちは抗議の書簡を書き、不正義の犠牲者として認知された。
本論にとってさらに重要なのは、ルドルフの主張が、否認論者自身がそれを真実であると信じていないという事実によって反証される点である。否認論者は、強情な被告が殺害された(シュテークリヒ/クエス)と主張する一方で、別の証人は軽い刑罰と引き換えに買収されたと主張するからである。この矛盾は認知的不協和を生み、量刑に関する露骨な虚偽につながる。例えば、グラーフは次のように書いている。
協力的な被告は、その者たちに責任があるとされた犯罪がどれほどおぞましいものであっても、軽い刑罰を期待することができた。1965年のベウジェツ裁判では、唯一の被告であったヨーゼフ・オーバーハウザーは30万件の殺人への関与で有罪判決を受けたが、笑うほどに低い4年6か月の懲役刑で済み、しかもその全期間を務める必要さえほとんどなかった。この寛大さの理由は、オーバーハウザーが審理の際に一切の供述を拒否したことである。これは、彼が訴追を争わなかったことを意味し、したがって西ドイツ司法はまたしても、加害者たちは大量殺害をまったく否定しなかったと勝ち誇って確認することができたのである(リュッケルル, S. 83/84)。フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判では、特に残虐な恥ずべき行為が「立証された」とされた被告ロベルト・ムルカは14年の刑を受けたが、その刑は軽すぎると批判された。ムルカはわずか4か月後、「健康上の理由」で釈放された――彼は検察側の筋書きに従い、ガス室の存在を認めたのである。これをしなかった者は、寛大さを期待できなかった。トレブリンカ裁判の被告クルト・フランツは、1993年8月に恩赦を受けるまでの35年間を獄中で過ごした。なぜなら彼は、公式のトレブリンカ像を頑なに否定し続けたからである。これに対し、ユダヤ人が「裸で秩序正しくガス室に行進した」と証言した共犯者スチョメルは、わずか4年しか服役しなかった。
グラーフの指摘はいくつかの点で誤っている。第一に、オーバーハウザーの刑は、彼がすでにマクデブルク刑務所で数年間服役していた事実を考慮して判断されたものであり、これは裁判判決に明確に記されている。
量刑の決定においても、裁判所はすでに示された刑量決定の理由に基づいて判断した。加えて、個別の刑の量定においても、被告が1948年にマクデブルク地方裁判所によって、安楽死犯罪への関与およびSS所属を理由に15年の懲役刑に処せられ、その刑のかなりの部分を西ドイツよりもはるかに過酷な条件下の東ゾーンの刑務所で服役したという事情が大きく考慮された。本件裁判において、国民社会主義体制下で行った全ての行為について一度の裁判で審理され得なかったことによる被告への不当な不利益は、相応の刑の減軽によってのみ是正されるべきであった。もしオーバーハウザーが当時あるいは現在においてすべての過失について責任を問われるべきであったなら、当時の低い階級を考慮して、最高限度の懲役刑(刑法第14条第2項)が言い渡されていたであろう。この刑は、彼の行為の一部についてすでにマクデブルクで宣告されていた刑量でもある。
第二に、ムルカは刑期の3年目、1968年に健康上の理由で釈放されており、4か月後ではなく、1年後に死亡した事実がこれを示している。グラーフは、この誤りをおそらく1979年にバッツがニュー・ステーツマン誌に送った手紙からそのまま引用しており、正確性を確認せず、またバッツを原典として明記していないようである。
第三に、グラーフの「フランツがトレブリンカの『公式の図像』を頑なに否定していた」という主張は明らかに誤りである。アラード(p.92)はフランツの以下の証言を引用している。
「1942年の晩夏か初秋の頃、私はベウジェツからトレブリンカに来た。マルキニア駅からトレブリンカまで徒歩で行ったが、到着したときにはすでに暗くなっていた。収容所の至る所に死体があった。これらの死体はすでに膨張していたことを覚えている。死体は働かされているユダヤ人によって収容所内を引きずられていた…」(Treblinka-Franz, Band 8, p. 1493)
第四に、グラーフがスチョメルの刑が軽すぎると述べた主張は、ブラッドリー・スミスによって明確に反証されている。スミスは次のように述べている。
「フランツ・スチョメルはユダヤ人囚人の金品の回収と処理を担当していたSS隊員である。刑期は7年…」この刑は、グスタフ・ムンツベルガーが受けた刑と少なくとも釣り合っている。ユダヤ人の金品回収だけに責任があるスチョメルのような者を、100万人のユダヤ人を直接絶滅させたムンツベルガーよりも軽く処罰するのは正当である。
スミスはさらに次の反ユダヤ的な発言を続ける。
「ヘルマン・ランバートはSS隊員ではなかったようだが、それでも『ガス室の建設に協力した』として4年の刑を受けた。これは私には納得できない。ヘルマンというドイツ人は、100万人のユダヤ人が絶滅されたガス室の建設に協力したことで4年の刑を受ける一方、ヤンキエルというユダヤ人は、あらゆる手段で協力し、『私自身が彼らを処刑場に連れて行った。彼らの死の部屋を建てた』と語り、世界中のホロコースト信奉者に英雄とされ、自伝的記述が他の著名なユダヤ人作家の書籍で推奨読書とされる。」
スミスは、ランバートがハーゲンでのソビボル裁判でさらに3年の刑を受けた事実を無視している。
最後に、そして最も重要な点として、量刑に関する否認論者の主張は経験的に反証可能である。本稿の表(註:このリンク先はすでに使用できません)に示す通り、ラインハルト作戦裁判におけるSS被告の発言を集計し、彼らの量刑と比較すると、供述内容の性質と受けた刑期との間に全く相関は見られない。フランツやバウアーのように終身刑を受けた被告は、ガス処刑、射殺、死体処理に関する発言をしばしば行っている。
さらに、デイヴィッド・アーウィング自身がここで明らかにした通り、フランツは1980年代に獄中からマイケル・トレゲンザとガス室について書簡でやり取りし、その存在を認め続けていた(ただし、彼自身はエンジンを操作したことはなく、ディーゼルと誤認した可能性がある)。また、ここで議論されるジェローム・ブレンターへの証言では、フランツはトレブリンカのイワンの存在を認め(これにより否認論者にとって問題となる)、しかしイワン・デミャニュクと同一人物であることは否定した。したがって、フランツは強制された証人でもなければシオニストの操り人形でもなく、ガス処刑の物語を認めつつ、デミャニュクの有罪判決に協力したわけでもないのである。
投稿者:匿名 2009年10月30日金曜日
3 . 陰謀論と信念にもとづく断定
否認論者がアクション・ラインハルト職員の裁判を論じる際には、「研究者」の仮面が外れ、急速に偏執狂に陥る。彼らの発言はもはや信仰に基づく主張にすぎなくなる。例えば、シェルヴィスのソビボル研究の書評において、トーマス・クエスはソビボルの加害者ゴメルスキについて次のように述べている。
「私の記憶に残った写真には、メガネをかけ、白髪交じりの安物のベージュジャケットを着た老齢のフーバート・ゴメルスキが写っている。カメラから少し後ろ向きに、ある通りを歩き去る姿が見える。キャプションによれば、ゴメルスキは検察側証人として出廷した裁判所の建物から急いで立ち去っているところである。同じページには、ゴメルスキが制服姿で他のソビボル職員と一緒に写っている古い写真も掲載されている。この写真のキャプションでは、ゴメルスキは冷酷で残忍な殺人者であったとされている。本当だろうか。シェルヴィスが示唆するように、1950年に彼は本当に公正な裁判を受けたのだろうか。尋問者や弁護士に対し自由に意見を述べることができたのか、それともアウシュヴィッツのSS隊員ハンス・オーマイヤーのように、ガス室について「知っていること」を述べるよう要求される誘導尋問を受けたのだろうか。写真の匿名風の老人はソビボルの真実を知っていた。誰に打ち明ける勇気があったのか。友人にか。家族にか。あるいは死後に残されたかもしれない私的な書簡で自分自身にか。おそらく我々は決して知ることはできない…」
この偏執的な長文は、ゴメルスキが釈放後、E.A.コーエンに対して行ったこの本(註:このリンク先は既にありません)のインタビューで、自身の犯罪には8~10年の刑が妥当であり、「結局、私はそこにいた。否定できない」と認めた事実(de Mildt, p.392n. 引用)を無視している。クエスは、この資料を無視しているが、同じ記事の導入部ではコーエンの書籍自体に言及している。
