進撃の巨人|進撃の読書感想文 第1章 憎しみの連鎖が止まる(感想・考察)
『進撃の巨人』を読み返す中で、物語全体を貫く「憎しみの連鎖」というテーマが強く心に残りました。
一見すると単なる復讐の物語に見える場面も、登場人物たちの選択を丁寧に追っていった時、違う構造が浮かび上がってきました。
本稿では、読後に感じた印象とともに、このテーマを物語の構造から考えてみたいと思います。
進撃の巨人において、私たちは多くの人物を「時代の犠牲者」として理解してきました。
しかし、エレン・イェーガーだけは例外として扱っていなかったでしょうか。
彼を憎しみの終着点として固定してしまったとき、思考はどこかで止まってしまっていたのかもしれません。
第1節:終着点
この壮大な物語を読み解く中で、いつの間にか、ある種の思考の癖を身につけていたのかもしれません。
残酷な謎解きとして作品を追う裏側で、視点は知らないうちにパターン化された見方へと傾いていったように思えます。
それは、目の前の加害者に何かしらの事情が見えたとき、反射的に憎しみの矛先を背後にある、より巨大で抽象的な対象へとスライドさせてしまうという癖です。
物語の仕掛けに没頭するうちに、次のような視点を取っていたように思えるのです。
無垢な巨人への憎悪は、それを送り込んだ壁の外の人類へ
アニ、ライナー、ベルトルトへの憎悪は、子供を戦士に仕立て上げたマーレへ
ガビ・ブラウンへの憎悪は、子供を洗脳し戦場へ駆り立てるマーレという環境へ
ジーク・イェーガーへの憎悪は、彼を道具としてしか扱わなかった父グリシャへ
グリシャ・イェーガーへの憎悪は、彼を導き、追い詰めた未来のエレンへ
カルラを捕食した巨人(ダイナ)への憎悪は、グロス曹長やマーレという体制へ
こうして、キャラクター個人の罪を歴史や環境へとスライドさせることで、彼らを「敵」から「犠牲者」へと救い出してきました。しかし、この連鎖はエレン・イェーガーという地点に到達した瞬間に、そこで止まってしまいます。
他のすべてのキャラクターを時代の犠牲者として免罪するために、最後の一人であるエレンだけを言い逃れのできない悪に据え置き、憎しみをそこで止めてしまっていたのかもしれません。
物語におけるすべての負の因果、そのしわ寄せをすべて彼一人に背負わせることで、思考を完結させていたのかもしれません。
自由を求めて進み続けたはずの少年、エレン・イェーガー。
彼だけが憎しみの終着点にされていたのではないかと思えてなりません。
第2節:意志に見えたもの
エレン・イェーガーは親友アルミンに対し、あまりにも衝撃的な告白を残しました。
「……何でかわかんねぇけど……やりたかったんだ……どうしても……」
そして、その言葉に重なるように、彼が生まれたときの、父・グリシャが放った一言。
「エレン……お前は自由だ……」
物語の主要キャラクターたちは、一様に加害の苦しみに喘いでいました。
自分を壁の兵士だと思い込むことで、精神の均衡を保っていたライナー。
「誰かがやらなきゃいけない」と涙を流し、アルミンの巨人に食われる寸前にライナー同様、訓練兵時代に戻ったかのようなベルトルト。
かつての同期であったダズとサミュエルを殺したコニー。
彼らの行動の根底には「やりたくない」という拒絶がありました。
だからこそ、彼らを「時代の犠牲者」として容易に免罪できたのだと思います。
彼らは運命に翻弄された人々でした。
しかし、エレンだけは違います。
「やりたかったんだ」
この一言を聞いた瞬間、思考を停止させてしまったように思います。
「本人がやりたいと言っているのだから、これは彼の純粋な意志なのだ」と。
他のキャラクターに対しては、その残酷な行為の裏にある「そうせざるを得なかった事情」を探してあげたのに、エレンが「やりたい」と言った途端、その言葉の裏にあるそう言わざるを得なかった背景や彼自身の矛盾を検証しなかった。
すべての責任を彼一人の意志に断定してしまった。
それは、一人ひとりの「個」と誠実に、向き合い続けることが、膨大な時間とエネルギーを必要とする、とても大変な作業だからかもしれません。
だから、楽なほうへ流れてしまうことがあるのだと思います。
思考のシャッターを下ろす。
そうすることで、彼を理解しようとする疲れる作業から解放されようとしたのかもしれません。
しかし、ケニー・アッカーマンは最期にこう遺しました。
「みんな何かの奴隷だった」
エレンの「やりたかった」という言葉は、果たして本当に彼自身の自由な意志だったのでしょうか。
自由を求めて進み続けたエレン・イェーガーは、いったい何の奴隷だったのでしょうか。
第3節:対話の内側と外側
第3節-1 閉じる歩み
マルコが遺した最期の言葉「まだ話し合っていないじゃないか」。
当初は無力な叫びに過ぎなかったその言葉は、物語が進むにつれて重みを増していきました。敵対していた者たちが焚き火を囲んでシチューを食べる場面に至る頃には、胸に迫る切実なものへと変わっていました。
そして、あれほど憎まれていたガビが自らの過ちを認め、変わっていく姿を見ていくうちに、私たちはいつしか彼女と「理解」という名の対話をしていました。
しかし、地鳴らしを開始したエレンに対してだけは、その対話は適用されませんでした。
彼は座標で話し合いは必要ないと仲間に告げました。その拒絶を、あまりにも受け入れすぎてしまったように思えます。
