第2章 統合版「忘れても、愛は残るか」|テルナ・ヴァイド
第2章 忘れても、愛は残るか
── 消えた記憶に、残るもの
【目次】
Scene 8 記憶を売る街
Scene 9 名前の残らない人々
Scene 10 大丈夫です
Scene 11 忘れてしまった顔
Scene 12 消えない顔
Scene 13 時計を直す男
Scene 14 神殿の二つの顔
Scene 15 五百年を知る者
Scene 8 記憶を売る街
森を抜けたのは、太陽が頭上へ昇りきる少し前だった。
木々の間を満たしていた湿った匂いが薄れ、代わりに風が人の声を運んできた。
最後の木立を越える。
視界が、一気に開けた。
緩やかな丘陵の向こうに、灰色の城壁が横たわっている。
その内側には、大小さまざまな屋根が幾重にも重なり、さらに奥には白い尖塔が空へ突き出していた。
煙突から細い煙が上がっている。
荷車の車輪。
家畜の鳴き声。
どこかで打ち鳴らされる鐘。
人の暮らしが、城壁の向こうにあった。
街だった。
「ここが、街か」
前を歩いていたフィーナが、わずかに振り返った。
「ヴェスタ」
「ヴェスタ?」
「東方諸国ヴァルム連邦。その東部にある自治都市だ」
聞き慣れない名前が、続けて頭へ入ってくる。
東方諸国ヴァルム連邦。
自治都市ヴェスタ。
覚えようとはしたが、まだこの世界の地図すら知らない。
名前だけが、頼りなく頭の中に浮かんでいた。
「大きいんだな」
「東部ではな」
フィーナはそれだけ言って、再び歩き出した。
城壁へ続く街道には、人の流れがあった。
野菜を積んだ荷車を押す男。
籠を背負った老婆。
武器を腰に下げた旅人。
皆、それぞれの目的地へ向かっている。
行き交う誰も、俺がこの世界の人間ではないことを知らない。
城壁の北門を抜けると、広い通りへ出た。
石造りの建物。
二階から張り出した木の窓。
軒先から下がる色鮮やかな布。
道端には、いくつもの露店が並んでいた。
人が多い。
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、別の誰かが値段を交渉している。
裸足の子どもたちが、荷車の間を縫って駆けていった。
森の静けさが、嘘のようだった。
病棟では、音はいつも抑えられていた。
足音。
話し声。
扉を閉める音。
眠る患者を起こさないように、誰もが無意識に音を殺していた。
ここでは違う。
商人の呼び声。
子どもの笑い声。
車輪が石畳を叩く音。
ここでは、音が生きていた。
「ちゃんとついてこい」
フィーナが、振り返らずに言った。
「ついてってる」
ついてはいる。
ただ、目が追いついていない。
視線を動かすたびに、知らないものが現れる。
足を止めかけ、そのたびに少し先を歩く銀灰色の髪を追った。
通りを西へ進むにつれ、建物の様子が変わっていった。
白く整えられた石壁は減り、蔦の這った古い家が増えていく。
道幅も狭くなった。
窓と窓の間に洗濯物が渡され、その下を人が行き交っている。
「ここもヴェスタなのか」
「行政上はな」
フィーナは前を向いたまま答えた。
「昔はラグナという別の街だった」
「今は違うのか」
「ヴェスタが大きくなって、飲み込まれた」
古い街が、大きくなった都市に吸収された。
それでも、住んでいる人間は今もラグナと呼ぶらしい。
街の形が変わっても、名前は残った。
なぜか、そのことが少しだけ頭に残った。
ラグナ中央市場は、北門近くの通りよりもさらに騒がしかった。
干した肉。
束ねた薬草。
色の濃い果実。
湯気を上げる大鍋。
焼いた肉と香辛料の匂いが、空腹を思い出させる。
「何か食べないか」
「金は?」
「ない」
「では食べられない」
反論できなかった。
フィーナは一度も歩調を緩めない。
俺は腹の辺りを押さえながら、その背中についていった。
市場の中央に差しかかった時だった。
足が止まった。
広場の一角に、大きな石造りの建物が立っている。
周囲の店よりも古く、窓が少ない。
人の出入りはある。
それなのに、入口の前には声がなかった。
老人。
若い男。
赤ん坊を抱いた女。
服装も年齢もばらばらな人々が、黙って列を作っている。
市場の喧騒から、そこだけが切り離されていた。
入口の壁には、神殿のものらしい紋章が刻まれていた。
その下には、俺にも読める文字がある。
記憶取引所。
「銀行みたいなものか」
「違う」
「じゃあ、何だ」
フィーナが足を止めた。
看板を見上げる。
その横顔には、驚きも嫌悪もなかった。
「記憶を売る場所」
「……は?」
聞こえた言葉と、その意味が結びつかなかった。
「記憶を?」
「そうだ」
「どうやって売るんだ」
「術式で切り離して、瓶に封じる」
昨夜の焚き火を思い出した。
魔法は、記憶を燃やして使う。
そう聞いた。
だが、それは魔法を使う者が、自分の中にあるものを代償として失う話だと思っていた。
記憶そのものが、商品になるとは考えていなかった。
「誰が買う」
「魔法士や神殿だ。主に術式の燃料として使われる」
「どんな記憶でも売れるのか」
「価値があれば」
「価値?」
入口の脇には、小さな札が何枚も貼られていた。
幼少期の鮮明な記憶。
職人の技術に関する記憶。
愛する者と過ごした記憶。
その横には、それぞれ金額が記されている。
思わず、一枚へ目が止まった。
――家族との幸福な記憶。銀貨五枚より。
「冗談だろ」
「誰も笑っていない」
列に並ぶ者たちの顔を見た。
確かに、笑っている者はいなかった。
その時、取引所の扉が開いた。
一組の親子が出てくる。
母親はまだ若い。
俺より、いくつか年下に見えた。
外套は色褪せ、袖口は何度も縫い直されている。
痩せた片手には、小さな革袋。
中で硬貨が触れ合い、乾いた音を立てていた。
もう一方の手を、六つか七つほどの少女が握っている。
少女は母親を見上げ、明るく笑った。
「お母さん」
母親は答えなかった。
「帰ろう。今日はお肉、買えるんでしょう?」
母親の足が止まった。
少女も立ち止まる。
「お母さん?」
母親は、少女の顔を見ていた。
髪。
目。
頬。
見ている、というより。
そこにいる誰かを、記憶の中から探しているようだった。
「どうしたの?」
母親の指から、少女の手が離れた。
「ごめんなさい」
母親は言った。
声が震えていた。
「あなた――」
少女の笑顔が止まる。
「誰?」
喉の奥が塞がった。
少女も動かなかった。
泣きもしない。
言葉の意味を理解できずにいるように、母親を見上げている。
周囲の人間は足を止めなかった。
露店の男は客へ品物を渡した。
荷車が親子の横を通り過ぎた。
列に並ぶ者たちも、顔を上げない。
誰も驚いていなかった。
見慣れている。
この街では。
これが、珍しい出来事ではない。
少女が、母親の袖を掴んだ。
「私だよ」
母親は困ったように眉を寄せた。
少女の指を外そうとした手が、途中で止まる。
なぜ止めたのか。
母親自身にも、分かっていないようだった。
けれど、少女の名前は出てこない。
やがて母親は視線を落とし、小さな革袋を胸元へ抱き寄せた。
硬貨が、もう一度音を立てた。
フィーナが歩き出す。
俺は動けなかった。
「何だよ、それ」
自分の声が、思ったより低かった。
フィーナが振り返る。
「見た通りだ」
「家族を忘れたのか」
「売った記憶の中心に、あの子がいたんだろう」
フィーナは、母親へ視線を向けた。
「記憶は、一つずつ綺麗に切り離せるものじゃない」
「どういうことだ」
「記憶は繋がっている」
「一つを切り離せば、その周りにある記憶まで崩れることがある」
フィーナの視線が、少女へ移る。
「娘と過ごした一日を売ったつもりでも、その日の顔や声だけが消えるとは限らない」
「名前や、別の日の出来事や――」
「娘を大切に思っていた理由まで、連なって失われることがある」
母親は少女を見つめていた。
見知らぬ子どもを見るように。
「あの母親は、娘の名前だけじゃない」
「目の前にいる子どもが、自分の娘だという認識まで崩れたのかもしれない」
胸の奥に、熱いものが上がった。
「こんなこと、認められてるのか」
「他に何を売れば、今日を生きられたと思う」
「だからって」
言葉が続かなかった。
母親の色褪せた外套が目に残っている。
痩せた腕。
小さな革袋。
今日、肉を買えると喜んでいた少女。
「記憶は金になる」
フィーナは静かに言った。
「食べ物になる。薬になる。家賃になる。冬を越す薪にもなる」
「娘を忘れてまで、生きるのか」
「忘れたくて売ったと思うか」
何も返せなかった。
フィーナは親子へ視線を向ける。
少女が、母親の前で必死に何かを話していた。
自分の名前かもしれない。
二人で過ごした日のことかもしれない。
母親は黙って聞いている。
だが、その顔には何も浮かばなかった。
知らない子どもの話を聞いている顔だった。
「生きるために売った」
フィーナが言う。
「死ねば、記憶も何も残らない」
でも、生きていても。
娘を覚えていない。
それでも、この人は生きていかなければならないのか。
口にしかけて、飲み込んだ。
病院にも、選ばされる人はいた。
治療費のために、家を手放す人。
家族を守るために、自分の治療を諦める人。
選びたいから、選ぶのではない。
何を失うかだけを、選ばされている。
フィーナの言うことは、分かっている。
正しさだけでは、どうにもならない場面を、俺も何度も見てきた。
それでも。
生きるために、自分が誰を大切にしていたのか、その一部を切り売りする。
そんな世界を、俺は知らなかった。
「間違ってる」
ようやく、それだけ言った。
フィーナは否定しなかった。
「そうかもしれない」
意外な答えだった。
「なら、どうして」
「正しいことだけでは生きられない」
市場の喧騒が戻ってきた。
誰かが値段を叫んでいる。
子どもが笑っている。
焼けた肉の匂いが漂ってくる。
世界は、何も変わらず動いていた。
親子だけを、その場に残して。
俺たちは市場を離れ、細い路地へ入った。
しばらく歩いたところで、フィーナが足を止める。
「見て、どう思った」
「腹が立った」
声にしても、それだけでは足りなかった。
「でも、何もできない」
「その感覚は持っておけ」
「どういう意味だ」
フィーナは、市場の方を振り返らなかった。
「ここは、そういう場所だ」
少しだけ間を置く。
「慣れるな」
胸の奥に、細いものが刺さった。
慣れるな。
俺は、慣れてしまった人間だった。
三百人以上を看取り、記録を書き、頭を下げ、次の部屋へ向かった。
田中さんが死んだ朝も、涙は出なかった。
慣れたのではない。
慣れたふりが上手くなっただけだ。
立ち止まらずに済む方法を覚えただけだった。
そうしなければ、仕事を続けられなかった。
ずっと、そう思っていた。
けれど今。
フィーナの言葉が、その言い訳の奥まで入り込んできた。
慣れるな。
その言葉が、もう一度胸の中で響いた。
俺たちは、ラグナの路地を歩き出した。
角を曲がると、記憶取引所の看板は見えなくなった。
それでも。
握り返されなかった少女の手だけが、
いつまでも目の奥に残っていた。
Scene 9 名前の残らない人々
少女の手は、まだ目の奥に残っていた。
ラグナ中央市場の喧騒は、細い路地をいくつか曲がるうちに遠ざかっていった。
代わりに、乾いた車輪の音が聞こえてくる。
前方に、一台の荷車が止まっていた。
藁を敷いた荷台の上で、男が横たわっている。
額には汚れた布が巻かれ、その隙間から黒ずんだ血が滲んでいた。
二人の神官が男の身体を抱え、古い建物の中へ運び込んでいく。
白い石壁。
ところどころ表面が欠け、蔦が這っている。
古い木の扉の上には、記憶取引所でも見た神殿の紋章が掲げられていた。
「神殿なのか」
俺が尋ねると、フィーナは扉へ手を掛けた。
