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フランク・シナトラ:楽団の歌手から、スターへ

(見出し画像:ファンに囲まれるフランク・シナトラ、パサデナ、1943年。Acme Newspictures / RKO Radio Pictures / Wikimedia Commons / Public Domain)

1930年代のアメリカを席巻していたのはスウィングだった。
ベニー・グッドマン、デューク・エリントン、トミー・ドーシー。人気ビッグバンドの名前が看板となり、大勢の観客を集めていた。歌手も重要な存在だったが、多くの場合、その名前は楽団とともに知られていた。

ところが1940年代に入ると、スウィングを支えていた「楽団と歌手」の関係が大きく変わり始める。
楽団の名前だけでなく、一人の歌手の名前を目当てにレコードを買い、ラジオを聴き、その人物自身に熱狂する。
その変化を鮮明に体現したのが、フランク・シナトラだった。

シナトラ自身もビッグバンドの歌手として世に出た。しかし、やがて楽団を離れ、その声と名前だけで巨大な聴衆を引きつけるスターとなる。
そこにはシナトラ一人の才能だけではなく、彼が登場する以前から進んでいた、歌手を取り巻く大きな変化があった。



マイクが変えた歌声
⸻ クルーナーの時代

1920年代から30年代にかけて、ポピュラー音楽の「歌声」は大きく変わり始めていた。

それ以前、劇場やダンスホールで歌う歌手には、伴奏を越えて客席まで届く大きな声が求められた。しかし1920年代に電気録音が導入され、ラジオ放送やステージでもマイクが広く使われるようになると、歌手は必ずしも声を張り上げる必要がなくなった。

小さな声、息づかい、言葉の細かなニュアンスまで、聴き手へ届けることができる。
この新しい環境から、マイクに近づき、親密に語りかけるように歌う「クルーナー」と呼ばれる歌手たちが人気を集めた。
その代表がビング・クロスビーだった。

ビング・クロスビー、1932年。『Modern Screen』1932年9月号掲載
Photo: Uncredited / Wikimedia Commons / Public Domain

クロスビーはマイクを生かした自然な歌唱で、ラジオ、レコード、映画を通じて巨大な人気を獲得した。

大きな劇場の客席へ向かって声を放つのではなく、マイクを通して一人の聴き手へ語りかけるように歌う。家庭のラジオから流れるその声を、人々は日常の中で繰り返し耳にするようになった。

歌手と聴き手の距離そのものが、変わり始めていたのである。


ホーボーケンからビッグバンドへ

その新しい歌唱に強く惹かれた若者の一人が、ニュージャージー州ホーボーケンで育ったフランク・シナトラだった。

1915年、イタリア系移民の家庭に生まれたシナトラは、10代の頃から歌手への憧れを強めていった。特にクロスビーの影響は大きく、その歌唱に強く惹かれ、自らも歌手になることを目指すようになる。

1935年には地元の若者たちによるグループ、ホーボーケン・フォーの一員として、ラジオの人気アマチュア番組『Major Bowes’ Amateur Hour』に出演した。グループはコンテストで優勝し、その後巡業にも参加する。

ホーボーケン・フォーと『Major Bowes’ Original Amateur Hour』司会者のエドワード・ボウズ
1935年 右端がフランク・シナトラ
CBS publicity photo / Wikimedia Commons / Public Domain

やがてシナトラはグループを離れ、ニュージャージーのレストラン兼ナイトクラブ、ラスティック・キャビンで歌うようになった。

ここでシナトラは、客を前にして歌うだけでなく、ラジオ放送にも出演した。その声は店の中から電波へ乗り、より広い聴衆へ届くようになっていった。

ラスティック・キャビンで歌うフランク・シナトラ、1938年。Bill Henri楽団との演奏
『TV-Radio Mirror』掲載写真 / Wikimedia Commons / Public Domain

そして1939年、その歌を耳にしたバンドリーダー、ハリー・ジェイムズがシナトラを自らの楽団へ迎える。
クロスビーの歌声に憧れていたホーボーケンの若者は、こうして当時のポピュラー音楽の中心だったビッグバンドの世界へ入っていった。


ハリー・ジェイムズからトミー・ドーシーへ

1939年、シナトラはハリー・ジェイムズ楽団に加わった。
当時23歳。すでにマイクの前で歌う経験を積んでいたとはいえ、全国的にはほとんど無名の歌手だった。

ここでシナトラは初めて本格的なビッグバンドの一員として活動し、同年には「From the Bottom of My Heart」など、最初期の商業録音を残している。

しかし、ハリー・ジェイムズ楽団で過ごした期間は長くなかった。

シナトラが次に向かったのは、当時すでに人気を集めていたトロンボーン奏者トミー・ドーシーの楽団だった。
1940年に加入すると、シナトラは一気に広い聴衆へ知られるようになる。

