テルナ・ヴァイド 第1章(統合版)
第1章 死にゆく者の隣で
── 死に寄り添い続けた看護師が、答えのない問いを抱えたまま、神のいない世界へ落ちていった。
Scene 1 後悔している
深夜2時17分。モニターの電子音だけが鳴っていた。
点滴の雫が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
一定の間隔で落ちるその音だけが、この部屋に残された時間を刻んでいるようだった。
緩和ケア病棟302号室。カーテンの隙間から、廊下の白い光が細く差し込んでいた。
消毒液の匂い。
少し古い寝具の匂い。
そして、人の体温が少しずつ遠ざかっていく匂い。
俺はパイプ椅子に座っていた。
膝の上には記録用のバインダー。
けれど、ペンは止まったままだった。
右手は、田中義雄さんの手を握っていた。
78歳。末期癌。
家族はまだ到着していなかった。
薄い手だった。
骨ばっていて、軽くて、少し冷たい。
それでも、まだ温もりは残っていた。
こういう夜を、俺は何度も過ごしてきた。
死が近づく人の隣で朝を待つ夜。
誰かの人生が終わる音を静かに聞く夜。
慣れたはずだった。
慣れなければ続けられないと思っていた。
でも、本当は違う。
慣れたのではない。
感じないようにする手順を、覚えただけだった。
ペンを握る手が、今日も止まったままだった。
「蒼(そう)くん」
かすれた声がした。
「はい。ここにいます」
田中さんは天井を見ていた。病室の天井。何も答えてくれない白い天井。
「まだ起きてたのか」
「仕事ですから」
「仕事で……手まで握ってくれるのか」
「寒そうだったので」
田中さんは少しだけ笑おうとした。けれど、唇はうまく動かなかった。
「そうか」
沈黙が落ちた。モニターの音だけが続いていた。
「俺な」
「はい」
「後悔している」
俺は返せなかった。
慰めの言葉なら知っている。
何百回も使ってきた。
けれど今、この人に向けるにはどれも軽すぎた。
「何を、ですか」
田中さんは目を閉じた。そして、ゆっくり話し始めた。
「仕事ばかりだった」
「朝早く出て、夜遅く帰る」
「休みの日も仕事だった」
「それが当たり前だと思ってた」
呼吸が少し乱れた。それでも話し続けた。
「息子の運動会も行かなかった」
「一度もな」
「いつでも見られると思ってた」
小さく笑った。乾いた笑いだった。
「気づいたら、もう終わってた」
俺は黙って聞いていた。
「娘が結婚するときもな」
「式で何を話したか覚えてない」
「仕事の電話ばかり気にしてた」
点滴の雫が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
「妻がな」
田中さんの声が少しだけ震えた。
「ある日、夕飯を作らなくなったんだ」
「何も言わなくなった」
「でも俺は理由も聞かなかった」
しばらく黙ったあと、田中さんは言った。
「先に逝った」
「ありがとうも」
「ごめんも」
「ちゃんと言えなかった」
俺は握る手に少しだけ力を込めた。
「もっと、ちゃんと生きればよかった」
田中さんは呟いた。
「仕事もした」
「家族も養った」
「家も建てた」
「でもな」
ゆっくりと天井を見た。
「何のために生きてたのか、今でも分からん」
俺は言葉を探した。
見つからなかった。
見つかる気もしなかった。
「朝起きて」
「働いて」
「飯を食って」
「寝る」
「それを何十年も繰り返して」
「気づいたら、ここだ」
俺は手を握ったままだった。
「なあ、蒼くん」
「はい」
「人は何のために生きるんだろうな」
答えられなかった。
家族のためです。
幸せのためです。
生きてきたことには意味があります。
どれも間違いではない。
でも、今の田中さんには届かない。
俺自身にも、届かなかった。
「分かりません」
そう言うしかなかった。
「看護師さんでも分からんか」
「……はい」
「謝ることじゃない」
田中さんは少し息を吐いた。
「蒼くん」
「はい」
「君は優しいな」
反射的に笑おうとした。
患者を安心させるための笑顔。
家族を安心させるための笑顔。
何百回も貼りつけてきた笑顔。
けれど、口元は動かなかった。
「優しくなんかありません」
「そうか?」
「俺は何もできていません」
「手を握ってくれてる」
「それだけです」
「それが、ありがたい」
視線が落ちた。握った手から目を離せなかった。
「一人は怖い」
「はい」
「でも今は、少しだけ怖くない」
返事が出なかった。
田中さんの指が、わずかに動いた。
俺は手を握る力を少しだけ強めた。
「ここにいます」
「うん」
「朝まで、ここにいます」
「ありがとう」
「蒼くん」
「はい」
「家族が来たらな」
田中さんは、少し息を整えた。
「さっきの話……伝えてくれるか」
俺は、握った手を見た。
「俺から、ですか」
「もう、うまく話せんかもしれん」
しばらくして、俺は頷いた。
「分かりました」
田中さんの指が、わずかに動いた。
「悪かったって」
そこで声が途切れた。
田中さんのまぶたが、ゆっくり閉じていった。
呼吸が浅くなる。長くなる。不規則になる。
家族はもう向かっていた。
医師にも連絡済みだった。
今、俺にできることは多くない。
ただ、手を離さないこと。
それだけだった。
窓の外が少しずつ白み始めていた。
夜明けが近い。
32歳。看護師になって10年。
緩和ケア病棟に配属されて6年。
300人以上を看取った。
その数を途中から数えるのをやめた。
数えるたび、自分の何かが擦り減っていく気がしたからだ。
田中さんの手は少しずつ冷たくなっていた。
俺は両手で包む力を少しだけ強くした。
それしかできなかった。
窓の外。
東の空が淡い橙色に染まり始めていた。
綺麗だな、と。
そう思った。
思っただけだった。
特に何も感じなかった。
モニターの電子音だけが、静かに鳴り続けていた。
それが、一番苦しかった。
Scene 2 三百人目の夜明け
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
走ってはいない。
けれど、急いでいることだけは分かる足音だった。
靴底が床を擦る音が、途切れながら近づいてきた。
俺は田中さんの手を握ったまま、扉を見た。
時計は、午前五時を回ろうとしていた。
病室の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。
上着の下に、部屋着が見えた。
その後ろから、一人の女性が入ってきた。
二人とも、田中さんによく似た目をしていた。
「父は」
男性の声が掠れていた。
「まだ、呼吸はあります」
俺は椅子から立った。
「声は聞こえている可能性があります。そばで、話しかけてあげてください」
二人は頷いた。
俺はベッドの横を空けようとして、足を止めた。
「田中さんから、伝えてほしいと言われていることがあります」
二人が俺を見た。
「ご家族のことを、ずっと話していました」
そこで一度、田中さんを見た。
「悪かった、と」
息子さんの表情が止まった。
娘さんが、父親の手を見た。
俺はそれ以上は言わなかった。
田中さんが俺に話したことを、全部俺の言葉にしてしまうのは違う気がした。
娘さんがベッドの横へ来た。
けれど、すぐには触れなかった。
伸ばしかけた手が、宙で止まっていた。
「お父さん」
田中さんのまぶたは閉じたままだった。
「来たよ」
娘さんは、ようやく父親の手に触れた。
俺が握っていた手。
薄くて、少しずつ冷たくなっている手。
その上に、娘さんの両手が重なった。
俺は指をほどいた。
田中さんの手を、家族へ返した。
「親父」
