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ウェスタン・スウィング: カントリーがジャズと踊り出す

1920年代、南部の農村音楽は「ヒルビリー」という名前でレコード市場に入り始めた。

しかし、レコードになったからといって、その音が昔の形のまま残ったわけではない。

1930年代、テキサスやオクラホマでは、フィドル(バイオリン)を中心としたダンス音楽が、ブルースやジャズ、当時のポピュラー音楽を取り込みながら姿を変えていく。
フィドルとギターを中心とした弦楽バンドに、やがてピアノやスティール・ギターが加わり、さらにドラムやホーンまで鳴るようになる。
田舎のフィドル音楽が、ジャズのように跳ね、即興を交え、大勢の客を踊らせるダンス・バンドへと変わっていった。

1940年代に入ると「ウェスタン・スウィング(western swing)」と呼ばれるようになる音楽である。



テキサスのダンスホール
── フィドルがジャズと出会う

テキサスでは、フィドルは昔から踊りの場に欠かせない楽器だった。
家や農場の集まり、町のホールでは、フィドルにギターなどを加えた小さなバンドが演奏し、人々がその音に合わせて踊った。

しかし、その周囲で鳴っていた音楽は、白人農村のフィドル音楽だけではなかった。
黒人のブルースやジャズがあり、メキシコ系の音楽があり、ドイツ系やチェコ系の移民が持ち込んだポルカなどの舞曲も根づいていた。テキサスでは、異なる背景を持つ人々の音楽が同じ地域の中に存在していた。

さらに1920年代から30年代にかけてラジオやレコードが広がると、遠くの都市で演奏されるジャズやポピュラー音楽まで聞こえてくるようになる。

ダンスの伴奏をする演奏家たちは、そうして耳にした音を自分たちのレパートリーや奏法へ取り込んでいった。古いフィドル曲だけでなく、流行歌やブルースも演奏する。フィドルでブルースに通じる節回しを弾き、ジャズのようなシンコペーションや即興を交える。

土台にあったのは、あくまでフィドルを中心とした南西部のダンス音楽だった。だが、その上で鳴るリズムやフレーズは、少しずつ新しいものへ変わっていった。


ボブ・ウィルズとミルトン・ブラウン
── フォートワースで出会った二人

ボブ・ウィルズは1905年、テキサスの音楽一家に生まれた。父も祖父もフィドルを弾き、ウィルズ自身も幼い頃からフィドルを覚え、10歳の頃にはすでに牧場のダンスで演奏していた。

しかし、彼が身につけたのは家族から受け継いだフィドル音楽だけではない。周囲の黒人住民や農場労働者からブルースやジャズを覚え、10代の終わりにはベッシー・スミスを聴くため、馬で遠くまで出かけたこともあったという。
昔ながらのフィドル曲とブルースやジャズは、ウィルズにとって最初からそれほど遠い音楽ではなかった。

1929年、フォートワースでウィルズはギタリストのハーマン・アーンズピガーと出会った。
二人は一緒に演奏してみると意気投合し、ウィルズのフィドルをアーンズピガーのギターが支える小さなバンドとして、地域のダンスや催しで演奏するようになった。

1930年春、二人がフォートワースのハウス・ダンスで演奏していたとき、ミルトン・ブラウンと出会った。
ブラウンは当時、葉巻のセールスマンをしながら、地元では歌手としても活動していた。ウィルズはブラウンをバンドに誘い、ミルトンの弟でギターを弾くダーウッド・ブラウンも加わった。フィドルとギターを中心としたバンドに、ブラウンの歌が乗るようになった。

古いフィドル曲だけでなく、ブルースやジャズ、当時の流行歌まで演奏する。フォートワースのダンスの場で、後にウェスタン・スウィングへつながる音が少しずつ形を取り始めていた。


ラジオから流れるフィドル
── ライト・クラスト・ドウボーイズ

彼らの演奏がダンスホールの外へ広がるきっかけになったのが、ラジオだった。当時のラジオは、地域の音楽家にとって新しい舞台であると同時に、企業にとっては商品を宣伝するための新しい媒体でもあった。

