【短編小説】#2「虹の浮橋〜女の誇りは髪に宿る〜」
第二話 出立の朝
明け方の深川は、霧に包まれていた。お蓮は長屋の戸締まりを確かめると、小さく溜息をついた。住み慣れたこの場所に戻ることは、もう二度とないだろう。
「おっ母、重くない? 代わろうか」 市太郎が、自分よりも大きな荷物を背負おうとして背伸びをする。 中身はわずかな着替えと、お千代から託された絵姿、そして――。
「いいんだよ、これはおっ母の命だからね」 お蓮の背中には、風呂敷に包まれた髪結い道具一式がある。 お上の目を盗み、命を削るようにして使い込んできた鉄火の櫛と鋏。 それは江戸では罪の象徴だが、この旅路では希望の武器になるはずだった。
二人は深川を抜け、日本橋へと向かった。 道ゆく人々は皆、下を向いて歩いている。天保の改革は、人々の歩幅さえも狭めていた。 そんな中、お蓮は台所から持ち出した一本の『柄杓』を、あえて目立つように手に持った。
「お蓮さん、いいかい。その柄杓は、ただの道具じゃない」 出立の直前、長屋の隠居が教えてくれた知恵を反芻する。「これを持っていれば、あんたたちは『おかげ参り』の巡礼だ。役人も情けをかける。」
伊勢への旅は、お上の許可なく家を空ける『抜け参り』として、特別な社会的黙認があった。 柄杓一本あれば、一文無しでも道中の「施行」で食いつなぐことができる。それは過酷な法をくぐり抜けるために、民衆が生み出した唯一の「虹の道」だった。
品川の宿を抜け、多摩川を渡る頃、市太郎の草履の鼻緒が切れた。「痛くないよ」と強がる息子を道端に座らせ、お蓮が鼻緒を直していると、一人の身なりの良い老人が足を止め、お蓮の持つ柄杓に数文の銭を放り込んだ。
「徳を積ませておくれ。お伊勢さんによろしくな。」老人はお蓮の返事も待たず、にこやかに去っていった。お蓮は柄杓の中の銭を見つめ、初めて胸が熱くなった。
「市太郎、見たかい。これが情けっていうものだよ」
「うん。おっ母、伊勢には本当に神様がいるんだね」
偽りの巡礼だと後ろめたさを感じていたお蓮の心に、小さな光が灯った。
だが、その光をかき消すような冷たい視線が、常に二人の背後にあった。 道中の暗がり、木陰、あるいは行き交う旅人の群れの中に、その「影」は潜んでいる。御庭番・佐助。お蓮の首にかけられた見えない鎖は、まだ外れてはいなかった。
最初の難所、箱根の関所が近づいていた。「入り鉄砲に出女」と言われ、女性の通行には極めて厳しい取り締まりが行われる場所だ。お蓮は自分の着物の合わせを確かめ、奥に隠した櫛の感触を指でなぞった。
もしも女髪結いであることが露見すれば、即座に捕縛、あるいは処刑もあり得る。「市太郎。もしおっ母が捕まったら、あんたはこの柄杓を持って一人でも行くんだよ」 「嫌だ! そんなの絶対嫌だよ!」
市太郎が泣きそうな声でお蓮の袖を引く。お蓮は息子の肩を抱き寄せ、自分を鼓舞するように頷いた。 「冗談だよ。おっ母は天女の手を持ってるんだ。狐にだって化かして見せるさ」
関所の門が開く。役人たちの鋭い眼光が、旅人一人ひとりを射抜く。お蓮は柄杓を高く掲げ、市太郎の手を強く握った。 「お伊勢へ、おかげ参りに参ります。」
役人の一人がお蓮の前に立ち、その荷物を検めようと手を伸ばした。 その時、どこからか「おかげ参りの子供を止めるなど、神罰が当たりますぞ」 という野次馬の声が上がった。それは、どこか聞き覚えのある、涼やかな声だった。
役人は一瞬ためらい、お蓮の掲げた柄杓と震えながらも真っ直ぐな瞳の市太郎を見た。「……信心深いのは結構だが、道中は気をつけることだ。通れ!」重い門が開き、お蓮たちは一歩、箱根の山へと足を踏み入れた。
背後の群れの中で、佐助が静かに刀の柄を撫でていた。 「……神仏の加護か、それともただの運か。面白い女だ。」 佐助は捕縛する機会をあえて逃し、さらにその先を見届けることに決めた。
もう辺りはすっかり暗くなり、山の宿場外れにある古びた茶屋。 お蓮はそこで、長旅で髪がボロボロに乱れた飯盛女たちに出会う。 「そんな頭じゃ、神様も知らん顔だよ、ちょっとお座り。」
お蓮は、禁じられていたはずの鉄火の櫛を取り出した。道具を出すことは危険を伴うが、お蓮の職人としての血が、それを許さなかった。お蓮の指が、女たちの泥にまみれた髪を鮮やかに解いていく。
「あら……まあ! これ、私?」 鏡代わりの水盆を覗き込み、一人の女が声を上げた。荒んだ表情が、髪を整えただけで、凛とした一人の女性へと生まれ変わっていた。
「お蓮さん、あんた何者だい。こんなに綺麗にしてもらったの、生まれて初めてだよ。」 女たちは涙を流して喜び、お蓮の柄杓に、自分たちのわずかな食事を分けてくれた。 これが、お蓮にとって初めての、自らの「腕」で得た旅の糧だった。
翌朝、二人はまた歩き始める。 背後を振り返れば、朝靄の中に江戸が消えていく。 前方には、まだ見ぬ百二十五里の道が、虹のように遥か遠くへ続いていた。
「おっ母。お千代さんも、今頃笑ってるかな」
「ああ。きっと、空から道案内をしてくれてるよ」
お蓮は柄杓を杖代わりに、一歩一歩、親友の待つ伊勢へと踏み出した。
(第二話 完)
※最新話は21時ごろ更新予定です。