さらに、これらの裁判で加害者による否認が見られないことを説明するために、クエス(「ダール」として)は、複数のSS要員の自殺が偽装されたとする荒唐無稽な陰謀をでっち上げている。彼は特にワグナーに注目しており、次のスレッドでは次のように述べている。
「私の推測では、ヴィーゼンタールやクラースフェルト夫妻のような『ナチハンター』の緩い結社が、モサド関係者やおそらくシュロモのような生存者(元モサドのビクター・オストロフスキーが著書『By Way of Deception』で述べるサヤン、モサドの現地信頼補助者として行動した可能性がある)と手を組み、引き渡しやカンガルー裁判(そこでガス処刑への関与を『自白』させる)にかけられなかった元『絶滅収容所』の警備員を排除したのだろう。ワグナーの場合は、引き渡し裁判でソビボルを『絶滅収容所』としての定説を否定していたようなので、特に動機があった。排除されなければ、ガス室の伝説に脅威を与えかねなかった。この仮説は、1950~60年代あるいはそれ以前に西ドイツで『裁判』にかけられた元警備員の拘留中の『自殺』、例えばクルト・ボレンダー(death-camps.orgによれば『裁判中、彼はソビボルで病人や障害者が処刑されたことはないと主張し、取り調べで初めてすべてが事実であると認めた』)、フリードリヒ・タウシャー、ヘルマン・フェルフェのケースも説明できるかもしれない。」
彼は通常、露骨な反ユダヤ主義的表現は避けるが、この陰謀論は彼の反ユダヤ主義的前提を露呈せざるを得ない。例えばここ(註:このリンク先は既にありません)のように。
「病んだユダヤ人ギャングやその仲間たちが、多くのドイツ人の『自殺』の背後にいる可能性が高い。彼らが上流階級の反修正主義体制の一員であることも示唆的である。クラースフェルト財団はジャン=クロード・プレサックの研究を資金援助していたが、彼があまりにも公然と異端的になるまで続いた。」
クエスの執着は、ワグナーには自殺傾向の既往があった事実を無視している。ニューヨーク・タイムズに報じられた彼の死亡記事(こちら)によれば、4回の自殺未遂があった。同様に、ボレンダーの死についてのクエスのほのめかしも、ボレンダーがソビボルでのガス処刑、射殺、死体に関して証言していた事実を無視している(本稿表(註:こちらのリンクは既に使用できません)参照)。さらにボレンダーの元妻は1966年8月15日に、彼がソビボルから「ゴールドブリュッケン」を持ち帰ったと証言しており、この証言はクエスが他の箇所で批判するシェルヴィス版の同じ版(p.85)に収録されているものである。
投稿者:匿名 2009年10月30日金曜日
▲翻訳終了▲
▼翻訳開始▼
西ドイツにおける安楽死裁判の寛大さ、1948~1959年
この表は、1946年から1959年にかけて西ドイツで行われた主要な安楽死裁判の判決を示している。1948年以降、量刑が著しく低下していることが明確に見て取れる。無罪判決も多く、被告は殺人ではなく過失致死や共犯として有罪とされる場合が多かった。
その主な理由は、裁判官が「義務の対立(Pflichtenkollision)」や法定外緊急避難(übergesetzliche Notstand)の原則を適用し始めたことである。これらはもともと1927年にドイツ法に導入され、母体の生命が危険にさらされる場合に中絶を行った医師を保護するためのものであったと、レンクナーはここで示している。その後、40年代後半にナチ裁判の継続に反対する神学関係者(牧師など)の圧力により、安楽死裁判にも適用が拡大された。彼らは、少数の命を奪うことでより多くの命の喪失を防ぐ場合、その行為は正当であると主張したのである。このため、保守的な裁判官は、辞職するのではなく、被告の主張する「少数の患者しか殺害していない」という説明を信じることが認められた。辞職すれば、より多くの患者を殺す者が後任として就く可能性があったためである。
さらに重要な点として、ブライアントが示したように、この西ドイツの法解釈は、必ずしもイギリス占領当局には共有されていなかった。イギリス占領軍の裁判所は、時にこのような無罪判決を覆したのである。例えば、英国地区最高裁は、クレウツや他の4名を法定外緊急避難を理由に無罪としたデュッセルドルフ裁判所の判決を覆した。しかし、英国裁判所はこうした判決を州裁判所に差し戻すことしかできず、州裁判所は元の事案で適用された西ドイツ法の原則を維持した。その結果、クレウツらはLtd 191号事件で再び無罪となったのである。
これは、否認論者の形式主義に対するさらなる反証である。否認論者は、西ドイツ人が占領者の操り人形であり、占領期間中ずっとナチを悪者に見せるための見せかけ裁判を行っていたと信じさせようとするが、それは事実ではない。
投稿者:匿名 投稿日:2010年3月8日(月曜日)
▲翻訳終了▲
▼翻訳開始▼
否認論者の筋書きに当てはまらないさらなる西ドイツ裁判
バルトフは、タルノポルのガリツィア地区に位置するポリツァイ・シポ・チョルトクフ管区のゲットーおよび労働収容所で残虐行為を行ったケルナーとトマネクの裁判について、優れた記述を提供している。ここで注目すべき点は二つある。第一に、ケルナーとトマネクは終身刑を言い渡された一方で、シポ司令官ペックマンは無罪となった。第二に、証人証言の取り扱いが厳格かつ厳密であった点である。ケルナーに対する判決は次のように述べている。
「この判決は、観察の欠陥や記憶の誤りによる誤認、ならびに虚偽の陳述が確実に排除できる証人証言のみに基づいている。」
これらの特徴は、否認論者の偏執的な形式主義の妄言では説明がつかない。
投稿者:匿名、2010年3月12日(金)
▲翻訳終了▲
▼翻訳開始▼
アルバレスとマライスが、ミュンヘン第一地方裁判所による1972年7月14日付判決(事件番号114 Ks 4/70)について嘘をついている。
このブログの題名で言及されている判決は、私が「ガスバンでの死がいかなるものになり得たかについてのさらなる情報」というブログで引用したものであり、『The Gas Vans. A Critical Investigation』という題名の「Holocaust Handbook」シリーズの一冊(著者は「サンティアゴ・アルバレス」〔おそらく我々の古い知人トーマス・クエスの別の偽名と思われる〕、主要寄稿者としてピエール・マレが挙げられている)において、231〜232ページで論評されている。著者らは以下「A(アルバレス)&M(マレ)」と呼称する。
A&Mによるこの判決の解釈/解説は以下の通りである:
3.7.5.3. ミュンヘン地方裁判所第一部、1972年7月14日付判決
この裁判は3名の被告(クルト・トリ.[?]、フリードリヒ・ゼフ.[?]、ハインリヒ・ゲー.[?])に対するものであり、いずれも南ウクライナでアインザッツグルッペDのアインザッツコマンド10aの一員として行われたとされる大量殺害の幇助の罪で禁錮4年を言い渡された。本研究に関係するのは、ハインリヒ・ゲー医師のみである。彼は1942年10月にEysk(判決文ではJeissk)の児童病院に収容されていた214名の病児をガスバンによって窒息死させるよう命じたとして訴追された。
判決文におけるガスバンの描写は、再びかなり短く、次のように述べられている(408ページ)。
「ガスバン、またはロシア人がそれを呼んだ名でいうと“魂殺し”は、貨物室を備えた大型トラックであった。外側の壁には偽の窓が描かれており、後部には貨物区画を閉じることができる大きな両開きの扉があった。貨物室の内部は白い金属板で覆われ、床は木製の格子で覆われていた。ホースによって、排気ガスを下部から車内へ導入することができた。」
判決は、これが「基本的に」一致する複数の証言の要約であると主張しているが(419ページ)、この車両のソ連側の通称“魂殺し”や偽の窓といった要素は、ソ連のクラスノダール人民裁判(The People’s Verdict 1944, pp.16f.)で初めて主張されたものであり、それ以外の証言や裁判判決ではほとんど見られない。これは、この裁判のテーマ全体がどこから来たのかを示す手がかりである。すなわち、基本的にはクラスノダール人民裁判の焼き直しであり、新たな被告と別の児童病院が追加されただけで、他はほぼ旧来の主張と手法が繰り返されている。そこには、ソ連の「証人」たちの証言を無批判に受け入れる態度(判決文は素朴に「ソ連側証人の操作は認められなかった」と述べる)、さらにはソ連が1943年に行ったとされる214名の児童が一酸化炭素で殺害されたとする法医学鑑定書まで含まれる(412、419ページ;cf. The People’s Verdict 1944, pp.31f.; 本研究3.2章参照)。