ガビの憎しみには歩み寄る余地を見出したのに、理解を必要としていた主人公の拒絶だけはそのまま鵜呑みにし、エレンを対話不能な怪物として処理し、思考を手放してしまったのかもしれません。
かつてベルトルトやミカサが、耐えがたい現実を前にした時に呟いた「世界は残酷だ」という言葉。それは、世界が争いだらけで仕方がない、という諦めの響きを持つ言葉でした。その言葉を見聞きすると選択肢が消えたように感じ、考える必要もなくなり、思考の余白が奪われてしまうように感じます。
エレンの絶望に向き合い続ける大変さから逃れるために、そのような言葉を耳に入れるだけで、思考の扉をそっと閉ざしてしまったのかもしれません。
こうしてエレンは、対話不能な悪魔として対話の外側へ追いやられたように見えます。けれど閉じられていたのは、彼ではなく、思考の扉そのものだったのかもしれません。
第3節-2 森の子ら
アルトゥル・ブラウス「せめて子供達はこの森から出してやらんといかん。そうやないと、また同じところをぐるぐる回るだけやろう……」と語り、
エレン・クルーガーは「壁の中で人を愛せ それができなければ繰り返すだけだ 同じ歴史を 同じ過ちを 何度も」と警告しました。
エレンが多くの命を奪ったことは事実であり、彼を憎むという反応は自然なものです。
けれど、憎しみという感情だけで彼を完結させたとき、ブラウス父やクルーガーが警告した同じ場所をぐるぐる回る側に立ってしまうように思えるのです。
絶望の中でも進もうとし続ける。出ようとし続ける。出られなくても。
その模索を放棄し、エレンを単純に憎むからこそ、因果は繰り返され、物語の終焉において大木へ向かう少年が描かれたのは、世界が「森」に留まり続けた結果のようにも思えます。
世界全体を俯瞰し、対話によって解決を探すのは、漫画を傍観していた自分なのでは、と思うようになりました。
第4節:少年の限界
第4節-1 それぞれの世界
何かしらの物語を読み進める際、主人公には公共の正義や世界平和を期待してしまいがちです。けれど、エレン・イェーガーという少年が実際に抱えていた「世界」は、私たちが思い描くそれよりもずっと狭く、独善的なものだったように思います。
エレンの行動原理を振り返れば、そこにあるのは人類への博愛ではなく、名前と顔を知っているごく限られた人々への執着です。鉄道建設中の夕暮れ、彼は仲間たちに「お前らが大事だからだ。他の誰よりも……。だから……長生きしてほしい」と告げました。また、ヒストリアに対しては、彼女が島の生贄として親子同士で喰い合わせ続けられる運命を「オレがさせない」と断言しています。
この「他の誰よりも」という一言こそが、彼の愛の残酷な境界線です。彼にとって守るべき世界とは、ほんの数人の仲間だけだったのだと思います。既存の主人公が持つ英雄像からは遠いところにエレンはいたのでしょう。そして、そんなエレンを倒したアルミンたちが、英雄になりました。
第4節-2 喪失の耐性
エレンの人物像を整理しようと思います。目の前で母親を巨人に食われ、父親を食い、さらには父親の記憶からも食われていく。トーマスたちやリヴァイ班、信じた仲間たちが次々と無残に散っていく。女型の巨人と戦った時、構えや戦い方から明らかにアニであると推測できたはずなのに、気づいていなかった。エレンは察しが悪いのではなく喪失に耐えられなかったのではないでしょうか。
相次ぐ悲劇と孤独が、彼を自分一人で選択するしかないという極限状態へ追い込み、精神を摩耗させていったように見えます。
周囲の大人は、そんな彼を客観的に認識していました。ハンジは鏡に向かって「戦え」と語りかける彼を揶揄し、別の場面でリヴァイは「15だぞ?『そういう時期』は誰にでもある」とフォローしました。これらはギャグシーンとして描かれていますが、エレンの精神状態がいわゆる中二病的な、背伸びした未熟さの中にあったことを示唆していると思います。
最終話でアルミンに対し、「ミカサに男ができるなんて嫌だ」と無様に泣き叫んだあの姿。こうして振り返ると、エレン・イェーガーという存在は、その内側はあまりにも年相応か、それ以上に未熟な少年のままだったのではないかと思えてなりません。半径数メートルの世界を愛する少年のまま、世界を変える力を手にしてしまったのだと思います。
第4節-3 放置されたトラウマ
ライナーのように自罰的な姿勢を見せる者には、その罪の重さを超えて寄り添おうとします。
しかし、獣の巨人の投石により仲間がバラバラに砕け散る地獄から生還したフロック。
「おめおめと生き残っちまった……俺の意味なんだよ」
彼は、仲間の無意味な死に意味を与えようとし、生き残ってしまった罪悪感に残りの人生ごと突き動かされていたのかもしれません。
エレンと共に、理解を絶する絶望の中で自らを悪魔に変えることでしか生きられなくなった者の痛みを、見ようともしないまま、ただ憎むことで片づけてしまっていたのかもしれません。
この作品には耐え難い経験が人を壊すという描写が流れています。
それなのに、フロックやエレンの壊れ方だけは当然の過去として処理され、彼らを理解するための材料から外されてしまう。
【次の章】
▶ 第2章:運命ではなく因果を考える
ここまでの内容を読んでいただき、ありがとうございました。