息子さんが反対側へ立った。
「遅くなって、ごめんな」
田中さんの指が、わずかに動いた気がした。
本当に動いたのかは分からなかった。
俺が、そう見たかっただけかもしれない。
「運動会のこと」
息子さんが言った。
「ずっと、腹を立ててた」
田中さんの呼吸が、浅く続いていた。
一度吸う。
長く止まる。
また、小さく吸う。
「でも、俺も、あの頃の親父の歳に近づいてきて」
息子さんは、そこで口を閉じた。
喉が一度、大きく動いた。
「少しだけ、分かるようになった」
娘さんが、父親の手を握り直した。
「私の結婚式、覚えてる?」
返事はなかった。
「ずっと仕事の電話を見てたよね」
娘さんは、小さく息を吐いた。
「嫌だった」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、その言葉は病室に重く残った。
「でも」
娘さんは、田中さんの手を頬へ当てた。
「来てくれたことは、覚えてるから」
モニターの音の間隔が広がった。
画面の波形が低くなっていった。
何度も見てきた形だった。
体が先に理解していた。
終わりが、近い。
「手を握っていてあげてください」
俺は言った。
「名前を呼んであげてください」
「親父」
「お父さん」
田中さんの呼吸が止まった。
数秒後。
胸が、小さく動いた。
「お父さん」
田中さんの口が、わずかに開いた。
声にはならなかった。
長い息だけが、静かに漏れた。
それが、最後だった。
俺は医師を呼んだ。
必要なことを、必要な順番で伝えた。
声は震えなかった。
言葉にも詰まらなかった。
何度も繰り返してきた手順だった。
医師が、呼吸と心音を確認した。
腕時計へ目を落とした。
そして、時刻を告げた。
午前五時十二分。
娘さんが、父親の名前を呼んだ。
息子さんは俯いたまま、布団を握っていた。
俺はベッドの足元に立ち、頭を下げた。
「お力になれず、申し訳ありません」
何度も口にしてきた言葉だった。
本当は、何に謝っているのか、自分でも分からなかった。
息子さんが顔を上げた。
「いえ」
目が赤くなっていた。
「間に合いました」
その一言が、病室に落ちた。
「言いたかったことを、言えました」
娘さんも頷いた。
「父は、一人じゃなかったんですよね」
「はい」
「ずっと、そばにいました」
「そうですか」
娘さんは、田中さんの手を包み直した。
「ありがとうございました」
俺は、もう一度頭を下げた。
ありがとう。
何度も聞いた言葉だった。
それなのに、返す言葉が見つからなかった。
しばらくして、俺は病室を出た。
扉が閉まる直前、息子さんの声が聞こえた。
「親父。お疲れさま」
扉が閉じた。
声も、そこで途切れた。
廊下には、朝の光が差し込んでいた。
清掃用のワゴンが遠くを通った。
別の病室から、ナースコールが鳴った。
誰かが水を欲しがっている。
誰かが痛みを訴えている。
誰かの夜は、まだ終わっていない。
俺はナースステーションへ戻った。
椅子に座り、記録画面を開いた。
患者氏名。
田中義雄。
家族到着。
呼吸停止。
医師へ連絡。
午前五時十二分、死亡確認。
家族二名立ち会い。
必要な項目を、順番に入力していった。
一人の人生が、数行になった。
七十八年。
仕事をした。
家族を養った。
家を建てた。
息子の運動会へ行けなかった。
娘の結婚式で、仕事の電話を見ていた。
妻へ、ありがとうを言えなかった。
最後に、人は何のために生きるのかと聞いた。
けれど、記録には書かない。
書く欄がない。
死亡時刻。
状態変化。
家族への対応。
それだけだった。
カーソルが、画面の上で点滅していた。
俺はキーボードへ指を置いた。
手は止まらなかった。
いつもの言葉を、いつもの順番で入力していく。
止まる理由がなかった。
それが、おかしいと思った。
「柳井さん」
隣から声をかけられた。
夜勤を一緒にしていた看護師が、俺を見ていた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
考える前に答えていた。
「少し休みます?」
「これを書いたら」
「無理しないでくださいね」
「うん」
同僚は、鳴り始めたナースコールへ向かった。
俺は一人になった。
画面には、田中さんの名前が残っていた。
涙は出なかった。
田中さんの声は、まだ耳に残っている。
手の温度も消えていない。
それなのに、目は乾いたままだった。
慣れた。
そう言えば、簡単だった。
でも、慣れたんじゃない。
何も感じていない顔を、作れるようになっただけだ。
そう思っていた。
そう思わなければ、続けられなかった。
でも。
慣れていないなら、なぜ泣けない。
家族は泣いていた。
俺だけが泣いていない。
「慣れたら、人間じゃない」
昔、誰かが言っていた。
誰だったのかは、もう思い出せなかった。
慣れなければ、続けられない。
慣れてしまえば、人間ではない。
なら。
十年続けた俺は、何になった。
カーソルが点滅していた。
俺は、最後の項目を入力した。
保存。
田中義雄という名前が、画面から消えた。
次の患者の記録が表示された。
それで終わりだった。
また、看取った。
三百と何人目だろう。
数えるのをやめたのは、二年前だった。
忘れたわけではない。
思い出さないようにしてきただけだった。
それでも。
手の温度だけが残っている。
薄くて。
少し冷たくて。
最後に、ほんのわずかに動いた指。
俺は、自分の手を見た。
何も握っていなかった。
俺は記録用のバインダーを閉じた。
乾いた音がした。
涙の代わりに、ただ——
朝の光だけが、そこにあった。
遠くで、ナースコールが鳴った。
俺は立ち上がった。
Scene 3 橋の上の問い
夜勤を終えた頃には、空はもう明るくなっていた。
薄い青色の空。
東の端だけが、淡い橙色に染まり始めていた。
病院の自動扉を抜けると、冷たい空気が頬に触れた。
消毒液の匂いが、まだ服に残っていた。
俺は駅へ向かわなかった。
足はいつの間にか、夜勤明けによく立ち寄る橋へ向かっていた。
誰かに会うためではない。
何かをするためでもない。
家へ帰る前に、ただ立ち寄る場所だった。
橋の下には、川が流れていた。
きれいな川ではない。
濁った水と、コンクリートの護岸。
それでも、朝の光を受けた川面だけは穏やかに見えた。
何も知らない顔で、光を返していた。
橋の手前にある自動販売機で、缶コーヒーを買った。
取り出した缶は、温かかった。
両手で包むと、指先に熱が戻ってきた。
田中さんの手とは、違う温度だった。
俺は橋の中央まで歩き、欄干にもたれた。
プルタブを開けた。
小さく金属が鳴った。
一口飲んだ。
砂糖が入っているはずなのに、苦さだけが舌に残った。
道路を、通勤途中の車が流れていた。
誰かにとっては、これから一日が始まる。
田中さんの一日は、もう始まらない。
午前五時十二分。
その数字だけが、頭に残っていた。
七十八年が終わった時刻。
記録の中では、それだけだった。
俺は缶を握った。
薄い金属が、少しだけへこんだ。
家へ帰れば、静かな部屋がある。
洗濯物。
読みかけの本。
鳴らないスマートフォン。
誰も待っていない空間。
病棟では、俺を呼ぶ声があった。
柳井さん。
水が欲しい。
痛い。
眠れない。
怖い。
けれど、病院を出た瞬間、俺を呼ぶ声はなくなる。
白衣を脱げば、自分が何者なのか分からなくなった。
缶コーヒーから、細い湯気が上がっていた。
風に触れると、すぐに消えた。
彼女の声を思い出した。
「蒼は、いつも死の話をするよね」
半年ほど前。
夕食の途中だった。
向かいに座っていた彼女は、箸を置いていた。
