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【短編小説】#10(終)「わたし、その夢、売ります!」―Dreams for Sale―

第10話(最終話)夢が帰る場所


スマホの画面には、まだ三日月屋から届いた文字が残っていた。【お探しの方を、思い出されましたか?】その下に、もう一つ。【続きをご覧になりますか?】小夜は親指を画面へ置けないまま、テーブルの端に立てかけた古い写真へ目をやった。青い庇の下にはノートや鉛筆のワゴンが並び、その前に赤い靴の少女がいる。店の入口には、エプロン姿の遠野綾子とおのあやこが立っていた。

名前まで分かったのに、その顔を見ていると、胸の奥にまだ触れられていない場所がある。火事の日のことも少しずつ戻ってきたし、自分を探して遠野が建物へ入ったことも知った。それでも、夢の中で何度も聞いた声が何を求めていたのか、赤い靴で走った先に何があったのかは途中で途切れている。小夜は写真からスマホへ視線を戻し、【続きをご覧になりますか?】の文字をもう一度読んだ。何を見るのか分からない怖さより、ここで閉じてしまう方が今は怖かった。

「……見せる気なんだ」

画面の上で親指が一度だけ止まる。小夜は写真の中の遠野へもう一度目を向け、小さく息を吸ってから【見る】へ触れた。文字が淡く沈み、画面の奥から青白い光が滲んでくる。視界が白くなる直前、遠野の顔を見つめたまま、小夜は声を落とした。返事などあるはずもないのに、その一言だけは置いていきたかった。

「行ってきます」

画面の光が視界いっぱいに広がり、テーブルへ触れていた指先の感覚が薄くなる。最後まで残っていたのは、写真の中の青い庇だった。その色へ手を伸ばしかけたところで意識が沈み、暗闇の向こうから水の音だけが近づいてくる。耳へ届く音が少しずつ大きくなり、やがて足元まで冷たい気配が上がってきた。

最初に戻ってきたのは、その水の音だった。小夜が目を開けると、足元のすぐ先を大きな川が流れている。夜とも明け方ともつかない藍色の空が水面へ映り、向こう岸は霞んで輪郭さえはっきりしない。水の上には何艘もの小舟があり、それぞれ誰かを乗せ、音もなく岸と岸の間を行き交っていた。小夜はその場から動けず、目の前を横切る舟を一艘ずつ追った。

「……三日月屋?」

帽子を深く被った者、白い服を着た者、顔さえよく見えない者たちが川のあちこちにいる。その向こうには、大きな泡のようなものがいくつも浮かび、淡い光を含みながらゆっくり揺れていた。小夜は目を細め、一番近くにある泡の中へ視線を向ける。白髪の男が誰かと食卓を囲み、別の泡では母親らしい女性に髪を結ってもらう少女が笑っている。その少し先では、布団の中で両耳を塞いだ子どもが膝を抱えていた。

笑っている夢もあれば、泣いている夢もあり、そのどちらとも言えないものまで混じっている。知らない人ばかりなのに、見てはいけないものを覗いている気はしなかった。むしろ、どこかで一度見たような妙な懐かしさがあり、小夜は泡の向こうに残る表情を一つずつ追った。気づけば呼吸が浅くなり、水際へ一歩近づいていた。

川面へ細長い影が伸びてきた。こちらへ向かう小舟の先に、見覚えのある黒いつば広帽子がある。その姿が近づくほど、小夜の胸に溜まっていた言葉まで一緒に浮かび上がってきた。舟が岸へ寄り、三日月がいつものように軽く頭を下げる。その落ち着いた仕草を見ただけで、小夜の眉間に皺が寄った。

「お待ちしておりました」
「待ってたなら、最初から呼んでよ」
「お呼びしたつもりですが」
「あれを呼んだって言うの?」
「お越しになりましたので、問題はなかったかと」
「そういうところ、本当に嫌い」