同年、トミー・ドーシー楽団、シナトラ、ヴォーカル・グループのパイド・パイパーズによる「I’ll Never Smile Again」が大ヒットした。

柔らかなコーラスを背景に、シナトラは声を張り上げることなく、旋律を滑らかにつないで歌っている。ビッグバンドを背にしながらも、その声は聴き手のすぐ近くで語りかけるように聞こえる。

かつてクロスビーの歌声に惹かれたシナトラは、ビッグバンドの中で、自らもマイクを通して聴き手へ親密に語りかける歌手になりつつあった。


トロンボーンのように歌う

トミー・ドーシー楽団で得たものは、知名度だけではなかった。
シナトラが強く意識したのが、ドーシー自身のトロンボーンだった。

ドーシーは、旋律を長い息で滑らかにつなぎ、フレーズの切れ目をほとんど感じさせない演奏で知られていた。シナトラはその吹き方を観察し、どうすれば歌でも、あれほど長く旋律をつなげられるのかと考えた。

そこで呼吸の仕方を工夫し、できるだけフレーズを途切れさせずに歌う方法を身につけていった。のちにシナトラ自身も、ドーシーのトロンボーンから呼吸やフレージングについて学んだことを語っている。

トミー・ドーシー楽団とフランク・シナトラ。映画『Ship Ahoy』宣伝写真、1942年
MGM / Wikimedia Commons / Public Domain 

ただ長く息を続ければよいわけではない。
どこで言葉を置くか。どこでわずかに遅らせるか。旋律のどこを強くし、どこを弱くするか。

ビッグバンドのリズムの中で歌う経験を重ねるうちに、シナトラは楽譜どおりに旋律をなぞるだけではなく、リズムに対して声をわずかに前後させながら、自分自身のフレーズを作るようになっていった。
そこにはジャズの影響もあった。

シナトラにとって歌うことは、与えられた旋律をそのまま再現することではなかった。タイミングやアクセントを変えることで、曲を自分自身の表現へと作り替えていったのである。


歌詞を自分の言葉にする

シナトラの歌唱でもう一つ重要だったのが、歌詞の扱いだった。

歌詞をただ旋律に乗せるのではなく、一つの文章として意味を考え、その言葉を自分が実際に語っているように歌う。

どこで息を継ぐのか。どの言葉を強くするのか。どこで少し間を置くのか。そうした選択も、単に旋律を美しく聞かせるためだけではなく、歌詞の感情を伝えるために使われた。

マイクは、そのような歌い方ともよく結びついた。
大きな声で感情を押し出さなくても、声の強弱や息づかい、わずかな間まで聴き手へ届けることができる。シナトラは、歌詞を遠くの客席へ向かって歌い上げるのではなく、一人の相手へ話しかけるように聞かせることができた。

クロスビーから受け継いだ、マイクの前での親密な歌唱。
ドーシーのトロンボーンから学んだ、途切れない長いフレーズ。
そしてジャズから吸収した、リズムと旋律を自分自身のものにする感覚。
そこへ、歌詞を自分の言葉のように伝える意識が加わった。

シナトラの歌唱は、ビッグバンドの中でそれらを結びつけながら形を整えていった。
やがて、その声は「トミー・ドーシー楽団の歌手」という枠に収まらないほどの人気を集め始める。


シナトラマニア
⸻ 若者が歌手そのものに熱狂する

トミー・ドーシー楽団で人気を高めるにつれ、シナトラ自身の名前も大きな存在になっていった。
そして1942年、シナトラはドーシー楽団を離れ、ソロ歌手として活動を始める。

大きな転機となったのが、1942年末にニューヨークのパラマウント劇場へ出演したときだった。
客席を埋めた若い女性たちは、シナトラがステージに現れると大きな歓声を上げた。なかでも目立ったのが、短いソックスを履いた10代の少女たち、いわゆる「ボビーソクサー」だった。

彼女たちが熱狂したのは、曲だけではない。
シナトラの声を聴き、姿を見て、その人物そのものに憧れる。
ビッグバンドの中で歌っていた一人の歌手が、その名前だけで観客を劇場へ集める存在になっていた。

若い女性ファンに囲まれるフランク・シナトラ、1943年
Photo: John T. Burns / Associated Press / Wikimedia Commons / Public Domain

レコードを聴き、ラジオでその声を追い、劇場へ押しかけ、ステージに現れた本人に歓声を上げる。
とりわけ若い聴衆が、一人の歌手の声だけでなく、その容姿や振る舞いを含めた人物そのものに強い感情を向ける。
後のポピュラー音楽で繰り返される、スターとファンの関係が、そこにはすでにはっきりと現れていた。