「仕事柄、仕方ないだろ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうことだよ」
「生きる話をしないってこと」
俺は、何も返せなかった。
「今日、何が楽しかったとか」
「これから、何をしたいとか」
「そういう話、しなくなったよね」
「疲れてるだけだよ」
「違う」
彼女の声は静かだった。
怒っているようには聞こえなかった。
だからこそ、目を合わせられなかった。
「あなたは、誰かの死に寄り添っているうちに」
一度、言葉を切った。
「自分が生きることを、後回しにしてる」
「そんな大げさな話じゃない」
「大げさじゃないよ」
彼女は俺を見ていた。
「私は、あなたと生きる話がしたかった」
その言葉に、俺は最後まで何も返せなかった。
旅行に行こう。
一緒に住もう。
いつか家族になろう。
そういう話をされるたび、少しだけ息が苦しくなった。
明日のことすら、考えられなかった。
誰かの明日がなくなる場所で働いているうちに、自分の未来を想像できなくなっていた。
別れた理由は、忙しさでも、価値観の違いでもない。
彼女が差し出した未来を、俺は受け取れなかった。
返す言葉を、持っていなかった。
缶コーヒーは、いつの間にかぬるくなっていた。
俺は川を見た。
水は流れている。
同じ場所には、とどまらない。
それなのに、遠くから見れば何も変わっていないように見えた。
俺も、同じなのかもしれない。
田中さんの言葉が戻ってきた。
「何のために生きてたのか、今でも分からん」
あの問いに、俺は答えられなかった。
死を前にした人へ、軽々しく答えられなかったからではない。
俺自身が、同じ問いを抱えている。
俺は、何のために生きている。
誰かを救うためか。
でも、救えない人の方が多い。
治せない。
戻せない。
止められない。
最後にできるのは、手を握ることだけだ。
声をかける。
隣に座る。
一人ではないと伝える。
それだけ。
それに、意味はあるのか。
どれだけ手を握っても、呼吸は止まる。
どれだけ声をかけても、心臓は止まる。
だったら、俺は何をしている。
何をしたつもりで、毎日あの場所に立っている。
田中さんは言った。
一人は怖い。
でも今は、少しだけ怖くない。
その言葉は、まだ耳に残っている。
それでも、自分が何かを渡せたとは思えなかった。
手を握っただけだ。
隣にいただけだ。
そんなものを、救いと呼んでいいのか。
俺の手には、もう田中さんの温度はなかった。
思い出そうとした。
薄い皮膚。
骨ばった指。
最後に、わずかに動いた感触。
けれど、朝の冷気の中で、その温度は少しずつ遠ざかっていた。
忘れたくない。
そう思う。
同時に、思い出さないようにしてきた。
矛盾している。
覚えていたら、続けられない。
忘れてしまえば、その人が本当に消えてしまう気がする。
どちらを選んでも、何かが削れていく。
川面に朝日が揺れていた。
光は水の流れに崩されながら、それでも消えずに残っていた。
俺は目を細めた。
眩しかった。
それだけだった。
缶の中に残っていたコーヒーを飲み切った。
もう、冷たくなっていた。
俺は欄干から体を離した。
帰ろうと思った。
けれど、足は動かなかった。
橋の上を、風が通り抜けた。
シャツの裾が揺れた。
川の音。
車の音。
遠くで鳴る踏切。
世界は動いている。
俺だけが、取り残されていた。
口を開いた。
誰かに聞かせるつもりはなかった。
川へ向けた言葉でもない。
自分自身へ、確かめるように言った。
「俺は」
声が、風に消えた。
もう一度、息を吸った。
「俺は、誰かの役に立てているのか」
返事はなかった。
川は流れていた。
車は走っていた。
朝日は昇っていた。
何も変わらない。
そう思った。
その瞬間だった。
川の音が、消えた。
俺は顔を上げた。
風が止まっていた。
車の音も。
遠くの踏切も。
自分の呼吸さえ、聞こえなかった。
世界から、音だけが抜き取られていた。
手の中の缶コーヒーが、白く滲んだ。
欄干も。
川も。
空も。
遠くの建物も。
すべての輪郭が、光の中へ溶けていく。
俺は欄干を掴もうとした。
指は、何にも触れなかった。
足元の感覚が消えた。
体が浮いたのか。
落ちたのか。
それすら分からなかった。
白い。
ただ、白かった。
病室の天井よりも。
朝の光よりも。
何も書かれていない紙よりも。
白い世界。
怖いと思うより先に、田中さんの声が蘇った。
「人は何のために生きるんだろうな」
答えは、まだない。
俺自身の問いにも。
田中さんの問いにも。
何ひとつ、答えられていない。
それでも。
誰かが、俺の手を握った気がした。
薄くて。
少し冷たくて。
最後まで離せなかった手。
その感触だけが、白い世界に残っていた。
俺は、その手を握り返そうとした。
けれど、指はもう動かなかった。
その問いに、答えが出る前に——
世界が、白く溶けた。
Scene 4 魔力がない、生きてる
最初に聞こえたのは、虫の声だった。
短く。
高く。
いくつもの音が、暗がりの奥で重なっていた。
次に感じたのは、土の匂い。
湿った落ち葉が、頬に貼りついている。
指先に触れる地面は、冷たく柔らかかった。
風が、首筋を撫でた。
俺は、ゆっくり目を開けた。
白くない。
最初に、そう思った。
視界の上には、木々があった。
太い幹。
幾重にも重なる枝。
葉の隙間から、夜明け前の淡い光が差し込んでいる。
森全体が、薄い霧の中に沈んでいた。
橋ではない。
病院でもない。
川の音も、車の音も聞こえなかった。
俺は息を吸った。
湿った空気が、肺の奥へ入ってきた。
息ができる。
右手を胸へ当てた。
鼓動があった。
速い。
けれど、確かに動いている。
首筋へ指を当てた。
脈も触れた。
生きている。
その事実を理解するまでに、少し時間がかかった。
橋の上。
消えた音。
白く滲んだ世界。
足元の感覚がなくなった。
それから——
何が起きた。
体を起こそうとした。
「動くな」
声がした。
低く、冷たい声だった。
同時に、喉元へ硬いものが触れた。
冷たかった。
視線だけを下げる。
細い剣先が、俺の喉へ向けられていた。
刃には、夜明け前の光が薄く映っている。
少しでも動けば、皮膚を裂く距離だった。
俺は動きを止めた。
「……何だ、これ」
「動くなと言った」
「動いてない」
「口は動いている」
「そこまで止められたら、質問にも答えられないだろ」
返事はなかった。
俺は剣先から、ゆっくり視線を上げた。
銀灰色の短い髪。
霧の中でも、その輪郭だけが淡く浮かんで見えた。
若い女だった。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
細身だが、剣を持つ腕に迷いはない。
深い色の外套。
使い込まれた革の装具。
こちらを見下ろす瞳は、夜明け前の空のような色をしていた。
左目の下には、三日月の形をした傷がある。
目立つ傷だった。
けれど、それについて尋ねられる雰囲気ではなかった。
「質問する」
女が言った。
「お前は、何者だ」
「俺の方が聞きたいんだけど」
女の目が、わずかに細くなった。
周囲を見ようとすると、剣先が動いた。
「動くな」
「分かった。分かったから、それを少し離してくれ」
「答えが先だ」
話が通じない。
いや。
少なくとも、言葉は通じている。
なぜ会話ができる。
ここはどこだ。
この女は誰だ。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、喉元の剣が質問の順番を決めていた。
「柳井蒼」
「ヤナイ・ソウ」
「そう」
「何をしている人間だ」
「看護師」
女の眉が、わずかに寄った。
