“嫌だ(NO)”と言えないことに、なぜそんなに共感が集まるのか。
最近、「嫌だ(NO)と言える人になりたい」という言葉を見た。
テレビでも観たし、記事でも似たような言い回しを見た。
たぶん多くの人にとって、それは共感しやすい言葉なのだと思う。
言えない。
断れない。
空気を壊したくない。
嫌われたくない。
波風を立てたくない。
そういう感覚は、たしかに珍しくないのだろう。
でも私は、その言葉が広く共感を集めることに引っかかった。
苦しさ自体が分からないわけではない。
「嫌だ」と言えない人がいることも分かる。
ただ、私が気になったのはそこではない。
なぜ、そこまで“言えないこと”そのものに共感が集まるのか。
私はそこに違和感があった。
多くの人は、「嫌だ」と言えないことの中に、繊細さや優しさを見る。
けれど、本当にそうだろうか。
本音を言って関係が壊れるのが怖い。
相手を不快にさせたくない。
自分が冷たい人間に見られたくない。
悪者になりたくない。
責められる側に回りたくない。
そう考えると、「嫌だ」と言えないことの中には、
優しさだけではなく、かなり強く自己保身も混ざっている。
それなのに世の中は、言えないことそのものを傷つきやすさや誠実さとして扱いがちだ。
私はそこに、妙な甘さを感じる。
「嫌だ」と言えないことは、本人の内面だけで終わらない。
曖昧な態度を受け取る側がいる。
察することを求められる側がいる。
はっきりしない空気を処理させられる側がいる。
つまりそれは、単なる“言えない苦しみ”ではなく、
周囲にコストを発生させる曖昧さでもある。
それでもなお、その曖昧さはよく美談のように扱われる。
言えないくらい繊細。
言えないくらい優しい。
言えないくらい傷つきやすい。
でも私は、そこまできれいなものには見えない。
むしろ、
「嫌だ」と言えないことより、
「嫌だ」と言わないことが許されすぎているように見える。
はっきり言えば済むことを曖昧にする。
断れば済むことを濁す。
境界線を引けば済むことを、空気に埋める。
その曖昧さが“やさしさ”として処理される世界は、
正直かなり不誠実だと思う。
たぶん多くの人は、「嫌だ」と言えない人に自分を重ねる。
自分も言えなかったことがある。
自分も空気を優先したことがある。
自分も嫌われたくなかった。
だから共感する。
でも、その共感の強さを見るほど、私は逆に思ってしまう。
結局人は、相手のことよりも、
自分が傷つかずに済む位置を守りたいだけではないのか、と。
私は、「嫌だ」と言えないことを美しいとは思わない。
それをただ弱さとして切り捨てたいわけでもない。
ただ、必要以上に美化されることに違和感がある。
言えないことは、未熟さでもある。
曖昧さでもある。
責任回避でもある。
そして時に、それは他人に処理を押しつける。
なのに、それがあまりにも簡単に
“人間らしさ”や“優しさ”の側に置かれる。
私にはその感覚が、小さい頃から、どうしても理解できない。
“嫌だ”と言えないことに、なぜそんなに共感が集まるのか。
私にはそれが、優しさというより、曖昧さを守りたい人間の自己保存に見える。
Nemesis - ASTRA -
前回のテーマ:
