バディ・ホリー:ロックに「バンドで作る未来」を見せた
ロックンロールが巨大な騒動へ膨れ上がっていった1950年代後半、叫び、踊り、社会をざわつかせるスターたちが次々と現れた。
チャック・ベリーはギターと言葉でその輪郭を作り、リトル・リチャードはピアノを叩きながら絶叫し、エルヴィス・プレスリーは身体を揺らして、若者を熱狂させ、大人たちを不安にさせた。
その熱狂の時代に、叫びや身体性とは異なるところから、ロックの未来を変えた青年がいた。
バディ・ホリー(Buddy Holly)である。
(見出し画像:バディ・ホリー、ブランズウィック・レコード宣伝写真(1957年頃撮影:James J. Kriegsmann/Public Domain/Wikimedia Commons ※ 見出し用に背景を拡張)
チャック・ベリー、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーが、それぞれ異なる方法でロックンロールの可能性を押し広げていくなか、バディ・ホリーがとりわけ鮮明に示したのは、その音楽を作り、演奏し、残していくための形だった。
自分で曲を書き、ギターを弾いて歌い、仲間たちと小さなバンドで演奏し、スタジオでレコードとしての音を作る。それぞれの要素には、すでに先例があった。
だがバディ・ホリーとザ・クリケッツ(The Crickets)は、それらを、若者たちが真似できる一つの分かりやすい姿として示した。
バディが残したのは、ロックンロールの新しい音だけではない。次の世代が、自分たちの手でその音楽を作っていくための形だった。
テキサスのカントリー少年
1936年、バディ・ホリーはテキサス州ラボックに生まれた。
本名はチャールズ・ハーディン・ホリー(Charles Hardin Holley)。音楽好きの家庭で育ち、幼い頃から兄たちと歌い、ギターやマンドリンなどに親しんだ。
少年時代のバディが演奏していたのは、まだロックンロールではない。
友人のボブ・モンゴメリー(Bob Montgomery)と組んだバディ&ボブ(Buddy & Bob)では、カントリーやブルーグラスを基礎とする音楽を歌っていた。地元のラジオ局に出演し、学校や地域の催しで演奏する、ごく若いカントリー・デュオだった。
転機となったのは1955年である。
その年、エルヴィス・プレスリーがラボックへやって来た。
バディたちはその公演の前座を務めた。
まだ全米を制覇する直前のエルヴィスだったが、舞台上の姿は、それまでバディが知っていたカントリー歌手とはまるで違っていた。
鋭いリズム、身体の動き、観客の悲鳴。
仲間だったソニー・カーティス(Sonny Curtis)によれば、彼らはたちまちエルヴィスに夢中になり、髪形や服装まで真似るようになったという。
だが、バディはエルヴィスの模倣だけでは終わらなかった。
テキサスのカントリー、ラジオから聞こえてくるR&B、エルヴィスが示したロカビリーの衝撃。それらを、自分の声、自分のギター、自分たちの小さなバンドへ組み替えていくことになる。
ナッシュヴィルでは、自分たちの音を作れなかった
1956年、バディはデッカ・レコード(Decca Records)と契約する。
本名の綴りはHolleyだったが、契約書ではHollyと記され、以後それが芸名として定着した。
若いバディにとって、大手レコード会社との契約は大きな成功だった。
しかし、ナッシュヴィルでの録音は思うように進まなかった。
セッションは、ナッシュヴィルのプロデューサー、オーウェン・ブラッドリー(Owen Bradley)の管理のもとで進められた。バディはラボックの仲間たちと録音に臨んだが、録音時間や選曲、演奏のまとめ方を自分たちで自由に決められる環境ではなかった。
この時期に「That’ll Be the Day」も一度録音されている。
だが、その演奏は、後に世界中で知られることになる版よりも重く、バディたちの軽快な演奏感覚が十分に引き出されたものではなかった。
歌もギターも曲もある。それでも、まだ後に確立される「バディ・ホリーの音」にはなっていなかった。
レコードは成功せず、デッカとの契約は更新されなかった。
20歳のバディは、一度、音楽産業の中心から振り落とされた。
しかし、その失敗が、彼を自分たちの音へ近づけることになる。
クローヴィスの夜に生まれた「That’ll Be the Day」
契約を失ったバディは、ラボックからニューメキシコ州クローヴィスへ向かった。
そこには、ノーマン・ペティ(Norman Petty)が運営する録音スタジオがあった。
