見出し画像

北米先住民の多様な音楽世界: 土地、共同体、儀礼のなかの歌と踊り

現在のカナダ、米国、メキシコにまたがる北アメリカ大陸には、ヨーロッパ諸国が植民地を築く以前から、数百の先住民社会があった。北極圏、太平洋岸、大平原、五大湖周辺、南西部の乾燥地帯では、話される言葉も、暮らし方も、共同体をまとめる仕組みも違っていた。歌や踊りも一つではなかった。

当時の歌声を直接聴くことはできない。音を記録して再生する装置が北米先住民の共同体へ持ち込まれたのは、19世紀末になってからである。それ以前の手がかりになるのは、遺跡から出た楽器、代々伝えられた歌や記憶、外部の人が書いた記録、そして後の時代に録音された音だ。後世の録音を、何百年も前の音そのものとして聴くことはできない。それでも、北アメリカ大陸の音楽史がヨーロッパ人の到来とともに始まったのではないことは分かる。



祖先プエブロ人の笛と足踏み太鼓

現在の米国南西部では、紀元200年頃から1540年までの遺跡から、笛、鈴、がらがら、擦って鳴らす楽器、貝殻のラッパなどが見つかっている。この地域で集落を築き、農耕を行っていた人々を、考古学では「祖先プエブロ人」と呼ぶ。現在のニューメキシコ州やアリゾナ州などに暮らす、複数のプエブロ系共同体の祖先にあたる人々である。「プエブロ」はスペイン語で村を意味し、一つの民族名ではない。

考古学者エミリー・ブラウンは、米国南西部の17か所の国立公園で発掘された古代の楽器約1,300点を調べた。木、葦、七面鳥などの骨で作った笛や呼子、種を入れたヒョウタン、糸につないで衣服につける貝殻、銅や粘土の鈴。材料の違いだけでも、風を吹き込む音、振る音、こする音、足の動きとともに鳴る音があったことが分かる。

遺跡から見つかる楽器の種類は、時代によって変化している。紀元400〜700年頃には木や葦の笛が使われ、700〜900年頃には、地下につくられた儀礼空間「キヴァ」の床に溝を掘り、板を渡して踏み鳴らす足踏み太鼓が現れる。900〜1150年頃、現在のニューメキシコ州チャコ・キャニオンに大規模な集落が栄えると、メキシコ方面との交易で運ばれた貝殻のラッパや銅鈴も加わった。広場やキヴァでは、遠くまで響くラッパの音や、踊る人の衣服につけた鈴の音が、集まりや儀礼のなかで使われていたと考えられている。

ニューメキシコ州チャコ・キャニオンのプエブロ・ボニートに残るグレート・キヴァの遺構
祖先プエブロ人の集落に設けられた儀礼・集会空間の一例
Photo by National Park Service / Wikimedia Commons / Public Domain

13世紀には、長期的な干ばつなどを背景に、チャコ・キャニオンやメサ・ヴェルデを含む米国南西部各地で人々の移住が進み、1400年頃にはリオ・グランデ流域などに大きな集落が築かれていた。そこでは、大きな広場で共同体の人々が参加する踊りが行われる一方、キヴァではより限られた人々によって儀礼や知識が受け継がれていたと考えられている。

遺物だけでは旋律も歌詞も分からない。現在のプエブロに伝わる歌が、千年前にも同じ形で歌われていたとは限らない。しかし、スペイン人が南西部へ入った1540年より前に、多種類の楽器と、それを鳴らす広場や儀礼空間があった。北アメリカ大陸の音楽には、録音よりはるかに長い前史がある。

ニューメキシコ州アコマ・プエブロで行われたサン・エステバン祭の踊り、1900年頃
古代の様子を写したものではないが、プエブロの集落で人々が集まり、踊る様子を伝えている  Photo by George Wharton James / Wikimedia Commons / Public Domain

植民と強制移住で、歌う場所が変わる

16世紀にスペインがメキシコ、フロリダ、南西部へ進出し、17世紀にはイギリスが大西洋岸、フランスが五大湖周辺からミシシッピ川流域へ植民地や交易所を広げた。感染症、戦争、奴隷化によって多くの北米先住民社会では人口が大きく減り、植民地の拡大によって、人々はそれまで暮らしてきた土地を追われていった。別々の集団が合流して新しい共同体をつくることもあれば、宣教師が伝えたキリスト教の歌やヨーロッパ由来の楽器を取り入れることもあった。

19世紀に入ると、米国は北米先住民を西へ移す政策を強めた。1830年のインディアン移住法によって、南東部のチェロキー、チョクトー、チカソー、マスコギなど数万人が、現在のオクラホマ州を中心とする「インディアン準州」へ追われた。移動したのは歌だけではない。家族、言葉、祈り方、踊りの順序、歌を知る人そのものが新しい土地へ移り、そこで共同体の暮らしを築き直した。

その後の音楽まで追える例が、北部平原に暮らしていたポンカ族にある。ポンカ族は現在のネブラスカ州北東部に保留地を得ていた。ところが1868年のフォート・ララミー条約では、ポンカ族に約束されていた土地がラコタ側の領域に含められてしまった。1877年、約800人のポンカ族がインディアン準州へ強制移住させられた。

1877年、ポンカ族がネブラスカからインディアン準州へ強制移住させられた経路を示す地図
James H. Howard『The Ponca Tribe』(1965年)より
Map by James H. Howard / Wikimedia Commons / Public Domain

