【短編】寿ぎの虹〜奥様は魔女、じゃないⅡ〜(お題:水たまり)
「水たまりを避けてくださいね」
靴べらと交換するように傘を手渡しながら、遥香さんがそう告げた。
「今日はそういう日なの?」
「はい」
僕の奥さん、遥香さんは時々不思議なことを言う。
「全部を避けるのは無理じゃないかな」
「大きなものは避けて、あとは晴れている時よりも少し丁寧に、そうっと歩いてくださいな」
「丁寧に歩くって、何だか佳いね」
「はい」
そう返事をくれて微笑む遥香さんの笑顔が、僕は好きだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
大切な人が言ってくれることは大切にする。
遥香さんという伴侶を得た僕の、それがルールだった。
“晴れている時よりも少し丁寧に、そうっと”
彼女が教えてくれた、その声を想いながら大きな水たまりはその縁をなぞるように避け、それ以外はそうっと歩みを進めた。
そうしながら、
「今日も遥香さんが健やかであるように」
と空に告げて、僕の一日は始まる。
〜♫〜
内張に青空が描かれたお気に入りの傘を差した慎太朗さんの背に祝詞を奏上し、
「今日もどうかご無事に、帰ってきてくださいませ」
と願い、彼の背中が見えなくなるまで見送る。
”水たまり”は、天から下った“水”がこれを成す。
時にそれは“鏡”になり、雨に打たれてうつむく人に雲の切れ間の青空を見せ、「雨の終わり」を教えて空を見上げさせる。
時にそれは“窓”になり、そこから異界を垣間見せることもあれば、その同じ時に、「向こう側」からの視線を招き入れることがある。
前者は人を癒し、救う。
後の方は厄介だ。
もちろん、そんなことは滅多に生じないけれど、「不意に」「ふとした拍子に」「何かの弾みで」という言葉に続けて「何かが起きる」ということを、人はそれがいつからか分からないほど昔から知っている。
“向こう側”とこちらの『時の環』が接してしまうと、思いがけず窓が開いたり、割れてしまうことがある。
地表に置かれた窓は開くと“路”になり、割れると“穴”になってしまうから、向こうから何かがやってくることもあれば、こちらから“向こう側”に迷い込むこともある。
天が成す“鏡”であり“窓”である以上、人が完全にこれを封じることはできない。
故に古来、“向こう側”との境界に接した人は、
“敬鬼神而遠之”(鬼神を敬してこれを遠ざく)
と説き、書物に遺して人に伝えた。
そんな伝承が色濃く残る島に生まれ、そこから逃れるように十七歳で街に出たのに、その街の“夜”を生きるために幼少の頃の教えを駆使していた女が、今は自らを穏やかな“陽だまり”に連れ出し、居場所をくれた伴侶の無事を願って祝詞を奏上する。
慎太朗さんは、大切だと心に定めた人を護り、幸せにする強い天運を持っている。
けれど、その天運は慎太朗さん自身を庇護するものではない。風邪もひけば怪我もする。
それに、ちょっと雨男気味だったりもする。
一緒に出かけた先で雨に降られると「ごめんね」と詫びる彼の困った顔を愛しいと、私はいつも思う。
その天運、天分ゆえに“敬鬼神而遠之”の所作はそうと知らないうちに身につけている。
けれど、逢魔が時に異界の者を封じ、滅するのは作法を知り、技術を体得する必要がある。
だから私は、私にできることをする。
私にとってそれは切なる願い、祈りである。
その切実な祈祷は、隣人たちにとっては小さな驚きを伴う、新妻の愛らしい振舞いに映るらしい。
それを、
「毎日お見送りしてもらって、旦那様はお幸せねぇ」
と言われて最近知った。
皆、そうした毎朝の習慣を失って久しいのだそうだ。
「幸せなのは私の方なのですよ」
と伝えようとして少し考え、
「そう思ってくれていると良いのですけれど・・」
と言うに留めた。
慎太朗さんと私よりもずっと歳上で、善良で好意的な隣人の奥方であっても、私が独り過ごしてきた“夜”を知らなければ、上手く伝わらないような気がしたから。
「思っていらっしゃいますとも。旦那様もとても素敵な方ですから」
そう言われ、
「ありがとうございますっ」
