【短編小説】#3「虹の浮橋〜女の誇りは髪に宿る〜」
第三話 化け物女房と雷亭主
箱根の険しい山道を転がり落ちるようにして、三島宿へ辿り着いたお蓮と市太郎の親子は、耳を劈くような怒声に出くわした。
「この、おたんこなす! さっさと動かねえか!」見れば、街道沿いの薄汚ねえ煮売茶屋で、亭主の権蔵ってえのが真っ赤なツラして吠えてやがる。
その前で、髪はひっつめ、埃まみれの木綿を引っ掛けた女房のお民が、幽霊みたいに震えてやがった。「すみません。腰が抜けるようで……。」
「言い訳してんじゃねえ! 客が寄りつかねえのはな、お前のその、掃き溜めみたいなツラを見てると 運が逃げるからよ!」
お蓮は、その様子を鼻で笑って眺めていた。お民の髪は油気もありゃしねえ。まるで雨に打たれた野良犬だ。
「……市、腹が減ったね。ここで一膳かっ込んでいこうじゃないか!」お蓮は市の頭をぽんと叩き、暖簾を跳ね上げた。
「へい、いらっしゃい……って、なんだい女子供か。銭は持ってるんだろうな!」権蔵がふんぞり返って鼻を鳴らす。
お蓮は懐から一分銀を放り出し、ニヤリと笑った。「お代はたっぷり弾むよ。その代わり、このお内儀さんをちょいと借りてもいいかい?」
「あ? こいつをか?」「ああ。あまりに店の空気が湿っぽくてね。これじゃ、福の神も尻をまくって逃げ出しちまうよ!」
お蓮はお民の手をひっ掴むと、驚く間も与えず裏の井戸端へ連れ出した。「お内儀さん、鏡を見てごらん」
手鏡を差し出されたお民は、情けなく首を振った。「……見たくもありやせん。私は化け物みたいだって、あの人に毎日言われてるんです。」
「笑わせるんじゃないよ。あんたはただ、自分を慈しむってえことを 忘れちまっただけさ。」
お蓮は懐から、あの『鉄火の櫛』と伊勢の香油を取り出した。指先が髪に触れた瞬間、お蓮の目が据わった。それは髪を解くんじゃない。
お民の心にこびり付いた亭主の罵詈雑言を、一本残らずこそげ落とすような凄まじい手つきだった。しゅっしゅっと櫛が髪を通る音が響く。
「いいかい、髪は女の誇り。ここがシャンとすりゃあ、 背筋が伸びる。背筋が伸びりゃ、 男ごときの色に怯える必要なんてありゃしないんだよ!」
お蓮はお民の丸まった背中をぴしゃりと引っぱたいた。 「さあ、胸を張りな!」 結い上げたのは、粋で鯔背な『高島田』の崩し。
毛先まで艶めき、うなじを白く際立たせるその姿は、お民の中に眠っていた「女の凄み」を力ずくで引き出していた。
お蓮は仕上げに、お千代の形見の紅を お民の唇に一差しした。「さあ、戻るよ。化け物はどっちか教えてやりな。」
茶屋に戻れば、権蔵が相変わらず管を巻いてやがった。「遅えんだよ! いつまで油売って……」権蔵の言葉が、喉に詰まった。
暖簾の向こうから現れたのは、見違えるほど凛とした女だ。 艶やかな髪を揺らし、獲物を狙う猫のような眼差し。とても自分の女房とは思えねえ。
「……お、お民……か?」
「ええ、そうですよ」
お民の声は、地の底から響くように低く、力強かった。
彼女は権蔵が抱えていた酒徳利をひったくると、 そのまま庭へぶちまけた。 「な、何をさらす!」
「うるさいよ、この雷亭主。あんたのツラ見てると、商売の邪魔だって言ってんだよ。さっさとその垢じみた手拭いを洗ってきな!」
「な、なんだと……ッ!」権蔵が反射的に手を上げようとした瞬間、 お民は一歩も引かずに睨み返した。
髪の美しさが、彼女に鋼のような自信を与えていた。
「打てるもんなら打ってみな! その間に、 この店はあたしが一人で立て直してやるよ」
「あんたは隅っこで、おとなしく洗濯でもしてな!」
その迫力に、権蔵は腰を抜かした。 ガタガタと膝が笑う。
「……あ、ああ、分かったよ。 そんなに怒るなよ、お民……」 雷亭主はみるみる縮こまり、タライを抱えて這いずっていった。
その様子を、茶屋の隅で見ていた市太郎が目を丸くしている。「かか様、おじさんが洗濯してる……!」「ふふ、髪が変われば、立ち位置も変わるの。面白いでしょ。」
翌朝、三島宿には驚くべき噂が飛んだ。『化け物女房が美女に化け、 雷亭主が大人しく洗濯に励んでいる茶屋がある。』
店には「自分もあやかりたい」と女たちが押し寄せた。お蓮は山のような野菜とお代を懐にねじ込むと、 再び柄杓を手に取った。
「さて、市。次はどの辺の女の意地を叩き起こしてやろうかね。」
「かか様、次は山道だよ! 佐助さんも来てるかな?」
「さあね。あの方は、影のようにしつこいからねぇ」
お蓮がふと振り返れば、松並木の影にジッとこちらを見据える男の気配。御庭番・佐助だ。彼は、お蓮が結うのは単なる髪じゃなく、「民衆の魂」であることを、その目に刻みつけていた。
虹の浮橋への旅路は、まだ始まったばかりだ。
(第三話 完)