三日月は口元だけで笑い、小舟を岸へ寄せた。差し出された手を小夜は一度見たものの、取らずに自分で舟へ足を掛ける。向かいへ座った三日月が何もしないうちに舟は岸を離れ、水面をゆっくり滑り始めた。小夜は遠ざかる岸を見ながら膝の上で指を組み、強く握っていたことに気づいて力を抜く。指先に残った痛みを確かめてから、ようやく三日月へ顔を向けた。

「続きをご覧になるのでしょう?」
「……そのために来た」
「では、ごゆっくり」
「その前に聞いて」
「はい」

小夜は一度だけ息を吸った。白い羊を抱いていた芽衣の腕、久我の痣、暗いままの志保のスマホが、順番もなく浮かんでくる。どれも、自分が夢を売ったあとに誰かの夜へ残ったものだった。三日月は何も急かさず、舟の揺れに身体を任せている。小夜は膝の上で指を重ね直し、その顔をまっすぐ見た。

「誰かを不幸にしたかったわけじゃない」
「……」
「私も、ただ眠りたかった」

水が舟底へ当たる音だけが続いた。あの夜、布団の中でスマホを握っていた自分の手が戻ってくる。誰かの顔など一人も浮かべず、朝まで眠れればいいと思っていた。小夜は目を伏せたまま、指先をゆっくり開いた。三日月の返事を待たず、次の言葉を口にした。

「あなたは、それを均衡だって言ったよね」
「申し上げました」
「これ、均衡じゃないよ」
「では、何でしょう」

舟の横を小さな泡が通り過ぎ、白い羊を抱えた芽衣が一瞬だけ見えた。次の泡には午前三時十七分の時計を見つめる久我がいて、その先では浅葱の指が《配送》の上で止まり、さらに遠くには璃子の姿もある。小夜はどれからも目を逸らさず、泡が水面を流れていくのを見送った。胸の奥で引っかかっていた言葉が、ようやく形になる。

「理不尽だよ」
「ええ」
「……え?」
「その通りかと」
「認めるの?」

身を乗り出した拍子に舟が揺れ、小夜は慌てて縁へ手をついた。三日月は帽子を押さえただけで、声も表情もほとんど変えない。言い返されると思っていたぶん、あっさり認められたことの方が腹立たしかった。小夜は舟が落ち着くのを待ちながら、じっと相手を見る。

「わたくしどもが、理不尽を作ったわけではございませんので」
「じゃあ誰が作ったの」
「さて」
「逃げないでよ」
「逃げてはおりません。人は昔から、抱えきれないものをどこかへ置いていきたがるものです」
「抱えきれないもの?」
「痛みも、厄も、忘れられない人も」

小夜は反射的に言い返しかけ、唇を閉じた。舟の縁を握っていた指が、ゆっくり緩んでいく。水面を別の舟が横切り、知らない誰かを向こう岸へ運んでいった。三日月は何も足さず、小夜が口を開くのを待っている。小夜はその背中を目で追いながら、喉まで出てきた言葉を絞り出した。

「だったら、あなたたちがいなくなれば……」

最後まで続かなかった。眠れないだけで一日が怖くなり、朝を迎えるためなら何でもいいと思っていた夜が先に浮かんだ。あの画面に【売る】と出た時、自分は迷いながらも押した。その指の冷たさまで戻り、小夜は膝の上で両手を重ねる。三日月の声が、静かにその記憶へ重なった。

「わたくしどもがなくなれば、皆様はご自分の夢を抱えたまま眠れますか?」

小夜は顔を背けた。答えようとしても、言葉が見つからない。自分自身が三日月屋を必要とした夜を知っている以上、「そんなもの必要ない」とは言えなかった。しばらく川を見つめてから、小夜は小さく息を吐く。それでも、三日月の言い方が気に入らないことだけは変わらなかった。

「……ずるいね」
「よく言われます」
「絶対、言われてないでしょ」
「どうでしょう」

三日月の声には、からかっているのか本気なのか分からない響きが混じっていた。小夜は呆れて前を向き、遠ざかっていく泡を見送った。水面へ落とした視線を上げないまま、しばらく黙っている。舟は何事もなかったように、ゆっくり先へ進んでいった。