「神殿の施療所だ」
「記憶を買ってる神殿が、失った人間の世話もするのか」
フィーナの手が止まる。
振り返った横顔に、怒った様子はなかった。
「矛盾していると思うか」
「少なくとも、分かりやすくはない」
「世界は、分かりやすくできていない」
扉が開いた。
温かく湿った空気が、顔に触れる。
薬草。
汗。
血。
古い布。
それらに混じって、鼻の奥を刺す刺激臭があった。
消毒液とは違う。
病院の処置室とは、何もかも違っている。
それでも。
そこに満ちる呼吸の気配だけは、同じだった。
中は、外から想像したよりも広かった。
壁に沿って木製の寝台が並び、中央には長椅子が置かれている。
奥では、大きな鍋から白い湯気が上がっていた。
包帯を巻いた男。
咳き込む老婆。
腕を押さえて座る子ども。
家族らしい者が寄り添っている寝台もあれば、誰もいない寝台もある。
その間を、白い衣を着た神官たちが忙しく行き交っていた。
誰も、俺たちを気に留めなかった。
いや。
一人だけ、入口近くにいた若い神官が顔を上げた。
「フィーナさん」
「空いている寝台はあるか」
「二つだけです。さっき街道で荷車が横転して、負傷者が運ばれてきました」
若い神官は早口で答えた。
目の下に、薄い隈がある。
「奥の人たちは」
「変わりません」
若い神官が視線を向けた先には、他の患者とは少し離れた一角があった。
そこだけ、寝台の横に小さな机が置かれている。
机の上には、何冊もの帳面。
怪我人とは、空気が違った。
痛みに耐えているのではない。
何かを探している。
自分の中にあるはずのものを、見つけられずにいる。
「記憶を失った人たちか」
「ああ」
フィーナは短く答えた。
最初に目が止まったのは、窓際の長椅子に座る中年の女性だった。
膝の上へ、一枚の紙を広げている。
色の薄い紙には、家らしきものと、三人の人間が描かれていた。
子どもの絵だ。
大きさの揃わない丸い顔。
三人とも、口元が大きく曲がっている。
笑っているらしい。
若い神官が、女性の前へしゃがんだ。
「息子さんが描いたんですね」
「はい」
女性は絵を見つめたまま答えた。
「五歳の時に、初めて描いてくれたそうです」
「嬉しかったでしょう」
女性は少し考えた。
思い出そうとしているのか。
それとも、答えを選んでいるのか。
「帳面には、そう書いてあります」
指先が、紙の端をゆっくり撫でる。
「でも、今はよく分かりません」
「嬉しかったことは分かるのに?」
「出来事は分かります」
女性の指が、絵の中に描かれた小さな顔へ触れた。
「息子が描いたことも、誕生日にくれたことも書いてあります」
「でも――」
指が止まる。
「嬉しかったはずなのに、その嬉しさが、もう分からないんです」
声は穏やかだった。
悲しんでいるようには聞こえない。
だからこそ、その言葉が重く残った。
息子が描いた絵だと知っている。
嬉しかったことも、記録には残っている。
それでも。
絵を受け取った時に胸の中へ生まれたものだけが、失われている。
少し離れた場所では、一人の老人が帳面を開いていた。
震える手で、同じ頁を何度も撫でている。
「今日は何日だったかな」
近くを通りかかった若い神官が足を止めた。
「白月の十二日です」
「そうか」
老人は頷き、帳面へ何かを書き込む。
すでに同じ文字が、何行も並んでいた。
神官が歩き出そうとする。
「今日は何日だったかな」
老人が、もう一度尋ねた。
若い神官は振り返る。
苛立った様子はない。
声の調子も変わらない。
「白月の十二日です」
「そうか」
老人は安心したように頷き、同じ日付をもう一度書いた。
訓練されているのか。
慣れたのか。
それとも、そうすることが当たり前になっているのか。
俺には判断できなかった。
その隣の寝台には、若い男が座っていた。
二十代半ばくらいだろうか。
身体に目立った傷はない。
男の正面には、白髪の女性がいる。
寝台の間には、一冊の帳面が置かれていた。
男は帳面を開き、指で文章をなぞっている。
「母の名は、リナ」
声に出して読む。
「母は毎朝、俺の髪を整えてくれた」
「俺は、母を大切に思っている」
男はそこで言葉を止めた。
顔を上げる。
目の前の女性を見る。
視線が、女性の目から鼻へ。
鼻から、口元へと動く。
覚えようとしている。
初めて会った人間の顔を、頭へ刻み込むように。
「俺は、あなたを大切にしていたそうです」
白髪の女性の口元が、僅かに震えた。
「そうだよ」
「すみません」
「謝らなくていい」
女性が男の手を取る。
「今は、ここにいてくれればいい」
男は、その手を振り払わなかった。
けれど。
握り返すこともなかった。
女性の親指が、男の手の甲をゆっくり撫でる。
何度も。
かつて、子どもを寝かしつけた時と同じように。
それが男の中に残っているのかは、分からない。
身体が覚えているのか。
何も感じていないのか。
俺には判断できなかった。
病院にも、家族の顔が分からなくなった患者はいた。
認知症。
脳腫瘍。
意識障害。
長く連れ添った妻を、看護師だと思う人。
自分の息子へ、どちら様ですかと尋ねる人。
家族は、そのたびに傷ついていた。
病気のせいだと分かっている。
本人が望んで忘れたわけではないことも分かっている。
それでも。
名前を呼ばれない痛みまでは、消えない。
ここでも、同じだった。
違うのは。
この人たちの記憶が、魔法や金へ変えられたということだけ。
施療所の奥から、寝台が軋む音がした。
若い神官が、一人の患者を起こそうとしている。
痩せた中年の男だった。
目は開いているが、周囲を見てはいない。
神官が男の両脇へ腕を入れ、力任せに引き起こそうとする。
男の首が後ろへ落ちた。
背中がねじれ、肩が寝台の縁に引っ掛かる。
考えるより先に、足が動いていた。
「待ってください」
若い神官が驚いて俺を見る。
「何ですか」
「そのまま起こすと、身体を痛めます」
俺は寝台の反対側へ回った。
「肩と腰を支えてください。俺が頭を持ちます」
「ですが」
「先に身体を横へ向けます」
神官の返事を待たず、男の後頭部へ手を入れた。
皮膚が熱い。
髪は汗で湿っている。
「聞こえますか」
反応はない。
「身体を起こします」
患者が理解しているかは分からない。
それでも、何も言わずに触れることはできなかった。
肩と腰を支え、身体をゆっくり横へ向ける。
そこから二人で上半身を起こした。
男の身体が大きく傾く。
俺は背中へ腕を回した。
「ゆっくりでいいです」
呼吸が浅い。
口元が乾いている。
左の頬には、寝具の皺が赤く残っていた。
「水は飲めていますか」
「朝に少しだけ」
「一度に飲ませないでください。まずは、口を湿らせるくらいから」
寝たまま飲ませれば、うまく飲み込めず、気管へ入るかもしれない。
この世界に、誤嚥という言葉があるのかは分からなかった。
「まずは身体を起こして、飲み込める状態か確かめます」
言い直すと、若い神官は頷いた。
背後から、低い声がした。
「お前、治療師か」
振り返る。
灰色の髪を短く切った、年老いた神官が立っていた。
袖を肘まで捲り、両腕には薬草の染みがついている。
穏やかな顔ではない。
かといって、敵意もなかった。
俺の手元を見ている。
「看護師です」
「カンゴシ?」
「病人や怪我人の世話をする仕事です」
「治療師とは違うのか」
「多分」
「治せるのか」
問いは、真っすぐだった。
「分かりません」
老神官の眉間に皺が寄る。
「なら、何をする」
俺は男の身体を支えたまま答えた。
「水を飲ませます」
「身体を起こします」
「同じ場所に傷ができないように、姿勢を変えます」
「少しでも楽に息ができる方法を探します」
男の腰へ目を向ける。
寝具に触れていた部分が赤くなっていた。
このまま同じ姿勢が続けば、傷になる。
「治せなくても、できることはあります」
老神官は何も言わなかった。
俺の顔ではなく、患者を支えている手を見ていた。
しばらくして、傍らの机から水差しを取る。
それを、俺へ差し出した。
「なら、やってみろ」
水へ浸した布で、男の唇を湿らせる。
一度。
もう一度。
三度目。
僅かに、唇が動いた。
「飲んでいるんですか」
若い神官が横から覗き込む。
「少しだけ」
「水を欲しいと、言ったことはありません」
「言えないだけかもしれません」
病棟でも、同じだった。
痛いと言えない。
苦しいと言えない。
喉が渇いたと言えない。
言葉がないからといって、何も感じていないわけではない。
けれど。
目の前の男が、何を感じているのか。
そこまでは分からなかった。
勝手に決めつけることもできない。
ただ、乾いた唇は水を必要としていた。
それだけは確かだった。
男を寝台へ戻した後、俺は身体を横向きに整えた。
背中と膝の間へ、丸めた布を挟む。
若い神官が、腰の赤くなった部分を見つめていた。
「知らなかっただけです」
責めるつもりはなかった。
神官の数は少ない。
誰も休んでいない。
それでも、手が足りていなかった。
若い神官は布の位置を確かめ、静かに頷いた。
寝台の横には、患者ごとに帳面が置かれている。
普通の日記とは違う。
表紙には名前。
中には、家族の名前。
好きだったもの。
失いたくない約束。
自分が何者だったのか。
「これは?」
「記憶帳です」
若い神官が答えた。
「本人や家族が書きます。忘れたことを、後から確認するために」
フィーナが隣へ立った。
「自分が何者かを書くものは、錨帳と呼ぶ」
「錨」
「流されないように、繋ぎ止めるものだ」
改めて、先ほどの若い男が持つ帳面を見る。
擦り切れた革。
何度も開かれた跡。
「読めば、思い出せるのか」
「思い出せない」
フィーナの答えは早かった。
「知ることはできる。だが、知っていることと、覚えていることは違う」
若い男は、もう一度帳面を開いていた。
母の名は、リナ。
母は毎朝、髪を整えてくれた。
俺は、母を大切に思っている。
覚えていないから、読む。
読んでも、思い出せない。
それでも。
男は、また同じ頁を開いていた。
窓から差し込む光が、少しずつ赤くなっていった。
怪我人の処置が落ち着いた後も、俺は施療所に残った。
水桶を運ぶ。
寝具を整える。
食事を取れていない患者へ、温かい汁を少しずつ飲ませる。
元の世界なら、当たり前に使えた道具が何もない。
体温計。
血圧計。
聴診器。
酸素。
薬。
できることは少なかった。
それでも。
何もないわけではない。
「ずいぶん働くんだな」
フィーナの声がした。
壁際に寄り掛かり、腕を組んでいる。
「見てないで手伝え」
「私は怪我をしていない」
「患者の話だ」
「神官がいる」
「足りてないだろ」
フィーナは周囲を見た。
反論はしなかった。
けれど、手伝おうともしない。
代わりに、俺の持っていた空の水桶を取り上げた。
「水場は裏だ」
そのまま扉へ向かう。
「手伝わないんじゃなかったのか」
「道を教えるだけだ」
水桶を持ったまま言っても、説得力はなかった。
俺はもう一つの桶を手に取り、後を追った。
裏庭の井戸で水を汲み、施療所へ戻る。
フィーナは水桶を床へ置いた。
中の水は、ほとんど揺れていない。
「治癒魔法では戻らない」
突然、フィーナが言った。
「分かってる」
「身体の傷なら、塞げるものもある」
「記憶は戻らない」
「それも分かってる」
「それでもやるのか」
水桶の縁から、一滴の水が床へ落ちた。
「何もしない理由にはならない」
答えてから、自分の言葉に引っ掛かった。
何もしない理由にはならない。
なぜ。
ここで水を運ぶことに、何の意味がある。
身体を起こす。
口を湿らせる。
同じ問いに、何度でも答える。
それで記憶が戻るわけではない。
息子が母親を思い出すわけでもない。
失った愛情が、元の形に戻るわけでもない。