被告も証人も、なぜ214名が殺害されねばならなかったのかを知らなかったことは問題ではない。裁判所は理由を知っていた。彼らは負傷したドイツ兵のための場所を確保せねばならなかったのである(421ページ)。
なお被告は、児童の殺害についての知識も関与も全面的に否定し、ガスバンを見たのは二度、しかも遠目であったと主張した(422ページ)。遠目に見ただけでそれが「その」ガスバンだとどうして分かったのかは謎である。当然ながら裁判官たちは彼の主張を信じなかった。
以下に示すように、私はA&Mの主張を、実際に当該判決文に記されている内容と照合することにする。この判決文は、アムステルダム大学の「Justiz und NS-Verbrechen」コレクションから入手したものであり、私のブログ「ガスバンでの死がいかなるものになり得たかについてのさらなる情報」でも使用した。なお、判決文からの引用部分の翻訳は、いずれも私によるものである。
A&M
3.7.5.3 ミュンヘン第一地方裁判所、1972年7月14日判決
この裁判は3名の被告(クルト・トリ.[?]、フリードリヒ・ゼフ.[?]、ハインリヒ・ゲー.[?])に対して行われたものであり、彼らはそれぞれ、ウクライナ南部においてアインザッツグルッペDのアインザッツコマンド10aの一員として行われたとされる大量殺人の幇助により、4年の懲役刑を受けた。本研究にとって関係があるのは医師ハインリヒ・ゲー.だけであり、彼は1942年10月にエイスク(判決文では「イェイスク」)の児童病院に収容されていた214名の病弱な子どもたちを、ガスバンによって窒息死させるよう命じたとされていた。
実際には、医師ハインリヒ・ゲー.が1942年10月9日および10日にエイスクの病院で214名の障害を持つ子どもたちを窒息死させるよう命じたと、彼が非難されたことは一度もない。判決文の事実認定が明確に述べるように、誰が殺害を命じたのかは立証されず、被告ゲー.の関与は比較的軽微なものであった。
命令を下した者、作戦を指揮した者が誰であったかは、もはや明らかにすることができない。
クラスノダールに到着した部隊の他の隊員やイェイスクに駐屯していた分遣隊とともに、被告ゲ.医師は作戦に参加した。対応する命令の執行として、彼は1942年10月9日の第一日目にガスバンのそばに立ち、子どもたちの積み込み作業のあいだ、その作業を観察したが、作戦の遂行に対して特筆すべき影響を及ぼすことはなかった。彼はロシア人の補助要員や施設の看護師らに指示を与え、彼らがなすべきことを伝えただけであった。
ところで、A&Mが被告たちの姓の省略表記の後に「?」を付けているのは、かなり滑稽である。どうやらこの「天才」たちには、裁判所が当時のドイツの個人情報保護規定に従い、特定の刑期以下の被告についてはフルネームの公開を控えることがあり得る、という発想がまったくなかったらしい。
A&M
判決文におけるガスバンの記述は、再び「かなり短く」、次のように述べられている(408ページ)。
「ロシア人たちが『魂の殺し屋』と呼んでいたガスバンは、荷台を備えた大型トラックであった。外側の壁には偽の窓が描かれており、後部には荷室を閉じるための大きな二枚扉が付いていた。荷台内部は白いブリキ板で覆われ、床には木製の格子が敷かれていた。排気ガスを下部から内部へ導入できるホースが取り付けられていた。」
A&Mは、ここで読者に何を伝えようとしているのか。
ガスバンの構造や作動に関する詳細が、犯罪事実や被告ハインリヒ・ゲー.医師の関与についての裁判所の認定にとって、何か重要であったとでもいうのだろうか。
そのようには見えないし、A&Mがこれらの詳細が事実認定にどのように関連すると説明できるとも思えない。
そうである以上、この「かなり短い」ガスバンの記述のどこに問題があるというのだろうか。
A&M
判決文は、これが複数の「基本的に」(その意味するところは不明だが)一致した証言の要約であると主張しているものの(419ページ)、この車両に対するロシア人のニックネーム「魂の殺し屋」および偽の窓についての主張は、クラスノダールでのソ連の見せしめ裁判が初出であり(『The People’s Verdict』1944年、16ページ以下)、それ以外の証言や判決文には目立って欠けていると述べている。120
もし、クラスノダール裁判で言及された「魂の殺し屋」および偽窓の細部が、後続の証言や判決文に「目立って欠けている」のだとして(その意味するとされるところが何であれ)、それはつまり、全てのガスバンで偽窓の偽装が行われたわけではなかったか、あるいはそのような細部が全ての証人の記憶に残る必要もなかった、という以上の意味を持つのだろうか。また、他の裁判の証言は主として加害側の証人からのものであり、ソ連側の証人(ミュンヘン裁判で評価されたエイスク児童収容所の元職員のような者)と異なり、ガスバンの「ロシアのニックネーム」を知っているとは限らない。それ以外に何があるというのか。何もない、と私は断言する。
A&M
これによって、この裁判全体の「テーマ」がどこから来ているのかが分かる。すなわち、これは基本的にクラスノダール見せしめ裁判の焼き直しであり、新たな被告と別の児童病院が加わっているだけで、その他は旧来の主張と手口の繰り返しである(『The People’s Verdict』1944年、27–31ページ、35ページ参照)。そこには、ソ連の「証人」による証言を無批判に受け入れる態度も含まれており――判決文の素朴な表現を借りれば「[ソ連の]証人に対する操作は認められなかった」――さらに、1943年にソ連側が作成したとされる、一酸化炭素で殺害された214名の子どもに関する法医学鑑定書まで添えられている(412、419ページ;『The People’s Verdict』1944年、31ページ以下;本書第3.2章参照)。
他の「リビジョニスト」宣伝家と同様に、A&Mは都合のよい陰謀論の邪魔になる真実を持ち出すつもりは毛頭ないようだ(彼らの示唆するところは、おそらく、腐敗した西ドイツの刑事司法当局が、何らかの不可解な理由で、ソ連の「見せしめ裁判」の結論を正当化するために無実の人間を有罪にした、というようなものだ)。A&Mはまた、読者に対して、都合よく以下の事実を「忘れている」。
a) ミュンヘン裁判所は、ガスバン、事件の経過、そして被告の関与についての事実認定を、どの証拠に基づいて行ったのかを詳細に説明している。すなわち、施設の元職員・元収容者であるソ連側証人、加害側のドイツ人証人、当時のドイツ側文書、当時作成されたソ連側の法医学鑑定報告書、そして裁判所で提出されたおおむね一致する専門家鑑定である(ガスバンによる死がどのようなものかについてのブログに引用した判決文の最初の訳文を参照)。
b) 裁判所は、ソ連側証人の証言を無批判に受け入れたり、「[ソ連の]証人に対する操作は認められなかった」と「素朴に」述べたりしたわけではない。むしろ、i)ソ連当局による証人尋問および証人自身についての印象を確認するため、ドイツ人の予審判事と思われる人物(Dr. Wes.)を尋問し、ii)ソ連側証人の証言を信用できると判断した理由を、確かな論拠とともに説明したのである(強調は引用者):
証人Ko.、Lik.、Dwo.およびGet.の証言から明らかなように、彼らはいまなお事件についての明確な記憶を有している。彼らにとってこの出来事は唯一無二の、衝撃的で心を揺さぶる事件であり、忘れ去ることのできるものではなかった。証人Ko.は当時27歳で、指導・教育部門の責任者であったが、1970年8月7日に証言した際にも、Dr. Wes.証人の信用できる陳述によれば、その出来事に深く打ちひしがれていた。また証人Dwo.も、1970年8月6日に証言した際、内面から深く動揺していた。証人Lik.(当時45歳で経済部門の責任者)、Dwo.およびGet.(当時それぞれ19歳と13歳で施設に収容されていた)は、起きていることを間近で観察することができた。彼らの描写は詳細で明確かつ具体的である。証人Dr. Wes.の信用できる陳述によれば、これら証人への訓戒は丁寧かつ慎重に行われ、尋問は極めて適正で質問権の制限もなかった。さらに、証人に対して何らかの影響が加えられた形跡は一切認められなかった。