「……なくなってなかったんだね」
「……」
「ねえ、夢って誰のものなの?」
「それを決めたがるのも、人間です」
「またそういう言い方」
「よく言われます」
「今のは絶対、さっきの使い回しだから」

三日月の口元が少し上がった。小夜もつられて笑いかけたが、その先に浮かんだ大きな泡を見た瞬間、喉が止まる。他の泡より輪郭が濃く、その中には見覚えのある色があった。青い庇。その下に、小さな赤い靴が見える。

「……遠野さん」

舟がゆっくり止まった。小夜は立ち上がることもできず、泡の中から目を離せない。青い庇の向こうで煙が動き、視界の奥へ古い廊下が現れる。鼻の奥に焼けた匂いが入り、小夜は思わず息を止めた。舟の上にいるはずの足先まで、冷たくなっていった。

煙の向こうを、赤い靴を履いた幼い小夜が走っている。壁も天井も霞み、足元だけがやけにはっきり見えた。舟にいる小夜の喉まで焼けるように痛み、咳を堪えるように口元へ手を当てる。少女は何度も後ろを振り返り、それでも足を止めない。その時、奥から声が飛んできた。

「小夜ちゃん!」

今の小夜まで身体を強張らせた。煙の向こうからエプロン姿の遠野が現れ、幼い小夜の前へ膝をつく。少女は泣くこともできず、遠野の服を両手でつかんだ。舟の上の小夜も、知らず自分の膝へ指を食い込ませる。遠野の声だけが、煙の中ではっきり聞こえていた。

「小夜ちゃん、こっち」

遠野の腕が背中へ回る。廊下の奥で何かが崩れた音に、小さな身体がびくりと跳ねた。舟にいる小夜も肩を震わせ、泡の向こうへ少し身を寄せる。遠野は少女の顔から目を離さない。煤のついた頬の向こうで、その目だけが普段と変わらなかった。

「大丈夫。走れる?」
「……」
「小夜ちゃん」

幼い小夜は返事もできず、その顔を見つめている。遠野は一度だけ強く頷き、背中へ回した手に力を入れた。その瞬間、今の小夜の胸が大きく鳴る。泡の外にいるはずなのに、背中を押された感触まで戻ってきた。

「走って!」

赤い靴が床を蹴った。幼い小夜は階段を駆け下り、三段目だけを飛ばし、外から差し込む明るさへ向かって走る。舟の上の小夜も知らず足先へ力を入れ、一段飛ばすたびに胸の奥まで同じ衝撃が返ってきた。少女の息と自分の息が重なり、やがて小さな身体が外の光へ飛び出す。

大人の腕が幼い小夜をつかんだ。サイレン、大声、煙の匂いが一度に押し寄せ、何が起きているのか分からないまま少女が振り返る。遠野も少し遅れて外へ出てきた。舟の上の小夜の胸が大きく上下する。助かった、と言いそうになった声が喉の途中で止まった。

「遠野さん……」

今の小夜が呼んでも届かない。遠野は息を切らしながら周囲を見回し、近くにいた男へ顔を寄せる。その横顔を見た途端、小夜は身を乗り出した。遠野の視線は幼い小夜ではなく、煙の上がる建物へ向いている。何かを探す目だった。

「もう一人は?」
「え?」
「さっき、中に子どもが……」

遠野が建物へ目を向ける。誰かが腕をつかみ、その身体を止めようとしたが、遠野は振りほどいた。舟の上の小夜は思わず腰を浮かせ、泡の向こうへ手を伸ばす。指先に触れるのは冷たい空気だけで、遠野の背中はそのまま煙へ近づいていった。

「待って!」

声を張っても泡の中には届かない。遠野の姿はそのまま煙に呑まれ、見えなくなった。道路の端では、幼い小夜が両耳を塞いでいる。赤い靴のつま先だけを見つめ、顔を上げようとしない。今の小夜はその少女を見たまま、しばらく動けなかった。

「私じゃ……なかった」

三日月は何も言わない。小夜は息を吸おうとしてうまく入らず、もう一度ゆっくり吸い直した。煙の向こうから遠野は戻ってこない。幼い自分はまだ両耳を塞いでいる。小夜はその赤い靴と、遠野が消えた入口を何度も見比べた。

