「アーカイブ・サテライトの園」第3話
●あらすじ
人工知能と人工意識を搭載したアンドロイドが普及し、多くの人間が仮想世界に入り浸るようになった近未来。人類は増え続けるデータに対処すべく、データ保存に特化した衛星アーカイブ・サテライトを打ち上げた。
その衛星へ送るデータを選別するアーキビストとして働いていた五塔重法は、不審な死を遂げた妻、エリコの死の真相を突き止めようと動き始める。
車椅子に乗る元探偵の老女、雪島時子と、一人息子を持つ備品管理課所属の刑事、冠木一獅、警官型アンドロイドのキャス、エリコの元同僚の荒角から協力を得た五塔は、宇宙素粒子物理学の研究者であったエリコが残した未完成の論文を頼りに、信じ難い真相にたどり着く。
エリコが言った日付の数字を入力したら、簡単にロックが外れて拍子抜けした。書きかけの研究論文なんて、研究所の機密情報だろう。もっと手こずると思っていたのに。研究所のセキュリティ対策のお粗末さに感謝して、USBメモリ専用のデータ抽出機の操作を進める。
長方形で手のひらサイズのデータ抽出機も、エリコが愛用していた品だ。少し操作すれば、全てのデータが一瞬で俺の各デバイスに送信された。論文のデータしか入っていなかったようだ。さっそくコンタクト型デバイスとピアス型携帯を起動して、読み始める。しかし全体に軽く目を通したところで、気が滅入ってきた。
散歩に行こう。コンタクトと携帯があれば、外でも論文は読める。そういえばクビになってから一度も外に出ていなかった。伸びた髪の毛を手櫛で整え、着古したモッズコートを着る。財布と鍵を掴んで外に出た。
もうちょっと厚着すべきだったと思いながら歩いていたら、広場に着いていた。エリコが最期に訪れた場所だ。冷たい石のベンチの端に座って、コンタクト型デバイスを瞬きで起動する。目の前に展開したホログラム画面に、難しい数式や単語が表示された。
指先でスクロールしながら論文の内容を掴もうとするが、上手くいかない。何回も出てくるエレクトロン・ピンボール粒子という単語しか、頭に入ってこない。頭を振り、肩を回し深呼吸をして。また難解な暗号のような論文に立ち向かおうとした時だった。
「素粒子、楽しいわよね」
人の声が聞こえて、全身が緊張する。反射的に横を見た。車椅子に乗っている上品そうな老婦人が、俺の真横で論文をしげしげと眺めている。言葉が出てこない。
「ああ、急にごめんなさいね。私も昔、素粒子にはまったことがあって。きちんと勉強したわけじゃないのだけどね。色々な素粒子の文献を、一日中読み漁っていた時期があるの。相棒だった人に気がおかしくなったんじゃないかって、本気で心配されちゃったわ」
楽しそうに思い出を語り始めた老婦人は、恥ずかしそうに片手で口元を覆った。身体の力が抜けて、自然と口が開いた。
「俺は、好きなわけではなくて。むしろ苦手なんですが、読んでくれと頼まれたんです。妻から」
「あら、素敵な奥様ね。この論文はもしかして奥様の?」
「はい」
いけない。喋りすぎてしまっている。見知らぬ老婦人の声は意外なほど力強い。圧倒されて、つい素直に答えてしまう。
「そうなのね。すごく集中なさってたから、声をかけづらくて。勝手に横で少し読んでしまったのだけれど、すごいわね。エレクトロン・ピンボール粒子なんて面白い素粒子を発見するなんて、天才だわ。奥様は長く素粒子の研究を?」
「はい。宇宙素粒子物理学を研究して、ました。最近亡くなったんです。まさに、ここで。警察には自殺だと片付けられましたが、俺は他殺だと思うんです。メモリアル・パレスで再生した妻のアバターが、妻の魂が、論文を読んでほしいと訴えてきたんです。それで、何か手がかりがあるんじゃないかと思って」
沈黙が流れ始めた。なぜ聞かれてもいないのに、初対面の人にこんなことまで喋ってしまうのだ。後悔するが時すでに遅し。見ず知らずの他人と適切な距離感で会話する術を、俺は忘れてしまったらしい。
「……辛いことを聞いてしまったわね。私、興奮するとつい喋りすぎてしまうの。ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ急にこんな話をして、すみません」
さっきまで饒舌だった老婦人は一気に静かになり、ぼんやりと広場全体を見回した。どうしたらいいか分からず、なんとなく真似してみる。