c) 裁判所は、ソ連側証人の証言のみに依拠するのではなく、これらの証言を被告の供述や加害側ドイツ人証人の証言と照合して確認した(強調は引用者)。
さらに、証人Ko.、Lik.、Dwo.およびGet.が提供した事件の経過に関する描写は、証人Boc.、Bö.、Su.およびVol.の証言によって大部分が裏付けられている。裁判所は、この文脈においてこれら証人が提供した情報も信用できると判断した。証人Boc.自身も作戦に参加していた。同様に、証人Vol.、Bö.およびSu.も作戦に関与していた。Vol.は、この作戦が自身の経験した中でも最も醜悪なものの一つであったことを指摘した。Bö.およびSu.は被告として証言を行った。Bö.は子どもたちを[ガスバンに]積み込むのを手伝ったことを認め、Su.は子どもたちの積み込みに参加し、死亡した子どもたちをガスバンから投げ出したことを認めた。これら証人の証言は客観的かつ正確であり、互いに概ね一致している。
A&M
被告も証人も、なぜこの214名を殺さねばならなかったのかを知らなかったことは、何の意味も持たない。裁判所は知っていたのである:負傷したドイツ兵のためのスペースを空ける必要があったのだ(421ページ)。
この段落の最初の文において、A&Mは、ゲー医師がエイスクでのガスバンによる殺害を命じたとして起訴されたという虚偽の主張を補強するために、この起訴内容とは矛盾する概念を嘲笑している(作戦を命じた人物がなぜ命じたのかを知らなかったなどということがあり得るだろうか?)が、裁判所の実際の事実認定を考えれば十分理解できる。すなわち、誰が殺害を命じたのかは確定できず、ゲー医師の関与は比較的軽微であった(これは、前述の私の投稿やブログで引用した裁判所の考察からも明らかなように、比較的軽い刑が科された理由の一つである)、さらに他の二人の被告はガスバンによる殺害には全く関与していなかったのである。
この段落の二文目において、A&Mは、裁判所が障害を持つ子どもたちの殺害理由に関する事実認定を、根拠のない単なる推測に基づいて行ったかのような印象を与えようとしている。これはA&Mの虚偽の見せかけの一例である。裁判所は、障害児殺害が命じられた理由について結論に至った証拠を明確に特定しているのである:
この作戦全体の目的について、被告も証人も正確な情報を提供することはできなかった。しかし、1942年9月25日付のOrtskommandantur I (V) 296の最終報告書によれば、School IIIおよびM通りの児童収容所の500床がSick Collection Point 604に提供されることが記されており、裁判所は、該当児童収容所を空にすることによって、病人収容所のための部屋が確保されると結論した。この文脈において特に重要なのは、被告トリによればイェイスクには戦時病院も存在していたことであり、一方で証人シュによれば、トリが移動した後も自身はイェイスクに残り、二つの野戦病院をロストフに移送したという点である。
(強調は引用者による)
A&M
被告人は、ちなみに、これらの子どもの殺害について何ら知識すら持っていなかったし、まして関与などしていないと否認した。また、ガスバンを見たのは二度だけであり、しかも遠くから見ただけだと主張した(422ページ)。どうして「遠くから」見ただけで、それが「その」ガスバンであると分かったのかは謎である。
これは、被告がアインザッツコマンド10aの一員であったことを考えれば、実に愚かな指摘である。あの部隊の誰かから、特定の車両が人々をガス殺するために使用されていることくらい聞かされていた、と思わない方がおかしい。さらにA&Mは、ゲー医師がガス殺の存在を認め、その残虐さゆえに強く拒否していたこと、また彼がアインザッツコマンド10aで目撃した出来事によって深く動揺していたと複数の証人が証言しているという重要事実を完全に無視している。
裁判所が、ゲー医師の国民社会主義に対する内心の姿勢やイェイスク児童収容所での作戦について認定した事実(理由書第II部(B)2 (c))は、特に被告自身の陳述(信用できる範囲において)および証人ヒル、カー、シュル、ズィルの証言に基づいている。
被告ゲー医師は、子どもたちが殺害されたことに対し憤っていたと特に述べた。ガスバンによる殺害を非常に残酷で、特に忌まわしく怪異で、恐ろしく、拷問のようなものだと考えていた。
弁護の過程では、命令に従わなければSSまたは警察法廷にかけられ、重刑、あるいは死刑すら確実であったはずだ、という点も強調した。
被告のこの点に関する陳述は―命令拒否の問題を除けば―少なくとも反証できるものではなく、また証人ヒル、カー、シュル、ズィルらの証言によって本質的に裏付けられている(証言可能な範囲において)。証人シュルは、ゲー医師は分遣隊の医師になるはずだったが、決して真剣に扱われていなかったと証言した。これは証人ヒルによっても確認されている。証人カーは、ゼーツェン[分遣隊指揮官]が自分の気まぐれで人を昇進させていたと信用できるかたちで述べた。証人ズィルは、ゲー医師が1941/42年の冬季休暇中に自分と夫を訪ねて来たことを証言し、そのとき医師はまったく絶望し、打ちひしがれた様子であったと述べた。彼は夫に対し、またユダヤ人迫害のような出来事を経験するくらいなら前線の方がましだ、と語ったという。
裁判所は、以上の点についてこれら証人の証言を疑う理由はないと判断した。
(強調は引用者による)
A&M
だが裁判官らは彼の言い分を信じなかった。
これは、あたかも陰険な裁判官たちが理由もなく哀れな被告の言い分を信じようとしなかったかのように読める。しかし、このような主張は、先の引用に見られるとおり裁判所が被告の良心の呵責に関する主張を受け入れている事実と矛盾しているだけでなく、裁判所がゲー医師のガスバン殺害への不関与という主張を退けた理由を省いている。裁判所が彼の主張を退けたのは、複数の目撃証言が彼を直接に不利な形で指し示していたためである。これらの証言はソ連側の証人によるものではなく、文脈および略記された名字がドイツ系である点からも、アインザッツコマンド10aの同僚によるものであったと判断できる。
被告ゴー医師が自身の作戦への関与について述べたところによれば、彼はかつてユーリエフとともにクラスノダールからロストフ方向へ車で移動したという。ユーリエフの任務が何であったのかは知らなかった。しばらくして、二人は人口約1万人の大きな町に到着した。その町がイエイスクであったかどうかは知らないという。ユーリエフは警察の者と話をしたが、その会話の中で近くに精神障害児の施設があるという話が出た。そこでユーリエフと彼はその施設へ向かった。彼は建物に入り、最初の部屋で15人の水頭症の子どもを見た。小さなベッドのそばにはダウン症の小さな子どもたちが立っていた。全部で20〜30人ほどの子どもたちを見たと述べた。看護師が二名いたことも覚えていた。その後、建物を出てユーリエフとともに立ち去った。子どもたちがガスバンに乗せられるところは見ていなかった。クラスノダールに戻ってから、子どもたちがガス殺されたと聞いただけだという。ガスバンについては人生で二度、しかも遠目に見ただけであり、一度はこの場所であったと述べた。
しかしながら、理由付け第II(B)2 b項に記載されている被告の関与は、証人フォル、ボック、ズー、ベーの証言によって立証されている。
ソ連人証人コー、リーク、ドヴォー、ゲートの証言には、当然ながら彼らの知らないゲー医師が作戦に関与したことを示す内容は含まれていなかった。しかし、証人フォルとボックは一致して、被告が現場におり「指示を与え」、「人々に何をすべきかを告げていた」と証言した。証人ズーは、1942年10月初旬にゴー医師とユーリエフが自分および兵士の一団に対し、イエイスク市へ向かうよう命じたと述べた。ゲー医師とユーリエフは乗用車で同行し、一行はガスバンで児童施設へ向かった。そこでゴー医師とユーリエフが作戦の指揮を執ったという。証人ベーは、ゲー医師が「魂の殺し屋(gas van)」とともにイエイスクへ来て、児童施設まで同行し、そこで「魂の殺し屋」の扉のそばに立ち、子どもたちの積み込みを手伝っていたと述べた。
