優しさの顔をした自己保身
人はよく、断罪を嫌う。
厳しすぎる。
白黒つけすぎだ。
もっと事情を見るべきだ。
もっと優しくあるべきだ。
そんな言葉は、いくらでも並ぶ。
でも私はずっと思っている。
人は本当に、断罪そのものを嫌っているのだろうか。
たぶん違う。
嫌っているのは、もっと別のものだ。
自分にも返ってくる基準。
それを、人は嫌っているのだと思う。
誰かをはっきり裁くということは、
同時に、自分もまた裁かれうる世界を認めることになる。
雑さも、無責任さも、見て見ぬふりも、
いつか自分の側に返ってくるかもしれない。
だから人は、基準を曖昧にしたがる。
断罪を嫌うのは、優しいからではない。
少なくとも、それだけではない。
自分が責められる側に回る可能性を、無意識に知っているからだ。
だから社会には、奇妙な優しさがあふれる。
悪気はなかった。
そんなつもりじゃなかった。
反省している。
学びました。
そうやって、加害する側にはいくらでも逃げ道が用意される。
一方で、傷ついた側には冷静さが求められる。
大人であることを求められる。
配慮することまで求められる。
この構造は、どう見ても歪んでいる。
加害に甘く、被害に厳しい。
けれど多くの人は、それを優しさだと思いたがる。
空気を壊さないこと。
誰かを悪者にしすぎないこと。
丸く収めること。
そういうものが、美徳のように扱われる。
でも、その“丸さ”の裏で、誰が余計に傷ついているのか。
誰が曖昧さのコストを払っているのか。
そこはあまり見られない。
結局、人は他人を見ているようで、
本当に見ているのは他人からどう見えるかなのだと思う。
厳しい人だと思われたくない。
冷たい人だと思われたくない。
空気を壊す側に見られたくない。
優しい人でいたい。
その自己像の防衛が、
責任の輪郭をぼかしていく。
私は、そこにずっと違和感がある。
断罪を避けることが、なぜそんなに美しいもののように扱われるのか。
基準を曖昧にすることが、なぜそんなに人間的だとされるのか。
私にはどうしても、そこが腑に落ちない。
むしろ逆だと思う。
曖昧さは、時々とても残酷だ。
優しさの顔をして、人を見捨てることがある。
責任をぼかし、被害者を置き去りにすることがある。
それでも人が断罪を嫌うのは、
断罪が間違っているからではない。
その秩序が、自分にも適用されるのが怖いからだ。
私はたぶん、そういう“優しさ”を優しさだと思えない。
空気の安定より、構造の歪みが先に見えてしまう。
だから、丸く包まれた言葉に安心できない。
人は断罪を嫌うのではない。
自分が裁かれることを嫌うのだ。
優しさに見える曖昧さは、時々ひどく残酷だ。
そして私は、その残酷さを“人間らしさ”として美化する気になれない。
Nemesis - ASTRA -
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