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【短編】奥様は魔女、じゃない。

 水を飲む時に誦えるおまじないがある。

 西の方角を向いて居住まいを正し、“◯◯◯”を7回誦えた後、器を掲げ、感謝の気持ちを抱いてお水をいただく。

 何に効果・効能があるのだったか憶えていない。
 “◯◯◯”の言葉から御利益の想像はつかない。

 教えてくれた女(ひと)のことはよく憶えている。

 山と海に挟まれた小さな街でBarを開き、客が訪ねてこない夜は店のモニターで“セント・オブ・ウーマン〜夢の香り〜”の上映会をしていた別嬪。

 聴いたとき酔っていたのかもしれない。し、彼女が御利益については何も告げなかったのかもしれない。

 それを教えられた夜、最初に店を訪ねた客が僕で、フロントローのポジションを占める客はなかなか現れなかった。

 店の経営にとっては憂うべき一日だ。

 そう言った。

「お気になさらず。今夜、お客様の足がこちらに向かないよう結界を巡らせているのは店主の私ですから」

「僕は鈍感だったんだな。退散した方が良い?」

「滅相もない。他のお客様の分まで御酒を召し上がって、お話を聴かせていただかなきゃ。そして、私の話も聴いてくださいな」

 静かな光を湛えた瞳でそうせがまれ、僕は最近の仕事の話、直近の旅の話、趣味で続けている楽器とオケの話をし、彼女の問いかけに応え、話を聴いた。

 彼女は僕の仕事相手の小賢しさに憤り、旅先の情景に目を輝かせ、舞台上で起きたハプニングに天衣無縫の笑顔を見せた。僕は話しながらその表情に魅せられた。

 普段の彼女は、どんな年齢の客も彼女を歳上だと思わせる所作を見せ、年齢不詳の趣きがある。

 けれどその夜は、朗らかで活発な少女を思わせた。

 結局、地上の入り口に飾られた、金地に黒文字の筆記体で“Mistral”と記されたプレートを照らす照明を彼女が消すまで、誰も訪ねてはこなかった。

 長居したことを詫びると、「なら、家まで送ってくださいませ」と言う。彼女の自宅は山手に歩いて10分ほどだった。
 タクシーを呼ぼうか、という僕の提案は彼女の不満顔が却下した。

 二人のグラス、アイスペール、僕に供されたチャームの皿を手早く片付け、カウンターを拭き上げて「はい、おしまい。帰りましょ」と彼女が言った。

「えらく早いね。普段はもっと……」

 前に一度見た、彼女が店の一日を終える作法は厳格なものだった。
 酔客が吐き出した溜め息やネガティヴな言葉、感情が澱むことがないよう、丁寧に祓い清めていた。

「今夜は貴方と私、二人だけ。だから、祓い清める必要がないし、したくないの」

 “妬かないでね”とお願いするだけで十分、と彼女は言い、可愛らしく両手を合わせて微笑んだ。

 この“場”が妬くのかな、と思いながら施錠する彼女を待ち、地上への階段を上がる。彼女を独占した時間の分だけ酔いは心地よく、深かった。

 件の“おまじない”は、彼女がマンションのエントランスに入るのを見届け、街に戻ろうとする際に教えられた。

 酔いに任せて彼女の城に入り込む真似を僕が決して好まないことを彼女はよく知っており、彼女がなし崩しに客と寝る女性でないことを僕はよく知っていた。

 品行方正な男を演じきって舞台袖に捌ける直前、彼女がエントランスから駆け戻って告げたのだ。

 「毎日欠かさずに、ね」と念押しして再びエントランスに戻り、手を振って帰っていった。

 あの夜、街に戻るために緩やかな坂道を下りながら

「どういう御利益を願うおまじないなんだろう?」

と考えていたことを思い出した。

 そう、彼女は御利益については何も告げていなかった。

 けれど、そのおまじないを僕は気に入り、水を飲む際にはそれを呟き、誦えるようになった。

        〜〜🎶〜〜

 元々、彼女には巫女さんを思わせるようなところがあって、店を訪れた客の話、悩みや愚痴を静かに聴いた後、

“お風呂に◯◯の御塩を入れてゆっくり入って”
“手の指を親指から順番に揉みほぐしてください”
“御自宅の鬼門の方角に◯◯神社の御札を”