1931年、ウィルズたちはフォートワースの製粉会社Burrus Millに起用され、自社の小麦粉「Light Crust Flour」を宣伝するラジオ番組に出演するようになる。バンドの名前も商品に合わせて、ライト・クラスト・ドウボーイズ(Light Crust Doughboys)となった。

初期のライト・クラスト・ドウボーイズ(1931年頃)
左からミルトン・ブラウン、ダーウッド・ブラウン、ラジオ司会者トルーエット・キムジー、ボブ・ウィルズ、ハーマン・アーンスピガー
Photo: R. Connor Montgomery / OldTimeBlues.netLicensed / CC BY-NC-SA 4.0 / Original rights may apply.

昼になると、家庭のラジオからウィルズのフィドル、アーンズピガーらのギター、ブラウンの歌声が流れた。
ところが、会社の販売責任者W・リー・オダニエルは当初、彼らの「ヒルビリー」音楽を好まず、番組をわずか二週間で打ち切ってしまう。

すると、復活を求める声がリスナーから相次いだ。
番組は再開された。ただし、その条件の一つは、演奏家たち自身も製粉所で働くことだった。
それでもライト・クラスト・ドウボーイズはラジオを通じて人気を広げていく。ダンスの場に足を運ばなければ聴けなかったフィドル音楽が、昼の放送とともに地域の家庭へ入り込むようになった。

しかし、企業の支援によって広い聴衆を得たことは、同時に企業の方針に従って活動することも意味していた。ライト・クラスト・ドウボーイズは、音楽家たちだけのバンドではない。小麦粉を売るための宣伝バンドでもあった。

オダニエルが夜のダンスへの出演をやめるよう求めると、ダンスの場で歌い続けたかったミルトン・ブラウンはそれを受け入れなかった。


ミルトン・ブラウン
── ストリング・バンドがスウィングする

1932年、ライト・クラスト・ドウボーイズを離れたミルトン・ブラウンは、自分のバンドを結成した。
ミルトン・ブラウン&ヒズ・ミュージカル・ブラウニーズである。

活動の中心となったのは、フォートワース近郊のクリスタル・スプリングス・ダンス・パビリオンだった。そこでは、会社の宣伝バンドとしてではなく、自分たちのバンドとして、夜のダンスで人々を踊らせることができた。

バンドにはフィドル、ギター、テナー・バンジョー、ベースが並び、まもなく二人目のフィドルとピアノも加わった。演奏するのも昔ながらのフィドル曲だけではない。ブルースやジャズ、当時のポピュラー・ソングまで取り込み、フィドルやピアノがソロを交わす。農村のストリング・バンドを土台にしながら、その音は次第にジャズのダンス・バンドに近い厚みと動きを持つようになっていった。

その音をさらに大きく変えたのが、1934年に加わったボブ・ダンだった。ダンが弾いたのは、電気で増幅したスティール・ギターである。ハワイアン音楽から広がったスティール・ギターを、ダンは歌の後ろで静かに鳴らすだけではなく、ジャズのトロンボーンのようなソロ楽器として前へ押し出した。フィドルやピアノの間から、鋭く伸びる電気の音が飛び出してくる。

1935年に録音された「Taking Off」では、その響きをはっきり聴くことができる。カントリーにつながる音楽の中で、電気で増幅されたギターが録音された最初期の重要な例でもある。

フィドルを中心としたテキサスのダンス音楽に、ジャズの即興と電気楽器の音まで入り込んでいた。

ミュージカル・ブラウニーズは1934年からレコード録音も始めた。現在では、一般に最初の本格的なウェスタン・スウィング・バンドとされている。ダンスホールで育った新しい音は、レコードにも刻まれていった。

北部・中部テキサスで人気を広げていったが、その活動は長く続かなかった。
1936年4月、ブラウンは自動車事故で重傷を負い、数日後、32歳で亡くなった。
ミュージカル・ブラウニーズとして活動できたのは、わずか数年だった。