「私を探しに戻ったんじゃ……」

喉の奥で声が途切れた。小夜は何度か呼吸を繰り返し、煙の向こうを見続ける。あの日の自分が何を思っていたのか、二十八歳になった今でも全部は分からない。ただ、胸の奥に長く残っていた言葉が、ようやく口の外へ出てきた。

「私、ずっと……自分が戻らせたと思ってた」

三日月から返事はなかった。小夜も、もう求めなかった。遠野が最後に何を考えていたのかは今も分からないし、知らないことはまだ残っている。小夜は頬へ触れ、指先についた涙を一度見てから膝へ戻した。泣いたことさえ、今はそのままにしておきたかった。

「……遠野さん」

泡はゆっくり舟から離れていった。小夜は遠ざかる青い庇を、見えなくなるまで追った。赤い靴の少女も、煙も、やがて淡い光の中へ溶けていく。視界から消えたあとも、小夜はしばらく同じ方向を見ていた。その横で、三日月は何も言わなかった。

しばらく小夜は何も話さなかった。川の流れだけを見ていると、三日月が懐から細長い札を取り出し、二人の間へ差し出す。小夜は嫌な予感がして、札を見る前から眉を寄せた。三日月はいつもの仕事をするような手つきで札を軽く傾け、その表面へゆっくり文字を浮かばせる。

「最後に、一件だけご提案がございます」
「まだ商売するの?」
「商売人ですので」

【遠野綾子に関する記憶】その下に、もう一つ。【買取可能】。小夜はすぐには手を伸ばさず、札と三日月の顔を交互に見た。最後には指先で受け取ったものの、その軽さに一度だけ目を伏せる。二十八年間、自分を夜中に起こし続けたものが、指二本で持てるほど薄かった。

「……これを売ったら?」
「火災に関する記憶も、それに伴う夢も、お客様の中から失われます」
「三時十七分も?」
「おそらく」
「遠野さんのことも?」
「はい」

小夜の親指が札の端を撫でた。返そうと思えば返せるのに、指はすぐに動かなかった。売れば、もう呼ばれずに済む。赤い靴も、煙も、半開きの扉から伸びた白い手も見なくていい。紙の縁を何度もなぞっているうちに、少しずつ角が曲がっていった。

三日月は急かさず、向かいで黙っている。小夜は曲がった角に気づいて指を緩め、その瞬間、煤で汚れた遠野の頬が浮かんだ。札を握る力が少し抜ける。それでも手放さず、小夜はしばらく紙の表面を見つめたあと、ゆっくり三日月へ目を上げた。

「これを売ったら、誰に行くの?」
「どなたかへ」
「その人、遠野さんを知らないよね」
「存じ上げないでしょう」
「私の赤い靴も?」
「知りません」
「青い庇も?」
「知りません」

小夜は札へ目を落とした。指が紙の角で止まる。

「じゃあ……ただ怖いだけの夢になるんだ」

三日月は答えなかった。小夜はもう一度だけ札を見た。少し前まで手放せば眠れると思っていたはずなのに、今は名前も知らない誰かが午前三時十七分に目を覚ます姿の方が先に浮かぶ。理由も分からず時計を見つめる手まで見えた気がして、小夜は札を三日月へ差し出した。

「売らない」
「理由を伺っても?」
「これは、私のだから」

三日月は両手で札を受け取った。それ以上は何も訊かず、そのまま懐へ戻す。小夜も言葉を足さず、空になった手を膝へ置いた。指先にはまだ薄い紙の感触が残っている。それでも、その手をもう一度伸ばすことはなかった。

札が懐へ戻ったあと、小夜は三日月の胸元にある青い石へ目を止めた。長い間引っかかっていたことが、今さら妙にくだらないことのように思えてくる。それでも訊かずに終わるのは少し悔しい。小夜は身体を起こし、三日月の顔を覗き込むようにした。向こうも何事かと目を向けた。