といった“お告げ”や“開運指南”みたいなアドバイスをし、それを実践した客の永年の体調不良が解消したり、取引が円滑に成功して、その礼を言うために再訪してくる、ということが一度ならずあった。
 そんな彼女の“能力”を有り難がって「診て」欲しがる客は絶えなかったけれど、彼女がそれを集客に利用することはなかったし、僕は彼女に自身の悩みや迷いを解決してもらおうとは考えなかった。

 それよりも、彼女が十代の頃、この街の夜を疾駆していた話が僕は好きだった。

        〜〜🎶🎶〜〜

 高校を卒業してすぐ、いや、本当は17歳の頃から年齢を偽ってラウンジに勤め、お姉様方との暗闘をものともせずに売り上げを伸ばしてNo.1になった頃の話。

 名を聞けばそれを口に出すのが憚られるような地元財界の重鎮が客に付いて愛人にリクルートされかけ、薬物の噂が絶えないミュージシャンが関西でのライブで来訪した際にその目に留まり、宿泊先のスイートに何度も誘われたけれど、その誰とも寝なかった二十歳の女の子。

 店がハネた後は下心を隠さない客のアフターの誘いも送りも笑顔で退け、“夜の終わり”と“朝の始まり”の境界をミントコンディションに仕立てたグラストップのホンダCR-Ⅹで走っていた。

 他に客がいなかった夜、“想い出のクルマ”の話になり、彼女がCR-Xのことを懐かしげに話す中で教えてくれた。

 その頃の僕は、近隣の女子大生が阪急電車の中で「“六甲のイモ”掘り(逆ナン)に行かへん?」と冗談交じりに話すようなお堅い大学にヤマハの単コロ、600ccのSRXで通い、先輩の真似をしてSalemを吸ってくしゃみをするような「坊や」だった。

「そんな話、小説か映画、Vシネマでしか観たことも聴いたこともないなぁ」

と感心する僕を見て我に返った彼女は

「引いてます?もう……究極の若気の至りなんです、忘れてください」

と、身も世もない恥ずかしがりようを見せた。

「可愛いやん」

 思ったままを伝えた。

「可愛いで済むもんですか!年齢詐称の水商売に飲酒運転の常習犯。愛人話に薬物疑惑のミュージシャンなんて、本当にロクでもないです」

 そういった言葉がすべて我が身に降りかかり、「あぁ、どうして話しちゃったんだろう?消えてしまいたい……」と小さくなる。

「逢ってみたかったな、その頃の、とびきりお転婆で無敵で、身持ちの堅い女の子に。鼻もひっかけられなかったろうけど」

「身持ちは堅かった、って信じてくださるの?メチャクチャな話の女ですよ?」

「人を相手にして、争いごとやトラブルを解消する仕事をしてますからね」

「ありがとうございます。でも、そういうお仕事の方だから上手く乗せられて話しちゃったのかも」

「CR-Xの次は何に乗ってたの?」

「CR-Xの後は、ラウンジのオーナーママが引退して海外に移住しちゃって、移った先のお店の女の子たちの派閥争いの真ん中に飛び込むことになった頃で……あ!もうっ、あの頃の話は内緒です、封印ですっ!」

 興味津々で聴いていた僕に気づき、彼女は真っ赤な顔で話の続きを封印してしまった。

 「残念」と笑いながら僕は、神秘的な“お告げ”をする巫女さんの彼女よりも、こちらの彼女の方が好きだな、と思っていた。

        〜〜🎶🎶🎶〜〜

 だから僕は、彼女に“診て”もらおうとは思わなかったし、教えられた“おまじない”も、“御利益”が何かも訊かず、ただ彼女が「毎日、欠かさずにね」と言ったから続けていた。それだけだった。

