『私という病』 第32話|創造の鍵 ――心を取り戻すということ
その日、
老人は静かな湖のほとりに立っていた。
少年は、水面に映る空を見つめていた。
「創造力とは、どこから来ると思うか」
唐突な問いだった。
少年は少し考え、首を傾げる。
「……心、でしょうか」
老人は否定しなかった。
ただ、湖に浮かぶ小さな波紋を見つめていた。
この世界には、「つくる者」がいる。
絵を描く者。
音を奏でる者。
組織をつくる者。
国をつくる者。
だが不思議なことに、
彼らは皆、同じ場所から始めているわけではない。
外から衝動を受け取る者もいれば、
内側から、どうしようもなく湧き上がる者もいる。
ただ一つ、
共通しているものがある。
それは――心だった。
「心はな、置き忘れられる」
老人は、静かにそう言った。
「人は生きているうちに、
自分の心を、どこかに預けてしまう。
安心や、評価や、常識と引き換えにな」
少年は黙って聞いていた。
創る者は、ときに壊す者になる。
昨日まで信じていたものを、
静かに、しかし確実に手放す。
時間も理由も消えた瞬間、
ただ「在る」という感覚だけが残る。
そのとき初めて、
世界が自分の内側から
寄り添ってきていたことを知る。
体験は、経験になる。
経験は、自信になる。
自信は、認識を変える。
認識が変われば、
世界の鼓動が変わる。
「でも、失敗したら?」
少年は、少し不安そうに尋ねた。
老人は、穏やかに笑った。
「失敗するから、人間なんだ。
不完全だから、世界を美しくできる」
「君は、自分の心を持っているかい」
少年は目を閉じ、
胸に手を当てた。
「……探している途中です」
「それでいい」
老人は、ゆっくりと頷いた。
「心を見つけたとき、
君は自分の人生の操舵席に座れる」
湖の水面が、ゆっくりと揺れた。
その揺れの向こうに、
別の景色が
静かに立ち上がり始めていた。
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