「カンゴシ」
「病人や怪我人の世話をする仕事だ」
「治癒術師か」
「医者とは違う。魔法も使わない」
言ってから、自分の言葉に引っかかった。
魔法。
女は、それが存在することを疑っていなかった。
俺の方がおかしなことを言ったような顔をしている。
「聞いたことがない職業だ」
「そうだろうな」
「どこから来た」
「日本」
「ニホン」
「知らないだろ」
「知らない」
即答だった。
「俺も、ここを知らない」
女は黙った。
剣先は動かない。
虫の声だけが、二人の間を埋めていた。
森の奥で、何かが葉を揺らした。
反射的にそちらを見ようとする。
刃が皮膚へ触れた。
「動くな」
「だから、少し離してくれ。切れてる」
喉へ手を伸ばそうとすると、女の目が鋭くなった。
「手も動かすな」
「無理を言うな」
痛みは弱い。
深くは切れていない。
それでも、冷たい刃先の下に薄い熱が生まれていた。
女は俺の言葉を無視した。
「魔力を見せろ」
「魔力?」
「持っているだろう」
「持ってない」
「嘘をつくな」
「本当にない」
「あり得ない」
「こっちも、今の状況全部があり得ないと思ってる」
女は、しばらく俺を見つめていた。
不審者を見る目。
敵を見る目。
それ以上に、理解できないものを見る目だった。
やがて、剣を持っていない方の手を上げた。
白い指先が、俺の胸へ向けられる。
「何をする」
「調べる」
「先に説明してくれ」
「動くな」
「それしか言わないな」
女の指先に、淡い青色の光が生まれた。
小さな火のように揺れながら、少しずつ広がっていく。
俺は息を止めた。
光は女の手を離れ、俺の胸元へ触れた。
熱くはなかった。
冷たくもない。
皮膚を通り抜け、胸の奥へ染み込んでくるような感覚だけがあった。
心臓が、一度強く打った。
光は胸から腹へ。
腕から指先へ。
体の中を探るように流れていく。
やがて、何も起こらないまま消えた。
「終わったのか」
女は答えなかった。
消えた光の跡を見つめている。
初めて、彼女の表情が崩れた。
警戒ではなかった。
困惑とも少し違う。
目の前にあるはずのないものを見た顔だった。
「……ゼロ」
「何が」
「魔力がない」
「だから、そう言った」
「あり得ない」
「二回目だぞ」
女は剣先を向けたまま、俺を見下ろしていた。
さっきまでよりも、強く警戒している。
だが、その奥に別の色が混じっていた。
恐れているように見えた。
俺を、ではない。
俺に起きている何かを。
「お前」
女が言った。
「転生者だな」
「転生?」
「この世界の人間ではない」
世界。
その言葉が、胸の奥へ沈んだ。
俺はもう一度、周囲を見た。
幹の根元には、淡く青い光を放つ草が生えていた。
蛍ではない。
葉そのものが、内側から光っている。
見たことのない蔓が、太い木の枝へ絡みついていた。
その先に咲く花は、風もないのにゆっくりと開閉している。
遠くで響いた鳴き声も、知っている動物のものではなかった。
夢。
そう考えようとした。
けれど、喉元の痛みは消えない。
土の冷たさも。
湿った匂いも。
胸の鼓動も。
すべてが、あまりにもはっきりしていた。
橋の上で、世界が白く溶けた。
そして、ここで目を覚ました。
「俺は」
声が掠れた。
「死んだのか」
「知らない」
女は即座に答えた。
「知らないのか」
「私は、お前が来る前を見ていない」
「それは、そうだけど」
「この世界の外から来た者を、転生者と呼ぶ」
「世界の外」
「お前がニホンと呼んだ場所がどこかは知らない。だが、ここではない」
俺は自分の手を見た。
輪郭はある。
指も動く。
病院で何度も洗ったせいで荒れた皮膚も、そのままだった。
白衣ではない。
橋にいたときと同じ服を着ている。
何が起きたのか。
まだ分からない。
「転生者は、他にもいるのか」
女の表情が硬くなった。
「いた」
「いた?」
「こちらへ来た者は、体の中に大量の魔力を取り込む」
剣先が、ほんの少し下がった。
「器が耐えられない」
「どうなる」
「暴走する」
「その後は」
「死ぬ」
森の空気が、急に冷たくなった気がした。
「全員か」
「私が知る限りは」
「それなら、俺は」
「生きている」
女は、確かめるように言った。
「魔力がない」
一拍置いた。
「なのに、生きてる」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「魔力がないから、生きているんじゃないのか」
「それなら、なぜ何も取り込まなかった」
「俺に聞くな」
「だから、分からない」
初めて、女の声にわずかな苛立ちが混じった。
俺は息を吐いた。
夢ではない。
たぶん。
死んだかどうかも分からない。
けれど、心臓は動いている。
呼吸もできる。
喉は痛い。
土は冷たい。
生きている。
少なくとも、今は。
「一つ確認していいか」
「何だ」
「ここは、日本じゃないんだな」
「ニホンが何かは知らない」
「じゃあ、この場所の名前は」
「ヴァルム連邦の東方森林地帯だ」
聞いたことのない名前だった。
地名だけではない。
国の名にも。
歴史にも。
記憶のどこにもない。
「本当に、ここは別の世界なのか」
「まだ信じられないのか」
「目が覚めたら知らない森にいたんだ。すぐ信じろという方が無理だろ」
「魔力も、転生者のことも説明した」
「説明を聞いたからって、すぐ納得できるわけじゃない」
女は黙った。
それから、わずかに視線をそらした。
俺の言葉を理解しようとしているように見えた。
だが、すぐにこちらへ目を戻す。
その間も、剣は下ろされなかった。
「生きている転生者は、初めて見た」
女は、もう一度言った。
確かめるような声だった。
森の向こうから、朝の光が差し込んだ。
青く光っていた草が、少しずつ色を失っていく。
鳥に似た何かが、頭上の枝から飛び立った。
大きな翼が空気を打つ。
淡い金色の羽が一枚、ゆっくりと落ちてきた。
それは地面へ触れる前に、光の粒となって消えた。
俺は、その光を見送った。
ここは、日本ではない。
病院も。
橋も。
田中さんのいた世界も、ここにはない。
あの人の声も、もう届かない。
それでも、俺は呼吸をしている。
胸の奥では、心臓が動き続けていた。
何のために。
その答えは、まだなかった。
ただ一つ、分かることがあった。
魔力がない。
それでも——
俺は、生きている。
Scene 5 まだ殺してない
女は、しばらく俺を見下ろしていた。
夜明けの光が木々の隙間から差し込み、銀灰色の髪を淡く照らしている。
剣先は、まだ喉元にあった。
先ほどより少し離れている。
それでも、息をするたび、冷たい刃の気配が皮膚に触れた。
「いつまで、こうしているつもりだ」
「考えている」
「何を」
「お前をどうするか」
「できれば、殺さない方向で頼む」
女の目が、わずかに細くなった。
「殺すと決めたわけではない」
「安心できる言い方じゃないな」
数秒の沈黙があった。
やがて、女は剣を下ろした。
刃先が喉から離れる。
触れていた場所に、遅れて熱が戻ってきた。
俺は首筋へ手を当てた。
指先に、わずかな血がついた。
「切れてる」
「浅い」
「深さの問題じゃない」
「生きている」
「そういう問題でもない」
女は答えなかった。
剣を振り、付着していた血を払う。
それから腰の鞘へ収めた。
乾いた金属音が、森の中へ小さく響いた。
ようやく体を起こした。
背中と肩に、湿った落ち葉が貼りついている。
手で払うと、土と葉の匂いが強くなった。
足に力を入れて立ち上がる。
一瞬、視界が揺れた。
夜勤明けの体に、森の冷気が重かった。
俺がふらつくと、女の手がわずかに動いた。
けれど、その手は伸びてこなかった。