(強調は引用者による)
これらの結論の後には、判決文において、裁判所が証人たちの信用性を「詳細に検討した上で」(nach eingehender Prüfung ihrer Glaubwürdigkeit)、ゲー医師のガスバン殺害への関与に関する事実認定の基礎として彼らの証言を採用した理由についての長い説明が続く。この説明の大部分は、証人フォルの不利な証言を裁判所が信用できるものと判断した理由を述べることに割かれている。フォルは親衛隊軍曹の階級にあり、被告トリから「邪悪な性格」と見なされ、証人ボックおよびシュルから熱心な国民社会主義者であったと述べられていた。裁判所は、フォルがゲー医師に対して偏見を抱いていた可能性や、真実に反して彼を不利に陥れようとした可能性を排除した。
以上の評価の結論は、A&Mによるミュンヘン第一地裁1972年7月14日判決(114 Ks 4/70)の紹介は、「修正主義」に特徴的な陰謀思考や他の誤った推論を示すだけでなく、不誠実な省略やその他の虚偽に満ちており、実際の判決内容とはほとんど関係がないということである。
そして、A&Mのこの駄文の残りの部分がこれより良い内容だと期待すべき理由もない。書籍の2ページにも満たない部分が上に示したようなナンセンスと虚偽に満ちている以上、書籍の他の部分でも同様の誤りを探すことは「樽の中の魚を撃つ」ように簡単であろう。必要な時間があり、ほかにやるべきことがない時には、私はまたそのような遊びで自分を楽しませるかもしれない。
投稿者: ロベルト・ミューレカンプ投稿日: 2013年4月25日(木)
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グラーフによる西ドイツ裁判に関する愚行(パート1)
1975年から1981年の間、ヒルデガルト・ラハートは、マイダネクで行われた犯罪に関してデュッセルドルフで裁かれた16人の被告の一人であった。彼女の弁護人にはルートヴィヒ・ボックが含まれており、彼はガス室を明確に否定し、ナチス時代に10万以上のユダヤ人が死亡したという証拠はないと主張した。しかし、この明白な否認戦略にもかかわらず、ラハートは1947年から1956年までポーランドでの服役歴があったものの、殺人ほう助でわずか12年の刑を受けるにとどまった。裁判の裁判官たちは、ボックが証人尋問を「威圧に近いほど厳しい」形で行うことを許した。
ボックは、このような事件においてホロコーストを公然と否定した最初の弁護士であるように見えるが、戦争犯罪訴追の正当性に疑義を呈した最初の人物ではなかった。クルト・フランツの弁護人であるハンス・ヨアヒム・ゲーリングは、西ドイツの現職判事たちが「当時の犯罪についてゲシュタポやその他の第三帝国の組織と密接に協力していた」と主張した。彼は、絶滅収容所の職員は、現在彼らに判決を下している者たちの替え玉にされているのだという見解を示した。別の裁判では、弁護人ゲルト・ハインケが「ヒトラーはヨーロッパ・ユダヤ人の破壊において“神聖な使命”を果たしていると信じており、その命令を実行した者たちは殺人の罪を負わない」と裁判所に述べた。彼は「自国民を滅ぼすと信じる他者を殺す国家指導者は、悪意ある動機から行動しているわけではない」と主張した。
これらの事実は、否認論者が依拠する西ドイツの司法手続き観を完全に打ち砕くものである。否認論者の物語では、戦争犯罪訴追の正当性は政治家、裁判官、検察、そして弁護側の間で聖域として合意されていなければならなかったとされる。例えば、MGKの『Sobibór』において、グラーフは西ドイツが単なる「傀儡国家」であり、「指導者たちが司法に対し、ガス室で数百万人が殺害されたという蜃気楼のために証拠を捏造するよう命じたが、その証拠は一片たりとも残っていない――そもそも存在したとしてもだ(171ページ)」と強弁している。このような大規模な捏造が、ボックやゲーリングの件で見られたように、手続きに関わる複数の組織が互いに敵対し、平然と“台本”から外れる状況で成立するはずがない。
グラーフはこの主張を成り立たせるために、多くの不都合な事実を意図的に見て見ぬふりをしている。彼は、基本法の下では司法が連邦政府から独立していたという事実を無視している。また1950年代、アデナウアー政権がニュルンベルク継続裁判(NMT)で有罪判決を受けた戦争犯罪者を連合国(米国)の拘禁から解放させ、さらに1933〜45年期の裁判官や官僚の多くを復職させたことにも触れていない。これらは、第三帝国を腐敗した制度の集合体として扱った連合国の政策を、暗黙のうちに反転させる行為であった。さらに重要なのは、西ドイツの裁判は大半がユダヤ人に対する犯罪を扱ったものではなかったという事実である。1992年までにナチ時代に関して10万3,823件の刑事捜査が行われたが、そのうちユダヤ人に対する犯罪で有罪判決に至った事件はわずか472件にすぎない(マッテウス、192–193ページ)。
裁判所と政治家の分離は、いくつかの戦争犯罪事件において示すことができる。1968年、西ドイツの首相クルト・ゲオルク・キーゼンガーは、元外交官アドルフ・ベッケアレの戦争犯罪裁判で証言するよう召喚された。ベッケアレは、1万1,343人のブルガリア系ユダヤ人をドイツの絶滅収容所へ移送する手配をしたとして訴追されていた。戦争終結近くまで絶滅収容所の存在を知らなかったというキーゼンガーの否認は、AJCから非難された。ベッケアレの弁護人はエゴン・ガイスであり、彼は以前ゲオルク・ホイザーを弁護する際、ミンスクを訪れて文書を調査し、証人尋問を行うという極めて徹底した対応をしていた。ガイスはホイザーに罪を否認するよう説得しようとはせず、ホイザーは自らの罪を全面的に認めた。
ホイザーは、戦後に西ドイツで再び警察の職を得たSS将校のもう一つの例である。ホイザーは、自身の成功した警察官としての経歴が、戦争犯罪人としての逮捕と訴追から自分を守ってくれると信じていた。これは、グラーフが描く「操り人形のような西ドイツ国家が、ガス処刑の現場に勤務したSS隊員を裁判官に命じて追い立てた」という妄想的なイメージとは到底両立しない。判決後でさえ、ホイザーは「刑期の6年半強を務めた」程度の運命に落ち着いたようである。グラーフによれば、これはホイザーが検察側に協力したためだということになるが、より可能性の高い説明は、ホイザーが自分はサディストではなく単なる事務的殺人者にすぎないと裁判官を納得させることができたという点にある。この説明は、西ドイツの裁判所が多くの事件で受け入れてきたものであった。ペンダスが述べる通りである。
レベッカ・ウィットマンは、1960年から1980年までのドイツにおけるナチ戦犯訴追を簡潔ながら概観し、「若く熱心な検察官と、より保守的で、主に旧ナチ裁判官という世代間対立」が存在したと指摘している(211ページ)。立法府がナチ犯罪の訴追に対して十分かつ明確な法的根拠を提供できなかった文脈(実際、1969年の時効に関する立法改革によって、多くのナチ犯罪者に対して事実上の恩赦が実施された)において、保守的裁判官が活動的検察官に勝利した。その結果、極端かつサディスティックなナチ被告人だけがようやくその犯罪に対して適切な処罰を受けるという、概ね免責的な判例法が形成されたのである。
もし西ドイツ国家がナチ犯罪者の処罰を最優先していたなら、例えば1960年5月に殺人未遂の時効が成立することを許さず、「ナチ犯罪の訴追の法的根拠」を改革していたはずである。フリードランダーはここで次のように指摘している。「裁判所が使用した言葉遣いは時としてナチ犯罪への感受性の欠如を示している。例を二つ挙げる:
連邦裁判所(Bundesgerichtshoj)は、ナチ法に違反してユダヤ人を援助したドイツの公務員の行為を『公務違反(Amtspflichtverletzung)』として非難した。[24](註:このリンクは使用できません。以降同様の数字に付加されていたリンクも使用できないため省略しました)
ザクセンハウゼンでの殺人に関与した強制収容所管理者の刑を言い渡す際、ニュルンベルク=フュルト地方裁判所は『被告がSS隊員として名誉ある人物でなかったことを証明することができなかったため、民事権利を剥奪する十分な理由は認められない』と結論づけた。」[25]
