AI時代に、学ぶ主体はどこに残るか?
レポートや卒論を書くとき、生成AIを使うことは、もう特別なことではなくなってきました。
むしろ、使わない学生の方が少なくなっていくのかもしれません。
ですが、ここで一つ、見落としてはいけない問いがあります。
それは、
「AIを使ってはいけないか」
ではなく、
AIを使いながらも、学ぶ主体はどこに残るのか
という問いです。
生成AIをめぐる議論は、ともすると「禁止するか、許可するか」という話になりがちです。
けれども、本当に大事なのはそこだけではありません。必要なのは、使うこと自体を単純に善悪で裁くことではなく、どう使えば主体性を保てるのかを考えることだと思います。
生成AIの普及によって、これまで自明だった「学習者主導」が、改めて守るべき価値として浮かび上がってきました。
1.「AIに書かせてはいけない」という話だけでは足りない
教育現場では、生成AIへの警戒感が先に立ちやすいものです。
「AIに書かせてはいけない」
「それでは学びにならない」
「自分で考えなくなる」
もちろん、こうした懸念にはもっともな部分があります。
AIに任せすぎれば、本人が問いを立て、迷い、考え抜く時間が薄くなってしまうかもしれません。
ただ、そこで議論を止めてしまうと、「使うか、使わないか」の二択に閉じてしまいます。
でも現実には、生成AIはすでに学生の学びの場に入り込んでいます。
だから必要なのは、「使うな」と言うことだけではなく、どこまでをAIに委ね、どこからを自分で引き受けるのかを考えることです。
2.これまで自明だった「学習者主導」が揺らいでいる
本来、卒論やレポートを書くことは、学生が自分で問いを立て、調べ、考え、まとめていく営みでした。
もちろん、指導教員の助言もありますし、参考文献にも支えられます。
けれども、その基本には「学習者自身が考える」という前提がありました。ある意味では、それはあまりに当然すぎて、わざわざ言葉にしなくてもよかったのだと思います。
ところが、生成AIの登場によって、その前提は揺らぎ始めました。
問いの候補を出す。
構成案を作る。
文章を整える。
要約する。
言い換える。
こうした作業のかなりの部分を、AIが支援できるようになったからです。
だからこそ今、改めて「学習者主導とは何か」を言い直す必要があるのです。
3.AIは便利だが、「考えた感じ」を簡単に作れてしまう
生成AIの便利さは、本当に大きいです。
文章の整形は速い。
要点整理もうまい。
構成案もかなりそれらしく出してくれる。
曖昧なアイデアを、いったん言葉にして返してくれることもあります。
だからこそ、少し怖いところもあります。
それは、まだ本人の中で十分に深まっていない考えでも、かなり「考えた感じ」のする文章ができてしまうことです。
整っている。
筋も通っている。
一見すると、よく考えられているように見える。
でも、その見た目の整い方と、本人が本当に考え抜いたこととは、必ずしも一致しません。
教員側も、整った文章を読むと「よくまとまっている」と感じやすい。
学生側も、もっともらしい文章が返ってくると「自分は考えた」と感じやすい。
けれども実際には、考える前に、考えたように見える形だけが先に立ち上がってしまうことがある。ここに、生成AI時代の難しさがあると思います。
4.AIに役割を与えるだけでは不十分である
生成AIについては、「相談相手」「研究補助」「コーチ」といった役割で整理されることがあります。
これはわかりやすく、有益な考え方でもあります。
ただ、私はそれだけでは足りないと思っています。
なぜなら、役割を与えるだけでは、そのとき学習者の内面でどんな思考が起きているのかまでは見えてこないからです。
たとえば同じ「AIを使った」でも、
まだ言葉にならない違和感を広げているのか
社会の文脈に接続しているのか
文献に基づいて整理しているのか
最後の判断までAIに委ねてしまっているのか
では、意味がまったく違います。
AIにどんな役割を与えるかだけでなく、探究の過程で、どの場面で、どんな思考モードが動いているかという視点が必要だと考えました。
そこで私は、知識の位置を「内側/外側」、思考の方向を「拡散/収束」として整理し、4象限の作業モードとして捉える枠組みを提案しました。

『法政大学キャリアデザイン学部紀要』23, p49-80.
この4象限モデルは、「知識の形態(内側/外側)」と「思考様式(拡散/収束)」の2軸で、探究学習のプロセスを4つに整理したものです。
横軸は知識の所在を表します。「内側」は個人の経験・価値観・暗黙知、「外側」は文献・社会・制度といった形式知です。
縦軸は思考の方向性で、可能性を広げる「拡散的思考」と、答えに絞り込む「収束的思考」を置いています。
この2軸が交わることで4つの象限が生まれます。
第1象限(内側×拡散) は、言葉にならない違和感や直観を出発点に、問いの候補を広げていく段階です。
「何かおかしい」という感覚が、対話を通じて複数の問いとして浮かび上がります。
第2象限(外側×拡散) は、その内的な問いを社会や先行研究の文脈に接続し、仮説や理論的枠組みを広げていく段階です。
外の知識を借りながら、研究テーマの射程を拡張します。
第3象限(外側×収束) は、明示化された知識や理論を使って、論理的に整理・構造化していく段階です。
先行研究の整理や論文の形式化など、客観的・再現可能な作業がここに当たります。
第4象限(内側×収束) は、自分の経験・価値観・倫理観を根拠に、具体的な意思決定や価値判断へと絞り込んでいく段階です。
第1象限、第2象限、第3象限のプロセスでは各種AIを用いることがあっても、第4象限では人間のみが判断します。AIが代替不可能な領域として位置づけられます。
5.最後に残る問い:「自分で引き受ける」とは何か
生成AIは、問いを広げることも、言葉を整えることも、資料を整理することも助けてくれます。
けれども、それでもなお、最後まで人間に残るものがある。私はそこがいちばん大事だと思っています。
それは、
何を問うのかを決めることであり、
その問いを自分の問いとして引き受けることです。
上記の論文では、この最後の局面を、唯一AIによる代替を許容しない領域として位置づけました。
研究テーマの決定や、執筆過程における継続的な価値判断は、個人の人生経験、倫理観、学問観に根ざすものであり、AIが代わることはできないと考えたからです。
何を書くか。
何を書かないか。
どの問いを選ぶか。
どの立場を取るか。
この判断には、単なる情報処理以上のものがあります。
学ぶとは、正しい答えを出すことだけではない。
むしろ、自分が引き受ける問いを選び、その問いに責任を持つことでもあるのではないでしょうか。
生成AI時代に「自分で考える」とは、何もかも一人でやることではなく、支えを借りながらも、最後に引き受けるべきものを手放さないことなのだとも思います。
6.おわりに
生成AIをめぐる議論は、どうしても「使ってよいか、だめか」という話になりやすい。けれども、本当に考えたいのは、そのもっと先です。
AIはどこまで助けてくれるのか。
そして、その先に、なお人間が引き受けるべきものは何か。
この問いを考えることは、これからの教育にとって避けて通れない課題だと思います。
では実際に、どのAIをどの場面でどう使い分ければよいのか。
次の記事では、そのことをもう少し具体的に考えてみたいと思います。
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