大手レコード会社の管理されたセッションとは違い、ここでは時間をかけて演奏し、音を試し、納得できるまで録音を続けることができた。
1957年2月、バディ、ドラマーのジェリー・アリソン(Jerry Allison)らは、「That’ll Be the Day」をもう一度録音した。
だが、以前と同じ曲とは思えないほど、演奏は変わっていた。
バディのギターは軽く鋭く刻まれ、アリソンのドラムは重くなりすぎずに曲を前へ押す。バディの声は、音をしゃくり上げ、途中で引っかかるように跳ねながら、どこか人をからかうように響く。
そこには、ナッシュヴィルでは十分に引き出されなかった、若者たち自身の演奏の間合いがあった。
ペティは単なる記録係ではなかった。録音の仕方、響き、音の重ね方を考え、バディやバンドとともに、レコードとしての音を組み立てた。
「That’ll Be the Day」は、バディ個人ではなく、The Crickets名義で発売された。
そこには契約上の事情もあった。バディはデッカ時代に同曲を一度録音しており、契約上、同じ曲を自分の名義ですぐに録り直すことが難しかった。そのため、クローヴィスで録音した新版はThe Cricketsというグループ名義で、デッカ傘下のブランズウィック(Brunswick Records)から発売された。

Brunswick/Public Domain/Wikimedia Commons
その名義が生まれた背景には契約上の事情があった。しかし結果として、歌手個人ではなく、仲間たちからなるグループの名前がレコードの表に掲げられることになった。
そして1957年、「That’ll Be the Day」はアメリカとイギリスで1位を獲得する。
一度は成功しなかった曲が、演奏と録音の方法を変えることで、世界的なヒットへ変わったのである。
黒縁眼鏡のギタリスト
「That’ll Be the Day」の成功後、バディは立て続けにレコードを発表し、全米のテレビに映るスターになっていった。
バディが全米のテレビに映るようになると、その姿は当時のロックンロール・スターの中で異彩を放った。
黒縁眼鏡。細い身体。スーツ姿で抱えたフェンダー・ストラトキャスター。その青年がギターを弾き、自分の声で歌い、バンドの中心に立っていた。
これは、後の世代にとって非常に大きな意味を持った。
エルヴィスが、観客に見上げられるスターだったとすれば、バディは、ギターを手に取った少年が「自分にもできるかもしれない」と思えるスターだった。
もちろん、実際のバディは単なる素朴な青年ではない。
音楽に対する意志は強く、録音や仕事の進め方にも自分の考えを持っていた。
それでも、派手な身体表現や危険な不良性を前面に出さず、ギターを弾き、自分の曲を歌い、仲間と演奏する彼の姿は、エルヴィスとは異なるロックンロールの主役像を示した。
後にイギリスでギターを手にした少年たちにとって、バディ・ホリーは、遠いアメリカの偶像であると同時に、真似することのできる具体的な先輩になった。
The Crickets
⸻ 真似できるロックバンド
The Cricketsのラインナップには時期による変動があった。
よく知られる初期の姿は、歌とギターのバディ・ホリー、ドラムのジェリー・アリソン、ベースのジョー・B・モールドゥン(Joe B. Mauldin)、リズムギターのニキ・サリヴァン(Niki Sullivan)という4人である。

(1957年、Topps Gum Cards発行。写真提供:Brunswick Records)
Public Domain/Wikimedia Commons
歌うギタリストを前面に置き、ギター、ベース、ドラムを中心に演奏する。この編成そのものを、彼らが最初に発明したわけではない。同時代には、似た小編成のグループがほかにも存在していた。
The Cricketsの重要性は、その姿を、レコード、テレビ、写真、ツアーを通して、若者が模倣できる鮮明なモデルにしたことにある。
歌手個人が前面に立ち、その後ろを伴奏者が支えるという見え方が多かった時代に、The Cricketsは、若者たちが仲間と組んだ小さなバンドとして、同じ舞台に立ち、一つの名前を掲げて演奏する姿を鮮明に見せた。
後世のロックバンドと比べれば、バディが圧倒的な中心人物だったことは間違いない。また、The Crickets名義が生まれた背景には、レコード契約上の事情もあった。それでも、その名前がレコードの表に記され、メンバーが一つのグループとしてテレビや舞台に現れたことは、ロックがスター個人だけでなく、バンドという単位でも作られる音楽へ向かっていく姿を印象づけた。

