ヨーロッパ移民が北米へ持ち込んだ歌と踊り: バラッド、フィドル、賛美歌
17〜18世紀、現在のカナダと米国には、イングランド、スコットランド、アイルランド、フランス、ドイツ語圏などから人々が渡った。土地や信仰の自由を求めた人もいれば、兵士や船員、一定期間の契約で働く奉公人として来た人もいた。入植地は北米先住民の土地を奪いながら広がったが、移住者同士も同じ言葉や文化を持っていたわけではない。
現在の米国南西部ではスペイン語圏の宗教歌と弦楽器が根づき、フランス語圏カナダにも独自の歌と舞曲が育った。そのうち、後の英語圏のカントリー、ブルーグラス、フォークへつながるヨーロッパ由来の重要な要素となったのが、英国とアイルランドから来た物語歌、踊りを支えるフィドル、プロテスタント教会の賛美歌だった。
歌詞や楽譜を紙で持って来る人もいれば、家族から覚えた旋律だけを携える人もいた。同じ歌でも、歌われる土地、踊る部屋、隣で鳴る楽器が変われば、節の数や旋律、拍の取り方が変わる。英国の古い歌が北米へ渡ったあとも、そのままの形で歌い継がれたわけではない。異なる暮らしのなかで、歌詞や旋律を変えながら何度も作り替えられていった。
歌は、記憶と紙の両方で運ばれた
英国やアイルランドでは、事件、恋、殺人、戦争、遭難などの物語をいくつもの節で歌う「バラッド」が広く歌われていた。ここでいうバラッドは、現代のポップスでいう「ゆっくりした恋愛歌」という意味のバラードとは異なる。
こうしたバラッドの多くが、移民とともに北米へ渡った。たとえば「バーバラ・アレン(Barbara Allen)」は、大西洋の両岸で長く歌い継がれた代表的な物語歌である。
Jean Ritchie「Barbary Allen」
20世紀に録音された「Barbara Allen」の伝承版。この記事で扱う時代の録音ではなく、アパラチアで後世まで歌い継がれた形の一例として。
口承で伝わる歌では、原曲をひとつに絞れないことも多い。
ある家族から別の家族へ、ある地域から別の地域へ伝わるうちに、人物名が変わり、節が増減し、旋律が別の形になる。同じ物語に複数の旋律がつくこともある。
一方で、歌は記憶だけで伝わったわけではない。
歌詞は、ブロードサイドと呼ばれる安価な一枚刷りの印刷物にも載せられ、街頭で売られた。旋律が記されず、「この曲の節回しで」と、よく知られた曲名だけを示すものも多かった。買い手は売り手の歌を聞いて覚えるか、知っている旋律へ歌詞を載せた。

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印刷されたからといって、歌が口承から切り離されたわけではない。紙に載った歌詞は再び人の声へ戻り、そこでまた変化したのである。
ブロードサイドは古い歌を保存するだけでなく、新しい出来事を歌に変える媒体でもあった。殺人、処刑、災害、政治的主張、街の噂が一枚の紙に印刷され、売り手の声を通じて広がった。今日の新聞と流行歌のあいだにあるような役割を、一つの紙片が担っていたのである。
19世紀末、フランシス・ジェームズ・チャイルドは写本や印刷物からイングランドとスコットランドの物語歌を集めて整理し、番号を付けた。こうして整理されたことで同じ物語歌の異なる版を比較しやすくなった。
しかし、一つの番号でまとめられても、歌が一つの形に定まったわけではない。家族から覚えた節、地元の名前へ置き換えた言葉、歌い手の声に合う旋律が、それぞれの土地で使われ続けた。
フィドルは共同体を踊らせた
ヨーロッパのヴァイオリンは、17世紀には北米へ入っていた。フィドルは基本的にはヴァイオリンと同じ楽器で、特に舞曲や民俗音楽を演奏する文脈でそう呼ばれることが多い。農村や開拓地では、舞曲を弾き、人を踊らせる楽器として広く使われた。
舞踏会、結婚式、収穫後の集まり、家の一室。フィドル奏者は、踊り手が足を運び続けられるよう、短い旋律を反復し、拍を明確にした。演奏する曲も踊りによって異なった。ジグは弾むようなリズムを持つ舞曲、リールは主に2拍子系の速い舞曲で、どちらも英国やアイルランド系の伝統と深く結びついていた。のちには、3拍子のワルツ、軽快な2拍子のショティッシュ、ポルカなど、19世紀に広まった新しい舞曲もレパートリーへ加わっていった。

