赤城山は、行くたびに違う山だった
赤城山に、何度か通っています。
最初は、SNSでよく見る覚満淵の写真がきっかけでした。
赤城山といえば、覚満淵のシンボルツリー。
正直、それ以上のイメージは持っていませんでした。

実際に車で登ってみて、少し驚いたことを覚えています。
赤城山は群馬県にあり、都心からのアクセスも悪くない。
それなのに、標高は1,800m近くまで一気に上がる。
カーブを重ねて登っていくと、平地とは明らかに違う植生が現れてくる。
空気の感じも、光の入り方も変わってくる。
赤城山は、「有名な場所に着いたら終わり」
というタイプの山ではありませんでした。
覚満淵の朝
覚満淵といえば、 多くの人が思い浮かべる風景があると思う。
けれど実際に立ってみると、
その印象は、時間とともにゆっくりと変わっていく。

いわゆる日の出の時間には太陽は山に隠されてはいるが、
すでに周囲は明るくなり始めている。
外輪山に囲まれた地形のため、日の出の光がすぐに差し込んでくるということはない。
外輪山の山際から陽が顔を出し始めると、 光は少しずつ水辺に入り込んでくる。

陽の光はすぐには全体を照らさず、 水面や草原と霧をなぞるように広がっていく。
その変化を見ている時間は、 何度通っても飽きることがない。
なぜ、通っても飽きないのか
飽きない理由を考えると、 赤城山は、同じ場所に通っても、
同じ条件が揃うことのほうが少ない山だからなのだと思います。
天気が違う。
風の強さや向きが違う。
湿度によって霧の出方が違う。
同じ時間帯に立っていても、
前回とまったく同じ景色になることは、あまりない。
だから、 何度通っても「もう分かった」と思える瞬間が 来ない。
覚満淵だけでは終わらない赤城山
赤城山の魅力は、 覚満淵だけに集約されるものではありません。
初夏には、点在するレンゲツツジが、山の景色を彩る。

夏から秋にかけては、 鳥居峠から雲海を見下ろせる朝もある。

冬には、 雪が降る前に放射冷却でよく冷えた朝、
大沼の氷の中に、底から発生したメタンガスの気泡が
閉じ込められている様子を見ることができる。

どれも、いつも、 必ず見られるものではない。
しかし、赤城山に通い続けてしまう理由は、
こうした個別の現象そのものではない気がしています。
赤城山は、ひとつの山ではない
赤城山は、 ひとつのピークを指す名前ではありません。
平野部から眺めたときに見える、 あの大きな山の塊全体を、
まとめて「赤城山」と呼んでいます。
実際には、 赤城山を形づくっているのは、 全部で12の山。
外輪山に囲まれた地形。 窪地。 沼。 峠。
時間とともに、そして、場所が少し変わるだけでも、
風の向きも、雲の流れも、光の入り方も全く変わってくる。
天候が目まぐるしく変わるのは、
単に山の天候が変わりやすいというからではなく、
そういう複雑な地形をしているからです。
同じ朝でも、大沼と、覚満淵と、鳥居峠で、
霧の出方がまったく違う状況になることがある。
赤城山は、ひとつの被写体というより、
複数の条件が同時に動いている場所なのだと思います。
この場所で撮った写真が、外へ出ていったこと
赤城山に通うようになってから、 撮った写真の中には、
自分の手元を離れて世界に出ていったものもあります。
TIFA 2025では、覚満淵で撮影した写真を中心に、Nature / Trees 部門で、 4枚組の作品として Gold Prize の評価を受けました。
狙って撮った写真ではなく、
賞を意識してシャッターを切っていたわけでもない。
知らないうちに積み重なっていた時間の写真が、
あとから見返した時に、形になっていたのです。
それでも、通う頻度は減らなかった
結果が出たからといって、 満足して通わなくなった、
ということはありませんでした。
むしろ、赤城山に足を運ぶ回数は、 少し増えたかもしれません。
撮れた日があっても、次は同じ条件が揃わない。
うまくいかなかった朝があっても、
別の日には、 まったく違う表情が現れる。
赤城山は、 成果が出たから終わる場所ではなく、
成果が出ても完結しない場所でした。
割と手軽に、非日常に入れる場所
赤城山が好きな理由のひとつは、
その距離感にあると思っています。
関東にあり、車で行ける場所にある。
思い立ってから、それほど時間をかけずに立てる。
それでも、標高が上がるにつれて、
平地とは明らかに条件が変わっていく。
それほど遠くへ行かなくても、
環境が切り替わる感覚がある。
赤城山は、僕にとっては特別な旅先というより、
日常から少し離れるための場所、
という表現のほうが近いかもしれません。
赤城山は行くたびに違う山でした。
同じ場所に立っても、
同じ条件が揃うことのほうが少ない。
だから、一度で分かったつもりになることもなく、
通うことが終わりになることもない。
気づけば、現地の天候を調べ、面白そうな予感がすれば
自然と足が向く場所になっていました。
これからも、撮れるかどうかは分からないまま、
赤城山には通い続けると思います。
※ この記事は、赤城山という場所について書いたものですが、
実際には「写真との向き合い方」について書いている部分も多い気がしています。
なぜ、同じ場所に通い続けてしまうのか。
なぜ、一度で分かったつもりになれないのか。
そうした感覚は、
「いい写真とは何か」
「なぜ決め手の一枚が残らないのか」
といった問いにも、つながっていました。
このようなテーマについて書いた記事も、いくつかあります。
もし、もう少し考えてみたくなったら、
あわせて読んでもらえたら嬉しいです。
