『光の感染者』第26話|政治プロレス━責任とは何か
責任を取る、とは何だろう。
辞任することか。頭を下げることか。
それとも、ただ沈黙することか。
私は政治のことを、まるでプロレスのように見ている。
選挙カーは自分の名を繰り返す。あれは説得なのか、それとも呪文なのか。
私たちは、そんなに単純な生き物だろうか。
音を鳴らせば振り向く存在だとでも思われているのだろうか。
そう感じるとき、私は少しだけ腹が立つ。
厳密に言えば、私の知っている「政治」と、目の前のそれとはどこか違う。
現代の政治は、昭和の巨大な携帯電話機のようだ。
重たく、鈍く、やけに誇らしげで、通話のたびに肩がこる。
非効率で、非生産的。
だが同時に、それは国を守る防波堤でもある。
外交という荒波に向けられた、不格好な盾。
戦後、私たちの祖先は願ったのではないか。
支配されてもよいから平和を。窮屈でもよいから豊かさを。
「平和をつくる者は幸いである」と語られた
(マタイによる福音書 5:9)。
焼け野原の上で、この言葉は遠く揺れる灯だったのだろう。
多くの命が失われ、その代わりに私たちは便利さを得た。
豊かになった。――はずだった。
それでも、人は満たされない。
何に飢えているのか。何を奪い合っているのか。
私はときどき思う。
まるで「個」という病が、社会全体に静かに広がっているようにも見える。
皆、自分の正しさを掲げ、誰もが傷つきたくない。
そのくせ、他人の過ちには、ずいぶんと厳しい。
だが本当に恐ろしいのは、怒りではない。
問いの形をした罠だ。
「どちらが正しいか」
「誰が悪いのか」
「責任を取れ」
その問いは正義の顔をしている。
だが一歩踏み込めば、世界を二つに割る。
善か悪か。
味方か敵か。
裁く側か、裁かれる側か。
そして私たちは、無意識のうちに裁く側へと立とうとする。
かつて「あなたがたのうち罪のない者が、まず石を投げよ」と語られた
(ヨハネによる福音書 8:7)。
あの言葉が壊したのは、石ではない。
裁く側の前提だった。
罠は混乱ではない。むしろ秩序だ。
問いを与え、即座に答えさせる。
考える時間を奪い、自分は正しいという位置を保証する。
世界は、そこで固定される。
あなた側と、あなた以外の側とに。
評論家が何を言おうと、世界はすぐには動かない。
罵倒も賞賛も、それだけではただの音だ。
だが、ある言葉を誰かが受け止めた瞬間、
世界はわずかに傾く。
爆発ではない。静かな軌道修正だ。
問題は行為そのものか。
それとも、それを「問題だ」と騒ぎ立てる反応か。
問いが立てられる。
正しいか、正しくないか。
許せるか、許せないか。
その瞬間、舞台は整う。
「私たちの戦いは血肉に対するものではない」とある
(エペソ人への手紙 6:12)。
戦場は認識の中にある。
一度「どっち派か」を選べば、その選択は次の判断の礎になる。
問いに参加した時点で、構図の中に組み込まれる。
そして分断は完成する。
それでも人は、自分を善良だと思う。
世の中を正しい方向へ導こうとしていると信じる。
そこにこそ、静かな罠がある。
私は政治家ではない。
だが、責任を問われるなら、こう言うだろう。
私は命を懸けている、と。
滑稽かもしれない。
だが私は、自分の目的のために計画を立て、実行する。
それしかできない。
責任を裁定するのは組織だ。
だが、自分の重荷を負うのは自分である。
総理大臣を眺めていると、やはりリングを思う。
叫び、睨み、技をかけ合う。
観客は熱狂し、野次を飛ばす。
古代の闘技場のようだ。
血は流れない。だが戦いはある。
「私は良い戦いを戦い抜いた」と言えるかどうか。
(テモテへの第二の手紙 4:7)
責任とは何か。
逃げずに立つこと。
倒れても、また立つこと。
リングに上がり続けること。
その姿が滑稽に見えようとも。
それが、責任という名の行為なのかもしれない。
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