「立てるか」
「立ってる」
「倒れそうだ」
「誰かに剣を突きつけられたせいかもしれない」
「関係ない」
「あるだろ」
女は俺の言葉を聞き流し、周囲へ目を向けた。
森の奥を探るように、ゆっくりと視線を動かしている。
さっきまで俺へ向けられていた警戒が、今度は木々の向こうへ向けられていた。
「ここは安全なのか」
「安全な森などない」
「それ、今言うのか」
「今聞いたから答えた」
間違ってはいない。
間違ってはいないが、納得はできなかった。
女は数歩進み、振り返った。
「名前を、もう一度言え」
「柳井蒼。柳井が名字で、蒼が名前だ」
「ソウ」
「ああ」
女は、確かめるようにその音を繰り返した。
「ソウル」
「違う。ソウだ」
「こちらの言葉では、ソウルの方が言いやすい」
「勝手に変えるな」
「嫌なのか」
「そういう問題じゃない」
「なら、ソウル」
「話を聞け」
女は俺の抗議を無視した。
すでに、自分の中では決定したらしい。
それから、わずかに顎を引いた。
「私はフィーナ。フィーナ・アルセンだ」
「フィーナ」
口に出すと、見知らぬ世界の名前が少しだけ形を持った。
フィーナは、それ以上何も言わず、俺に背を向けた。
「行くぞ、ソウル」
「もう決定なのか」
返事はなかった。
フィーナは森の奥へ歩き始めた。
「どこへ行く」
「街だ」
「近いのか」
「歩けば着く」
「どれくらい歩けば」
「お前の足次第だ」
答えになっていない。
けれど、ここに一人で残るという選択肢はなかった。
俺は落ち葉を踏み、フィーナの後を追った。
森の中には、道らしい道がなかった。
木々の間を縫うように、フィーナは迷いなく進んでいく。
俺には、どの方向も同じに見えた。
太い幹。
湿った苔。
淡く光る草。
足元を這う、青みがかった蔓。
葉の隙間から落ちる朝の光が、霧の中に細い筋を作っていた。
フィーナの背中は、その光を横切りながら遠ざかっていく。
「ちょっと待て」
「待たない」
「待てよ」
「遅い」
俺は木の根を跨いだ。
次の一歩で、別の根に足を取られた。
体が前へ傾く。
辛うじて近くの幹へ手をつき、転倒を免れた。
手のひらに、湿った苔の感触が残った。
フィーナは立ち止まらない。
寝ていない体に、緩い上り坂がきつかった。
呼吸が少しずつ浅くなる。
「少し速度を落としてくれ」
「なぜだ」
「足の長さが違うだろ」
フィーナが足を止めた。
ゆっくり振り返り、俺の足を見た。
次に、自分の足を見た。
「それほど違わない」
「そういうところだけ真面目に確認するな」
「では、努力不足だ」
「理不尽だな」
フィーナの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
そう見えただけかもしれない。
俺が確かめるより先に、彼女は前を向いた。
再び歩き始める。
その速度は、先ほどよりわずかに落ちていた。
俺は何も言わなかった。
森の中を、二人分の足音が進んでいく。
湿った土を踏む音。
草が衣服に触れる音。
枝から落ちた雫が、葉を打つ音。
目を覚ましたときには不気味だった虫の声も、歩いているうちに森の一部として耳へ馴染み始めていた。
「さっきから思ってたんだけど」
「何だ」
「この世界では、目を覚ました相手にいきなり剣を向けるのが普通なのか」
「場合による」
「俺の場合は」
「怪しかった」
「寝ていただけだ」
「突然現れた」
「俺に言われても困る」
「魔力がなかった」
「それも俺に言われても困る」
フィーナは枝を片手で払いながら進んだ。
「普通なら、転生者は現れた時点で魔力を放つ」
「それで、暴走するのか」
「ああ」
「俺は何も出していなかった」
「だから怪しかった」
「何をしても怪しいんだな」
「まだ殺してない」
「その理屈、おかしいだろ」
「殺す理由もない」
「安心していいのか」
フィーナは少し考えた。
「半分だけ」
「半分か……」
息が漏れた。
笑ったのだと気づいたのは、そのあとだった。
田中さんが亡くなってから、まだ何時間も経っていない。
橋の上で答えの出ない問いを抱えたまま、世界が消えた。
自分が死んだのか、生きているのかさえ分からない。
それなのに。
見知らぬ森で、俺は笑っていた。
口元に残った感覚が、妙に遠いものに思えた。
「ソウル」
フィーナが呼んだ。
一瞬、自分のことだと分からなかった。
「何だ」
「足元を見ろ」
言われた直後、右足が蔓へ引っかかった。
今度は踏ん張れなかった。
体が前へ倒れる。
その腕を、横から掴まれた。
フィーナだった。
細い指が、俺の手首を強く締めている。
軽く引かれただけで、体勢が戻った。
「見ていた」
「見ていない」
「見ていたけど、避けられなかった」
「それを見ていないと言う」
フィーナは、すぐに手を離した。
触れていた場所に、指の感触だけが残った。
「助かった」
「次は自分で避けろ」
「礼くらい受け取れ」
「必要ない」
フィーナは再び歩き始めた。
俺はその背中を見ながら、手首を一度さすった。
「フィーナ」
「何だ」
「お前、友達少ないだろ」
足音が止まった。
フィーナは振り返らなかった。
「なぜそう思う」
「礼を言われても受け取らない。説明は足りない。すぐ剣を向ける」
「必要なことは説明している」
「半分くらいな」
「黙れ」
「図星か」
「黙れ、ソウル」
「はいはい」
フィーナは再び歩き出した。
朝の光が横顔へ触れたとき、耳がわずかに赤く見えた。
光のせいかもしれない。
俺は何も言わなかった。
出会ってから、まだ一時間も経っていない。
名前も、さっき知ったばかりだった。
俺を警戒し、剣を向け、何を考えているのかほとんど分からない。
それでも、フィーナの背中が少しだけ気になった。
看護師をしていると、言葉より先に顔色や仕草を見る癖がつく。
だが、目の前を歩く彼女から読み取れるものは少なかった。
どこか危うい。
どこか寂しい。
そんな気がしただけだった。
森の奥で、鳥が鳴いた。
その声に重なるように、別の音が聞こえた。
低く。
掠れていた。
獣の唸り声にも聞こえた。
フィーナが足を止めた。
さっきまでのわずかな緩みが、背中から消えた。
右手が剣の柄へ伸びる。
「今のは何だ」
「静かにしろ」
フィーナは森の奥を見つめていた。
もう一度、音がした。
苦しげな呼吸。
喉の奥から漏れる、か細い声。
俺は耳を澄ませた。
フィーナが、低く言った。
「近い」
木々の向こうで、何かが倒れる音がした。
Scene 6 死んだ獣の声
木々の向こうで、何かが倒れる音がした。
太い枝が折れるような、鈍い音だった。
そのあとに、短い静寂が落ちた。
虫の声も。
鳥の声も。
一瞬だけ、森全体が息を止めたように聞こえた。
フィーナは剣の柄へ手をかけたまま、木々の奥を見つめていた。
「動くな」
「またそれか」
「今度は本当に動くな」
声が低かった。
さっきまでのわずかな緩みは、もう残っていない。
俺も口を閉じ、耳を澄ませた。
葉の擦れる音。
風が枝の間を抜ける音。
その奥に、かすかな呼吸が混じっていた。
浅く。
速く。
途中で引っかかるような音。
人間のものではない。
それでも、聞き覚えのある響きだった。
痛みに耐えている者の呼吸。
息を吸うたび、胸の内側を何かに傷つけられている。
そんな音だった。
「まだ生きてる」
「何がだ」
「呼吸が聞こえる」
フィーナがわずかに眉を寄せた。
「私には何も聞こえない」
「でも、確かに——」
「ここで待て」
フィーナが剣を抜いた。
乾いた金属音が、静かな森へ鋭く響く。
俺をかばうように一歩前へ出ると、木々の奥へ進み始めた。
俺も数歩遅れて後を追った。
「待てと言った」
「怪我をしてるなら、見た方がいい」