病院にいた頃も、同じだった。
治せない。
戻せない。
終わりを止められない。
田中さんの命も。
三百人以上の患者の命も。
俺には止められなかった。
それでも。
目の前で身体がずり落ちていれば支えた。
喉が乾いていれば水を渡した。
苦しそうなら、少しでも楽な姿勢を探した。
意味があるからではない。
正しい答えを知っているからでもない。
放っておけなかった。
今は。
それだけだった。
施療所を出る頃には、外は薄暗くなっていた。
若い神官が、入口近くの灯りへ火を入れている。
老神官は、怪我人の包帯を替えていた。
俺は扉へ手を掛けた。
背後から、老人の声が聞こえる。
「今日は何日だったかな」
若い神官が振り返る。
「白月の十二日です」
「そうか」
老人は安心したように頷き、帳面へ日付を書く。
俺が扉を開ける前に、また声がした。
「今日は何日だったかな」
若い神官は手を止めた。
老人のそばへ歩いていく。
「白月の十二日です」
最初に聞かれた時と、同じ声だった。
老人は安心したように頷き、また帳面を開いた。
忘れたことを責めない。
何度でも、同じことを答える。
それが何になるのか。
俺には、まだ分からなかった。
扉を出ると、夕暮れのラグナに長い影が伸びていた。
施療所の外には、荷車の音と、人々の声が戻っている。
それでも。
老人の問いと、神官の答えは、
しばらく耳から離れなかった。
Scene 10 大丈夫です
昨夜、何度も同じ夢を見た。
同じ声で、同じ日付を答え続ける神官の夢。
目が覚めても、その声だけは耳の奥に残っていた。
通りには朝の光が差している。
夜の間に冷えた石畳を、少しずつ温めていた。
窓を開ける音。
店先へ木箱を並べる音。
遠くで、朝を告げる鐘が鳴る。
ラグナは、昨日の出来事など知らないように動き始めていた。
「遅い」
少し先を歩いていたフィーナが振り返った。
「普通に歩いてる」
「私より後ろにいる」
「お前が速いんだよ」
「ついてこい」
「ついてってる」
そう言いながら、少しだけ歩幅を早める。
昨日より、遅れたくなかった。
俺とフィーナは、ガルムという時計職人の工房へ向かっていた。
懐中時計を直せる男がいる、とフィーナが言った。
なぜ時計を直す必要があるのかは、まだ聞いていない。
聞いたところで、フィーナはどうせ「会えば分かる」と言っただろう。
市場へ続く通りには、すでに人が増え始めていた。
籠を抱えた女。
荷車を押す男。
眠そうな顔で水桶を運ぶ子ども。
焼き窯の前では、白い湯気をまとったパンが籠へ移されている。
その匂いに、腹が鳴った。
「聞こえたぞ」
「何が」
「腹の音」
「聞かなかったことにしろ」
フィーナは何も言わず、ただ先を歩いた。
その時だった。
前方から、元気な足音が近づいてきた。
誰かが人混みを縫うように走ってくる。
小柄な少年だった。
栗色の髪。
そばかす。
大きな瞳。
肩に伝令用の鞄。
両腕に、パンを詰めた大きな籠。
籠が大きすぎて、前がほとんど見えていない。
「避けろ」
フィーナが言った。
「俺が?」
「お前も、あいつもだ」
少年は道端の木箱に気づかなかった。
爪先が引っかかる。
身体が大きく傾く。
パン籠が宙へ浮いた。
少年も転んだ。
パンが石畳を転がっていく。
見事な転倒だった。
「大丈夫か!」
「大丈夫です!」
少年は即座に立ち上がろうとした。
右膝から、血が滲んでいる。
立ち上がった瞬間、顔がわずかに引きつった。
「絶対痛かっただろ」
「平気です!」
「膝、擦りむいてるぞ」
「本当です!」
「それは大丈夫じゃない」
俺は少年を道端へ座らせた。
施療所でもらった布と、水筒の水を使う。
傷口の砂を、静かに洗い流す。
少年が肩を揺らした。
「痛いなら痛いって言え」
「大丈夫です」
「それは答えになってない」
「これくらい慣れてます!」
「危ない慣れ方だな」
フィーナが、小さく息を漏らした。
笑ったようにも聞こえた。
顔を上げると、フィーナはもう澄ました顔をしていた。
「今、笑っただろ」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせいだ」
少年が目を輝かせた。
「フィーナさん、笑うんですか?」
「笑う」
「見たことないです」
「黙れ」
少年が明るく笑った。
フィーナの口元も、ほんの少し動いた。
綺麗な笑顔ではない。
ぎこちない。
すぐに消える。
それでも、この世界へ来て初めて、少しだけ安心した気がした。
「あっ」
少年が声を上げた。
「まだ名乗ってませんでした!」
「レンです!」
「よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げる。
その拍子に、残っていたパンが籠から落ちた。
「また落ちたぞ」
「あっ!」
「落ち着け」
「大丈夫です!」
「パンが大丈夫じゃない」
三人でパンを拾った。
汚れていないものだけを、籠へ戻す。
レンは、その間ずっと俺を見ていた。
何かを確かめるような目だった。
「昨日、少し聞きました」
「あなたが、森で拾われた人ですか?」
「拾われたわけじゃない」
「拾った」
フィーナが即答する。
「拾われてた」
レンが、目を輝かせた。
「名前は?」
「柳井蒼」
「ソウルだ」
「まだその件は納得してない」
「ソウルさんですね!」
「もう広まった」
フィーナが、当然のように言う。
「広まってない」
「僕は覚えました!」
「それは広まったとは言わない」
レンは、不思議そうに首を傾げただけだった。
通りの先から、大柄な男が歩いてきた。
白髪。
古びた外套。
重い足取り。
外見は五十代ほどに見える。
しかし、目だけが年齢と合っていなかった。
もっと長く、何かを見てきた目だった。
「おじいちゃん!」
レンが立ち上がる。
「違う」
「え?」
「おじいちゃんではない」
「でも、おじいちゃんですよね?」
「違う」
「難しいです」
俺は思わず吹き出した。
フィーナは慣れているのか、ため息だけをついた。
大柄な男は、レンの膝へ目を向けた。
「また転んだのか」
「大丈夫です!」
「聞いていない」
「ソウルさんが手当てしてくれました」
「そうか」
フィーナが短く言った。
「ガルムだ」
男は俺を見た。
「ガルム・ヴァイツだ」
頭から足元まで、短く観察する視線だった。
特に、胸元で止まった。
まるで、そこに何があるか確かめるような目だった。
「お前が転生者か」
「そうらしいです」
「魔力は」
「ゼロです」
「ほう」
ガルムの表情は、ほとんど変わらなかった。
それでも、目だけがわずかに鋭くなった気がした。
「珍しいんですか」
「珍しいで済めばいいがな」
ガルムはそれ以上説明しなかった。
フィーナも何も言わない。
短い沈黙だけが残った。
その沈黙を破るように、レンが籠を持ち直した。
中には、形の揃っていないパンがいくつか混じっている。
俺は、その不格好なパンを指した。
「それも売り物か」
「こっちは僕が焼きました!」
「ずいぶん個性的だな」
「丸くしようとはしたんです」
「石に見える」
ガルムが言った。
「パンです!」
「硬そうだな」
「まだ練習中です」
レンは、籠の中のパンを見つめた。
「いつか、自分のお店を持ちたいんです」
「パン屋か」
「はい!」
「毎朝、焼きたてのパンを売ります」
「子どもでも買える値段にして」
「お腹が空いている人には、少しおまけします」
「それで店はやっていけるのか」
「そこは、これから考えます!」
「大事なところを後回しにしたな」
「大丈夫です!」
「その大丈夫も信用できない」
レンは、少しだけ頬を膨らませた。
「じゃあ、大丈夫じゃないです」
「素直か」
「まだ一度も、上手く焼けてないですけど!」
「店を出すのは百年後だな」
ガルムが言う。
「そんなに待てません!」
「なら練習しろ」
「します!」
レンが笑う。
ガルムは呆れた顔をしていた。
それでも、転がったパンを一つ拾い、汚れを払って籠へ戻した。
その手つきは静かで、慣れていた。
レンもフィーナも、それを特別なこととは思っていないようだった。
俺だけが、二人の間にある、家族のような空気を感じていた。
親子ではない。
祖父と孫でもないらしい。
それでも、家族という言葉に近い何かが、そこにはあった。
「ソウルさん」
「何だ」
「さっきの手当て、ありがとうございました!」
「大したことはしてない」
「でも、優しいですね!」
「そうか?」
「はい!」
「すごく!」
返事が、一瞬止まった。
病室の白い天井。
田中さんの手。
かすれた声。
――君は優しいな。
同じことを言われた。
あの時も、信じられなかった。
今も、信じられない。
「傷を洗っただけだ」
ようやく、それだけ返した。
「それが優しいんです」
「普通だろ」
「普通でも、してくれたら嬉しいです!」
十四歳の少年にしては、まっすぐな言葉だった。
まっすぐすぎて、少し困った。
ふと、思う。
俺はあの時、田中さんの顔をちゃんと見ていただろうか。
「あっ!」
レンが声を上げた。
「急がないと!」
「走るな」
「大丈夫です!」
「だから、その言葉を信用できないんだよ」
「では、少しだけ急ぎます!」
「言い換えただけだ」
レンが走り出しかける。
ガルムが、その襟首を掴んだ。
「歩け」
「でも」
「パンを全部落としたいのか」
「歩きます」
レンは素直に速度を落とした。
ガルムが籠の片側を持つ。
レンは何も言わなかった。
それがいつものことなのだろう。
数歩進んだところで、レンが振り返る。
「ソウルさん!」
「また会いましょう!」
「ああ」
「次は、もっと上手なパンを持ってきます!」
「期待するな」
ガルムが前を向いたまま言った。
「ひどいです!」
レンの声が、朝のラグナへ遠ざかっていく。
焼きたてのパンの匂い。
石畳を叩く小さな足音。
ガルムの低い声。
昨日まで、この世界は知らないものばかりだった。
記憶を売る街。
名前の残らない人々。
何度も同じ問いに答える神官。
そして、痛くても大丈夫だと笑う少年。
分からないことは、まだ多い。
多すぎる。
それでも俺は、次に会う時くらいは、あの歪んだパンを一つ食べてもいいと思った。
Scene 11 忘れてしまった顔
夕方のラグナは、朝とは別の街に見えた。
市場の声は遠くなり、店じまいを始めた屋台が、木箱を一つずつ片づけている。
焼きたてのパンの匂いは薄れ、代わりに、湿った土と草の匂いが風に混じっていた。
俺とフィーナは、ラグナ街区の外れまで歩いていた。
古い城壁を抜けると、低い丘がある。
丘の上からは、ラグナの屋根が見渡せた。
灰色の瓦。
細い煙突。
中央市場を行き交う小さな人影。
さらに遠くには、ヴェスタ中央部の白い尖塔が見える。
夕日が、街全体を赤く染めていた。
フィーナは何も言わず、草の上へ腰を下ろした。
俺も、少し離れた場所に座る。
近すぎず。
遠すぎず。
そういう距離だった。
施療所で見た光景が、まだ頭に残っていた。
母親を見ても、母親だと感じられない男。
何度も同じ日付を尋ねる老人。
嬉しかった記憶から、嬉しさだけを失った女。
あの場所にあった静けさは、今も耳の奥に残っている。
風が丘を渡った。
草が低く揺れる。
しばらく、どちらも話さなかった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
「疲れたか」
俺が聞いた。
「少し」
「珍しいな」
「人間だ」
「知ってる」
フィーナは遠くの街を見たまま答えた。
横顔はいつもと変わらない。
ただ、右手の指が左手の甲を何度も撫でていた。
落ち着かない時の癖なのかもしれない。
「施療所にいた人たち」
「何だ」
「魔法を使った人と、記憶を売った人だけじゃないんだな」
「売った者もいる」