と返し、誇らしい気持ちになっている自分に少し驚く。
あぁ、これが“二人で暮らす”ということなんだ、と思う。
日が暮れてから夜の深い時間まで街でBarを開き、昼夜が1/3ほどズレた生活で、ご近所付き合いとも無縁だった。
何なら隣人の方が自分よりもずっと怪しく、妖しかった。
そんな私が毎朝、伴侶の無事を祈りながら送り出し、二人で囲んだ朝食の食器を片付け、洗濯その他の家事をする。
一段落してもまだ午前中で、二人で新居に持ち込んだレコードやCDの中から私が聴いたことのないクラシックのレコードを選び、教えてもらった通りにゆっくり針を落とす。
と言ってもそれはボタン一つ、フルオートでやってくれるのだけど。
彼の本棚から興味を惹かれた本を取り出して勉強する。
知らないことが多過ぎて恥ずかしい。
彼は傍にいるときも、出かけているときも、こうして私にたくさんのことを教えてくれる。
お昼は夕食の準備をしながら、その材料の余りで“賄い”を作って済ませる。
そうこうして過ごす昼下がりには、2日と空けずにご近所さんが訪ねてくる。
いただきものの焼き菓子のおすそ分けをいただくようなこともあれば、最近では慎太朗さんの代理で相談を受けることもある。
この街に越して来て早々、担い手がいなくて困っていた町内会の役職を、慎太朗さんが二つ返事で引き受けた。
慎太朗さんはその肩書以上に仕事をこなし、行政に働きかけ、人助けをして、そしていつも、その隣に私を連れ出してくれた。
戸惑う間に、私はすっかり
「本条さん家(ち)の遥香さん」
「本条さんとこの奥さん」
と認知され、ご近所デビューを果たしていた。
「そのうち、早朝のラジオ体操に勧誘されそう」
と怯えつつ、「それもいいかも」と思っていることを、独りで“夜”に生きていた頃の私に教えたくなる。
夕暮れが近づくと、食事の支度をしながらもう人恋しくなっている。
早く帰ってこないかな。
「遅くなるよ」と予め告げられている日や出張を除けば、帰ってくる時間は概ね揃っている。
「相手や組織の都合を優先し、振り回されて働く時期はもう過ぎたよ」
と彼は笑っていた。
あ、帰ってきた。少し遅め、かな。
「お帰りなさいませ」
「ただいま遥香さん。“おかえり”でいいのに」
慎太朗さんは右手にケーキショップのボックスを提げていた。
「シュークリーム、後で一緒に食べよ。今日のお礼に」
「お礼?」
「今日は水たまりを避けて、丁寧に歩きなさい、って教えてくれたお礼」
「何かありました?」
「うん、不思議なことが2つ。後でご報告。着替えてくるね」
何があったのだろう?と思いながら手渡されたボックスを受け取り、冷蔵庫に入れてから夕食の仕上げにかかる。
ドレッシングを作らなきゃ。
程なくして、白をベースに、胸元に切り返しのデザインをあしらった七分袖のTシャツとデニムに着替えた慎太朗さんがテーブルに着いた。
Tシャツは先の休日に二人で出かけた際、私が選んだ。
「美味しそう。遥香さんは料理、上手だな」
「ここに引っ越してきたときに、調理道具や家電を揃えていただきましたから、言い訳と手抜きができなくなったの」
「プレッシャーになっちゃったかな?じゃあ、週末は外食にしようか」
「週末は外食よりも、二人で一緒にお料理がしたいです」
「お、それも佳いね。二人で何作ろっか」
「後でシュークリームをいただきながら、アイディアを募ります。飲み物は?」
「お隣さんからいただいた赤ワイン、開けよう。僕が用意するよ」
私はビールが飲めない。それを彼はよく知っている。
グラスを出し、Barを営んでいた私が感心する手際でボトルを開栓して注ぎ、乾杯した。澄んだグラスの音がした。
知ってはいたけど、こういうのを目の当たりにすると女性ウケが良さそうでちょっとザワザワする。
浮気防止……じゃなかった、「私以外の女性と親密にならない」おまじないは継続中だった。そうでなくても大丈夫だと思っているけど、これは念のため。
「不思議なこと2つ、聴かせてくださいな」
内容によってはお祓い、お清めをしなきゃ。