「魔獣かもしれない」
「だからって、苦しんでるなら同じだ」
フィーナは振り返らなかった。
だが、俺を追い返そうともしなかった。
森の奥へ進むにつれて、匂いが変わった。
湿った土の匂いに、鉄に似た臭いが混じる。
血の匂い。
病棟でも、何度も嗅いだことがある。
けれど、これはもっと濃かった。
乾いた血。
腐り始めた肉。
体温を失った獣の、重い死臭。
俺は鼻を覆いそうになった。
フィーナは顔色一つ変えずに進んでいく。
低い茂みを越えたところで、視界が開けた。
黒い塊が、地面に横たわっていた。
最初は、倒れた木の幹に見えた。
それほど大きかった。
灰黒色の毛。
長く伸びた四肢。
太い首。
狼に似た頭部。
だが、俺が知っている狼とは大きさが違いすぎる。
体長は三メートルを超えていた。
前脚だけでも、人間の胴ほどの太さがある。
「……でかいな」
「森狼だ」
「狼?」
「森狼」
「そのままだな」
「何がだ」
「いや、何でもない」
フィーナは腕を横へ伸ばした。
進むなということらしい。
森狼は横向きに倒れていた。
胸は動いていない。
耳を澄ませても、もう呼吸は聞こえなかった。
胸から脇腹にかけて、大きな裂傷が走っている。
毛は黒く固まり、周囲の土まで暗い色に染まっていた。
傷口の縁は乾いている。
流れ出た血も、すでに土へ沈んでいた。
「死んでる」
「ああ」
「いつから」
「二日か、三日前だ」
「じゃあ、さっきの呼吸は」
「何も聞こえなかった」
フィーナは淡々と言った。
俺は森狼を見た。
目は半分開いている。
濁った瞳が、何もない場所へ向けられていた。
死んでから数時間どころではない。
それなのに。
あの呼吸だけが、まだ耳の奥に残っている。
「何にやられた」
フィーナは裂けた傷へ目を向けた。
「刃物だ」
「こんな傷を?」
「魔法で刃を強化すれば、できる」
「誰が」
「神殿兵の刃に似ている」
「神殿兵」
「この辺りを巡回している。ただ、そうだと決まったわけではない」
フィーナは傷口の近くへしゃがんだ。
周囲の土を確認する。
潰れた草。
乾いた足跡。
折れた枝。
「何で殺した」
「魔獣だからだ」
「それだけで?」
「街へ近づけば、人を襲う」
「こいつが襲ったのか」
「知らない」
「知らないのに殺すのか」
フィーナが顔を上げた。
「人を襲ってからでは遅い」
「そうかもしれないけど」
「かわいそうだと思ったのか」
俺は森狼の顔を見た。
大きな牙が、わずかに覗いている。
生きていれば、目の前に立つことすらできなかっただろう。
それでも。
開いたままの瞳を見ていると、病室に残された顔を思い出した。
「それでも、生きてたんだろ」
「ただの魔獣だ」
「死んだら、全部ただのものになるのか」
フィーナは答えなかった。
俺は森狼へ一歩近づいた。
「触るな」
「状態を見るだけだ」
「もう死んでいる」
「分かってる」
呼吸はない。
胸も動かない。
傷は深く、体温も残っていない。
それでも、最後に確かめずにはいられなかった。
何が起きたのか。
どこが傷ついたのか。
どれほど苦しんだのか。
もう助からない人の傍でも、同じことをしてきた。
死んだあとまで確認する意味があるのかと、何度も思った。
それでも、誰かが生きていた痕跡を、なかったことにはできなかった。
森狼のそばへ膝をつく。
腐敗臭が強くなった。
裂傷は、近くで見るとさらに深い。
肋骨が覗き、その周囲には焼けたような跡が残っていた。
「ソウル、離れろ」
「すぐ終わる」
俺は森狼の頭部へ手を伸ばした。
灰黒色の毛は、土と血で固まっている。
傷のない額へ、指先を触れた。
冷たかった。
田中さんの手とは違う。
人の皮膚とも違う。
硬い毛の奥に、完全に失われた体温があった。
その瞬間。
世界が反転した。
白い光が、視界を塗り潰した。
森が消えた。
地面も。
フィーナも。
自分の手も。
代わりに、音が押し寄せた。
風。
枝が折れる音。
土を蹴る音。
荒い呼吸。
心臓が、胸を突き破るほど激しく打っている。
俺の心臓ではない。
四本の脚が地面を蹴っていた。
速い。
森の中を走っている。
視界が低い。
木々が後ろへ流れていく。
口の中に、血の味があった。
痛い。
右の脇腹が熱い。
息を吸うたび、胸の奥が裂ける。
後ろから、複数の足音が追ってきた。
金属が鳴る。
人間の声。
意味は分からない。
それでも、殺そうとしていることだけは分かった。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
言葉ではなかった。
意味だけが、直接流れ込んでくる。
戻らなければ。
群れがいる。
小さな体。
まだ目も開ききっていない。
柔らかい毛。
腹へ鼻先を押しつける感触。
守らなければ。
子どもたちを。
群れを。
ここから遠ざけなければ。
背後で光が弾けた。
脇腹へ衝撃が走る。
体が宙へ浮いた。
地面へ叩きつけられる。
息が抜けた。
立て。
立たなければ。
前脚へ力を込める。
動かない。
後ろ脚を引き寄せる。
痛みだけが返ってくる。
人間の足音が近づいてきた。
刃が光っている。
怖い。
喉の奥から、低い声が漏れた。
威嚇ではない。
痛みだった。
死にたくない。
まだ戻っていない。
子どもたちのところへ。
群れのところへ。
怖い。
怖い。
怖い。
刃が振り下ろされた。
「っ——!」
体が跳ねた。
視界が森へ戻った。
自分の喉から、息とも声ともつかない音が漏れている。
手を離そうとした。
指が動かない。
森狼の額へ貼りついたように離れなかった。
「ソウル!」
肩を強く引かれた。
指先が森狼から離れる。
その瞬間、全身から力が抜けた。
膝が地面へ落ちる。
「はっ……」
息が吸えない。
胸が狭い。
肺の奥まで空気が入らない。
右脇腹が焼けるように痛んだ。
反射的に手を当てる。
傷はない。
服も破れていない。
それでも、痛みだけが残っていた。
「はぁっ……はっ……」
心臓が激しく脈打つ。
指先が震えていた。
額から汗が落ちる。
森は冷たいはずなのに、背中まで濡れていた。
「ソウル」
フィーナが俺の肩を掴んでいた。
顔が近い。
何かを言っている。
声は聞こえているのに、意味が入ってこない。
「ソウル、こっちを見ろ」
頬へ冷たい指が触れた。
視線を上げる。
フィーナの目があった。
「息を吐け」
「……え」
「吸おうとするな。先に吐け」
言われたとおり、肺の中の空気を押し出した。
細く。
長く。
途中で咳が出た。
「もう一度」
息を吐く。
少しだけ、胸が開いた。
空気が入ってくる。
湿った土。
血と腐敗の臭い。
森の空気。
自分の呼吸。
一つずつ、感覚が戻ってきた。
フィーナは肩から手を離さなかった。
「何をした」
「分からない」
「何を見た」
「見たんじゃない」
声が震えた。
俺は脇腹を押さえたまま、森狼を見た。
死骸は動いていない。
目も。
胸も。
何も変わっていなかった。
「感じた」
「何を」
「走ってた」
口の中に、まだ血の味が残っている気がした。
「追われてた」
「誰に」
「人間に」
フィーナの指が、肩の上でわずかに強くなった。
「傷つけられて」
言葉が途切れた。
さっきまで自分のものだった恐怖が、胸の奥に残っている。
「戻ろうとしてた」
「どこへ」
「群れに」
森狼の動かない顔を見た。
「子どもがいた」
フィーナの目が、わずかに見開かれた。
「守ろうとしてた」
「ソウル」
「怖かった」
言葉が勝手に出た。
「すごく、怖かった」
指先の震えが止まらない。
「死ぬのが怖かった」
森の中へ、俺の声だけが落ちた。
フィーナは何も言わなかった。
これまで向けられていた警戒とは、少し違う目だった。