さらにフリードランダーは、1940年の「バスタブ事件」によって確立された判例が、殺人への直接関与を単なる幇助とみなす解釈を裁判所に可能にしたことを指摘している。
いわゆる主観的解釈により、裁判所は個人的に殺人を行った者であっても幇助者として有罪にできるようになった。戦後直後の数年間、一部の裁判所はこの解釈を拒否した。彼らはナチ殺人者を幇助者として分類せず、「個人的関与の程度」をあくまで参加の評価基準の一つと見なしたのである。これらの裁判所は、殺人者を行為者(加害者)として有罪にした[61]。しかし最終的にはほとんどの裁判所が「バスタブ事件」における主観的解釈を受け入れた[62]。1948年以降、この解釈はほぼすべてのナチ犯罪者にますます適用され、アインザッツグルッペの指揮官、絶滅収容所の上級将校、ゲシュタポの長官らが、ヒトラー、ゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒといった上級加害者の幇助者として有罪判決を受けることになった。このような慣行は、1962年のシュタシンスキー判決において連邦最高裁(ブンデスゲリヒトホーフ)が再確認するはるか以前から定着していた[63]。
幇助者としての有罪判決であっても、自動的に重い刑罰が免除されるわけではなかった。終身刑は認められ、行為者に課される法定刑からの減刑は、幇助者に対してはあくまで示唆されるにとどまり、義務ではなかった。終身刑が科されない場合でも、15年の刑期を宣告できた。しかし、実際にはこの傾向は稀であった。裁判所は重い刑をほとんど科さず、通常は数年、しばしば5年未満が、数千人の殺人に関与した幇助者への刑として宣告された。この寛容の理由として提示された説明は、しばしば奇異であった。例えば、ある事件では裁判所は以下のように判決理由を述べている:
「刑を言い渡すにあたり、被告が不当な処罰や外国権力への引き渡しを恐れて何年も自宅に身を隠し、長期にわたる心理的負担を受けたことを情状酌量の事情として考慮した。」[64]
1968年には法律の改正により、有罪判決は格段に困難になった。この時点で、殺人を除くすべてのナチ犯罪について時効が成立していた。殺人について時効が迫るたびに、立法府は長期にわたる議論の末にこれを延長した。しかし、その法律自体には殺人や過失致死についての記述はなく、殺人を終身刑に処すべき犯罪、過失致死を15年以下の刑に処すべき犯罪として定義しているにすぎなかった。後者の時効は1960年に成立した。前者については成立しておらず、行為者に適用されるとともに、終身刑を受けることは稀であったが幇助者にも適用され得た。1968年、刑法第50条の改正により、幇助者が行為者の基本的動機を共有しない場合には、刑の減軽が義務化された。その結果、15年を超えない減刑となり、この種の殺人幇助者については1960年に時効が成立することになった[65]。
その結果、検察は単に殺人を幇助しただけの者に対して終身刑を獲得することはできなかった。したがって、ハウザー裁判では検察はハウザーに対して終身刑を求めたが、陪審員は最高刑を15年と定め、その中には1959年以降の拘留期間も含まれた。唯一、サディストで熱狂的反ユダヤ主義者のフランツ・シュタルクだけが終身刑を受けた。ソビボル裁判では、悔い改めないサディストのフレンツェルが終身刑を受け、トレブリンカではクルト・フランツが終身刑を受けたが、これによってフランツが後にガス室に関する供述を行うことを妨げるものではなかった。
このような刑罰は、グラーフやその同僚たちにとって大きな問題となることを、第2部で示す。
投稿者:匿名 投稿日:2014年8月13日(水)
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グラーフによる西ドイツ裁判に関する愚行(パート2)
第1部で指摘した西ドイツの戦争犯罪裁判に関するMGKの一般的な問題に加え、グラーフとその同僚たちは、1963年から1966年にかけて西ドイツで裁判にかけられた、3つの「ラインハルト作戦」収容所における犯罪の被告たちの証言と判決から明らかになるパターンに悩まされている。
グラーフは繰り返し、いわゆるガス室説に協力した者たちが「軽い罰で済まされた」と主張している(『反論』、169ページ)。これはマットーニョが、トレブリンカでの犯罪で終身刑を受けたウィリー・メンツとクルト・フランツについて論じる際に問題を引き起こす。マットーニョはメンツの言葉をこう引用している:
輸送車には常に病弱な者や衰弱した者が乗っていた。到着者の中には負傷者もいた。輸送の護衛であるSS隊員、警察、ラトビア人らが移動中に人を撃つことがあったからだ。こうした病弱者や負傷者は特別な労働班によって病院へ運ばれた。[…]私は9ミリ拳銃で首を撃つことでこれを実行した。[…] 輸送到着後に私が射殺した人数は様々だった。時には二人か三人だったが、時には二十人、あるいはそれ以上になることもあった。
これはクリー他編『古き良き時代――加害者と傍観者から見たホロコースト』(1988年)の247ページからの引用である。ただしクリー他編におけるこの文章の完全版は次の通りだ:
輸送には常に病弱な者や衰弱した者がいた。時には負傷者も含まれていた。輸送の護衛であるSS隊員、警察、ラトビア人らが移動中に人々を射殺することがあったからだ。こうした病弱者や負傷者は特別作業班によってラザレット(野戦病院)へ運ばれた。彼らは病院区域へ移送され、墓穴の縁に立たされたり横たえられたりした。これ以上病弱者や負傷者が来ないと判断されると、俺の仕事は彼らを射殺することだった。9ミリ拳銃で首を撃つ。そうすると彼らは倒れたり横倒しになったりして、病院のユダヤ人労働者二人によって墓穴へ運ばれた。遺体には塩素石灰が撒かれた。後にヴィルツの指示で、遺体は墓穴の中で焼却された。
輸送到着後に私が射殺した人数は様々だった。時には2、3人だったが、20人あるいはそれ以上になることもあった。老若男女がおり、子供も含まれていた。
今日、この方法で何人を殺したかと問われても、もはや正確には答えられない。
したがってマットーニョは、メンツが子供を射殺した事実を省略している。またユダヤ人が射殺された手順も除外している。最も重要な点として、マットーニョはメンツが終身刑を宣告された事実を排除している。これは彼が尋問官にガス室の詳細を供述したにもかかわらずであり、その供述内容は引用されている。しかもそれはマットーニョが引用するクリーらによる書籍のまさに同じページに記載されているのだ。
ソビボル裁判における量刑に関するグラーフの論評には、少なくとも非常にずさんな誤りが含まれている。例えば彼は「ジュール・シェルヴィスは、裁判所がラッハマンを『精神障害』とみなしたため無罪としたと説明しているが、より可能性が高い説明は、彼が検察に積極的に協力したからである」と主張している。もしグラーフが実際に判決文を読んでいたなら、そこにはこう記されていることを知っていただろう:
Bei dem Angeklagten Lac. ergibt sich dies aus folgendem: Er hatte von vornherein gebeten, ihn nicht in Sobibor einzusetzen. Als ihm Strafkompanie oder KZ angedroht wurden, ging er doch dorthin und zwar aus Angst, verhielt sich dort aber nicht exzessiv und änderte seine innerlich ablehnende Einstellung im Zweifel auch nicht. Er tat seinen befohlenen Dienst so schlecht, dass er schliesslich als unbrauchbar weggeschickt wurde, remonstrierte bei Höfle anschliessend gegen eine weitere Dienstleistung in Treblinka und desertierte sogar noch, als er in dieses weitere Vernichtungslager abkommandiert wurde.