「一つは朝、駅に向かう途中で僕の少し前にいた男性が派手に転んだんだ。水たまりに足を取られた感じで。わ、このドレッシング美味しい!」
「そんなに深い水たまりだったの?」
「くるぶしくらいまで一気に水に浸かったように見えたんだけど、近づいてその水たまりを見るとごく浅いんだ。あれで転ぶかな?それが不思議。ま、傘を差したまま歩きスマホで、歩く人の列を乱してたから誰からも同情されてなかったけどね」
「足を滑らせたのかもしれませんね。捻ったのが深く水に浸かったように見えたのかしら」
「んー、やっぱりそうかな」
本当は違う。
独りよがりな行動が周囲の人の不快感や敵意を高め、それが水たまりの“路”を通して「邪悪なモノ」を引き寄せたに違いない。
そしてそれは、その場を穢し、歪ませた者に向かう。
「もう一つはね、虹」
「虹?」
「このビーフシチュー、どうやったらこんなにお肉が柔らかく、美味しくなるの?」
「おかわりもありますよ。たんと召し上がれ。虹って?」
「今度はお昼休みに本屋から職場に戻る途中。雨は上がってて、雲の切れ間から差し込む陽射しで車道や歩道に残ってた水たまりがキラキラ光ってたんだ」
「はい」
「で、キラキラ光る水たまりの縁をそうっと歩いていたら」
「いたら?」
「虹がかかったんだ。空じゃなくて、水たまりから水たまりへ、こう、アーチがかかるみたいに」
「まぁ」
「一箇所だけじゃなくて、別の水たまりからもスッと虹が立ち上がってアーチをかけたんだ。あんな低い位置から、あれはどういう光の屈折、反射なのかなぁ」
それは……
「職場の近くだったら、歩いていたのはビル街ですね。たくさんのビルの窓に光が当たって、いろんな方向に反射したとか?」
「遥香さんもそう思う?それくらいしかないよね。僕の立っていた位置からしか見えなかったみたいだし。で、すぐに消えちゃったから写真には撮れなかったんだ、ごめんね」
「いいんですいいんです。それで、あの……慎太朗さん?今朝お出かけになるとき、空に何か願い事、されてました?」
「したよ。今日だけじゃなく毎日。今日も遥香さんが健やかでありますように、って。あれ?顔、紅くなってる」
そう言うや、額に手が当てられた。「風邪でもなさそうだけど……酔ったかな?」とジッと見つめられ、「大丈夫ですっ」と言いながらますます頬の火照りを感じる。
「あとで体温、測ろうね」
「はぁい……」
それから後は、私の体調を心配する慎太朗さんが日中の様子を尋ねてくれ、それに応えて今日聴いたレコードや読んでいた本の話をしながら食事が進んだ。
その間も、慎太朗さんが見た“虹”のことを考え、くすぐったいような、ありがたい気持ちで頬を紅くし、彼を慌てさせた。
食事の後に体温を測り、それが平熱だったことで『即就寝、絶対安静』を免れ、慎太朗さんが淹れてくれた紅茶とお土産のシュークリームを一緒にいただいた。
体温計を確認した彼はホッとした様子で、週末に二人で作りたい料理の話を聴いてくれている。
私が生まれた島と、その本家にこんな伝承がある。
『一族の女には、“境界”と、それを行き来する思念の正邪を見極め、時にそれを祓う力が宿る。それは女にしか受け継がれない。しかし、一族の女が愛し、一族の女を愛する者が現れて二人が思いを重ね、それが永遠の絆だと認められた時、一族の女を愛した者は虹に祝福される。その“寿ぎの虹”を見た者は、一族の女を護る力を得る』
今朝、彼の背に祝詞を奏上しているその時、彼もまた、空に向けて私、遥香が健やかであるように、と願ってくれていた。
慎太朗さんが見たのは“寿ぎの虹”。
境界の向こうから現れ、一族の女を愛した者を認め、迎え、祝福する光。
既に強い天運を持つ慎太朗さんがこの先、どんな“護る力”を得るのだろう。
「ロールキャベツとか、どうかな?」
暢気な声が愛おしい。
「あら、佳いですね。ちょっと大きめの?」
「そうそう」
この人と二人、互いを思いやりながら、穏やかで優しい日々が続きますように。
〜Fin.〜
このお話の前日譚です。
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