俺が何をするのかではない。
俺が何であるのかを、確かめようとしているように見えた。
「死者の感情を読んだのか」
ようやくフィーナが言った。
「読んだ?」
「今のお前は、この森狼が死ぬ前に感じたものを話している」
「俺にも分からない」
「残響に触れたのか」
「残響?」
フィーナの視線が、俺の右手へ落ちた。
「死者や物に残った、記憶の痕跡だ」
「記憶」
「強い感情は、魔力に焼きつくことがある。それを辿るのが残響魔法だ」
「魔法……」
「だが、感情まで自分の体で受ける術は聞いたことがない」
「でも、俺には魔力がないんだろ」
「だから、おかしい」
「またそれか」
「笑い事ではない」
フィーナの声が鋭くなった。
俺は口を閉じた。
彼女の手は、まだ剣の柄の近くにある。
最初に剣を向けられたときとは、警戒の質が違っていた。
「お前は、何なんだ」
フィーナが言った。
俺は答えられなかった。
柳井蒼。
看護師。
日本から来た転生者。
魔力がない。
それでも生きている。
今は、ソウルと呼ばれている。
分かっていることを並べても、答えにはならなかった。
「俺にも分からない」
そう言うしかなかった。
手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
まだ膝に力が入らなかった。
「無理をするな」
フィーナが言った。
「さっきまで、倒れそうでも歩かせたのに」
「今は事情が違う」
「どう違う」
「顔が死人みたいだ」
「看護師に言う台詞じゃないな」
「意味が分からない」
「だろうな」
フィーナは答えず、森狼へ一度だけ目を向けた。
それから、森の先へ歩き始めた。
先ほどより、さらに遅い速度だった。
俺は森狼の死骸を振り返った。
もう声は聞こえない。
額へ触れれば、また同じものが流れ込んでくるのかもしれない。
確かめたいとは思わなかった。
怖かった。
あれは、死んだ獣の記憶を見ただけではない。
ただの光景でもない。
あの瞬間、森狼は確かに生きていた。
走っていた。
痛がっていた。
帰ろうとしていた。
死にたくないと願っていた。
最後まで、何かを守ろうとしていた。
その想いだけが、今も胸の奥に残っている。
死んだ獣の声は、もう聞こえない。
それでも。
あの恐怖だけは、俺の中でまだ息をしていた。
Scene 7 この世界に神はいない
日が沈む前に、俺たちは街へ着かなかった。
森狼の死骸を離れてから、フィーナはほとんど口を開かなかった。
俺も話す気にはなれなかった。
歩くたび、右の脇腹が痛む気がした。
傷などない。
服も破れていない。
それでも、足を踏み出すたび、あの森狼が地面を蹴った感触が蘇った。
低い視界。
血の味。
背後から迫る足音。
振り下ろされた刃。
俺は何度か右手を握った。
森狼へ触れた指先には、もう冷たさは残っていない。
だが、あの恐怖だけが皮膚の内側へ入り込み、抜けないまま残っていた。
「今日はここまでだ」
フィーナが足を止めた。
太い木々に囲まれた場所だった。
根元の土は乾いている。
少し離れた場所を、細い沢が流れていた。
「街は?」
「明日の昼には着く」
「今日中じゃなかったのか」
「お前が倒れた」
「倒れたというか、膝をついただけだ」
「同じだ」
「違うだろ」
フィーナは返事をせず、背負っていた荷物を地面へ下ろした。
俺の歩調に合わせたせいで遅れたのだろう。
そう思ったが、口には出さなかった。
言えば、たぶん否定する。
フィーナが乾いた枝を集め始めた。
俺も近くの枝へ手を伸ばす。
「座っていろ」
「倒れてない」
返事の代わりに睨まれた。
俺は黙って枝を拾った。
集めた薪の前で、フィーナが指先をかざした。
淡い青色の光が一瞬だけ集まる。
火花が散り、乾いた枝へ火が移った。
橙色の炎が立ち上がる。
青い光が消えたあと、フィーナは一度だけ指先を握り込んだ。
「今のが魔法か」
「そうだ」
「もっと、呪文を唱えたりするのかと思ってた」
「必要ない」
「便利だな」
フィーナは答えなかった。
火の前へ腰を下ろし、剣を手の届く位置へ置く。
俺も向かい側へ座った。
火の熱が顔へ届いた。
森狼に触れてから体の奥に残っていた冷たさが、少しずつ薄れていく。
フィーナは袋から硬いパンを取り出し、半分を俺へ投げた。
慌てて受け取る。
「食べろ」
「ありがとう」
「礼はいらない」
「またそれか」
パンは硬かった。
噛むたびに顎が痛む。
味もほとんどしない。
それでも、朝から何も食べていなかった体には十分だった。
日が完全に沈むと、森の輪郭が消えた。
焚火の届かない場所は、黒い壁のように見える。
だが、空だけは明るかった。
見上げると、数え切れない星があった。
白い光。
青い光。
わずかに赤みを帯びた光。
大きさも明るさも違う無数の点が、暗い空の奥まで続いている。
病院の窓から見上げた空とは違う。
街の明かりも。
ビルの影も。
飛行機の点滅もない。
ただ、星だけがあった。
「綺麗だな」
声が漏れた。
フィーナも空を見上げる。
「慣れる」
「慣れたくないな」
「なぜだ」
「綺麗だと思えなくなるのは、もったいない」
フィーナはしばらく星を見ていた。
「変なやつだ」
「よく言われる」
「そうだろうな」
「少しは否定してくれ」
フィーナの口元が、わずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
焚火の揺れが、そう見せただけかもしれない。
薪が爆ぜた。
火の粉が夜空へ昇り、途中で消えた。
しばらく、二人とも話さなかった。
虫の声。
沢の水音。
枝が燃える音。
昼間の森狼の声は、もう聞こえない。
それでも、目を閉じると、あの呼吸が耳の奥へ戻ってきた。
「昼の話だけど」
フィーナの視線が俺へ向いた。
「残響魔法って、何なんだ」
「昼間、話しただろう。死者や物に残った記憶の痕跡を辿る魔法だ」
「フィーナも使えるのか」
「少しなら」
「俺が見たものと同じ?」
「あれは違う」
答えは早かった。
「普通の残響魔法で、死者の感情まで自分の体へ取り込むことはない」
「じゃあ、あれは何だった」
「分からない」
「お前でも分からないことがあるんだな」
「ある」
「意外と素直に認めるんだな」
「お前は、私を何だと思っている」
「いきなり剣を向けて、勝手に名前を変えるやつ」
「正しい判断だった」
「どっちが」
「両方だ」
「名前まで?」
「ああ」
俺は小さく息を吐いた。
ソウル。
まだ呼ばれるたび、一拍遅れる。
それでも、フィーナの口から聞くその名は、朝より少しだけ自分へ近づいていた。
「魔法を使うと、何か消耗するのか」
フィーナの手が止まった。
「なぜそう思う」
「さっき火をつけたあと、指を握ってただろ」
「見ていたのか」
「仕事柄な」
フィーナはしばらく黙っていた。
炎が揺れ、瞳の中で小さく燃えている。
「魔法は、記憶を燃やして使う」
「……は?」
聞き間違いだと思った。
「今、何て言った」
「記憶を燃やす」
「比喩か?」
「違う」
フィーナは淡々と答えた。
「魔法を使えば、記憶が失われる」
「使うたびに?」
「ああ」
「どんな記憶が」
「選べることもある」
「選べないこともあるのか」
「ある」
焚火の中で、薪の端が崩れた。
赤い火の粉が舞い上がり、夜の中へ消えていく。
記憶を燃やす。
言葉どおりなら、この炎と同じだ。
一度燃えれば、元には戻らない。
「さっき火をつけたときも?」
「少しは」
「何を忘れた」
「分からない」
「分からない?」
「忘れたものは、思い出せない」
当たり前の答えだった。
だからこそ、何も言えなかった。
何を失ったのか分からない。
失ったことにさえ、気づけないかもしれない。