「使った者もいる」
「奪われた者もいる」
その一言だけ、他より重く響いた。
「奪われた?」
「本人の意思とは関係なく、切り離された記憶もある」
「そんなことができるのか」
「できる」
「だから、神殿が管理している」
管理している。
守るためなのか。
独占するためなのか。
今の俺には、まだ判断できなかった。
赤い光の中で、フィーナの銀灰色の髪が揺れた。
左目の下の三日月形の傷が、夕日に淡く浮かんでいる。
「フィーナも」
「何だ」
「あの人たちと同じなのか」
フィーナの指が止まった。
すぐには答えない。
風だけが、草の上を通り過ぎていく。
「同じだ」
「どこまで」
「それを聞いて、どうする」
「分からない」
少し間を置いて、俺は続けた。
「ただ、知っておきたい」
フィーナがこちらを見た。
責めるような目ではなかった。
答えるかどうかを、測っているように見えた。
長い沈黙のあと、フィーナは街へ視線を戻した。
「母の顔を思い出せない」
言葉は唐突だった。
俺は返事をしなかった。
何かを言えば、その言葉が軽くなる気がした。
「母がいたことは覚えている」
フィーナは、膝の上に置いた手を見た。
「名前も、帳面に書いてある」
「名前は」
「リシア」
フィーナは少し間を置いた。
「リシア・アルセン」
「そう書いてある」
そう書いてある。
その言い方が、胸に引っかかった。
懐かしい名前を呼んだ声ではなかった。
知らない名前を、確認するような声だった。
「顔だけが分からないのか」
「顔」
「声」
「笑い方」
「歩く時の癖」
「手が温かかったかどうか」
フィーナは、自分の手を見た。
「そういうものが、少しずつ消えた」
フィーナは鞄から、小さな革表紙の帳面を取り出した。
角が擦れている。
何度も開かれた跡があった。
表紙の内側には、細い字でいくつもの言葉が書かれている。
母の名は、リシア・アルセン。
薄い金色の髪。
よく歌を口ずさんでいた。
怒る時は、右の眉だけが上がった。
冬になると、林檎を煮てくれた。
私は母を愛していた。
フィーナは最後の一文を指でなぞった。
「ここには、愛していたと書いてある」
「自分で書いたのか」
「ああ」
「忘れる前の私が」
「読んでも、思い出せない?」
「事実は分かる」
「この人が母だった」
「私はこの人を愛していた」
「そこまでは分かる」
「でも」
フィーナは帳面を閉じた。
「母と過ごしていた感じがしない」
俺は、閉じられた帳面を見た。
革の表紙。
擦れた角。
何度も開かれた跡。
そこには確かに、誰かを忘れまいとした跡がある。
けれど、それは記憶そのものではなかった。
「知らない女のことを、昔の私が大切だったと書き残しているだけだ」
その声は、乾いていた。
泣いていない。
震えてもいない。
だからこそ、余計に痛かった。
田中義雄。
七十八歳。
末期癌。
午前五時十二分、死亡確認。
家族二名、立ち会い。
一人の人生が、数行の記録になった。
そこには、手の温度は残らない。
声も。
最後に見た天井も。
家族が間に合った時の表情も。
記録は、事実を残す。
でも。
生きた時間そのものを、残せるわけではない。
「この世界の記録なら、なくしたものも少しは戻ると思ってた」
俺は言った。
「戻らない」
フィーナは短く答えた。
「知るだけだ」
「覚えていることと、知っていることは違う」
同じような言葉を、施療所でも聞いた。
あの時は、患者のそばにいた神官の言葉だった。
今は違う。
フィーナ自身の言葉だった。
夕日が少しずつ沈んでいく。
街の影が長く伸びる。
「怖いんだ」
フィーナが言った。
「何が」
「忘れることじゃない」
フィーナは、帳面の端を握った。
「忘れた後の私が」
俺は黙った。
「今は、母の顔が分からない」
「いつか、母を愛していたことも、どうでもよくなるかもしれない」
「大切だった人を見ても、何も感じない私になるかもしれない」
「それが怖い」
フィーナは表情を変えなかった。
泣くこともなく、声も震えていない。
ただ、帳面の端を握る指だけが白くなっていた。
「忘れてしまう私が、怖い」
俺は言葉を探した。
大丈夫だ。
記憶は戻る。
愛は消えない。
どれも言えなかった。
保証できない言葉は、慰めではなくなる。
患者の家族にも、言えなかった言葉がいくつもある。
助かります。
間に合います。
痛くありません。
言いたくても、言えない言葉だった。
「俺には、分からない」
「何が」
「忘れた後も、同じ人間なのか」
「何が残るのか」
答えは出なかった。
「でも」
俺は、フィーナの白くなった指を見た。
「今、お前が怖がっていることは覚えておく」
フィーナが俺を見た。
「それに、何の意味がある」
「分からない」
それでも、言葉を途中で止めることはできなかった。
「俺が覚えていても、お前の記憶が戻るわけじゃない」
「それでも」
「忘れたことまで、なかったことにはしたくない」
フィーナは答えなかった。
俺も、これ以上は言わなかった。
誰かが覚えていれば大丈夫だ。
そんな簡単な話ではない。
フィーナが失ったものは、俺の記憶では埋められない。
母の顔も。
声も。
手の温度も。
それでも、今ここにいるフィーナが怖がっていることまで、消えていいとは思えなかった。
長い沈黙が落ちた。
夕日は、街の向こうへ半分沈んでいた。
屋根の色が赤から暗い紫へ変わっていく。
ふいに、フィーナの口元が小さく動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
けれど、表情は途中で止まった。
「今、笑おうとしたか」
「笑った」
「そうは見えなかった」
「では、お前の見る目が悪い」
「笑うの下手だな」
「初めて言われた」
「誰も言わなかっただけだろ」
「黙れ」
今度は、ほんの少しだけ口元が動いた。
笑顔と呼べるほどではない。
それでも、最初よりは自然だった。
フィーナは記憶帳を鞄へ戻した。
母親の顔は戻らない。
失われた声も戻らない。
それでも。
フィーナがその人を忘れたくないと思っていることだけは、今、ここに残っていた。
Scene 12 消えない顔
丘を下り始めた頃には、夕日はもう街の向こうへ沈んでいた。
西の空に残っていた赤も薄れ、紫から濃い青へと変わり始めている。
ラグナの屋根の間には、灯りが一つ、また一つとともっていた。
フィーナは、俺の少し前を歩いていた。
細い下り道の両側で、乾いた草が風に擦れている。
足元は暗くなり始めていたが、フィーナの歩みに迷いはなかった。
俺は、その背中を追った。
母親の顔を思い出せない。
声も。
笑い方も。
手が温かかったのかさえ、分からない。
それでも、自分は母を愛していたと、記憶帳には書いてある。
覚えていることと。
知っていることは違う。
丘の上で聞いたフィーナの言葉が、まだ胸の中に残っていた。
前を歩いていたフィーナが、突然足を止めた。
俺も止まる。
「どうした」
フィーナは振り返らなかった。
「一つだけ、変なことがある」
「今さらか」
「お前のことだ」
「俺?」
フィーナが、ゆっくり振り返った。
薄暗くなり始めた空の下で、その目が俺の顔へ向けられる。
話しかけるためというより。
そこにあるものを、確かめるための視線だった。
「人の顔は、思っているより早く消える」
「早く?」
「最初は、細かいところからだ」
フィーナの目が、わずかに細くなる。
「目の色。口元。髪の形」
「それから?」
「声と顔が、結びつかなくなる」
「声は覚えてるのに?」
「そういうこともある」
フィーナの右手が上がった。
指先が、左目の下にある三日月形の傷へ触れる。
傷の端を、無意識になぞっていた。
「名前を見れば、誰だったのかは分かる」
「記録に残っていれば、どこで会ったのかも、何をしたのかも知ることができる」
「でも、顔は浮かばない」
「ああ」
施療所にいた男のことを思い出した。
目の前に立つ母親を見ても、その人が母親だと感じられなかった男。
名前を聞けば、関係は理解できた。
けれど。
その目は、母親を見る目ではなかった。
「ガルムやレンの顔は?」
「今は、まだ分かる」
「今は」
フィーナの指が止まった。
「覚えているからといって、次も残るとは限らない」
「魔法を使えば、消えるかもしれない」
「ああ」
短い答えだった。
「昔の記憶ほど、残りやすいわけじゃないのか」
「古いか新しいかだけでは決まらない」
「じゃあ、何で決まる」
「分からない」
フィーナは傷から指を離した。
「ただ、大切な記憶ほど、強い感情と結びついている」
「だから、魔法に引かれることもある」
「大切だから残るとは限らないのか」
「ああ」
「大切だから、消えることもある」
愛していた記憶。
守りたかった記憶。
二度と失いたくないと願った記憶。
強く抱えていたものほど、
魔法に引き出されやすいことがある。
「母の顔は、もう思い出せない」
フィーナが言った。
「昔の仲間も、曖昧になっている」
「でも」
そこで言葉が途切れた。
「でも?」
フィーナが、俺を見た。
「お前の顔は、まだはっきり分かる」
フィーナの声に、冗談の気配はなかった。
俺は、その言葉の続きを待った。
「森で初めて見た時の顔も覚えている」
「土まみれだった時か」
「葉もついていた」
「そこまで覚えてなくていい」
「魔力がないと分かった時の顔も」
「それも忘れてくれ」
「さっき、施療所で患者を支えていた時の顔も」
フィーナは淡々と続けた。
「今は、まだ思い出せる」
「会ってから、大きな魔法を使ってないからだろ」
「ああ」
「なら、変なことじゃない」
「分かっている」
フィーナは否定しなかった。
それでも、俺の顔から視線を外さない。
「じゃあ、何が変なんだ」
フィーナは、すぐには答えなかった。
街へ目を向ける。
ラグナの灯りが、少しずつ増えていた。
家々の窓。
市場の外灯。
道の端に置かれた、小さな明かり。
「母の顔は、いつ消えたのか分からない」
フィーナが言った。
「昨日まで覚えていたのか」
「一年前には、もうなかったのか」
「それすら分からない」
「気づいた時には、消えていた」
「ああ」
フィーナが、もう一度俺を見る。
「でも、お前の顔は今ここにある」
目が合った。
「目を閉じても、まだ思い出せる」
フィーナの指が、再び左目の下の傷へ触れる。
「だから怖い」
「何が」
「次に魔法を使ったあと」
フィーナの視線が、俺の顔をなぞった。
目。
鼻。
口元。
失う前に、形を確かめているように見えた。
「この顔が消えていたら」
風が丘を抜けた。
乾いた草が、一斉に同じ方向へ倒れる。
「私は、何を失ったのか分かってしまう」
返す言葉が出なかった。
母親の顔を失った時には、消える直前の形が残っていなかった。
いつまで覚えていたのか。
いつから思い出せなくなったのか。
その境目さえ、分からない。
けれど、俺の顔は今も見えている。
声と結びついている。
森で出会った時から、今日までの出来事につながっている。
だからこそ。
消えた時には、空白の形が分かる。
「使わずに済めばいい」
口にしてから、それも簡単な話ではないと思った。
「簡単に言うな」
「悪い」
「使わずに済む時ばかりではない」
「ああ」
「使わなければ、誰かが死ぬ時もある」
「分かってる」
責める声ではなかった。
自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
「その時」
フィーナが言った。
「私がお前を忘れていたら、どうする」
「どうするって」
「顔も。名前も。何をした人間なのかも」
フィーナは俺を見る。
「私に、思い出せと言うのか」
「言わない」
答えは、すぐに出た。
フィーナの目が、わずかに動く。
「なぜ」