田舎の酒場で、黒人のフィドル奏者の演奏に合わせて人々が踊る様子を描いている
John Lewis Krimmel / Wikimedia Commons / Public Domain
人数、部屋の広さ、踊りの種類、共演者の楽器に合わせて、旋律やリズムは変わる。題名が違うのにほぼ同じ旋律が使われることもあれば、同じ題名で別の曲が弾かれることもある。
曲名や楽譜が揃っていなくても、奏者が拍を保てれば踊りは続いた。
18世紀後半、ヨーロッパ製のヴァイオリンが安価に流通するようになると、フィドルはより広い層の人々が手にする楽器になった。楽譜を精密に再現する能力より、耳で曲を覚え、踊りの流れを読み、何度でも拍を保つ力が共同体の奏者に求められた。
奏者のレパートリーも、出自別に整然と分かれていたわけではない。スコットランド系のリールの隣に、軍隊から伝わったマーチがあり、19世紀に流行したワルツやショティッシュがあり、市販の流行歌もある。
20世紀に記録されたヴァージニア州のフィドル奏者ヘンリー・リード(Henry Reed)のレパートリーにも、さまざまな時代や地域から来た曲が混在している。英国にルーツを持つ曲と、北米で広がった曲、戦争の記憶を伝える曲、舞踏会で流行した曲、ミンストレル舞台を経た曲が、一人のレパートリーの中に並んでいた。
ヘンリー・リード「Shady Grove」
1966年に録音されたヘンリー・リードのフィドル演奏。英国と北米に広く伝わった古い旋律とのつながりを持ち、アパラチアでさまざまな音楽が交わりながら受け継がれてきたことを示す一例
https://www.loc.gov/item/afcreed000106/
フィドルが北米で変化していったことを、さらに具体的に示す例が、カナダ西部のマニトバ州にある。
19世紀初め、スコットランド系やフランス系カナダ人の毛皮交易者は、この地域へフィドルを持ち込んだ。毛皮交易の現場では、ヨーロッパ系の交易者と先住民女性が家庭を築くことも多かった。その子孫の一部は世代を重ねるなかで、先住民ともヨーロッパ系住民とも異なる独自の文化と共同体を形成していった。こうして生まれた独自の先住民族がメティスである。

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フィドルはメティスの祝い事や家の集まりで演奏され、人々が踊るための身近な楽器になった。
しかし、そこで演奏された音楽は、ヨーロッパの舞曲をそのまま再現したものではなかった。
民族音楽学者アン・レーダーマン(Anne Lederman)が1985〜1986年にマニトバ州の先住民とメティスの共同体で約550曲分の演奏を記録して調べると、古いフィドル曲の中には、スコットランド系やフランス系カナダ人の舞曲にはあまり見られない構造があった。
一定の長さのフレーズを規則的に反復するのではなく、フレーズの長さが伸び縮みしたり、繰り返すたびに一部が加わったり省かれたりする。その結果、曲全体が非対称な構造になることがある。その組み立て方には、20世紀初めに録音されたオジブウェ族や平原地域の先住民の歌との共通点が見られた。
Anne Lederman「Métis Fiddling and Dance」
アン・レーダーマンが調査したマニトバのメティス/先住民系フィドルの解説と録音資料。ページ下部では「G Jig」「Quadrille Set」「Drops of Brandy」などを聴くことができ、一定の長さのフレーズを規則的に繰り返さない、古い演奏様式の特徴を実際の音で確かめられる。
https://www.ameriquefrancaise.org/en/articles/metis-fiddling-and-dance
家族や共同体の中で何世代にもわたって演奏されるうちに、周囲にあった別の音楽文化と出会い、旋律の組み立て方そのものまで変わっていった。フィドルという一つの楽器だけを見ても、北米へ渡ったヨーロッパの音楽が、故郷の伝統をそのまま保存したものではなかったことが分かる。
教会では、楽譜が人々を参加者にした
宗教歌にも、口承と印刷の往復があった。
18世紀のニューイングランドでは、巡回する歌唱教師が各地で歌唱学校を開いた。目的は、教会に集まる人々の歌を整え、普通の人々が楽譜を読み、複数の声部を歌えるようにすることだった。
19世紀初めに広がったシェイプ・ノートは、音階を「ファ、ソル、ラ、ミ」という音節で歌い分け、それぞれを異なる形の音符で示す仕組みだった。歌詞を歌う前に、まずこの音節で旋律を確認した。

