『光の感染者』 第4話|シャローム
「わたしは平和をあなたがたに残す。わたしの平和を与える。
わたしは世が与えるような平和を与えない。」
――二つの「平和」のあいだで
現代社会において、
平和とは、しばしば
**「何も起きていない状態」**を指す。
争いが表に出ていないこと。
声が荒立っていないこと。
問題が、可視化されていないこと。
それらが揃えば、
社会は「平和である」と呼ばれる。
だが、
聖書における平和――
ヘブライ語で語られる**「シャローム」**は、
そのような静けさを意味しない。
シャロームとは、
関係が正しく結ばれている状態であり、
壊れたものが修復され、
歪みが放置されていないことを指す。
そこでは、
沈黙は条件ではない。
むしろ、声が上がることが前提となる。
不正があれば、告発が起きる。
痛みがあれば、叫びが生まれる。
対立が必要であれば、
対立は避けられない。
それでもなお、
関係が断絶せず、
人が人として扱われ続けること。
それこそが、
シャロームである。
一方、現代社会の平和は、
しばしば**「秩序」**と取り違えられる。
空気を乱さないこと。
多数派に従うこと。
違和感を、飲み込むこと。
そうして保たれる静けさは、
平和と呼ばれる。
だが、その内側では、
多くの声が
発せられる前に消えていく。
聖書は、
この状態を平和とは呼ばない。
預言者たちは、
「平和、平和」と叫ばれるその声を、
最も強く疑った。
なぜなら、
正義が行われていない場所に、
真の平和は存在しえないからだ。
正義とは、
罰を与えることではない。
排除することでもない。
それは、
関係を正すこと。
見捨てられたものを回復させること。
声を奪われた者の言葉を、
再び世界に戻すこと。
その過程は、
必ずしも静かではない。
むしろ、騒がしく、厄介で、
ときに**「非平和的」**にすら見える。
しかし聖書は語る。
その不安定な過程の先にしか、
平和は生まれないのだと。
現代社会は、
結果としての静けさを求める。
シャロームは、
過程としての正しさを求める。
現代の平和は、
問題が見えなくなったときに成立する。
シャロームは、
問題が見過ごされなくなったときに、
ようやく始まる。
もし平和とは、
声を上げなくてよい状態なのだとしたら、
それは人を守る平和ではない。
声を上げても、
関係が壊れないこと。
対立が起きても、
人が人として扱われ続けること。
その不完全で、
手間のかかる状態こそが、
聖書が語るシャロームに、
最も近いのかもしれない。
――そしてそれは、
現代社会が
最も避けたがっている
「平和」のかたちでもある。
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