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海を渡ったスティールギター: ハワイから広がった「滑る音」

19世紀末のハワイで、ギターからそれまでとは違う音が鳴り始めた。

弦の上に硬いものを滑らせ、音程を切れ目なく動かしていく。それまで一般的だったギター奏法とは違う「滑る音」は、やがてハワイアン・スティールギターを象徴する響きになった。

20世紀に入ると、その音はハワイの外へ広がり、アメリカ本土のさまざまな音楽へ入り込んでいく。

その始まりに深く関わった人物として知られているのが、ジョセフ・ケククである。



ギターを寝かせる
⸻ ジョセフ・ケククとスティールギター

ジョセフ・ケククは、19世紀末のハワイで育った音楽家だった。

若い頃からギターを弾いていた彼は、弦の上に金属などを滑らせることで、普通に弦を押さえたときとはまったく違う音が出ることに気づく。

この奏法の成立については複数の演奏家が関わった可能性もあり、細かな経緯には諸説がある。ただ、ケククはハワイアン・スティールギターの発明と普及を語るうえで中心的な人物として知られている。

1920年代のアコースティック・ラップ・スティール(Kona Hawaiian Guitar)
Photo: doryfour / Edited by Clusternote / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

演奏するときは、ギターを通常のように身体の前で構えるのではなく、膝の上に水平に置く。

弦をフレットへ押しつける代わりに、金属のバーを軽く当てて動かす。弦を開放弦の状態で和音になるよう調弦しておけば、バーの位置を動かすことで和音や旋律の音程そのものを滑らせることができる。

一つの音から次の音へ滑り込み、旋律を大きく揺らす。人間の声のような抑揚を、弦の上で作ることができる。

ハワイではこの新しい奏法が演奏家たちの間に広がり、1890年代には一つのスタイルとして形を整えていった。


海を渡るハワイアン
⸻ 巡業、博覧会、レコード

20世紀に入ると、ハワイアン音楽は島の外でも知られるようになっていった。

その広がりを支えたのが、巡業や舞台、博覧会、そしてレコードだった。

ハワイの音楽家たちはアメリカ本土やヨーロッパを巡り、スティールギターやウクレレを使った演奏を披露した。1912年にブロードウェイで上演された『The Bird of Paradise』にもハワイアン・ミュージシャンが参加し、その後の巡業を通じて本土の多くの聴衆が実際のハワイアン音楽に触れることになった。ジョセフ・ケクク自身も後にこの舞台の巡業に加わり、ヨーロッパで長く演奏している。

ハワイアン音楽の巡業グループ ─ Kekuku’s Hawaiian Quintet(1916年)
右端がジョセフ・ケクク
The Colville Examiner / Chronicling America / Wikimedia Commons / Public Domain in the U.S.

レコードも大きな役割を果たした。

1913年にはHawaiian Quintette(ハワイアン・クインテット)が「Aloha ‘Oe」を録音した。彼らは同年、ニュージャージー州のVictorのスタジオで多数の曲を録音し、スティールギターを含むハワイアン・ストリング・バンドの響きをレコードに残している。「Aloha ‘Oe」自体はそれ以前からアメリカ本土でも知られていたが、このグループは北米やヨーロッパでハワイアン音楽を広めた重要な存在だった。

Hawaiian Quintette「Aloha ‘Oe』(1913年録音)─ Library of Congress

さらに1915年、サンフランシスコで開かれたパナマ太平洋万国博覧会をきっかけに、アメリカ本土でハワイアン音楽への関心は一段と高まり、1916年には、ハワイアン音楽のレコードがアメリカで他のどのジャンルよりも売れたという記録が残っている。

この時代、レコードを通じてスティールギターの音を広めた代表的な奏者がフランク・フェレラだった。ハワイ生まれのフェレラは多数の録音を残し、ハワイアン・スティールの音を本土の家庭へ届けた。

やがてスティールギターは、ハワイ出身の演奏家だけが弾く楽器ではなくなっていく。

1910年代にはすでにアメリカ本土向けのハワイアン・ギター教則本が出版され、その後、各地に演奏を教える学校や教室も広がった。1930年代にはアメリカ各地でハワイアン・ギターを学ぶ人々が増え、島で生まれた奏法そのものが本土の音楽文化へ入り込んでいた。

ハワイアン音楽の流行は、遠い島の珍しい音楽を楽しむだけのものではなかった。

スティールギターという新しい音色と奏法そのものが、巡業、舞台、レコード、そして音楽教育を通じて、アメリカの演奏家たちの手に渡り始めていた。


ソル・ホオピイ
⸻ スティールギターがジャズと出会う

1920年代になると、ハワイアン・スティールギターはソロ楽器としてさらに大きく発展していく。
その代表的な奏者が、ソル・ホオピイである。

ホオピイはハワイに生まれ、17歳の頃にアメリカ本土へ渡った。やがてロサンゼルスを拠点に活動し、1925年には録音を始める。そこでハワイアン音楽だけでなく、当時流行していたジャズやポピュラー・ソングも積極的に取り入れていった。