「思い出せないものを、思い出せとは言えないだろ」
「記憶帳を見せれば、何があったかは分かる」
「分かるのは、書いてあることだ」
丘の上で聞いた言葉を思い返す。
私は母を愛していた。
けれど。
愛していた私は、思い出せない。
「前のお前が何を思っていたかは、知ることができる」
俺は言った。
「でも、それを今のお前に押しつけるのは違う」
「それでも名乗るのか」
「ああ」
「名前だけでは、顔は戻らない」
「分かってる」
「関係も戻らない」
「ああ」
「私がお前を信じる保証もない」
「それも分かってる」
「なら、何の意味がある」
「意味があるかは分からない」
俺はフィーナを見た。
「それでも、俺は名乗ると思う」
フィーナは、わずかに目を伏せた。
「そうか」
「俺はソウルだって、もう一度言う」
「何度でも?」
「必要なら」
少し考えてから、付け加えた。
「できれば、一回で覚えてほしいけどな」
「注文が多い」
「忘れられる側にも、希望くらい持たせろ」
「お前は、ソウではなかったのか」
「そこはまだ諦めてない」
「もうソウルで覚えた」
「覚えてるじゃないか」
「今は、な」
返す言葉が止まった。
フィーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
丘の上で見た時より、自然に見えた。
「今度は、少し上手かったな」
「何の話だ」
「何でもない」
「変なやつだ」
フィーナは前を向いた。
再び、丘を下り始める。
俺も、その後を追った。
ラグナの灯りが近づいてくる。
夕食の匂いが、風に混じり始めていた。
今、フィーナは俺の顔を覚えている。
けれど。
今ここにあることは、
次も残るという約束にはならない。
失うかもしれないものとして、
フィーナは俺を見ていた。
その時のフィーナへ、
過去を押しつけることはできない。
できるのは。
もう一度、名前を伝えることだけだ。
朝の森では、置いていかれないようにフィーナを追っていた。
歩くのが速くて。
何度も距離が開いた。
けれど今は。
フィーナの歩幅が、ほんの少しだけ遅くなっていた。
俺は何も言わなかった。
その歩幅に合わせて、丘を下った。
Scene 13 時計を直す男
翌日の昼。
俺とフィーナは、ラグナ街区の西側を歩いていた。
中央市場から離れるにつれ、行き交う人の数が減っていく。
屋台の呼び声。
荷車が石畳を軋ませる音。
焼いた肉と香辛料の匂い。
それらが少しずつ遠ざかり、代わりに金属を叩く小さな音が、建物の隙間から聞こえてきた。
古い石壁と低い屋根が並び、窓辺には大小の工具が置かれている。
職人たちが暮らす一角らしい。
フィーナは迷うことなく、細い路地へ入った。
「工房へ行く道で合ってるのか」
「ああ」
「人の家の裏側にしか見えない」
「表だ」
「狭すぎるだろ」
「お前が大きい」
「ガルムの方が大きいだろ」
「あれは邪魔だ」
「本人の前で言うなよ」
「本人にも言っている」
路地の奥に、古い二階建ての建物があった。
石壁には、長い年月をかけて風雨に削られた跡が残っている。
軒先には、丸い文字盤と二本の針を模した金属製の看板が下がっていた。
風に揺れるたび、かすかな音を立てている。
フィーナが木の扉を開けた。
扉の上に取りつけられた鐘が鳴る。
ガラン。
中へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの音が一度に耳へ入ってきた。
カチ。
カチ。
カチ。
規則正しい音。
少し遅れた音。
急ぐような音。
途中で止まり、しばらくしてから思い出したように動き始める音。
壁掛け時計。
置時計。
懐中時計。
大きな振り子時計。
針のないもの。
文字盤の割れたもの。
歯車が露出したもの。
店の中にある時計は、どれも同じ時間を指していなかった。
それでも、それぞれが自分の速さで時を刻んでいる。
窓から差し込む昼の光が、空気中の細かな埃を照らしていた。
金属と油。
古い木。
わずかに焦げた匂い。
店の中央には、大きな作業台が置かれている。
その向こうで、ガルムが小さな歯車を扱っていた。
太い指と大きな手。
その手には不釣り合いなほど、細い工具。
ガルムは顔を上げなかった。
「うるさい」
「まだ何も言ってません」
「入ってきた」
「入っただけで?」
「扉が鳴った」
「それは工房の鐘でしょう」
「お前が開けた」
「フィーナです」
隣から鋭い視線が刺さった。
「押しつけるな」
「二人ともうるさい」
フィーナは短く息を吐き、店の奥へ入った。
「ガルム」
「何だ」
「昨日の話だ」
「昨日?」
「ソウルのことだ」
「もう忘れた」
「昨日会ったばかりですよ」
「忘れたことにしている」
「面倒なんですね」
「ああ」
ガルムは、ようやく工具を置いた。
椅子に座ったまま、俺を見る。
顔。
服。
両手。
立ち方。
病院で医師が患者を診る時とも違う。
敵を警戒するフィーナの視線とも違う。
何かを測るというより、知っているものと、知らないものを分けているような目だった。
「前にいた場所のことは、覚えているのか」
「はい」
「名前は」
「柳井蒼」
一度、言葉を切る。
「今は、ソウルと呼ばれてますけど」
「ソウルだ」
フィーナが即座に訂正した。
「まだ諦めてない」
「どうでもいい」
「少しくらい興味を持ってください」
「持っているから聞いている」
興味があるようには見えない。
だが、視線は俺から外れていなかった。
「身体に違和感は」
「今のところは」
自分の手を見る。
指の長さ。
皮膚の感覚。
身体を動かした時の重さ。
「少なくとも、見た目も感覚も、前と大きく変わってはいません」
「痛みは」
「森を歩き回った後なんで、筋肉痛くらいは」
「弱いだけだ」
フィーナが横から言った。
「ろくに休めないまま森を歩かされたんだぞ」
「休まなかったのか」
「休めなかったんです」
「身体に悪い」
「知ってます」
「前にいた場所でもか」
「仕事の時は」
「馬鹿だな」
「否定できないのが悔しいですね」
ガルムは鼻を鳴らし、フィーナへ視線を向けた。
「本当に魔力はないのか」
「ああ。何度調べても反応はなかった」
「残響は」
「森狼に触れた時に起きた。本人の意思では使えない。そもそも、魔法かどうかも分からない」
「そうか」
それだけだった。
驚かない。
すぐに答えを出そうともしない。
「何か分かるんですか」
「分からん」
「早いですね」
「分からないものを、考えたふりで埋めても仕方がない」
言い方は突き放している。
だが、知らないことを、もっともらしい言葉で飾らない。
その点だけは、信用できる気がした。
「転生者について、何か知ってるんじゃないんですか」
「世界の外から来たとされる者の記録はある」
「他にもいた?」
「記録が正しければな」
「正しくないんですか」
「古い記録だ。事実と伝承が混じっている。身体ごと現れたとも、夢で別の世界を見たとも書かれている」
「神殿の記録か」
フィーナが尋ねた。
「一部はな。神殿が保管するより古い記録もある」
ガルムの声は変わらない。
けれど、古いという言葉の重さが、俺の知っている時間とは違うように聞こえた。
「俺と同じかは、分からない?」
「ああ。そもそも、どこまでが事実かも分からん」
「役に立たない記録ですね」
「古い記録は、だいたいそういうものだ」
ガルムは一度だけ、作業台へ視線を落とした。
「役に立たないからといって、なかったことにはできんがな」
なかったことにはできない。
昨日、丘でフィーナへ言った言葉が戻った。
忘れたことまで、なかったことにはしたくない。
「俺がなぜここに来たかも」
「分からん」
「なぜ生きているかも」
「分からん」
「魔力がない理由も」
「分からん」
「何も分からないじゃないですか」
「だから調べる」
「誰が」
「お前が」
「俺ですか」
「自分のことだろう」
「少しは手伝ってください」
「気が向いたらな」
その時、店の奥から小さな金属音がした。
何かが床を転がり、木箱へ当たる。
「あっ」
聞き覚えのある声。
ガルムの眉間に、深い皺が刻まれた。
「触るなと言った」
「触ってません!」
「では、なぜ落ちた」
「時計が自分で動きました!」
「時計は歩かん」
「転がりました!」
「同じだ」
レンが、店の奥から現れた。
頬に油汚れ。
袖口にも黒い染み。
片手には小さな布。
もう片方には、外れた時計の蓋を持っている。
「何してるんだ」
「お手伝いです!」
「邪魔だ」
「お手伝いです!」
「壊している」
「まだ壊れてません!」
「蓋が外れている」
「最初からです!」
「今、外れた音がした」
「難しいです」
ガルムはレンの手から時計の蓋を取り上げた。
作業台の端に置かれていた先の尖った工具も遠ざけ、代わりに柔らかい布を渡す。
「これを磨け」
「任せてください!」
「力を入れるな」
「大丈夫です!」
「その言葉を使うな」
「どうしてですか」
「信用できん」
「同感です」
俺が言うと、レンがこちらを振り向いた。
「ソウルさんまで!」
「怪我をしたまま、大丈夫って言ったからな」
「あれは大丈夫でした!」
「血が出てた」
「少しです!」
「大丈夫ではない」
ガルムが低く重ねた。
「二人とも厳しいです」
レンが頬を膨らませた。
ガルムは、レンの頬についた油汚れを見る。
手を伸ばしかけ、途中で止めた。
代わりに、新しい布をレンへ投げる。
「顔を拭け」
「どこですか」
「全部だ」
「そんなについてません!」
「ついている」
フィーナが淡々と答えた。
「フィーナさんまで!」
ガルムはレンを褒めない。
心配しているとも言わない。
危険な道具を取り上げ、安全な仕事を渡し、汚れを拭く布を投げた。
レンは文句を言いながら、その布で頬を拭いた。
やがて、渡された布で時計の蓋を磨き始める。
最初は丁寧に。
しばらくすると、少しずつ腕へ力が入っていく。
「力を入れるな」
「入れてません!」
「入っている」
「やり直せ」
「まだ終わってません!」
レンは頬を膨らませながらも、布を持つ指の力を弱めた。
それから、フィーナへ顔を向ける。
「フィーナさん」
「何だ」
「今度、僕のパンを食べに来てください」
「なぜ私が」
「友達だからです!」
「いつ友達になった」
「昨日です!」
「昨日は、お前がソウルに名乗っただけだ」
「でも、もう友達です!」
「勝手に決めるな」
「友達、少ないだろ」
俺が言うと、フィーナが睨んだ。
「黙れ」
「僕がいます!」
「知っている」
レンが目を見開く。
「今、友達って認めました?」
「認めていない」
「でも、知っているって言いました!」
「お前が勝手に来ることを、知っているだけだ」
「それでもいいです!」
レンは明るく笑った。
フィーナの口元が、ほんの少しだけ動く。
昨日、丘で見たものより自然だった。
笑顔と呼べるほどではない。
ただ、レンのいる場所では、警戒を少しだけ下ろしているように見えた。
レンがそれに気づき、何かを言いかける。
「それで」
俺は、その前に声を挟んだ。
「パンは焼けるようになったのか」
「練習中です!」
「まだ食えん」
ガルムが作業台から言った。
「食べられます!」
「食えることと、美味いことは違う」
「今度は美味しくします!」
「今度は?」
「前のことは忘れてください!」
「都合よく記憶を消すな」
フィーナの返しに、レンが肩を落とした。
「次は大丈夫です!」
「信用できん」
ガルムが即座に言った。
レンの声が、時計の音に混じる。
カチ。
カチ。
カチ。
会話が途切れた。
工房の中には、再び時計の音だけが残る。
俺は作業台へ目を向けた。
細かな工具。
歯車。
文字盤。
分解された時計。
その端に、一つだけ、蓋の閉じた懐中時計が置かれていた。
修理中の時計とは違う。
