『私という病』第39話|ノスタルジー
2025.11.14
――愚かさの中で生きてきた私について――
人は、愚かである。
そして私もまた、その「愚かさ」のただ中に生きている。
私たちは不完全だ。
だが、不完全であることこそが人間らしさなのだと、
私はようやく理解しはじめている。
社会というものは、
一見すると岩のように揺るがない。
制度は整い、秩序は保たれ、
正解があらかじめ用意されているように見える。
しかし本当のところ、
社会ほど不安定なものもない。
たった一晩で価値は反転し、
昨日までの正義は、平然と裏切られる。
社会の正体とは、
真理の集積ではない。
それは人々の「思い込み」の集合体にすぎない。
私たちは作っては壊し、
積み上げては崩す。
どれほど巨大な文明も、
数万年という時間の前では
跡形もなく消えてしまう。
そこで私は問いを立てた。
――なぜ、人は生きるのか。
二十代の頃の私は、
人と社会を冷ややかに観察し、
ひとつの極端な答えにたどり着いた。
「もし地球を主とするなら、
人類は害虫のような存在ではないか」
当時の私は、
他人と自分を比べ、
勝つことだけに価値を置いていた。
成功という名の砂の塔を、
崩れることも知らずに、
必死で登っていたのだ。
生きる理由など考えもしなかった。
考える暇を与えない社会の中で、
ただ流されていた。
だが、ある時、
ふとした拍子に問いが生まれた。
――もし人類が害虫なら、
私は何者なのか。
――私は誰の人生を生きているのか。
この問いは、
私の内部で静かに、しかし確実に、
世界を崩しはじめた。
――水槽の外を夢見る者へ――
その問いを胸に、
私は旅に出た。
世界の中へ。
そして、自分の内側へ。
旅の途中で、
ひとつの事実に気づいた。
人は年齢を重ねるほど、
社会に適応する代わりに、
「自分自身」を少しずつ手放していく。
誰かの言う通りに生きれば安全だ。
従順であれば、褒美が与えられる。
それは社会による餌付けのようなものだ。
芸を覚えれば餌がもらえる。
従えば、居場所が与えられる。
多くの人は、
そうした仕組みの中で、
「自分ではない自分」を演じながら生きている。
だが、それを私は調和とは呼ばない。
飼われた環境の中で成立する秩序は、
ゆっくりと進む自滅でもある。
眠らされ、
鎖につながれ、
それでもなお「私は自由だ」と思わされている。
安全で、穏やかで、
愛に包まれた世界。
しかしそれは、水槽の中の平和にすぎない。
人々はメダカのように泳ぎ、
その水槽こそが世界だと信じている。
もし、ここまで読んで、
ほんのわずかでも違和感を覚えたなら――
あなたも同じように
もう戻れない。
直感は経験へと変わり、
経験は自信となり、
やがて確信になる。
どれほどの富を得ても、
どれほど愛に恵まれても、
私たちは水槽の外へ完全に出ることはできない。
だが、それでいい。
水槽には水槽の役割と意味がある。
私たちは今も、その実験のただ中にいる。
ならば、問うべきことは一つだ。
――なぜ、私は生きるのか。
この問いを失わないかぎり、
あなたの中には、やがて一本の道が現れる。
その道は光を帯び、
静かに空へと伸びていく。
恐怖はやがて笑いに変わる。
悪魔のような存在に出会っても、
あなたはそれを自分の影として受け取れるだろう。
多くの人は、その影から目を逸らす。
だが影を抱きしめた者だけが、
本当の意味で自由になる。
物語の主人公は、あなた自身だ。
国家でも、社会でも、常識でも、神でもない。
あなたが、あなたの人生を生きる。
ただ、それだけでいい。
そして今、
社会という水槽の水は、少しずつ濁りはじめている。
恐怖。
不安。
争い。
他人を信じられない心の醸成。
それは、悪魔たちが最も好む人間の感情だ。
彼らは巧妙だ。
露骨な暴力ではなく、
「安心」という餌を与える。
「快適さ」という鎖で縛る。
悪魔も喜び、
人間も喜ぶ。
そして神は、
静かに涙を流しているのかもしれない。
もしあなたが、
神や絶対的な守護者の存在を信じるならば――
与え続けなさい。
食事を。
豊かさを。
希望を。
あなたの行いは、
決してあなたを裏切らない。
心を揺らしてはならない。
濁った水の中でも、
澄んだ流れをつくる者であれ。
それが、
水槽の外を夢見た者の責任だからだ。