彼の演奏は、ゆったりと旋律を滑らせるだけではなかった。
速いフレーズや細かなリズム、即興を積極的に取り入れ、ハワイアン・スティールの表現をジャズやポピュラー音楽の中へ広げていった。

1930年代には、スティールギターの電気化も進んだ。より大きな音量を求める中で電気増幅が導入され、大規模に製造・流通した最初のエレクトリック・ギターはスティールギターだった。
ホオピイも電気式のスティールギターへ移り、1938年の「Fascinating Rhythm」ではリッケンバッカーB6を使用している。電気化によって得られた長いサステインは、スティールギター特有の歌うような音色ともよく結びついた。

Rickenbacker Electro Hawaiian B6
(ソル・ホオピイが「Fascinating Rhythm」で使用したものと同モデル)
Photo: brad_bechtel / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

ハワイで生まれた奏法は、アメリカ本土のジャズやポピュラー音楽と混ざり合いながら、より多彩なギター表現へ変わっていった。

ホオピイのような奏者の活躍によって、スティールギターは「ハワイらしい音」を象徴するだけでなく、ハワイアン音楽の枠を越え、アメリカ大衆音楽の中で使われる楽器として定着していった。


カントリーへ渡ったスティールギター
⸻ ウェスタン・スウィングを経て

ハワイアン・スティールギターがとりわけ深く根づいた音楽の一つが、カントリーだった。
ただし、ハワイから後のカントリーへ一気に受け継がれたわけではない。その橋渡しの一つとなったのが、1930年代に発展したウェスタン・スウィングである。

ウェスタン・スウィングは、テキサスやオクラホマなどのダンス音楽に、ジャズやブルース、当時のポピュラー音楽の要素を取り込んだスタイルだった。フィドルやギター、ピアノなどによるバンドの中へ、ハワイアン・スティールギターも入り込んでいった。

その経路をよく示しているのが、スティールギター奏者のボブ・ダンである。Hawaiian Quintetteでスティールギターを弾いていたウォルター・コロモクは、アメリカ本土でハワイアン・ギターを教える通信講座を開いていた。ダンは10代の頃、その講座で演奏を学んだと語っている。また、ソル・ホオピイの演奏からも影響を受けていた。ハワイで生まれた奏法は、巡業やレコードだけでなく、こうした音楽教育を通じても本土の演奏家へ渡っていたのである。

1934年、ダンは歌手でバンドリーダーのミルトン・ブラウンが率いるMilton Brown and His Musical Brownies(ミュージカル・ブラウニーズ)に参加した。このバンドは、初期ウェスタン・スウィングを形づくった代表的なグループだった。そこでダンは電気式のスティールギターを使い、ジャズの影響を受けた大胆なソロを演奏した。ハワイアン音楽から渡ってきたスティールギターは、ここでアメリカ南西部のダンス音楽の中へ組み込まれていった。

ボブ・ダンが1935年の録音で使用した手製の電気式ラップ・スティールギター
Collection: Country Music Hall of Fame and Museum
Photo: e Kat / Wikimedia Commons / CC0 1.0

ウェスタン・スウィングが広がると、スティールギターもその重要な音色の一つになった。ボブ・ウィルズのBob Wills and His Texas Playboys(テキサス・プレイボーイズ)では、1935年に加入したレオン・マコーリフがスティールギターを演奏し、ホオピイが開拓した調弦や奏法の影響も受け継がれていった。

こうして1930年代、ハワイから渡ったスティールギターはウェスタン・スウィングの重要な楽器となり、のちのカントリーへと受け継がれていった。その先では楽器自体もさらに発展し、やがてペダル・スティールへとつながっていく。


ハワイを離れて残った「滑る音」

スティールギターの「滑る音」が入り込んだのは、カントリーだけではなかった。

20世紀初頭のアメリカ南部では、黒人演奏家たちの間でも、硬い物をギターの弦に当てて音程を滑らせる奏法が使われていた。

W.C.ハンディは1903年頃、ミシシッピ州タトワイラーの駅で、黒人男性がナイフを弦に当てながらギターを弾く姿に出会っている。後にハンディは自伝の中で、その弾き方を、スティール・バーを使うハワイアン・ギタリストの奏法になぞらえて振り返った。

ただし、デルタ・ブルースのスライドギターを、単純にハワイアン・ギターから生まれたものと断定することはできない。

南部の黒人音楽には独自のギター文化があり、個々の演奏家がどこからスライド奏法を身につけたのかを一つの系譜だけで説明することは難しい。一方で、20世紀初頭のアメリカに「硬い物を弦に当て、音程を滑らせるギター」が広く流通していたことも確かだった。

ハワイで生まれたスティールギターは、やがてハワイアン音楽だけのものではなくなった。

19世紀末のハワイで生まれた「音程を滑らせる」という発想は、海を渡ったあと、カントリーやブルースをはじめ、アメリカのさまざまな音楽の中へ入り込んでいった。



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