バディ、ジェリー・アリソン、ジョー・B・モールドゥンの3人による宣伝写真。
Public Domain/Wikimedia Commons
後にジョン・レノン(John Lennon)、ポール・マッカートニー(Paul McCartney)、ジョージ・ハリスン(George Harrison)らが自分たちのバンドを作るとき、The Cricketsは重要な参照点になった。
The Beatlesという名前の成立についても、The Cricketsのような昆虫名が一つの着想源になったとする、メンバーの回想が残されている。
だが、本当に重要なのは名前だけではない。ギターを弾きながら歌い、仲間とバンドを組み、自分たちの曲を演奏する。
若きビートルズが受け取ったのは、その全体像だった。
「自分たちで書く」という未来
1950年代のポップ音楽産業では、作曲家、演奏家、歌手が分業することが珍しくなかった。
専門の作曲家が曲を書き、編曲家が形を整え、スタジオ・ミュージシャンが演奏し、歌手がそれを歌う。
バディ以前にも、チャック・ベリーやボ・ディドリー(Bo Diddley)のように、自作曲を自ら歌い演奏する人物はいた。したがって、バディが自作自演を発明したわけではない。
また、バディのレコードのすべてが自作曲だったわけでもない。「Oh, Boy!」「Rave On」「It Doesn’t Matter Anymore」など、外部の作曲家が書いた重要曲もある。
それでもバディは、次の世代にとって特別だった。
作曲家として曲を書くだけではない。ギターを弾き、歌い、バンドを率い、自作曲を仲間たちとの演奏によってレコードにする。それを、特別な思想として宣言するのではなく、日々の仕事として実行していた。
ポール・マッカートニーは後年、曲を書き、それを自分で演奏したいと思っていた若き日の自分たちにとって、バディ・ホリーが重要な先例だったと語っている。
ロックが後に「自分自身の言葉を、自分たち自身の音で鳴らす音楽」と考えられるようになるとき、バディの姿は、その未来を先に見せるものだった。
小さな曲を、レコードの上で作り上げる
バディ・ホリーの曲は、激しいシャウトや長いギター・ソロで聴き手を圧倒するものではなかった。その代わり、短い時間の中に、覚えやすい旋律、声の癖、ギターの反復、リズムの変化を鮮やかに配置した。
「Peggy Sue」では、ジェリー・アリソンのドラムの響きが波のように変化し、その上をバディの反復するギターと、しゃくり上げる声が跳ねていく。
「Everyday」では、チェレスタの柔らかな響きと、膝を叩いて作った簡素なリズムが、親密で夢見るような空気を生み出した。
「Maybe Baby」や「Words of Love」では、複雑な構成を使わなくても、短い旋律や声の重なりによって、何度も聴きたくなる輪郭を作っている。
彼がロックに初めてメロディを持ち込んだわけではない。
だが、カントリー、R&B、ポップスから受け取った要素を、小編成のギター・バンドが演奏できる、簡潔で記憶に残る曲へ凝縮することに長けていた。
そして、その音楽は、バンドがその場で演奏したものを記録するだけでは完成しなかった。バディとノーマン・ペティは、声やギターを重ね、響きを調整し、レコードの上で曲の形を整えていった。
「Words of Love」では、重ねられた声とギターそのものが曲の魅力になっている。「Peggy Sue」の変化するドラムの響きも、演奏だけでなく録音によって、一つの独特な音像へ仕立てられた。
それは、小編成のロックンロール・バンドが、スタジオを単なる演奏の記録場所ではなく、レコードの音を作る場として使った、早い例の一つだった。
後にビートルズをはじめとするバンドは、その可能性をさらに大きく押し広げていくことになる。
The Beatlesは後に「Words of Love」を録音している。原曲の声の重なりを自分たちの演奏で再現したその録音からも、バディの曲が彼らにとって、聴くだけでなく実際に演奏して吸収する対象だったことが分かる。
ただし、バディが進もうとしていた道は、小編成のギター・バンドだけではなかった。
1958年10月、彼はニューヨークでストリングスを含む大編成の録音に臨む。「True Love Ways」「Raining in My Heart」「It Doesn’t Matter Anymore」。