周囲に工具はない。
外された部品もない。
その時計の周りだけ、何かを避けるように、作業台の一角が空けられていた。
銀色の蓋には細かな傷が無数に走り、花とも星とも見える古い紋様が刻まれている。
長い間、何度も人の手に触れられてきた跡。
「それも修理品ですか」
「違う」
「動いてないみたいですけど」
「知っている」
「直さないんですか」
「直らん」
「部品がない?」
「そういう壊れ方ではない」
ガルムは懐中時計へ手を伸ばした。
扱いは丁寧だった。
レンから工具を取り上げた時とも、小さな歯車を扱っていた時とも違う。
壊れやすいものを持つというより、傷つけてはいけないものへ触れるような手つきだった。
ガルムが蓋を開く。
文字盤。
二本の針。
針は、同じ場所で止まっている。
工房の時計がそれぞれの音を鳴らす中で、その時計だけが沈黙していた。
「動かないのに」
レンが、ガルムの手元を覗き込む。
「どうして、いつもそこへ置いてるんですか」
「邪魔にならんからだ」
「毎日見てますよね」
「見ていない」
「見てます」
「見ていない」
「どっちなんですか」
「見ている」
フィーナが答えた。
「お前らは黙れ」
ガルムは、止まった針へ目を落とした。
誰かを待っているようにも、過ぎた時間を確かめているようにも見えた。
「時計屋でも、直せない時計があるんですね」
「時計屋だから分かる」
「何が」
「直せるものと」
ガルムは、止まった文字盤を見たまま言った。
「直せないものだ」
その言葉が、胸の奥へ残った。
病気。
記憶。
死。
直せないと分かっていても、何かできることはないかと探し続けた。
それでも、最後まで直せなかったものの方が多い。
「直らないと分かっていても」
俺は時計を見ながら尋ねた。
「持っているんですね」
「ああ」
「捨てない?」
「捨てる理由がない」
「動かないのに」
「動くことだけが、残しておく理由ではない」
ガルムは、それ以上説明しなかった。
いつ止まったのか。
なぜ直らないのか。
なぜ、捨てずに持っているのか。
聞いても、今は答えない気がした。
ガルムは、懐中時計を閉じなかった。
止まった針が、昼の光を小さく返している。
昨日の丘で、フィーナが見せた記憶帳を思い出した。
母の名。
髪の色。
歌。
煮込んだ林檎。
私は母を愛していた。
文字には残っている。
けれど、愛していた自分を、フィーナは思い出せない。
俺は一度、フィーナへ視線を向けた。
フィーナも、止まった時計を見ていた。
何を考えているのかは分からない。
本人を前にして、本人の記憶を第三者へ解説させるような聞き方はしたくなかった。
「ガルム」
「何だ」
「誰かに忘れられた時」
言葉を探す。
「忘れられた側は、どう受け止めればいいんでしょう」
「知らん」
「即答ですね」
「受け止め方まで、他人が決めることではない」
「じゃあ」
もう一度、フィーナを見る。
フィーナは何も言わない。
「忘れた人間は」
「忘れたことで、責められても仕方がないんですか」
「選んで忘れたのか」
「違います」
「なら、責める相手が違う」
「誰を責めればいい」
「それも知らん」
ガルムの目は、止まった時計から離れない。
「魔法か」
「記憶を奪った人間か」
「そうしなければ生きられない仕組みか」
低い声が続く。
「答えは、一つではないだろう」
「忘れたら」
喉の奥が、わずかに詰まる。
「何も残らないんですか」
「知らん」
「またですか」
「知らんことを、知っているふりはできん」
ガルムの親指が、懐中時計の縁をなぞる。
「消えるものもある」
「残るものもある」
「だが」
「大切だから残るとは限らん」
「大切だから」
「燃えることもある」
フィーナの指が、左目の下の傷へ触れた。
昨日も、同じことを聞いた。
大切な記憶は、強い感情と結びついている。
だからこそ、魔法に引かれ、失われることがある。
「じゃあ」
「どうすればいいんですか」
「知らん」
「そればかりですね」
「分からんものは分からん」
ガルムは、そこで初めて顔を上げた。
「ただ」
「忘れた者を責めるな」
「そいつも」
「失った側だ」
フィーナが、わずかに目を伏せた。
フィーナは、母親の顔を思い出せない。
声も。
手の温かさも。
忘れたくて、忘れたわけではない。
忘れたことで、フィーナ自身も失っている。
記憶は戻らない。
それでも、母を愛していたという事実まで、消えてしまうのだろうか。
記憶がなくなっても、愛は残るのか。
俺には、まだ分からなかった。
工房の奥で、大きな置時計が時刻を告げた。
一つ。
二つ。
三つ。
少し間を置いて、四つ。
ガルムは音を数えるように目を閉じた。
最後の音が消えた後も、しばらく目を開けなかった。
忘れた者も、失った側だ。
あの言葉は、知識だけで言えるものには思えなかった。
「長く生きてきた人の言い方ですね」
「お前よりはな」
「それは見れば分かります」
「なら聞くな」
「どれくらい長いんですか」
「忘れた」
「嘘だ」
フィーナが口を挟んだ。
「忘れたことにしている」
「さっきも聞きましたね」
「便利だからな」
「忘れたことにするのが?」
「ああ」
「本当に忘れるのとは、違いますよ」
「分かっている」
返事だけが、それまでより少し低かった。
ガルムは懐中時計の蓋を閉じた。
カチリ。
動いていない時計から、その時だけ音がした。
ガルムは時計を胸元へ戻した。
動作は、妙に丁寧だった。
レンが、磨いていた時計の蓋を持ち上げる。
昼の光を受け、表面が少しだけ明るくなっていた。
「できました!」
「まだ汚れている」
「さっきより綺麗です!」
ガルムは蓋を一度だけ光へかざした。
「さっきよりはな」
「褒めました?」
「褒めていない」
「でも、さっきより綺麗って言いました!」
「事実だ」
「それでも嬉しいです!」
「やり直せ」
「厳しいです!」
「パンより時計の方が、向いてないんじゃないか」
俺が言うと、レンは胸を張った。
「僕はパン屋になります!」
「なら、時計を壊すな」
ガルムは磨かれた蓋をレンへ戻した。
「壊してません!」
「蓋を外した」
フィーナが指摘する。
「外れただけです!」
「結局、外れたことは認めるんだな」
「次は大丈夫です!」
「信用できん」
ガルムが即座に返した。
「二人とも、同じことばかり言います!」
レンが頬を膨らませる。
フィーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺もレンも、今度は何も言わなかった。
口にすれば、その小さな変化まで消えてしまいそうだった。
工房の中に、いくつもの時計の音が重なっていた。
進み続けるもの。
遅れているもの。
直されるもの。
動き出す時を待つもの。
時間の進み方は、それぞれ違う。
止まったままでも。
失われたままでも。
残るものは、あるのかもしれない。
ガルムの胸元で眠る時計が、その答えを知っているような気がした。
Scene 14 神殿の二つの顔
翌日の朝。
レンは、両腕で大きな籠を抱えて歩いていた。
籠の中には、黒いパンが隙間なく詰められている。
籠が大きすぎて、今日もほとんど前が見えていない。
その少し後ろを、ガルムが歩いていた。
ガルムの視線は、何度も籠へ落ちている。
「落としませんよ」
「何も言っていない」
「ずっと見ています」
「配給用の籠に、お前の失敗作が混ざっていないか見ている」
「入っていません!」
「昨日は入れようとした」
「捨てるのが、もったいなかったんです」
「食わせる相手を選べ」
俺は横から尋ねた。
「失敗したパンは、誰が食べるんだ」
「俺だ」
ガルムが短く答えた。
「おじいちゃんは、何でも食べます!」
「食わせているのはお前だ」
「美味しい時もあります!」
「時も」
フィーナが短く繰り返した。
「フィーナさんまで!」
レンが振り返った拍子に、籠が傾いた。
ガルムの手が伸びる。
籠の底を支え、すぐに離した。
「前を見ろ」
「まだ落としてません!」
「落としてからでは遅い」
レンは口を尖らせたが、今度は前を向いて歩いた。
会話をしている間にも、通りの先に白い建物が見えてきた。
中央市場から東へ離れた一角。
周囲の家々より高い石壁。
白い柱。
広い階段。
ヴェスタ中央部に見えた大神殿ほど大きくはない。
それでも、蔦の這う古い家並みの中では、そこだけが別の場所のように白かった。
ラグナ神殿。
記憶取引所の壁にあった紋章と、施療所の扉にあった紋章。
同じ印だと分かってはいても、俺の中で、まだ一つにつながってはいなかった。
神殿前の広場には、朝から長い列ができていた。
老人。
幼い子どもを抱いた母親。
服の擦り切れた労働者。
杖をついた男。
片腕を布で吊った女。
列の先では、神官たちが木の器へ粥をよそっている。
焼いた根菜。
黒いパン。
湯気の立つ白湯。
豪華な食事ではない。
それでも、今日一日を生きるための食事だった。
「何の列だ」
「配給だ」
「神殿が?」
「ああ」
「記憶を買っている神殿が、食事も配るのか」
「神殿は、記憶だけを扱う組織ではない」
施療所の扉の前でも、似たことを聞いた。
あの時フィーナは、世界は分かりやすくできていないと答えた。
列の先で、若い神官が小さな少年へ器を渡した。
少年の器には、ほかの者より少しだけ多く粥が入っている。
少年が気づき、神官を見上げた。
若い神官は周囲を確かめてから、何もなかったように、次の器へ手を伸ばした。
人の過去を切り離し、瓶へ収め、魔法の燃料として扱う場所を管理している組織。
その同じ紋章を胸につけた人間が、空腹の子どもへ、少しだけ多く食事を渡していた。
レンが配給所の机へ向かう。
途中で石畳の段差に足を取られかけ、籠を抱えたまま両足を踏ん張った。
パンは落ちなかった。
「間に合いました!」
「今日は転ばなかったな」
「成長しました!」
「昨日から一日しか経っていない」
「一日でも成長します!」
配給所の若い神官が、籠の中を確かめる。
目の下に薄い隈があった。
施療所で見た神官と、よく似た疲れ方だった。
「いつも助かるよ、レン」
若い神官が、籠を受け取りながら言った。
「今日は全部、配給用のパンです!」
「当たり前だ」
ガルムが横から返す。
「レンが焼いたものは?」
若い神官が尋ねた。
「入れていない」
「食べられますよ!」
「配給は実験ではない」
ガルムが言った。
「次は美味しくします!」
「工房へ戻ってから言え」
ガルムは、籠の端に紛れていた少し焦げたパンを一つ取り上げた。
形を確かめる。
配給の机には戻さず、自分の荷袋へ入れた。
レンはそれを見ていた。
何も言わなかった。
口元だけが、少し緩んでいる。
「俺は詰所へ行く」
ガルムが言った。
「騎士団に用があるんですか」
「修理品を受け取る」
「時計か」
「ああ」
「僕も行きます!」
「パンを運べ」
「もう運びました!」
「空の籠を工房へ戻せ」
「神殿も案内できます!」
「遊びに来たのか」
「違います!」
「なら働け」
ガルムは、レンの頭へ手を置きかけた。
だが、触れる直前で止まる。
そのまま、籠の持ち手を握り直させた。
「昼までに戻れ」
「大丈夫です!」
「その言葉を使うな」
「分かりました!」
「分かっていない」
ガルムは神殿の北側へ歩いていった。
レンは頬を膨らませながら、空になった籠を配給所の裏へ運んでいく。
神殿の中へ入るのは、俺とフィーナの二人になった。
白い階段を上る。
大きな扉の向こうは、思っていたより静かだった。
祈りの声。
水を汲む音。
石床へ響く足音。
壁には、神と人間を描いた古い絵が並んでいる。
中央に立つ一人の人物へ、人々が手を伸ばしていた。
あれが、創造神アルヴェなのだろう。
絵の中の神は、笑っても、泣いてもいなかった。