ボブ・ウィルズとテキサス・プレイボーイズ
── 田舎の弦楽バンドが大編成になる

1932年、ミルトン・ブラウンがライト・クラスト・ドウボーイズを去ると、新しい歌手を選ぶオーディションが行われた。それを勝ち抜き、ブラウンの後を引き継いだのがトミー・ダンカンだった。

ダンカンは1911年、テキサスの農家に生まれた。少年時代から農場で働く黒人たちの歌や黒人音楽のレコード、ジミー・ロジャーズの歌を耳にし、その影響を受けて育った。
バラッドからポピュラー・ソング、カウボーイ・ソングまで歌えるレパートリーの広さも、さまざまな音楽を取り込んでいたウィルズのバンドによく合った。

1933年、ボブ・ウィルズがライト・クラスト・ドウボーイズを離れると、ダンカンも彼と行動をともにした。ウィルズはダンカンら数人の仲間を集めて新しいバンドを組んだ。彼らは新しい活動の場を探し、テキサス州ウェーコ、オクラホマシティを経て、1934年2月にたどり着いたのがオクラホマ州タルサだった。

地元のラジオ局KVOOで深夜の試験放送を行うと、その演奏はすぐに認められ、毎日の番組を持つことになる。タルサへ移った頃から、バンドはテキサス・プレイボーイズ(Texas Playboys)と名乗るようになった。

ボブ・ウィルズとテキサス・プレイボーイズ(1930年代頃)
University of Texas at Arlington Libraries / CC BY-NC 4.0

1935年には、ダンスホールのケインズ・ボールルームを活動の拠点とする。

昼にはラジオで演奏し、夜にはダンスホールで人々を踊らせる。その二つを行き来しながら、テキサス・プレイボーイズは南西部で大きな人気を集めていった。

そしてウィルズは、バンドの編成そのものを広げていく。
フィドルやギターに、ピアノやスティール・ギターが加わる。さらにドラム、サックスやトランペットなどの管楽器まで入り、1935年にはエレクトリック・ギターも使われていた。
フィドルを中心としたストリング・バンドの形を残しながら、その周囲にはジャズのダンス・バンドと同じような厚いアンサンブルが作られていった。

演奏する曲にも境界はなかった。
レパートリーは、昔ながらのフィドル曲からブルース、ポピュラー・ソング、さらにはガーシュウィンの曲まで、ジャンルの境界を越えて広がっていた。

1935年にはレコード録音も始まり、ラジオとダンスホールで育った音がレコードにも刻まれていく。
1938年、ウィルズはインストゥルメンタル曲「San Antonio Rose」を録音した。

フィドルの旋律を中心にしながら、スティール・ギターやギターがリズムとフレーズを重ねる。
テキサスのフィドルを中心とした小さなストリング・バンドから始まった音楽は、テキサスとオクラホマのダンスホールで、まったく別の広がりを持つようになっていた。


カントリーは「田舎の音」のままではなかった

1920年代、レコード会社は南部の白人農村音楽を「ヒルビリー」という市場にまとめて売り始めた。しかし、その商品棚の中に入れられた音楽が、一つの伝統をそのまま守り続けたわけではない。

テキサスやオクラホマのダンスホールでは、フィドルを中心とした音楽が、ブルースやジャズ、ポピュラー音楽を取り込みながら変わっていった。ラジオや大きなダンスホールを舞台にする中で、バンドの編成も大きくなっていった。

フィドルの隣にはピアノやスティール・ギターが並び、やがてドラムやホーン、エレクトリック・ギターまで加わった。
古くからのダンス音楽を土台にしたまま、その周囲にある新しい音を取り込み続けた結果、ストリング・バンドはジャズのダンス・バンドにも通じる大きな響きを持つようになった。

後に「ウェスタン・スウィング」と呼ばれるこの音楽は、カントリーの初期の姿が、昔ながらの田舎の音を保存するだけのものではなかったことをよく示している。

「ヒルビリー」という名前で一つの商品棚に並べられていても、その中で鳴っていた音楽は最初から一つではなかった。
土地を越えて聞こえてくる音、新しく登場した楽器、ダンスフロアが求めるリズム。それらを取り込みながら、カントリーは1930年代のうちに、すでに新しい姿へ変わり始めていた。



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