「一つだけ訊いていい?」
「どうぞ」
「なんでサファイアだったの?」
「成瀬様の誕生石ですので」
「……それだけ?」
「はい」

小夜は思わず目を丸くした。

「青い庇も、青いインクも、サファイアも、全部つながってるのかと思ってた」
「意味を見つけるのがお好きですね、人間は」
「夢を商売にしてる人に言われたくない」

三日月が笑った。小夜も少し遅れて笑い、肩から力を抜く。重い話ばかりしていた舟の上で、ようやく普通に息を吐けた気がした。舟の先にはいつの間にか岸が近づいており、小夜はそこへ目をやってから、ふと思い出したように三日月へ向き直った。

「三日月屋さん」
「はい」
「あなたは夢を見ないの?」

三日月は答えなかった。小夜も急かさず、その横顔を見ていた。何を訊いても一言は返してきた男が、今度だけは前を向いたまま口を開かない。水の音だけが舟の脇を流れ、岸は少しずつ近づいてくる。やがて三日月が、問いとは違う言葉を返した。

「そろそろお着きです」

小夜はそれ以上訊かなかった。立とうとした途端、膝から力が抜けて舟の縁へ手をつく。さっきまで張りつめていた身体が、今になって眠気を思い出したようだった。瞼を擦ってみても重さは取れず、小夜は苦笑しながら舟の底へ腰を下ろす。背中を丸めた途端、身体がもう起きていたくないと訴えてきた。

「……眠い」
「どうぞ」
「舟の中で寝ても大丈夫?」
「皆様、よく眠られます」
「ここで?」
「ここだから、でしょうか」

小夜は舟の底へ身体を横たえた。硬いはずの板が気にならず、川の揺れだけが背中へゆっくり伝わってくる。瞼を閉じると、声を出すことさえ面倒になり、舟の縁を流れる水の音が少しずつ遠ざかる。それでも一つだけ、言っておきたいことが残っていた。小夜は目を閉じたまま口を開いた。

「三日月屋さん」
「はい」
「もう私の夢、誰かに渡さないで」
「承知いたしました」

小夜は胸の奥に残っていた息を吐いた。少し間を置いて、三日月の声が聞こえる。瞼を開こうとしても、もう身体が言うことを聞かない。何それ、と訊きたいのに唇も重く、舟の揺れだけが次第に遠くなっていく。その声だけが、眠りへ落ちる寸前の小夜を追ってきた。

「ただし、夢はわたくしどもの所有物ではございません」

小夜は眉を寄せた気がした。意味を訊く前に意識がさらに深く沈み、三日月の姿も川の音も遠ざかっていく。それが本当に聞こえたのか、もう夢の中だったのか分からない。ただ、その言葉だけが小夜のどこかへ引っかかり、最後にもう一度、遠くから三日月の声が届いた。

「成瀬小夜様。良い夢を」

頬が痛かった。何か硬いものへ押しつけられている感覚に眉を寄せ、小夜はゆっくり目を開ける。視界のすぐ近くに白い紙があり、その向こうにキーボードが見えた。耳へ入ってきたのは水音ではなく、電話の声と誰かがキーを叩く音だった。小夜は瞬きを繰り返しながら、ゆっくり顔を上げた。

「……ん?」

身体を起こすと、コピー用紙の角の跡が頬へ残っている。窓の外には昼の東京があり、信号が変わるたび歩道の人が一斉に動き出す。小夜は慌ててスマホを手に取った。十二時十七分。数字を見た指が、そのまま画面の上で止まった。

「会社……?」
「そうだよ」

横から声がして、小夜は振り向いた。莉奈が空いている隣の席へ座り、紙袋を机の上へ置く。小夜の顔を見た途端、吹き出しそうになって口元を押さえた。その顔を見て、小夜は頬へ触れ、コピー用紙の跡を指でなぞる。莉奈がますます笑いそうになった。

「何、その顔」
「私……寝てた?」
「ものすごく」
「いつから?」
「知らない。来たら死んだみたいに伏せてた」
「言い方」

莉奈が笑いながら紙袋へ手を入れた。

「はい」
「何?」

目の前へ置かれたものを見て、小夜は瞬きをした。丸くふくらんだクリームパンは、いつも鞄から取り出すものと違って、どこにも潰れた跡がない。袋の上から指で軽く押すと、柔らかなパンがすぐ元の形へ戻る。小夜はもう一度だけ押してみた。莉奈は得意そうに腕を組んでいる。