差し伸べられた無数の手を、何を考えているのか分からない顔で見下ろしている。
「礼拝に来たのではないだろう」
「ああ」
「なら、こっちだ」
フィーナは広間を横切り、建物の裏手へ向かった。
神殿の裏手には、小さな中庭があった。
十数人の子ども。
古い木の机。
平たい石板。
若い神官が、子どもたちへ文字を教えている。
石板に書かれているのは、難しい祈りの言葉ではなかった。
一人ひとりの名前だった。
「これで合ってる?」
「最後の線が反対だ」
「難しい」
「何度でも書けばいい」
神官は、石板を少女へ戻した。
「名前は、何度書いても減らないからな」
少女は、自分の名前をもう一度書いた。
今度は合っていたらしい。
神官が頷くと、少女は名前を書いた紙を大切そうに折りたたみ、服の内側へ入れた。
「孤児院もあるのか」
「親を失った者」
フィーナは中庭を見たまま答えた。
「親に忘れられた者。親自身が、自分を失った者」
フィーナの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「理由はいろいろだ」
記憶取引所の前で見た母娘が、頭に浮かんだ。
母親の袖を掴み、自分が誰なのかを必死に伝えようとしていた子。
あの二人がその後どうなったのか、俺は知らない。
今も一緒に暮らしているのか。
それとも、あの子もいつか、この中庭へ来ることになるのか。
名前を書く。
自分が誰なのかを、文字として残す。
俺のいた世界では、子どもが最初に覚える当たり前の練習だった。
この世界では、それが、自分を失わないための準備になることがある。
神殿の北側へ回ると、詰所の方から数人の騎士が戻ってくるところだった。
泥のついた外套。
擦れた鎧。
血のにじんだ包帯。
その中の一人が、負傷した旅人を背負っている。
旅人の服に、神殿の紋章はなかった。
「北街道で魔獣に襲われた」
「こちらへ」
「先にこの人を」
「あなたも怪我をしています」
「歩ける」
騎士は、自分の傷を後回しにした。
病院で、何度も見た。
人を運び、誰かを支え、自分の傷を見ようとしない人間。
「神殿騎士は、魔獣を討つのも仕事なのか」
「ああ。街道や集落へ危険が及ぶならな」
「森で死んでいた狼も?」
「神殿に属する者が関わった可能性はある。だが、確かなことは分からない」
「神殿兵の刃に似てる、って言ってただろ」
「あの時は、刃の痕を見ただけだ」
フィーナは、詰所の方を見た。
「紋章も確認していない。兵の仕事か、騎士の仕事か。それすら分からない」
「兵と騎士は違うのか」
「神殿兵は、巡回や警備を担う。騎士は、魔獣討伐や住民の保護に出る」
「所属は同じなのか」
「ああ。同じ神殿に属し、同じ紋章をつけている」
「それでも、同じ命令で動くわけじゃない?」
フィーナは、負傷者を運んでいった騎士の背中へ目を向けた。
「神殿の人間がすべて、同じ命令で動いているわけではない」
「同じ組織なら、責任も同じじゃないのか」
「組織の責任と、個人の責任は同じではない」
「だが」
少しの間があった。
「無関係でもない」
「どっちなんだ」
「簡単に分けられないと言っている」
フィーナは俺を見た。
「お前はまだ、何も知らない」
反論しかけて、やめた。
負傷者を背負っていた騎士。
魔獣を討つ騎士。
命令に従う騎士。
同じ剣。
同じ紋章。
それだけで、同じ考えを持つ人間だと決めていいのか。
まだ、分からなかった。
騎士たちを見送った後、俺たちは再び神殿の中へ戻った。
礼拝の広間から離れた廊下には、いくつもの掲示板が並んでいた。
公認記憶取引所の価格表。
記憶瓶の搬入記録。
術式の使用許可証。
神殿印の押された帳簿。
職員が、記憶瓶を収めた木箱を慎重に運んでいく。
「取引所で買われた記憶は、全部ここへ来るのか」
「一部は、ラグナで使われる」
「何に」
「施療。結界。街道灯。食料や薬を保存する術式」
フィーナは歩きながら続けた。
「大半は、ヴェスタ中央神殿へ送られる」
「誰の記憶を、何に使うかも、神殿が決める?」
「ああ」
「売った本人には?」
「用途が知らされる場合もある。知らされない場合もある」
「それが認められているのか」
「記憶取引に関する規則は、神殿が定めている」
フィーナは、掲示板の許可証を目で示した。
「施設を認可するのも。術式の使用を許可するのも。記憶瓶の流通を管理するのも。違反を判断するのも、神殿だ」
「管理する側と、許可する側と、違反を決める側が、全部同じなのか」
「ああ」
「それは管理じゃなくて、独占だろ」
「そう呼ぶ者もいる」
「お前はどう思う」
フィーナは、すぐには答えなかった。
「技術がなければ、結界も、治療も、記憶障害者への支援も維持できない。管理が必要なのは事実だ」
「だから、一つの組織が全部持っていいと?」
「いいとは言っていない」
廊下の向こうで、記憶瓶の箱が傾いた。
職員の一人が慌てて支える。
箱の隙間から、淡い光が漏れた。
青。
金。
薄い赤。
一つひとつが、誰かの人生から切り離されたもの。
問題は、記憶を扱う技術があることだけではない。
誰が管理するのか。
誰が使い方を決めるのか。
誰が拒否できるのか。
間違った時、誰が止められるのか。
そのすべてが、一つの組織へ集まっていた。
神殿を出ると、階段の下ではまだ配給が続いていた。
さっきの若い神官が、同じ少年へ二杯目の粥を渡している。
旅人を背負ってきた騎士は、ようやく自分の腕を治療されていた。
中庭の子どもたちの声が、壁の向こうから聞こえてくる。
俺は、白い神殿を振り返った。
「分からないな」
「何が」
「人を助けてる。食事も配る。怪我人も治す。親のいない子どもも守る」
白い壁の向こうを思う。
「それなのに、同じ場所で、人の記憶を買ってる」
「矛盾しているか」
「矛盾してるだろ」
「人間は、一つの顔だけでは生きていない」
「神殿も人間か」
「人間が作ったものだ」
「善い人がいるなら、神殿は正しいのか」
「違う」
フィーナの答えに、迷いはなかった。
「善い人間がいることと、制度が正しいことは別だ」
「悪い制度なら、壊せばいい」
「壊した後」
フィーナは、配給の列を見た。
「食事を配るのは誰だ。怪我人を治すのは。街道を守るのは。孤児を育てるのは」
言葉に詰まった。
「壊すだけなら、簡単だ」
フィーナは静かに言った。
「その後を作る方が難しい」
階段の脇で、配給を受けた老婆が、俺たちの話を聞いていた。
黒いパンを、胸に抱くように持っている。
「神殿がなければ」
老婆は言った。
「私は去年の冬に死んでいたよ」
返す言葉が見つからなかった。
「息子が記憶を売った。その金で、私の薬を買った」
老婆は、パンを抱く手に少しだけ力を込めた。
「今は、私のことを覚えていない」
「それで……」
聞き方を選ぶ前に、言葉が出ていた。
「よかったんですか」
口にしてから、間違えたと思った。
よかったか。
悪かったか。
そんな二つで決められる話ではない。
老婆は、怒らなかった。
「よかったかどうかなんて、今でも分からない」
「息子が何か大切なものを失うかもしれないことは、分かっていたつもりだった」
「でも、私が死ぬのを、あの子は選べなかった」
老婆は、少しだけ黙った。
「ただ、あの時は、あの子にとってそれしかなかったんだと思うよ」
老婆は、少しだけ目を伏せた。
「やさしい子だよ」
老婆はそれ以上何も言わず、階段を下りていった。
食事を持つ手。
息子に忘れられた母親の手。
どちらも、同じ一人の人間のものだった。
正しいことだけでは生きられない。
記憶取引所の前で聞いた、フィーナの言葉が戻ってくる。
正しくないと分かっていても。
何かを失うと分かっていても。
それしか選べない時がある。
問題は、選んだ人間だけにあるのではない。
それしか選べない場所へ追い込んだもの。
選ばなくても生きられる道を、用意しなかったもの。
そこにも、あるのかもしれない。
神殿の門を出る手前で、先ほどの若い騎士が立っていた。
二十代半ばほど。
胸には神殿騎士の紋章。
負傷した腕に、新しい包帯が巻かれている。
そこへ、空の籠を抱えたレンと、ガルムが戻ってきた。
レンが騎士へ手を振る。
「リオルさん!」
「レン。今日は転んでいないな」
リオルが空の籠へ目を向けた。
「成長しました!」
「一日でな」
俺が言うと、レンは胸を張った。
「そうです!」
リオルと呼ばれた騎士が、俺へ軽く会釈した。
「レンが話していた人か。森で行き倒れていたと聞いた」
「行き倒れ……」
「事実だ」
フィーナが即答する。
「拾われた、までは認めてたけどな」
「僕が話しました!」
「半分はお前の声で広まった」
ガルムが言った。
「半分だけです!」
「そこは認めるんだな」
リオルが小さく笑った。
「リオルだ。神殿騎士団のラグナ詰所にいる」
「ソウルです」
差し出された手には、細かな傷が残っていた。
握る力は強いが、こちらを試すような手ではなかった。
通りかかった住民たちが、次々にリオルへ声をかけていく。
壊れた柵のこと。
戻らない荷車のこと。
夜の街道で聞こえた魔獣の声のこと。
リオルはそのたびに足を止めた。
話を遮らない。
最後まで聞く。
覚えておく、と答える。
信頼されていることが、言葉ではなく伝わってきた。
その時、神殿の職員がリオルへ近づいた。
差し出されたのは、封蝋のされた一通の書状。
封には、見慣れない紋章が押されていた。
ラグナ神殿のものより、装飾が多い。
「ヴェスタ中央神殿」
フィーナが小さく呟いた。
「上層部からです」
職員が言った。
リオルは書状を受け取った。
封を確かめた瞬間、表情が、ほんのわずかに硬くなった。
「どうかしたんですか」
レンが見上げる。
「いや。何でもない」
「大丈夫ですか」
リオルの返事が、少し遅れた。
「……ああ」
リオルは、書状から目を上げた。
「大丈夫だ」
大丈夫。
レンがよく使う言葉だった。
平気な時より、平気ではない時に口へ出る言葉。
ガルムが、リオルを一度だけ見た。
何も言わなかった。
リオルは書状を折り、胸元へ収めた。
中身は見えない。
ただ、さっきまで住民へ向けられていた表情は、戻らなかった。
神殿の鐘が鳴った。
配給の終わりを知らせる鐘。
施療の時間を知らせる鐘。
祈りの時間を知らせる鐘。
そして、記憶瓶の搬送を知らせる鐘。
同じ音が、人を救うためにも、人の記憶を運ぶためにも鳴る。
神殿は、人を助けている。
神殿は、人の記憶を管理している。
どちらかが嘘なのではない。
たぶん、どちらも本当だった。
白い神殿は、昼の光の中でも、長い影を落としていた。
Scene 15 五百年を知る者
深夜。
時計工房は暗かった。
昼間は一つに重なっていた時計の音が、夜になると、それぞれ別の場所から聞こえてくる。
カチ。
カチ。
カチ。
壁を揺らす振り子。
小さな歯車が噛み合う音。
遠くで時刻を告げる鐘。
同じ時間を刻んでいるはずなのに、どの音も少しずつ違っていた。
工房奥の客用寝台では、フィーナが眠っている。
その隣の小部屋からは、レンの寝息が聞こえていた。
配給所の手伝いで帰りが遅くなったレンを、ガルムは夜道へ帰さなかった。
眠る直前まで、レンは明日焼くパンの話をしていた。
今度は焦がさない。
朝になったら、生地を仕込む。
明日。
その言葉が、妙に頭へ残っていた。
俺は眠れなかった。
目を閉じると、今日見たものが浮かぶ。
食事を渡す神官。
負傷者を運ぶ騎士。
自分の名前を書く子ども。
息子に忘れられた老婆。
淡い光を放つ記憶瓶。
同じ神殿の中に、すべてが存在していた。
だからこそ、眠れなかった。
寝台を抜け出す。
床板が鳴らないように、足を置く場所を選んだ。
工房の奥から、淡い灯りが漏れている。
扉を少しだけ開けた。