 そんな彼女は今、660㏄で4気筒の初代コペンに永く乗っていて、とても大切にしている。

 Bar“Mistral”は惜しまれながら閉店し、彼女はもう、“夜”と“朝”の境界を走ってもいない。

 その時間、彼女は僕の隣で穏やかな寝息を立てている。

 十代で街の夜を駆け抜けていた無敵の女の子は、時を経て僕の奥さんになってくれた。

 プロポーズしてからが大変だった。

 上司・同僚や学生時代の同級生達からは「意外だな」と不思議がられ、訝しがられる程度だったが、そんな周囲と僕の身内を過剰に意識した彼女が

「お話したでしょう?17歳でラウンジで働き始めて、飲酒運転の常習犯で、ずっと水商売で生きてきたような女と結婚なんてしちゃいけません。お仕事にも、お友達、ご親戚とのお付き合いにも障ります」

と大反対したのだ。

 要はフラれかけたのだけど、その理由が「私は貴方には相応しくない女」の一点だったから、これはこちらも譲れない。絶対に譲れない。

 そこからはスッテンコロリの七転び八起き。

 結局、指で弾いたら“パリン”と割れるんじゃないかと思うほど緊張した彼女をどうにか僕の母と妹に引き合わせた際、母が「慎太朗はご縁に恵まれたのねぇ」としみじみと言い、妹が頷いたところで彼女が“豪雨のち快晴”みたいな涙と笑顔を見せ、サイズを知るのにも苦労し、迷走した指輪は彼女の薬指に居場所を得た。

 だから、非願成就の殊勲者は母と妹なのだけど、そこまで持ち込んだ僕の頑張りは、今でも自分を褒め称えたい。

 あれこそ、あの“諦めない心”こそ“おまじない”の御利益ではなかったか。

 そう思ったある休日の朝、彼女が作ってくれた朝食を食べながら尋ねてみたけれど、「そんなのじゃありません。だったら、最初からプロポーズをお断りしないもの」と微笑みで返された。

「そりゃそうか……じゃあ、あの“おまじない”の御利益は何?」

彼女は、

「うーん、今は内緒です。あなたとわたしがおじいちゃんとおばあちゃんになった頃、教えてあげます。だからこれからも毎日、欠かさずに続けてくださいな」

と、僕が決して抗えない笑顔で言った。

「そうなの?おじいちゃんとおばあちゃんになった頃ってことは、やっぱり健康長寿のおまじないなのかなぁ」

 彼はコーヒーを淹れたカップを持ち上げたまま、しばし思案顔になる。

 そして、

「おじいちゃんになるまで遥香さんがずっと傍にいてくれるんなら、もうそれでいいや。洗い物は僕がするよ。午後は一緒に出かけよう」

と告げてキッチンに立った。

「ありがとう。お出かけは車?バイク?」

「君が好きな方」

 佳く晴れた、そして穏やかな休日の朝である。


 ごめんなさい、慎太朗さん。


 あの“おまじない”の本当の御利益は、

『それを伝授した私以外の異性と親密にならない』

こと。結界の一種なの。

 私は魔法使いじゃないから、あなたが私を好きになる、惚れさせる魔法なんて使えないし、そもそもそんな資格はないと思っていたけれど、いつか誰かと結婚して、お店から足が遠のいてしまうのが悲しくて。

 それであの夜、あなたに“おまじない”を伝えて、「毎日欠かさずに」とお願いしたの。ずっとお客様として訪ねてきてくださったらそれだけで十分、そう思って。

 あなたはそれを守ってくれたし、何より、そんな“おまじない”なんて関係なく、他の誰かじゃなく私のような女を好きになってくれました。

 ビックリしたし、私なんかが、と思ったけれど、やっぱり嬉しくて、あなたに甘えてしまいました。

 だから、“おまじない”の御利益は、ずっとずっと先まで内緒にさせてください。そして、二人がおじいちゃんとおばあちゃんになってから、呆れて、笑って、叱ってください。

 それまで、どうか幾年月、末永くよろしくお願いいたします。


……浮気防止のためではありませんから、ね。


〜Fin.〜

こちらの企画・お題に参加しました。

このお話には続きがあります。
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