ファ、ソル、ラ、ミの音節に、それぞれ異なる形の音符を対応させる方法が示されている
William Little and William Smith / Wikimedia Commons / Public Domain
1801年に刊行された『The Easy Instructor(イージー・インストラクター)』は、この方法を広く知らしめた初期の歌集である。やがてシェイプ・ノート歌集は南部へ広がり、1844年にジョージア州で初版が出た『The Sacred Harp(セイクリッド・ハープ)』は、もっとも長く使われる歌集の一つになった。

異なる形の音符を使ったシェイプ・ノートが、実際の賛美歌の楽譜に用いられている
William Little and William Smith / Wikimedia Commons / Public Domain
歌い手は、テナー、ベース、アルト、トレブルの4つのパートに分かれ、それぞれが正方形の一辺を占めて中央を向く。「中空の正方形」と呼ばれる配置である。リーダーは中央に立ち、参加者は交代で曲を選び、拍を取る。

Opus33 / Wikimedia Commons / Public Domain
これは聴衆へ完成品を届ける演奏会ではない。そこにいる人が声を出すことで初めて成立する音楽だった。
その響きは、整えられた合唱の滑らかさとは少し違う。主旋律はテナーが担当することが多いが、ほかの声部もそれぞれ独立した旋律を力強く歌う。四方から声がぶつかり合うため、和音だけでなく、それぞれの旋律が独立して動いているように聞こえる。
まず「ファ、ソル、ラ、ミ」で歌うことは、単なる練習ではなかった。同じ音符の読み方を覚えることで、専門的な訓練を受けていない人でも、自分の声部をたどりながら一緒に歌うことができた。シェイプ・ノートは、多くの人が合唱に参加するための仕組みでもあった。
また、この伝統を白人南部だけのものと見るのも正確ではない。黒人のシェイプ・ノート共同体も形成され、1934年にはアラバマ州で、黒人作曲家の作品を収めた『The Colored Sacred Harp』が刊行された。人種隔離のもとで歌う集まりは分けられても、黒人の歌い手は譜面を使い、自分たちの曲と歌い方を加えていった。
世俗歌と聖歌の境界は固定されていなかった
シェイプ・ノートの有名な賛美歌「Wondrous Love」の歌詞は、海賊キッドを歌うバラッド「Captain Kidd」と、言葉のリズムや行の組み立てに共通する型を持っている。この型は、宗教歌にも世俗の歌にも使われていた。
The Old Harp Singers of Eastern Tennessee「Wondrous Love」
1951年に録音された、東テネシーのシェイプ・ノート歌唱。19世紀の録音ではないが、地域に受け継がれてきた集団歌唱の伝統を伝える音源。
Bruce Hutton「Captain Kidd」
1978年に発表された「Captain Kidd」の伝承版。古いバラッドが生まれた時代の録音ではなく、後世に歌い継がれた形の一例として。
また、よく知られた世俗の曲に宗教的な歌詞をつけて歌うことも珍しくなかった。同じ曲でも、歌詞や歌われる場所が変われば、宗教歌にも世俗の歌にもなったのである。
人々はよく知られた曲に新しい歌詞をつけ、宗教歌を家庭で歌い、教会で使われる歌い方や和声を世俗の場にも持ち込んだ。誰が作った歌かよりも、皆が知っていて一緒に歌えることの方が大切にされる場面も多かった。
後のゴスペルやカントリーで、同じ歌手が世俗歌と宗教歌を行き来する背景には、こうした長い習慣がある。
宗教歌か世俗の歌かを決めるのは、曲そのものだけではなかった。同じ曲でも、礼拝で宗教的な歌詞を歌えば賛美歌になり、別の言葉をつければ犯罪や政治を題材にした歌にもなる。
こうした関係は、のちの大衆音楽にも受け継がれていく。賛美歌が世俗の歌から曲調を取り入れたり、流行歌が教会音楽の和声や歌い方を取り入れたりするのも、突然始まったことではなかった。
アパラチアで混ざり合う歌と楽器
19世紀末から20世紀初めにかけて、研究者たちは米国東部のアパラチア山脈周辺へ入り、イングランドやスコットランドに由来する古いバラッドを数多く集めて記録した。
その調査によって、海を越えて北米へ渡った歌が何世代にもわたって歌い継がれていたことが明らかになった。
しかし、実際のアパラチアで鳴っていた音楽は、英国諸島から伝わった古い歌だけではなかった。
この地域には、スコットランド系、アイルランド系、イングランド系だけでなく、ドイツ系、フランス系、東欧系の住民も暮らしていた。北米先住民や黒人の共同体もあり、鉱山や鉄道の発達とともに、別の土地から人や音楽が入ってきた。
古いバラッドの隣では、新しい労働の歌が作られ、家庭では市販の楽譜や流行歌も歌われた。
使われる楽器も変化していった。
現在、アパラチアン・ダルシマーと呼ばれる楽器は、細長い木箱に弦を張ったドイツ系の楽器であるシャイトホルトから発展したとされる。19世紀末から20世紀に入ると、ギターやマンドリンなども、通販カタログなどを通じて購入できるようになり、山間部へ広がっていった。