Es ist nicht feststellbar, dass Lac. als ein unterster Polizeidienstgrad mit seinen sehr primitiven geistigen Gaben irgendwelche anderen Möglichkeiten gehabt hätte oder gar hätte erkennen können und deshalb zumutbar versäumt hätte, sich seinem Einsatz in dem Vernichtungslager Sobibor anders zu entziehen. Personalmässig unterstand er vorher nicht Wirth, sondern der Gendarmerie, deren oberer Führer Globocnik war. Bei seinem Dienstvorgesetzten Drechsel hat er remonstriert. Weitere Bemühungen wären erfolglos gewesen, wie sein späterer Besuch bei Höfle zeigt. Der Lagerkommandant in Sobibor war für ihn hinsichtlich der Diensteinteilung zuständig, im übrigen unterstand er dort ebenfalls Wirth. Bei einem so ungemein primitiven Menschen, wie Lac., kann nicht gefordert werden, dass er die Hierarchie der personellen Zuständigkeiten und Möglichkeiten in Sobibor noch anderweit ausschöpfte, um dort wegzukommen. Dass er - ausser mangelndem Diensteifer und Trunksucht - in Sobibor nichts weiter unternommen hat, um abgelöst zu werden, indiziert daher nicht notwendig einen einverständlichen Eifer oder eine innere Gleichgültigkeit. Lac.s beschränkter Verstand sah nur die von ihm wahrgenommenen Möglichkeiten ausser der Desertion, die er später beging.
翻訳:
被告ラークの場合、これは以下の理由による。彼は当初からソビボルへの配属を拒否していた。懲罰部隊か強制収容所行きを脅かされたため、恐怖からソビボルへ赴いたものの、過激な行動は取らず、内面的拒否姿勢を変えた兆候もない。命令された任務を著しく怠ったため、最終的に役立たずとして解雇され、その後はトレブリンカでの勤務継続にホーフレへ抗議し、この別の絶滅収容所への配属命令を受けた際には脱走までした。
ラークが下級警察官として、その未熟な知性では他の可能性を認識することすらできず、したがってソビボルでの勤務を合理的に回避できなかったと断定することはできない。人事面では彼は当初ヴィルツではなく憲兵隊に配属されており、その最高指揮官はグロブチニクであった。彼は上司のドレッセルに抗議した。その後の努力も無駄に終わった。後にホーフレを訪れた事実がそれを示している。ソビボル収容所の所長は職務に関しては有能だったが、それ以外では現地でもヴィルツの配下にあった。ラックのように極めて原始的な人物に、ソビボルでの人事権限や可能性の階層をさらに掘り下げてそこから逃れるよう求めることはできない。したがって、彼がソビボルで――熱意の欠如や酩酊状態に加え――そこから解放されるための行動を何も起こさなかった事実は、必ずしも従順な熱意や内面の無関心を示すものではない。ラックの限られた知性は、後に実行した脱走以外に、彼が利用した可能性しか見出せなかったのだ。[De Mildt & Rueter, 『司法とナチス犯罪 ドイツにおける国民社会主義殺害犯罪の刑事判決集』 1966年12月20日付ハーゲン地方裁判所判決(事件番号11 Ks 1/64)及び1971年3月25日付連邦最高裁判所判決(事件番号4 StR 7-48/69)の個別写し、Ex-Post Facto Productions刊、2001年、228頁;翻訳はロベルト・ミューレンカンプ氏による]
ラッハマンの無罪判決は、彼がラインハルト作戦に従事した当時の精神的な制限によるものであり、裁判を受ける能力や証言能力によるものではない。にもかかわらず、グラーフは誤って次のように主張している:
つまり、ラッハマンは検察官が聞きたがっていたことを正確に話したのだ。そして検察官は彼の精神状態を十分に信頼し、証人として利用した。疑いなく、数年前、ラッハマン自身の自由がかかっていた時も同じ状況だったと安全に推測できるだろう[『反論』171頁]。
グラーフは一次資料ではなくシェルヴィスに依拠したため、愚かにも誤った推論を導いた。彼は証言能力こそが裁判所の根拠だったと仮定し、リンゴとオレンジを混同している。実際は収容所での労働を回避するための道徳的判断を下す、はるかに高い能力が必要だったのだ。
グラーフはさらに「ウンフェルハウは戦後のナチス裁判において事実上、検察側の証人として自発的に参加した――それゆえ報いを受けた」という主張でも誤っている。これは奇妙な主張だ。ウンフェルハウは三つの異なる調査(グレーフェネック、ベウジェツ、ソビボル)で拘留され、そのうち二件(ベウジェツのみ除外)で裁判にかけられた。無罪判決は長期の公判前拘留の後に下された。これはグラーフが示唆する扱いとは全く異なり、むしろ米国における「国家の証拠を提出する」行為に近い。
さらに、グラーフは証人たちが公判前の自白をした時期と自由を得た時期との間の長い間隔を説明できていない。ウンフェルハウの場合、最初のベウジェツに関する自白から最終的な無罪判決までの長い期間が該当する。
これはグラーフの法理解が歴史的・比較的視点を欠いている数多くの例の一つに過ぎない。根本的にはグラーフが不誠実な立場から出発しているためだ。最も決定的なのは、グラーフの法解釈が反ユダヤ主義に立脚している点だ。彼はユダヤ人証人が復讐を企てたと非難する:「これらの裁判では常に多数の証人が用意され、被告人(ソビボル、p.184)のいずれに対しても最も恐ろしい行為を帰属させようと躍起になっていた」。これは単なる嘘である。協力しない被告人に対しては、十分な証言が得られないため起訴が取り下げられる事例が実際に存在したからだ。例えば、クライアーは 1950 年に無罪となったが、それは、サディストのゴメルスキーとは異なり、目撃者が彼を「善良な人物」と評したためである。同様に、ヴォルフとデュボアは、1966 年のハーゲン裁判で、目撃者の証言が弱すぎると判断されたため、刑期が短縮された(ブライアント、37 ページおよび 174 ページ)。
したがって、グラーフは、そのずさんさ、人種差別主義、不誠実さ、そして最終的には証拠の取り扱いにおいて賢明でなかったことで非難されている。
投稿者:匿名投稿日:2014年8月13日(水)
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グラーフによる西ドイツ裁判に関する愚行(パート3)
本シリーズのパート1およびパート2に続き、ソビボル事件の裁判においてナチス支持者が弁護側証人を支援した事実は、こちらの記事とこちらの記事で記録されている。特に注目すべきは、HIAGが被告を支援し、フレンツェルの弁護士レオンハルト・ラインツシュがフレンツェルの事件を1985年まで継続させるのを助けたことだ。例えばフレンツェルがブラット紙に認めた事実にもかかわらずである。
『ディ・ツァイト』紙の記事によれば、ラインツシュは極右紙「ナショナル・ツァイトゥング」のレジーナ・ダールに資料を提供したが、最終的には裁判の公正性を認めたようだ:
「類似の訴訟に度々関与してきた弁護団仲間から、検察庁が特にソビボル裁判において最大限の客観性を示したと、幾度も確信を持って保証された」
結局、記事のタイトルは『「忘れられた」裁判』だった。つまりこれは定義上「見せしめの裁判」ではありえない。こうしてグラーフの信頼性を収めた棺桶に、また一つ釘が打ち込まれたのである。
投稿者:匿名投稿日:2015年4月20日(月)
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ニュルンベルク裁判(1961年の映画)
1961年の映画ニュルンベルク裁判は、スペンサー・トレイシー、バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク、マクシミリアン・シェルが出演した。これはニュルンベルク「司法事件」、正式名称「アメリカ合衆国対ヨーゼフ・アルトシュテッター他」を脚色した作品だ。