ポンカ族には、移住以前からヘトゥーシュカと呼ばれる戦士の集まりがあり、太鼓を囲んで歌い、決まった順序で踊っていた。1878年に現在のオクラホマ州ホワイト・イーグル・パーク一帯へ移った後、そこが共同体の重要な集まりの場所となった。土地は変えられたが、歌う人と踊る人はそこでヘトゥーシュカを続けた。歌はポンカ語や歴史、価値観を伝え、ときには心身を癒やすものとも考えられている。強制移住は歌を消し去ったのではなく、歌われる場所と、それを続ける条件を大きく変えた。

ポンカ族にも伝わったヘトゥーシュカの歌は、19世紀末に残された「Hethu'shka Society Song」の録音でも聴くことができる。


儀礼と教育を狙った同化政策

カナダや米国の政府は、先住民の土地だけでなく儀礼や教育にも介入した。カナダでは1884年に、太平洋北西海岸の北米先住民が行うポトラッチへの参加を処罰する法律が成立し、翌年に施行された。ポトラッチは宴会だけを指す言葉ではない。人々が集まって贈り物を交わし、家名、婚姻、相続などを確かめる場であり、そこで行われる特定の歌や踊りにも、誰が受け継ぎ、演じることができるかという権利が結びついていた。政府がポトラッチを禁じると、そこで行われる歌や踊りも取り締まりの対象となり、ポトラッチを開いたり参加したりすれば処罰される可能性があった。

カナダ・ブリティッシュコロンビア州アラート・ベイで行われたポトラッチ、1905〜1910年頃
ポトラッチが法律で禁止されていた時期に撮影された写真である
University of Washington Libraries / Wikimedia Commons / Public Domain

1921年にブリティッシュ・コロンビア州で開かれたポトラッチの後には、仮面や衣装なども押収された。禁止条項が廃止されたのは1951年である。

米国では、子どもを家族から離し、寄宿学校で英語、キリスト教、職業訓練を教える政策が広がった。1879年にペンシルベニア州で開校したカーライル・インディアン工業学校では、子どもたちに英語名を与え、北米先住民の言語を話すことを禁じ、儀礼に使うがらがらや装身具を持つことも認めなかった。

カーライル校に音楽がなかったわけではない。授業には音楽があり、制服を着た吹奏楽団は大統領就任式でも演奏した。

カーライル・インディアン工業学校の吹奏楽団、1915年
学校では先住民の言語や儀礼が抑圧され、西洋式の音楽教育が行われていた
U.S. National Archives and Records Administration / Wikimedia Commons / Public Domain

ただし、学校の正課で教えられたのは、子どもたちの共同体の音楽ではなく、学校側が組み立てた西洋式の音楽教育だった。子どもたちは長期間、家族や共同体から切り離された。そこで使う言葉、誰が歌い始めるか、踊りがどの順に進むかを、年長者のそばで覚える機会も失われていった。

一方で、ヨーロッパ由来の旋律が、先住民の言葉と結びつくこともあった。ネズ・パース族のエリザベス・ペニー・ウィルソンは1902〜1909年にカーライル校へ通い、1971年の聞き取りでは、スコットランドの歌「オールド・ラング・サイン」(日本で「蛍の光」として知られている)の旋律に、ネズ・パース族の言葉であるニミープーティームトの歌詞をのせた賛美歌を歌った。ここでは、ヨーロッパ由来の旋律と自分たちの言葉が、一つの歌のなかで重なっている。


パサマクォディの歌が蝋管に入る

北米先住民の歌声が録音として残り始めたのは、強制移住と同化政策がすでに進んだ後だった。1890年3月、米国の人類学者ジェシー・ウォルター・フュークスは、メイン州カレスへ円筒式録音機を運んだ。録音に応じたのは、現在の米国メイン州とカナダのニューブランズウィック州にまたがる土地を故郷とするパサマクォディ族の人々だった。

ピーター・セルモアやニューウェル・ジョセフズらは、歌、昔話、言葉の一覧を3日間で36本の蝋管に吹き込んだ。蝋管は、ワックス製の円筒に音の振動を溝として刻む録音媒体で、一本に録音できるのは2、3分ほどだった。36本のうち31本が現存し、米国議会図書館は、現存するものとしては世界最古の民族学的フィールド録音だとしている。

「Ancestral Voices」コレクションでは、1890年3月16日にセルモアが歌った哀悼の歌と交易の踊りの歌、翌日にピーター・ラコートが歌った戦いの歌を聴くことができる。同じ録音群の「アライグマの物語」は歌ではなく、セルモアが語った昔話である。録音機には、旋律だけでなく、パサマクォディ語の話し声も残された。

ただし、これはヨーロッパ人が北アメリカに来る前の音を閉じ込めた録音ではない。1890年のパサマクォディ族は、米国とカナダの国境の両側に暮らし、外部社会との長い接触をすでに経験していた。聞こえるのは、その変化の後にも使われていた言葉と歌である。
それでも、それまで文字では残せなかった歌の速さや声の揺れ、言葉の響きまで、再生できる資料として残されたことは重要である。


北米先住民の音楽は、一つの様式として大陸に広がっていたわけではない。土地ごとに異なる共同体があり、それぞれの暮らしや儀礼の中に、歌や踊り、さまざまな楽器があった。

ヨーロッパによる植民が進むと、人々は土地を追われ、儀礼や言語まで抑圧されるようになった。それでも歌や踊りは失われるだけではなく、新しい土地へ運ばれ、外から入ってきた文化とも出会いながら形を変えて続いていった。

そして19世紀末、ようやくその一部が録音という形で残り始める。

北アメリカの音楽史は、ヨーロッパ人の到来から始まったのではない。その土地にはすでに長い音楽の歴史があり、その上に、やがてヨーロッパから運ばれてきた歌や踊り、楽器、宗教音楽が新しい層として重なっていくことになった。



いいなと思ったら応援しよう!