広場では数人のアンドロイドたちが子守をしたり、樹木や芝生を世話したりしている。ハーモニー社のロゴが入った服を着ていなかったら、アンドロイドか人間か見分けがつかないだろう。この広場に、生身の大人は数えるほどしかいないのだ。買い物や役所の手続きなどの生活に必要なことは、ほぼ全てネットで済む時代だ。現実よりも居心地のいい仮想現実の世界もあるし、日常の面倒事をなんでも引き受けてくれるアンドロイドたちも普及している。人間は自ら、広場や公園から姿を消した。しかし憩いの場はずっと存在し続けている。もう開かれることのない古いアルバムのように。
「今日もほとんど人間はいないのね。公共の場はあるのに、肝心な人間がいないなんて皮肉よね」
驚いて老婦人を凝視する。心の中の独り言が漏れていたのかと思った。
「私も大切な人を失ったわ。実は若い頃、ちょっと特殊な仕事をしていたの。ある時に小柄な男性が私のオフィスに乗り込んできてね、ぜひ僕に仕事を手伝わせてくださいって言ってきたの。よく見たらその人、ちょっと前に乗ったタクシーの運転手さんだった。その時に長い距離を運転してもらったものだから、暇つぶしになればと思って、過去の仕事の話をしたのよ。その下手な話をお気に召したようで、私のオフィスにまで来たってわけ。その時は追い返したけれど、その後もしつこく押しかけてきてね。根負けして、結局その人を助手にしたの。それから2人であちこち走り回って仕事して。忙しなくて楽しい日々だった。あの人は理想的な相棒で、本当に素直で健全な人だった。私なんかより、うんと長生きするだろうって思ってたけど、あっけなく病気で逝ってしまったわ。できるなら、私の残りの寿命をあの人にあげたかった。私はもう十分なのに」
「……その人は旦那さん、だったんですか?」
「いいえ、あの人と私の関係は恋愛関係とは程遠いものだったわ。どんなに一緒にいても、甘い雰囲気には絶対にならなかった。あの人の結婚式で友人代表の挨拶をしたこともあるのよ。奥さんも寛大な人で、私とあの人の関係を認めてくれて。最初はちょっと誤解されたけど」
穏やかな語り口に安心して、また無意識に言葉が出た。
「そうだったんですか。相棒か。そういう関係も良いですね。俺とエリコは、夫婦というよりも友達とか幼馴染みたいな関係で。夫婦っぽくないと、よく周りの人から言われました。あ、エリコというのは妻のあだ名なんです」
「エリコさんね。友達みたいな夫婦でも、それはそれでいいじゃない。人間関係は距離が近ければいいというものではないわ。人と人との距離には、ちょうどいい塩梅というものがあるのよ。私とあなたの距離は……もう少し縮まったほうがしっくりくるかも」
車椅子の老婦人は、俺の真正面に移動して俺と向かい合った。そして深々と頭を下げる。こちらも慌てて頭を下げた。
「初めまして。私は雪島時子と申します。冷たい雪降る島に、時間の時の子と書くの。あなたのお名前は?」
「五塔重法です。漢数字の5に、タワーの塔。重は重力の重で、法は法律の法。法隆寺の五重の塔をイメージしてもらえると覚えやすいかと」
「法隆寺の五重の塔……ふっ、ふふふ、本当ね。法隆寺の五重の塔だわ。ふふふ、ごめんなさい、おかしくって」
「はは、ははは、いいんですよ。俺もおかしいなぁって思うし。ははは」
今、俺は笑っている。さっきまでの緊張感が噓のようだ。信じられない。本当に自然に笑えている。こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう。
「ふふふ……。五塔さん、これから長い付き合いになる気がする。よろしくね。できれば時子と呼んでくださる?」
「はい。では時子さん、でいいですか?」
「ええ。ありがとう。この名前には今までの思い出が積み重なっている気がするのよね。だから大事にしたいの。最期まで」
最期という言葉を聞いて、時子さんの車椅子を凝視してしまった。初対面なのに聞いてもいいのだろうか。いや、時子さんも俺に色々質問してきた。大丈夫だろう。
「……時子さんは、その、お身体の調子は……」
「うん?ああ、もう高齢真っ盛りだから、元気とは言えない状態。自然なことだけれど。この広場の近所のシニアホームで暮らしてるわ。いつまでも頭だけは無意味にフル回転してるから、毎日退屈で仕方ないの。アンドロイドの介護職員さんたちにも、他の入居者さんたちにも大事にしてもらってる。でも快適すぎて刺激が足りないの。だから時々こうして無断で散歩しちゃう。私という奴は、本当に欲深い困ったちゃんだわ」
「え!無断で出てきちゃったんですか?」
「うん。本当に悪いとは思ってるのよ。でも、どうしても1人で外の空気が吸いたくて。遠くへは行かないし、一応書置きはしてあるし……」