そこでは、The Cricketsの鋭い小編成サウンドとは異なる、広がりのある洗練されたポップスが試みられていた。
ロックンロールの勢いを、短く記憶に残るレコードへ凝縮した青年は、すでにその形式の外側へも進もうとしていたのである。
The Crickets を離れ、新しい道へ
1958年、バディは音楽出版社で働いていたマリア・エレナ・サンティアゴ(María Elena Santiago)とニューヨークで出会い、結婚した。
彼はラボックを離れ、ニューヨークで暮らし始める。そこにはレコード会社、音楽出版社、録音スタジオが集まり、新しい作曲家や演奏家たちがいた。
一方、The Crickets のメンバーはテキサスに残ることを望んだ。さらにバディは、マネージャー兼プロデューサーだったノーマン・ペティとの間で、収入や印税をめぐる問題を抱えるようになる。
1958年の終わりまでに、バディはペティと離れ、The Crickets とも別々の道を進むことになった。
それは、成功を支えてきた仲間や制作環境を失う出来事であると同時に、バディがこれまでとは違う活動へ踏み出す転機でもあった。
彼は自宅で新しい曲のデモを作り、ストリングスを使った作品に挑む一方、ウェイロン・ジェニングス(Waylon Jennings)の録音をプロデュースするなど、他の歌手の制作にも関わり始めていた。

1959年1月23日、ニューヨーク Public Domain/Wikimedia Commons
しかし、ペティとの関係は悪化し、印税の支払いをめぐる問題から、バディの手元の資金は乏しくなっていた。
バディは新たな伴奏バンドを編成し、1959年初頭の「ウィンター・ダンス・パーティー(Winter Dance Party)」ツアーに出ることになった。
1959年2月3日
⸻ 突然の死
ツアーは過酷だった。真冬のアメリカ中西部を、暖房設備の不十分なバスで長距離移動する。故障や凍傷に苦しむ者も出ていた。
1959年2月2日の夜、アイオワ州クリアレイクでの公演を終えたバディは、次の会場の近くへ早く到着し、休息や洗濯の時間を確保しようと、小型飛行機を手配したと伝えられている。
日付が変わった2月3日の未明、飛行機に乗ったのは、バディのほか、同じツアーに出演していた若手歌手リッチー・ヴァレンス(Ritchie Valens)と、ビッグ・ボッパー(The Big Bopper)の名で知られたJ・P・リチャードソン(J. P. Richardson)だった。
離陸後まもなく、機体は墜落した。
搭乗者と操縦士の全員が死亡した。
バディ・ホリー、22歳。
全国的な成功を収めてから、まだ2年も経っていなかった。
この事故は後年、ドン・マクリーンの「American Pie」によって、「音楽が死んだ日(The Day the Music Died)」と呼ばれるようになる。バディ、ヴァレンス、ビッグ・ボッパーという若いスターを一度に失った出来事は、初期ロックンロールの時代を象徴する悲劇として、後世に記憶されることになった。
そしてバディ自身にとっては、これから作るはずだった音楽までが、そこで途切れた。

Photo: GravityIsForSuckers / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
小編成のギター・バンドから、さらにどのような音楽へ進んだのか。ニューヨークで、どんな作曲家や演奏家と出会ったのか。録音やプロデュースへ、どこまで活動を広げたのか。その先を知ることは、もうできない。
ロックを、手の届く未来にした
バディ・ホリーは、ロックのすべてを発明した人物ではない。自分で曲を書き、自分で歌い、演奏する音楽家は、彼以前にもいた。ギター、ベース、ドラムを中心とするバンドも、The Cricketsだけの発明ではなかった。多重録音やオーバーダビングも、バディ一人が生み出した技術ではない。
それでもバディとThe Cricketsは、すでに存在したそれらの要素を、後の若者たちにはっきり見える形で結びつけた。
曲を書く。ギターを弾く。仲間と演奏する。スタジオで音を組み立てる。そして、自ら歌いながら、小さなバンドの中心に立つ。
その全体が、後の世代にとって、ロックを始めるための一つの設計図になった。ビートルズをはじめ、彼の後に現れた多くのバンドは、その設計図をそれぞれの方法で書き換えていった。
エルヴィスが、ロックンロールを世界が見上げる巨大なスターの音楽へ押し広げたのだとすれば、バディ・ホリーは、それを若者たちが自分の部屋へ持ち帰り、仲間と始められる音楽として見せたのである。