「……なんでクリームパン?」
「かわいそうだから」
「何が?」
「小夜のクリームパン」
「私の?」
「毎朝、通勤ラッシュに負けてるじゃん。袋から出すたび潰れててさ」

莉奈は自分の分も取り出し、机へ置いた。

「近くにパン屋できたから、昼前に買ってきたんだ。今日はまだ誰にも潰されてないよ!」
「物凄く気が利くね。優しい子ね」
「もっと褒めていいよ」

小夜は笑いながらクリームパンへ手を伸ばした。袋を開けようとした瞬間、莉奈が何かを思い出したように「あ」と声を上げる。小夜の指が袋の端をつまんだまま止まった。何気ない声だったのに、次の一言だけが妙にはっきり耳へ入る。小夜は莉奈へ顔を向けた。

「そういえば私、夢見た」
「夢?」
「うん。珍しくない? 私、布団入ったら爆睡して、気づいたら朝なのに」
「どんな夢?」
「何の脈絡もないんだけどさ、一昔前の文房具屋」

小夜の指が止まった。莉奈は気づかず、自分のクリームパンの袋を開けている。聞き間違いかもしれないと思いながら、その横顔を見る。胸の奥がほんの少しだけ速くなり、指先から袋の感触が遠のいていく。莉奈は夢の続きを、何でもない話のように続けた。

「おばちゃんと、小さい女の子がいた」
「……」
「二人でクリームパン食べてんの。半分こして」
「……半分こ?」

声が掠れた。莉奈の口がまだ動いているのに、その声が少しずつ遠くなる。代わりに、紙と鉛筆と甘いパンの匂いが鼻の奥へ戻ってきた。机の上へ置いた指先が小さく震え、小夜はそれを止めようともせず目を閉じる。暗くなった瞼の裏へ、青い色がゆっくり広がった。

午後の日差しが青い庇の端から店先へ落ちていた。ランドセルを背負った小夜は、小さな椅子へ腰かけ、地面につかない両足をぶらぶら揺らしている。ノートや鉛筆を並べたワゴンの向こうを自転車が通り過ぎ、遠ざかるベルの音を追っていた。ふいにお腹が小さく鳴り、幼い小夜は慌てて両手で腹を押さえる。その音を聞きつけたように、店の中から遠野が顔を出した。

「今、鳴った?」
「鳴ってない」
「聞こえたよ」
「車じゃない?」
「ずいぶんお腹みたいな車ね」

小夜は口を尖らせた。遠野は笑いながら店の奥へ戻り、しばらくして紙袋を持ってくる。中からクリームパンを一つ取り出し、小夜の隣へ腰を下ろした。紙袋から甘い匂いがして、小夜の目がすぐそちらへ動く。遠野は気づいても何も言わず、パンを膝の上へ置いた。

「半分こしようか」
「いいの?」
「おばちゃん一人じゃ食べきれないから」

遠野が袋の上からパンを割った。柔らかな生地の間から白いクリームが覗き、片方へ少し多く寄っている。小夜の目がそちらへ動いた瞬間、遠野の指も止まった。ほんの一瞬だけ二人の視線が同じ方へ落ち、そのあと遠野は何でもない顔でクリームの多い方を差し出した。小夜はそちらと遠野の手元を何度か見比べる。

「はい」
「おばちゃん、そっち少ないよ」
「大人はパンのところが好きなの」
「うそ」
「ばれた?」

小夜は笑った。遠野も一緒に笑う。一口かじると口の端へクリームがつき、遠野が「あら」と言ってハンカチを取り出した。小夜は自分で拭けると顔を背け、それでもクリームパンは手放さない。赤い靴のつま先が椅子の下でぶらぶら揺れ、遠野の笑い声がすぐ隣で続いていた。