20世紀初頭のアパラチアに残るフィドル文化を伝える写真
Barnhill Studios / Wikimedia Commons / No known copyright restrictions
道路や鉄道、郵便が地域を外の世界と結び、人々自身も仕事のために町や鉱山へ出て、また故郷へ戻った。
炭鉱や鉄道工事の現場では、人種隔離の制度が存在する一方で、黒人と白人の労働者や演奏者が近い場所で生活し、互いの演奏を耳にする機会もあった。
そのため、一人の奏者の中にも、古い英国系の旋律、フィドルの舞曲、黒人演奏家から伝わった奏法、市販の流行歌、新しく作られた労働歌などが同居するようになる。
20世紀初頭に研究者たちが「アパラチア音楽」として記録したものも、こうした長い混ざり合いの中から生まれた音楽だった。
しかし、それが残ったのは、この地域が外の世界から閉ざされ、昔の音楽をそのまま保存していたからではない。
人々は古い物語歌を歌いながら、新しい生活を歌にし、新しい楽器を取り入れ、隣人から聞いた音を自分たちの演奏へ組み込んでいった。
まだ「カントリー」ではなかった
ヨーロッパから北米へ渡った人々は、故郷の歌や踊り、楽器、宗教音楽も一緒に運んだ。
世俗の旋律に宗教的な言葉が載り、ヨーロッパから来たフィドルがメティスの共同体で新しい演奏文化を生み、アパラチアでは古い物語歌と新しい労働歌、市販の楽器や流行歌が同じ土地で鳴っていた。
19世紀の人々にとって、これらはまだ「カントリー」という一つの音楽ではなかった。
家庭で歌う歌、教会で声を合わせる歌、踊るためのフィドル曲、土地に伝わる物語歌。それぞれ異なる場で使われながら、人の移動とともに運ばれ、周囲の文化と出会うたびに少しずつ姿を変えていた。
1920年代に入ると、録音産業はその中から演奏を選び、レコードとして広い地域へ届けるようになる。白人南部で歌い演奏されていたこうした音楽の一部は、レコード会社によって「オールドタイム」や「ヒルビリー」といった名称で売り出され、後のカントリーへつながっていった。
しかし、その音楽がレコードに刻まれるまでには、すでに何世代もの変化があった。
そして北米でヨーロッパ由来の音楽と隣り合っていたのは、先住民の音楽だけではない。大西洋奴隷貿易によってアフリカから強制的に連れてこられた人々もまた、自らの記憶と音楽文化をこの土地へ運び、新しい環境の中でそれを作り変えていった。