記憶を削るというのは、その人の輪郭そのものを、少しずつ薄くしていくことのように思えた。
「怖くないのか」
「怖い」
フィーナはすぐに答えた。
声に迷いはなかった。
「怖いのに使うのか」
「使わなければ死ぬ」
「でも」
「戦わなければ、もっと多く死ぬ」
炎がフィーナの横顔を照らしている。
まだ若い。
俺より、ずっと年下に見える。
それなのに、その横顔は、年齢よりも多くのものを背負っているように見えた。
「だから使う」
声は静かだった。
誰かを救うために、自分を削る人間を何人も見てきた。
眠らない医師。
休憩を取らない看護師。
病室を離れようとしない家族。
けれど、記憶そのものを差し出す人間は初めてだった。
「どこまで忘れるんだ」
「魔法の強さによる」
「全部忘れることもあるのか」
フィーナは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
俺は焚火へ目を落とした。
炎は薪を食べながら、明るく燃えている。
熱を与える代わりに、形を失わせていく。
フィーナの魔法も同じなのかもしれない。
誰かを守るたび。
何かを救うたび。
彼女の中から、何かが燃えて消える。
「そんな魔法、神様は止めないのか」
フィーナが顔を上げた。
「神?」
「この世界にもいるんだろ。神様くらい」
彼女は、わずかに目を細めた。
怒ったようには見えなかった。
ただ、その目には、俺の知らない時間が沈んでいるように見えた。
「神はいない」
「いない?」
「この世界に神はいない」
薪が爆ぜた。
乾いた音が、森の静けさを割った。
「どういう意味だ」
「言葉のとおりだ」
「信じられてないってことか」
「違う」
フィーナは焚火を見つめたまま言った。
「五百年前に消えた」
「消えた?」
「ああ」
「死んだのか」
「分からない」
「どこかへ行った?」
「誰も知らない」
「それで、何が残った」
「神殿だ」
フィーナの声が、少しだけ冷たくなった。
「神はいない。だが、神殿は残った」
「神がいないのに?」
「ああ」
「変な話だな」
「そうかもしれない」
それ以上、フィーナは話さなかった。
声には、これ以上触れられたくない硬さがあった。
俺も聞くのをやめた。
森が静かだった。
虫の声。
沢の水音。
焚火の爆ぜる音。
俺は空を見上げた。
数え切れない星が、神のいない世界を照らしている。
神はいない。
その言葉は、本来なら恐ろしいはずだった。
祈りを受け取る者がいない。
死んだ者を迎える者もいない。
誰かが苦しんでいても、救いの手は降りてこない。
神なら、苦しむ者を救うものだと思っていた。
少なくとも、病室で祈る家族は、そう信じていた。
それなのに。
胸の奥にあったものが、少しだけ緩んだ。
「……そうか」
フィーナがこちらを見る。
「何だ」
「いや」
「何かある顔だ」
「そんな顔してるか」
「ああ」
俺はもう一度、星を見た。
「俺のいた世界も」
言葉を探した。
「案外、似たようなものだった」
「神がいなかったのか」
「いると言う人もいた」
「お前は信じなかった?」
「分からない」
神を信じていたわけではない。
否定していたわけでもない。
ただ、病室で何度も思った。
なぜ、この人なのか。
なぜ、これほど苦しまなければならないのか。
何のために生き。
何のために死ぬのか。
答えが欲しかった。
誰かに、この苦しみにも意味があるのだと決めてほしかった。
けれど、答えは降りてこなかった。
「祈っても、助からない人はいた」
自分の声が、思ったより静かだった。
「そうか」
「善い人も死んだ」
「ああ」
「それでも、みんな理由を探してた」
田中さんの顔が浮かんだ。
もう十分生きた。
そう言いながら、最後まで窓の外を見ていた。
あの人は、何を待っていたのだろう。
家族か。
朝か。
それとも、誰かの答えだったのか。
「神がいないなら」
俺は言った。
「救われないのも、罰じゃないのかもしれない」
フィーナが俺を見た。
何も言わない。
「苦しむのも」
言葉が、ゆっくり形になった。
「俺が何かを間違えたからじゃないのかもしれない」
橋の上で聞いた声が蘇った。
あなたは、人を助けているんじゃない。
自分が救われたいだけ。
否定できなかった。
人の死に寄り添いながら、必要とされる理由を探していたのかもしれない。
救えなかった命を自分の責任にすれば、そこには少なくとも原因が生まれる。
俺が足りなかった。
俺が間違えた。
俺に力がなかった。
世界に意味がないと認めるより、その方が楽だったのかもしれない。
「変なやつだ」
フィーナが言った。
「またそれか」
「神がいないと聞いて、安心する人間は初めて見た」
「俺も、今気づいた」
「何に」
「安心したことに」
フィーナは少しだけ首を傾けた。
それから、焚火へ視線を戻した。
「神がいなくても、人は死ぬ」
「ああ」
「魔獣も死ぬ」
「ああ」
「祈っても、記憶は戻らない」
その言葉だけが、炎の中へ落ちた。
俺はフィーナを見た。
彼女は焚火を見つめている。
炎が瞳の奥で揺れていた。
「それでも、生きるしかない」
独り言のような声だった。
俺は何も答えなかった。
答えられなかった。
ただ、その言葉を胸の中へ置いた。
それでも、生きるしかない。
橋の上では、選べなかった。
生きたいとも。
死にたいとも。
どちらも言えなかった。
今も、答えが出たわけではない。
けれど。
朝、森で目を覚ました。
心臓が動いていた。
呼吸をしていた。
魔力が必要な世界で魔力がなくても、俺は生きていた。
森狼は、最後まで生きようとしていた。
フィーナは、記憶を失うと知りながら魔法を使っている。
神がいなくても。
それでも、生きている。
薪が崩れた。
炎が小さくなった。
フィーナが新しい枝を火へ入れる。
「眠れ」
「お前は?」
「見張る」
「交代する」
「お前は役に立たない」
「言い方」
「事実だ」
「少しは遠慮しろ」
「なぜだ」
俺は息を吐いた。
フィーナは焚火の向こうへ座り直した。
剣を膝へ置き、暗い森を見つめる。
銀灰色の髪が、火の光を受けて揺れていた。
「フィーナ」
「何だ」
「忘れたくない記憶はあるのか」
彼女の肩が、わずかに止まった。
だが、振り返らなかった。
「ある」
「それでも、魔法を使う?」
「必要なら」
短い答えだった。
それ以上、聞けなかった。
俺は地面へ横になった。
フィーナが貸してくれた薄い布を肩まで引き上げる。
土は硬かった。
木の根が背中へ当たる。
病院の仮眠室より、ずっと寝心地が悪い。
それでも、不思議と目を閉じることができた。
焚火の音が聞こえる。
沢の音。
虫の声。
時折、フィーナが枝を動かす音。
誰かが、そこにいる音だった。
看取りの夜、俺は死にゆく誰かの隣にいた。
今は、誰かが俺の隣にいる。
それだけの違いが、不思議なくらい大きく感じられた。
空には、数え切れない星があった。
そのどこにも、神はいない。
祈りを聞く者も。
答えを与える者も。
生きる理由を決める者もいない。
だからこそ。
いつか、自分で選ばなければならないのかもしれない。
正しいかどうかも分からないまま。
間違えるかもしれないまま。
それでも。
この世界に神はいない。
その言葉を聞いた瞬間。
なぜか俺は——
少しだけ、生きやすくなった気がした。
第1章 完
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※この小説「テルナ・ヴァイド」は、「小説家になろう」にも同時掲載しています。
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