自信に満ちていた時子さんの声が、力を失っていく。体調を崩したら大変だ。冷たい風も吹いてきた。上着を脱いで時子さんの肩にかけながら、身震いする。やはりもっと厚着すべきだったようだ。
「あら、ありがとう。でも五塔さんが寒いでしょうに」
「気にしないでください。風が強くなってきたし、そろそろお帰りになったほうがいいですよ。俺が送ります。道案内、よろしくお願いします」
時子さんの背後に回り、車椅子を少し押してみるが動かない。
「あらあら、何から何までありがとう。ちょっと待って。今ロックを外すから」
時子さんが車椅子の手すりにあるボタンを押すと、スムーズに動き始めた。車椅子を押しながら歩く感覚に慣れてくると、景色に目を向ける余裕が出てきた。
歩道に敷き詰められた銀杏の葉が、車椅子の車輪と俺の足によって踏み潰されていく。銀杏並木と青空は、仮想世界での紅葉の景色と似ている。いや、逆だ。こちらがオリジナルの景色だった。ここで生きていたはずなのに、つい忘れてしまう。
「子どもの頃は、よく銀杏の葉を集めて遊びました」
「私も。小さい子は銀杏の葉を集めたがるわよね。不思議。誰しも幼い頃は、黄色い落ち葉が宝石みたいに輝いて見えるのかしらね」
とりとめのない話をしながら、時子さんの案内に従って、ゆっくり歩く。広場の歩道を抜けて、無機質な雰囲気の大通りに出た時、若い女性が遠くから慌てた様子で走ってきた。
「ああ!時子さん!無事で良かった!」
女性の服装と慌てぶりから察するに、おそらく時子さん担当の介護士さんだろう。俺と目が合った時子さんは、バツが悪そうに目線を逸らした。
小さな粒は脆く、口の中ですぐに崩れる。飲み込んで、また粒を摘まんで口に入れた。卵ボーロなんて何年ぶりだろうか。美味しくて強烈に懐かしい。軽いスナック菓子のように次々と口に運んでいると、時子さんが嬉しそうに笑った。
「ふふふ、いい食べっぷりねぇ。いつまでも見ていられるわ」
「すみません、俺だけ食べちゃって」
「いいのよ、好きなだけ食べて。私がちょくちょく作るものだから、消費しきれなくて大量に余ってるのよ」
幼い孫のように扱われて気恥ずかしい。食べるペースを落とす。
時子さんを立派なシニアホームに送り届け、すぐに帰ろうとすると時子さんに引き留められた。広い談話室に通され、半ば強制的に時子さんお手製の卵ボーロをごちそうになっている。早く退散しなくてはと思いながらも、卵ボーロが止められない。
「お茶、お待たせしました。熱いので気を付けてくださいね」
「すみません、ありがとうございます」
アンドロイド介護士のクロエさんが、大きな湯飲みを持ってきてくれた。ちょうど水分を欲していたので助かる。
「うふふ、時子さんの卵ボーロ、美味しいでしょ?気難しい利用者さんも、この卵ボーロをおやつに出すとちょっと表情が緩むんです。利用者さんとの会話のきっかけになるので、私たちは大助かりですよ。私も実際に食べられたらなぁって思います。香りだけでも満足ですけどね」
恐る恐る熱い湯飲みに付けようとしていた口を戻す。アンドロイドのクロエさんは、食べられない。美味しい、という感覚は共有できないのだ。寂しい思いをする時もあるのだろう。
「クロエさんみたいに食べられない人も、香りで楽しんでもらえたらと思って、いつもバニラエッセンスは多めに入れるの。時々ココナッツパウダーとかシナモンとか入れてみたりもするわ。色々工夫するのが面白いの」
「なるほど。だからバニラの香りがしっかりするんですね。本当に美味しいです。今まで食べたボーロの中で一番ですよ」
ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめた時子さんに満足して、湯飲みを口に近づける。
「おお!時子さん!あぁ?お前は誰だぁ!」
突然の雷のような大声に縮み上がる。開いたドアから老紳士が大股で近づいてきた。思わず湯飲みを掴んだまま立ち上がる。
「あらあら、兼平さん。お久しぶりね。お元気そうでなにより。卵ボーロ、召し上がる?」
「久しぶりですなぁ。お元気でしたか!おお卵ボーロ、旨そうだなぁ!」
時子さんは顔色一つ変えずに老紳士を大人しく着席させた。心臓が早鐘を打つ。硬直しているとクロエさんが耳打ちしてきた。
「驚かせてすみません。利用者さんの井ノ坂兼平さんです。本人は普通の声量で話しているつもりなんですが、いつも大声になってしまうんです。それで他の利用者さんたちからは怖がられてしまって。時子さんだけは物怖じせずに接してくれるので、いつも2人で仲良くお喋りしてます。久しぶりって言ってましたけど、今朝も2人でお話しされてました。井ノ坂さんの中では時間が早く流れているみたいなんです」