作業台の前に、ガルムが座っていた。
修理をしているのではない。
工具は置かれたまま。
大きな手の中にあるのは、あの止まった懐中時計だった。
蓋を開き、動かない針を見ている。
ただ、それだけだった。
「起きてたのか」
声をかけると、ガルムは顔を上げなかった。
「老人は眠りが浅い」
「俺も眠れない」
「なら、お前も老人だ」
「三十二です」
「若いな」
「その言い方だと、あんたが百歳くらいに聞こえる」
「百なら若い」
冗談を言ったようには見えなかった。
返す言葉が止まる。
ガルムは、懐中時計から目を上げない。
灯りの下で、銀色の蓋に刻まれた紋様が淡く浮かんでいた。
「その時計」
「何だ」
「大切なんですね」
「ああ」
「誰かにもらった?」
「違う。昔から持っている」
「どれくらい昔から」
「お前が知る必要はない」
「隠されると、聞きたくなる」
「なら、一生聞いていろ」
突き放すような言葉だった。
だが、声にあったのは怒りではない。
長く持ち続けたものへ、これ以上触れられたくない。
そんな疲れに聞こえた。
ガルムの親指が、蓋の紋様をなぞる。
花とも、星とも見える模様。
何度も触れられた部分だけが、滑らかになっていた。
蓋の内側には、擦れた古い文字が刻まれている。
俺には読めない。
人の名前なのか。
祈りなのか。
作った職人の印なのか。
分からなかった。
「何て書いてある」
「古い言葉だ」
「意味は」
「今のお前には関係ない」
「またそれですか」
「便利だからな」
ガルムは蓋の内側から、止まった文字盤へ視線を戻した。
二本の針は、少しも動いていない。
これからも、同じ場所にあり続ける。
俺は隣の椅子へ腰を下ろした。
木が小さく軋んだ。
「ガルム」
「何だ」
「神って、本当にいたのか」
ガルムの指が止まった。
ほんの一瞬だった。
「いた」
「神殿が、そう言っているだけじゃなく?」
「いた」
「会ったことがあるような言い方だな」
「ある」
返事が早かった。
迷いもない。
冗談を疑って、ガルムの横顔を見る。
笑っていない。
「本気か」
「冗談を言う顔に見えるか」
「分かりにくい顔ですね」
「なら覚えておけ」
ガルムは、止まった時計を見たまま言った。
「俺は、アルヴェを知っている」
創造神アルヴェ。
フィーナから聞いた名。
五百年前に消えた神。
祈っても戻らない存在。
壁に描かれ、歴史の中に残されている名前。
けれど、ガルムは遠い神話を語っているのではなかった。
昔の知人を口にするように、その名を呼んだ。
知っている。
会ったことがある。
その言葉が本当なら。
「いつ会った」
「神が消える前だ」
「五百年前?」
「ああ」
否定しない。
言い間違いでもない。
五百年という時間を、昨日の出来事のように扱っている。
「待て」
「聞こえただろう」
「あんた、何歳なんだ」
「五百三十三だ」
声が出なかった。
ガルムが、ようやくこちらを見た。
「何だ」
「昨日は、年齢を忘れたって」
「忘れたことにしていると言った」
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
「増え続けるものを毎年確認しても、面白くはない」
ガルムは懐中時計の蓋を閉じた。
カチリ。
小さな音が、工房の中へ落ちた。
周囲の時計は動いている。
振り子が揺れ、歯車が回り、針が少しずつ進んでいく。
ガルムの手の中にある時計だけが止まっている。
目の前の男は生きている。
呼吸もしている。
声もある。
大きな手には、体温もあるはずだ。
それでも、目の前の男の時間の一部だけが、五百年前から動いていないように見えた。
「神が消えた日」
ガルムは何も言わない。
「何があった」
すぐには答えなかった。
視線が、手元の灯りから外れる。
工房の小さな窓。
その向こうの夜空。
星を見ているのか。
星のない場所を見ているのか。
俺には分からなかった。
しばらくして、ガルムは空を見たまま口を開いた。
「多くのものが壊れた」
「多くのもの?」
「空も。魔力の流れも。神代から残っていた術式も」
一度、言葉が止まる。
「人の記憶も」
声は低い。
感情を込めないように、必要な部分だけを削って話している。
「各地で魔法が制御を失った」
ガルムの視線は、まだ夜空にある。
「止め方を知っていた者が、その方法を忘れた」
時計の音が続く。
「家族の名を失った者もいた」
カチ。
「自分が何者かを失った者もいた」
カチ。
「街そのものが、残らなかった場所もある」
「世界中で?」
「ああ」
五百年前。
神が消えた。
それは、一人の神がいなくなっただけの出来事ではなかった。
人は、世界とともに、自分が誰なのかまで失った。
「アルヴェは」
喉が乾いていた。
「何をしていた」
「止めようとしていた」
「何を」
「崩れていくものをだ」
「全部を?」
「少なくとも、あいつはそうしようとしていた」
ガルムの視線が、夜空から時計へ戻る。
それ以上は語らなかった。
何が崩れようとしていたのか。
アルヴェが何をしたのか。
どうして消えたのか。
ガルムが最後に何を見たのか。
聞きたいことは増えた。
答えは、ほとんど増えていなかった。
「それで、神殿が秩序を引き継いだ?」
「神殿だけではない。各地で、生き残った者たちが街を立て直した」
ガルムは、閉じた懐中時計を作業台へ置いた。
「だが、神殿には、他の組織より多くのものが残っていた」
「何が」
「記録。術式。食料。結界」
ガルムは、言葉を区切った。
「それに、人を守る騎士と、失われる記憶を保存する技術だ」
今日、神殿の廊下で見た記憶瓶が浮かぶ。
誰かの人生から切り離され、箱の中へ収められていたもの。
「誰が神殿をまとめた?」
「アシュ・カルテア」
「アシュ?」
「今の最高司祭だ」
「今の?」
「ああ」
嫌な予感がした。
「まさか」
「そいつも、五百年前を知っている」
ガルムの目が、わずかに変わった。
怒りなのか。
懐かしさなのか。
後悔なのか。
それらすべてなのか。
俺には断定できなかった。
「混乱の中で、神殿は人を救った」
ガルムは淡々と続ける。
「食料を配った。暴走する術式を止めた。街を守った。失われる記憶を保存した」
今日見た神殿の光景と重なる。
食事を配る神官。
傷ついた人を運ぶ騎士。
名前を書く子どもたち。
「最初は、生かすためだった」
ガルムの手が、懐中時計の上に置かれる。
「残すためだった。同じことを、二度と起こさないためだった」
「それが、今の管理になった?」
「ああ」
「どうして」
「保存するために集めた。守るために制限した」
ガルムは、言葉を重ねていく。
「制限するために規則を作り、規則を守るために力を持った」
今日、神殿で感じた違和感が、言葉になっていく。
救うために始まった。
残すために集めた。
守るために縛った。
「最初から支配するつもりだった?」
「違う」
ガルムの返事に迷いはなかった。
「多くの間違いは、正しい理由から始まる」
その言葉が、暗い工房へ残った。
誰かを生かすこと。
同じ惨事を繰り返さないこと。
どちらも、間違っているとは言えなかった。
それでも今、人は記憶を売り、神殿がその使い道を決めている。
「じゃあ」
俺はガルムを見る。
「神は、なぜ消えた」
答えはなかった。
「あんたは会っていた」
ガルムの手は、時計の上に置かれたまま動かない。
「消えた日も見た。アルヴェが何かを止めようとしていたことも知っている」
時計の音だけが続く。
「理由も、知っているんじゃないのか」
カチ。
カチ。
カチ。
俺は待った。
ガルムは、懐中時計を手の中で握った。
「俺が見たのは、起きたことだけだ」
「理由は分からない?」
「アルヴェが何を考えていたのか、すべてを知っているわけではない」
「でも、何か考えている」
「ああ」
ガルムは否定しなかった。
「俺なりの答えはある」
「聞かせてくれ」
「今は話さない」
「なぜ」
「お前は、まだこの世界を知らない」
「知らないから聞いている」
「先に一つの答えを聞けば、お前はそれだけを見る」
ガルムの目が、まっすぐ俺へ向いた。
「自分で見ろ」
「何を」
「神殿も。人間も。魔法も」
ガルムは、一つずつ言葉を置いていく。
「記憶を売った者も」
老婆の顔が浮かぶ。
「奪った者も」
淡く光る記憶瓶。
「失った者も」
母の顔を思い出せないと話した、フィーナの横顔が浮かんだ。
「それから、俺の答えを聞け」
ガルムが見たものと。
ガルムがそこから出した答えは。
同じではない。
今は、それだけ分かった。
「いつかは、教えるつもりなんだな」
「お前が生きていればな」
「物騒だな」
「この世界で、明日を約束する方が無責任だ」
「それでも、人は約束する」
ガルムの眉が、わずかに動いた。
「なぜだ」
「明日があると、思いたいからじゃないか」
ガルムが初めて、俺を正面から見た。
「お前は、面倒なことを考える男だな」
「よく言われます」
「嘘をつけ」
「一度くらいは」
言いながら、声が浮かんだ。
生きる話をしない。
そう言われた夜。
明日も会おう。
また話そう。
あの頃の俺は、そんな言葉を受け取れなかった。
それなのに今、自分の口から「明日」という言葉が出ていた。
なぜなのかは、まだ分からない。
「あんたの答え以外に」
俺は、ガルムの手の中の時計を見る。
「神が消えた理由を知る手掛かりは、残っていないのか」
「答えに近いものなら、カルテスに残っている」
「カルテス?」
初めて聞く名だった。
「神殿を束ねる中央聖域だ」
「そこに何がある」
「神が消えた日に、封じられたものだ」
封じられたもの。
神の遺物か。
記憶か。
術式か。
「それを見れば、理由が分かる?」
「分からん」
「またそれか」
「答えが一つとは限らん」
「じゃあ、カルテスってところへ行けばいいのか」
「今のお前が行っても、入口にすら辿り着けん」
「どうして」
「神殿の中枢だ。」
ガルムは、俺を見た。
「魔力もない。身分もない。この世界のことも知らない」
「そんな人間が、知りたいと言って入れる場所ではない」
「なら、どうすればいい」
「生きろ」
「それだけ?」
「見ろ」
ガルムの声が、暗い工房に落ちる。
「知れ」
時計の音が続く。
「選べ」
ガルムは、懐中時計を胸元へ戻した。
「その先に、まだ行く理由があるなら、いつか辿り着く」
その時、工房の時計が新しい日を告げ始めた。
一つ。
少し遅れて、別の時計が鳴る。
二つ。
さらに奥で、三つ。
それぞれ少しずつずれた鐘が、暗い工房の中へ重なっていく。
日付が変わる。
明日が、今日になる。
俺は、ガルムの胸元を見た。
工房のすべての時計が、少しずつ違いながらも、新しい時間へ進んでいる。
その時計だけは、動かない。
「その時計」
ガルムがこちらを見る。
「いつ止まったんだ」
「五百年前だ」
「神が消えた日に?」
返事までに、わずかな間があった。
「……ああ」
ガルムは、それ以上を話さなかった。
なぜ止まったのか。
止まった時、何を見たのか。
どうして今も持ち続けているのか。
分からない。
ただ。
目の前の男は、歴史を読んだのではない。
神が消えた日を、生きていた。
新しい日を告げる鐘の中で。
ガルムの時計だけが、五百年前に取り残されていた。
第2章 完
【第3章(Scene 16 )へ】
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【作品案内】
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※この小説「テルナ・ヴァイド」は、「小説家になろう」にも同時掲載しています。
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