楽団の名前から、歌手の名前へ

1943年には、シナトラの人気を象徴する出来事が起こる。
「All or Nothing at All」がヒットしたのである。

この曲は新たに録音されたものではなかった。シナトラがハリー・ジェイムズ楽団に在籍していた1939年8月に録音され、翌1940年に一度発売されていた曲である。

当時は大きな成功を収めなかったが、シナトラの人気が急上昇した1943年に再発売されると、一転して大きなヒットとなった。
その変化は、レコードのラベルにも表れていた。最初の発売ではハリー・ジェイムズ楽団の名前が前面に置かれ、シナトラはヴォーカル担当として記されていた。ところが1943年の再発売では、「フランク・シナトラをフィーチャーしたハリー・ジェイムズ楽団」という形で、シナトラの名前がより強く打ち出された。

同じ録音であっても、「ハリー・ジェイムズ楽団の歌手」として知られていた頃と、「フランク・シナトラ」という名前そのものが注目されるようになったあとでは、その受け取られ方が違っていた。
「誰の楽団で歌っているか」ではなく、「誰が歌っているか」が、音楽を選ぶ理由になり始めていたのである。

もちろん、歌手個人がスターになること自体をシナトラが発明したわけではない。
ビング・クロスビーはすでに1930年代から、ラジオ、レコード、映画を横断する巨大なスターだった。シナトラ自身も、そのクロスビーに憧れて歌手を目指している。それでもシナトラの登場によって、歌手個人の名前が音楽そのものを選ぶ理由になるという変化は、さらに鮮明になった。

1930年代、シナトラはビング・クロスビーの歌声に憧れ、自らも歌手になることを夢見た。
1940年代、そのシナトラ自身の名前が、聴衆をレコードや劇場へ引きつけるものになっていた。


ビッグバンドを取り巻く環境が変わる

シナトラがソロ歌手として飛躍した1940年代、ビッグバンドを取り巻く環境そのものも変化していた。

第二次世界大戦が進み、とりわけ1941年末にアメリカが参戦すると、多くの音楽家が軍務に就き、大人数の楽団を維持することは次第に難しくなった。ガソリンやタイヤの配給、鉄道輸送の制約などによって巡業も難しくなり、戦時中にはダンスホールやボールルームを中心に発展してきたビッグバンドの活動を支えていた条件が次第に崩れていった。

さらに1942年から44年にかけては、アメリカ音楽家連盟によるレコード録音の禁止が行われた。
組合に所属する楽器奏者による商業録音が止まる一方、歌手はヴォーカル・コーラスなどを伴奏に録音することができた。

この出来事だけで歌手中心の時代が生まれたわけではない。しかし、ビッグバンドと歌手の関係が変化していた時期に、歌手の存在感を高める一つの条件となった。

一方で、ラジオ、レコード、映画は、一人の歌手を楽団から切り離して全国的なスターにする仕組みをすでに作り上げていた。
マイクを使えば、声量ではなく息づかいや言葉の細かなニュアンスまで伝えることができる。ラジオはその声を家庭へ届け、レコードは何度でも繰り返し聴けるものにした。
大編成の楽団がその場にいなくても、一人の歌手の声は何百万もの聴衆へ届く。

ビッグバンドが突然消えたわけではない。
しかし、その楽団の前に立っていた歌手が、楽団とは別の名前と個性を持つスターとして成立する条件は、以前より整っていた。


歌手そのものがスターになる

こうした環境の中で、ビッグバンドで名を知られた歌手が独立し、自分自身の名前で活動することも珍しくなくなっていった。
楽団の専属歌手であることはキャリアの最終地点ではなく、そこからソロ歌手へ進む道にもなっていったのである。

そして、歌手が前面に出ることは、音楽の聴かれ方にも変化をもたらした。同じスタンダード・ナンバーであっても、誰が歌うかによって違う音楽になる。声質、フレージング、リズム、言葉の置き方によって、歌手は既存の曲を自分自身の表現へ変えることができる。
作曲家や楽団だけではなく、「誰の歌で聴くか」が、その曲を選ぶ理由になっていった。
シナトラは、その可能性を強く示した歌手だった。

CBSラジオ『The Frank Sinatra Show』の宣伝写真、1944年
CBS Radio / Wikimedia Commons / Public Domain

長く滑らかなフレーズ。ジャズから学んだタイミング。マイクを通して伝わる細かなニュアンス。そして歌詞を、自分自身の言葉のように歌うこと。
それらが結びついたことで、「フランク・シナトラが歌うこと」そのものが、曲を聴く理由になった。

1930年代、アメリカを踊らせていたのはビッグバンドだった。
1940年代、その大きな楽団の前から、歌手たちが自分自身の名前で歩み出していく。
その変化を最も鮮明に体現した一人が、フランク・シナトラだった。



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