この映画についての意見を述べる前に、私が最も弱点と考える部分について注意を促しておきたい。それは、検察側弁護士のタッド・ローソン大佐(リチャード・ウィッドマーク)が証人として宣誓した後(1時間30分22秒から1時間36分07秒)、ナチスの犯罪に関する記録映像に解説を加える場面である。
ローソンの記述は感情的に訴えかけるものの、不正確な点が多く、映像も主張されている内容とは異なる場面を映していることが多い。ダッハウ強制収容所での殺害目的のガス室使用(私の知る限り、ニュルンベルク裁判や他の連合国戦犯裁判、西ドイツ刑事裁判のいずれにおいても法廷で立証されたとは見なされていない)に言及しているほか、不正確な点は以下の通りである:
1 . ローソンは「連合軍将校が地元住民向けに展示したブーヘンヴァルトの副産物」と発表する。続く映像には確かにそのような展示物が映っているが、同時に以下の画像も映っている。これらはブーヘンヴァルトとは無関係である:




これらの画像は明らかに、マイダネクとアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の解放を撮影したソ連の映像である。これはドキュメンタリー『ソ連におけるドイツ・ファシストの残虐行為』のこちらで言及されている部分に含まれている。
2. ローソンが「最終的な絶滅のために刺青を刻まれた子供たち」と呼んだ画像についても同様である。


これらの子供たちはアウシュヴィッツ=ビルケナウでソ連のカメラマンに撮影された。ローソンの主張とは異なり、彼らが刺青を刻まれたのは「最終的な絶滅のため」ではなく、絶滅から免除されていたか、そもそも絶滅の対象ではなかったからだ。もしこの中にユダヤ人がいたとしても、彼らが生き延びていた理由は医学実験の対象に選ばれていたからだろう。しかし、これらの子供たち、少なくともその大半は、ワルシャワ蜂起の最中または後に家族と共にアウシュヴィッツ=ビルケナウへ移送された非ユダヤ系のポーランド人子供であった可能性が高い。このページによれば、1944年8月から9月にかけて、約13,000人のワルシャワ住民(男性、女性、子供を含む)がアウシュヴィッツ=ビルケナウへ移送された。
3. ローソンは「死の輸送」には「スロバキアから9万人、ギリシャから6万5千人、フランスから1万1千人、オランダから9万人、ハンガリーから40万人、ポーランドと上シレジアから25万人、ドイツから10万人」が含まれていたと述べている。言うまでもなく、これらの数字はブーヘンヴァルトとは無関係だ。ブーヘンヴァルトは単なる強制収容所であり、アウシュヴィッツ=ビルケナウやマイダネクとは異なり、絶滅目的も兼ねていなかったため、「死の輸送」を受け入れたことは一度もない。この数字は、ポーランドでの公判前尋問後に、アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスが「ユダヤ人問題の最終解決」アウシュヴィッツ強制収容所と題したメモに記載した数字に触発されたものと思われる。ヘスは記憶に基づき、以下の「大規模な行動」の数字を記している:上シレジアと総督府から25万人、ドイツとテレージエンシュタットから10万人、オランダから9万5千人、ベルギーから2万人、フランスから 11万、ギリシャから6万5千、ハンガリーから40万、スロバキアから9万。
これらの数字の合計である113万は、ポーランドの歴史家フランシシェク・ピーパーが確立しヴァン・ペルト報告書で示された規模と一致する。ただし、ヘスの提示した国の数字の一部はピーパーの研究結果と大きく異なる。後にドイツ人歴史家クリスティアン・ゲルラッハとゲッツ・アリーによる研究でハンガリー系ユダヤ人の数値が下方修正されたピーパーの数値は、アウシュヴィッツ=ビルケナウの死者数に関する歴史研究の現状かつおそらく最終的な結論である。
ローソンが「死の輸送」を説明するために提示した映像(以下に静止画を再現)は、アウシュヴィッツどころかブーヘンヴァルトのものでもない。




上記の写真の最後には、明らかにソ連領内でドイツ軍によって殺害された民間人(必ずしもユダヤ人ではない)が写っている。この写真は、こちら、こちら、こちらで示されているようなソ連の映像から引用されたものだ。
下から2枚目の写真に写っている発掘遺体は、タルノポル地方のクレメネツとヴィシュネヴェツの2都市で殺害されたユダヤ人市民と思われる。これらはこのブログで紹介されたドキュメンタリー『ソ連におけるドイツ・ファシストの残虐行為』の静止画にも映っている。1942年8月15日付のドイツ報告書は、クレメンツ(クレミャネツ)地域における13,802名のユダヤ人殺害を記している(クリスティアン・ゲルラッハ『計算された殺戮』715頁、脚注1154)。これらのユダヤ人は、ドイツ人が「地域移住」(örtliche Aussiedlungen)と呼んだものの犠牲者であった。これは総督府(Generalgouvernement)のガリツィア地区で行われたものである(ブログベウジェツの集団墓地と考古学:カルロ・マットーニョへの私の反論(5,2)参照)。
上部の二枚の静止画は、結局のところソ連の映像であり、ドキュメンタリー『ソ連におけるドイツ・ファシストの残虐行為』にも収録されている。これらは1945年1月30日から31日にかけての夜、捕虜収容所の看守によって射殺されたキュストリン近郊のゾンネンブルク収容所の囚人たちを示している。詳細はブログソ連におけるドイツ・ファシストの残虐行為 (3)を参照のこと。
4. ローソンはベルゲン・ベルゼン強制収容所の映像を提示する。そこでは英国兵がブルドーザーで収容者の遺体を集団墓地に押し込んでいる。彼は演説を次のように締めくくる:「遺体は誰のものか? ヨーロッパの占領下のあらゆる国の者たちだ。ヨーロッパのユダヤ人の3分の2が絶滅させられた。ナチス自身の数字による報告によれば600万人以上だ。だが実際の数字は…誰も知らない」
実際、600万人のユダヤ人死者を記した「ナチス自身の統計に基づく報告書」は一つしかない。それはRSHA(国家保安本部)職員ヴィルヘルム・ヘットル博士の宣誓供述書であり、『ナチス陰謀と侵略 第1巻 第12章 - ユダヤ人迫害』で引用されている。同巻で引用された総督フランクの発言を含む当時のナチス文書やコルヘア報告書は、ナチスの迫害と大量虐殺によるユダヤ人死者の一部を再構築することを可能にするが、全体像ではない。したがって、こちらで言及されているものを含む、全死者数の推定値の主な出典は、ナチス・ドイツがユダヤ人人口の大部分または一部を抹殺した国々の人口統計データである。
こうした不正確さはあるものの、『ニュルンベルク裁判』は優れた歴史映画である。その強みは、ニュルンベルク軍事法廷における実際の裁判手続きに沿った法廷描写にある。ここで言及されているアインザッツグルッペン裁判における象徴的な出来事は、被告人に公正な裁判を与えるための努力を示している:
これらの裁判が「形だけの裁判」や「見せしめの裁判」だったという主張は、まったく成り立たない。いずれの裁判も、被告人の公正な裁判を受ける権利に細心の注意を払って行われた。被告人は制限なく証人に対する反対尋問を行い、文書に異議を唱え、自らに有利な証拠を提出することが認められていた。
被告が十分な弁護を行うことを裁判所が認めた姿勢は、アインザッツグルッペン指導者裁判における有名な事例が最もよく示している。裁判中、検察側は「被告の一人がアインザッツグルッペへの従軍を強制された」という主張に異議を唱えた。しかしムスマノ裁判長は異議を退け、こう述べた:
弁護側は、南極のペンギンの生態を説明する証拠さえ提出すればよい。もし弁護側が、ペンギンの習性が本件に関連する証拠であると私を納得させられるならば、あの白い顔の生き物の生態や時代背景も証拠として認められる。
米国軍法会議での裁判後、弁護団は依頼人が公正かつ誠実な扱いを受けたことへの感謝の印として、ムスマノ裁判官にペンギンの置物を贈呈した。以降の裁判では、常に弁護側が「ペンギン規則」の適用を要求した。そのペンギンはムスマノ裁判官の机の後ろの棚に置かれ、彼が1968年に死去するまでそこにあった。
『ニュルンベルク裁判』の1時間50分31秒から1時間54分41秒までの場面で、被告人の一人を弁護する弁護士が検察側の証人を敵意ある反対尋問にかけ、証人が泣き崩れるまで追及する。検察側は、弁護側が証人に圧力をかけて証拠を得ようとしていると異議を申し立てる。裁判官は異議を却下する。すると被告人自身が立ち上がり、発言したいと申し出て尋問を中断させる。弁護人は、依頼人が自白する恐れがあると察知し、発言前に依頼人と面会することを求める。検察側は被告人にその場で発言させるよう要求する。裁判官は審理を中断させる。
この極めて現実的な一連の展開は、ニュルンベルク裁判に関する「不公正な手続き」という主張がいかに的外れであるかをさらに示している。
さらに言えば、検察と弁護側の対等な戦いを描いたこの描写は、実際の「正義の裁判」において検察と弁護側がそれほど対等ではなかったことを考慮すれば、むしろ裁判批判の立場に有利な寛大な描写と言える。この文書の14ページで確認できるように、この裁判における検察側は5名で構成されていたのに対し、被告側を代弁する弁護人は常に15名、補助弁護人は13名が発言していた。アインザッツグルッペン事件でも同様の比率だった:検察側7名に対し、弁護人23名、補助弁護人21名である。
投稿者:ロベルト・ミューレカンプ 投稿日:2015年7月3日金曜日
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