「そ、そうなんですか」
「今のは五塔さんに、どなたですか?と聞きたかっただけなんだと思います。どうしても威嚇にしか聞こえない言い方になってしまうんです。本当に敵意はないんです。今まで誰にも暴力を振るったことはありません。でも怖かったですよね。ごめんなさい」
「いえ、俺は大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで」
豪快な笑い声が響く中、ただ立ち尽くす。他人にあんな大声で話しかけられたのは人生で初めてだ。動悸が治まってくると、なぜか少し清々しい心地になってきた。あの雷のような声のおかげで、心の中に居座っていた重苦しい雨雲が消えたような気がする。軽やかな気持ちで、今度こそお茶を飲もうと湯飲みを持ち上げた。
「あの人は五塔重法さん。私の新しい友達よ。広場で会って私が連れてきたの。とっても良い人。兼平さんもきっとそう思うわよ」
「おおそうだったのですか!どうもどうも!私は井ノ坂兼平です!」
もう少しでお茶をすすれるというタイミングで、素早く近づいてきた井ノ坂さんに片手を取られる。握手をされながら、もう飲めそうにないと諦めて湯飲みをテーブルに置いた。お互いに両手の握手をする。握手も久しぶりだ。井ノ坂さんは満面の笑みを浮かべている。両目の端は垂れて、目尻の深い皺に繋がっていた。
「時子さんの友人の五塔重法です。よろしくお願いします」
「よろしく!まぁ座ってください!卵ボーロ、食べるか?美味しいぞ」
「あ、さっきたくさんご馳走になりました。本当に美味しいですね」
「そうだろう!時子さんは世界一の菓子職人だからな!両足のことで気が滅入っていた時も、この卵ボーロに元気づけられたもんだ!魔法使いかもしれん!」
「まぁ嬉しい。でも兼平さん、世界一とか魔法使いとかは言い過ぎよ。お菓子はこの卵ボーロしかまともに作れないもの。クッキーで大失敗したの、覚えてるでしょ?」
「ああ!あの苦いクッキーですか!あれはあれで美味しかったですよ!」
「抹茶入れすぎちゃったのよね。それでも井ノ坂さんが全部食べてくれて助かったわぁ」
2人のテンポのいい会話を聞きながら、お茶を飲む。少しぬるくなっているが、口の中の乾きが満たされてほっとする。すぐに飲み干してしまった。
「あ、お茶のおかわり淹れましょうね」
クロエさんが俺の湯飲みを持って立ち上がった時、井ノ坂さんも立ち上がった。
「私がやりますよクロエさん!この鋼鉄製の両足なら疲れ知らずですからな!わはははは!」
俺の湯飲みを片手に勢いよく部屋を出ていく井ノ坂さんを、クロエさんが慌てて追いかけていった。
「兼平さんは両足の膝から下が義足なの。病気で切らざるを得なくてね。ここに来た時は義足になったという現実がまだ受け止められなくて、ふさぎ込んでたわ。私のおかげって言ってくれたけど、兼平さん自身の力なのよ。絶望から希望へ、過去から未来へ、心の舵を切ることは簡単ではないし、本人にしかできないもの。舵を切った後は嵐に耐えて、日照りに耐えて、乾きと飢えに耐えて、ようやく希望らしき影が見えてくる。誰の行く先にも希望の島があるとは限らない。ギャンブルみたいな航海に出るようなもの。兼平さんは嵐の夜に舟を出して、ついに希望の島を見つけたの」
大きなテーブルの中心に、天井窓から入る光が落ちている。その光は長く伸びて、俺の向かいに座っている時子さんと俺を繋ぐ橋になっていた。
希望の島なんて、見つけられる気がしない。でも俺も航海に出なくてはいけないのだろう。しかしエリコの無念を晴らさなければ、とても出航する気にはなれない。
「また難しい顔してる」
時子さんに指摘されて、眉間をさする。
「エリコがいなくなってから、眉間の皺が増えました。生きてる感覚が薄くて、なんだか俺が俺でないような気もします。エリコと一緒に、本当は俺も消えちゃったのかな、なんて寝る前に思ったり」
時子さんは静かにお茶を飲んでから、俺をじっと見つめた。
「私の確かな現実の一部として、あなたは生きて存在してるわ。少なくとも、この場所では。自分が生きているのかどうか自信が無くなったら、ここに来て確かめたらいい。準備なんて何も要らないわ。いつでも歓迎するから、またおいでなさい」
卵ボーロが盛られている白い皿が眩しい。俺はまだ消えていないようだ。
★お読みいただき、ありがとうございます!やっと時子さんが出せました…!
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