「ねえ、聞いてる? 小夜」

莉奈の声が急に近くなった。小夜は瞬きをし、机の向こうにいる莉奈を見る。開けかけたクリームパンの袋を手にしたまま、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。小夜は息を整えるより先に口を開いた。自分でも驚くほど、声が急いでいた。

「……その女の子」
「うん?」
「赤い靴、履いてなかった?」
「靴?」

莉奈が眉を寄せ、天井の方へ視線をやった。

「……赤だったかも。なんで?」
「お店の庇は?」
「ひさし?」
「入口の上。色、何色だった?」
「そこまで夢占いに必要?」

小夜は答えず待った。莉奈もその顔を見て、冗談を続けるのをやめる。机へクリームパンを置き、記憶を探すように目を細めた。その数秒が小夜にはひどく長く感じられ、膝の上へ置いた指が少しずつ丸まっていく。やがて莉奈の目が小夜へ戻った。

「青だったと思う」
「……青」
「小夜?」

小夜は返事をせず、机の上のクリームパンへ目を落とした。舟の上で聞いた三日月の声だけが、そこへ重なる。

『ただし、夢はわたくしどもの所有物ではございません』

小夜は袋の端を指先でなぞり、それ以上は考えなかった。分からないままでも、莉奈がその夢を見たことだけは変わらない。顔を上げると、莉奈が怪訝そうに眉を寄せている。

「ねえ、本当に聞いてる?」
「聞いてる」
「絶対聞いてなかった」
「途中からちゃんと聞いてた」
「途中からじゃ駄目じゃん」

莉奈が笑い、クリームパンを持ち上げた。

「半分こする?」

小夜は動かなかった。莉奈は何も知らず、パンを持ったまま首を傾げている。目の前に青い庇も古い椅子もないのに、あの午後の声だけがすぐ近くへ戻ってきた。小夜は莉奈の顔を見てから、ゆっくり手を伸ばす。胸の奥へ戻ってきた遠野の笑い声は、今度は消えなかった。

「小夜?」
「……うん」

小夜はパンを受け取り、両手でゆっくり割った。柔らかな生地が少し潰れ、切れ目からクリームが覗く。片方へ多く寄っているのを見た瞬間、迷う前にその方を莉奈へ差し出していた。莉奈は受け取ったあと、二つを見比べる。案の定、眉が少し上がった。

「はい」
「え、こっち多くない?」
「大人はパンのところが好きなの」
「何それ」
「そういうものなの」

莉奈が吹き出し、小夜も笑った。口へ入れたパンは柔らかく、思っていたより甘い。莉奈は気にする様子もなく自分のパンへかぶりつき、クリームが少し指へついたことに眉を寄せる。その仕草を見て、小夜はまた笑った。もう一口食べると、今度はさっきよりゆっくり噛んだ。

「そういえば、その夢のおばちゃんさ」
「……うん」
「最後に女の子へ何か言ってたよ」

小夜はパンを持った手を止め、莉奈を見る。

「何て?」
「そこだけ聞こえなかった」

莉奈は少し考え、首を傾げた。

「でも、女の子、笑ってたよ」

小夜はそれ以上訊かなかった。窓の外では昼の街を車が走り、信号が変わるのを待っていた人たちが一斉に歩き始める。誰かがコピー機の前で紙を揃え、遠くの席では電話が鳴っていた。机の上には、二人で半分にしたクリームパンが残っている。小夜はもう一口だけ食べて、ゆっくり噛んだ。

数日後、《眠りの庭》の扉の前で、井口芽衣いぐちめいが白い羊のぬいぐるみを抱き直していた。少しくたびれた耳が腕からはみ出し、SAYAが指でそっと戻してやる。芽衣は「じゃあね」と言いかけたものの、ドアノブへ伸ばした手を途中で引っ込めた。そのまま羊の耳を指先でつまんでは離している。SAYAは急かさず、その様子を見ていた。

「最近、眠れてる?」
「うん。朝まで」
「悪い夢は?」
「全然見ない」
「よかった」

芽衣は頷いた。それでも帰ろうとせず、羊の耳をもう一度つまむ。三度目に同じ動きをしたところで、SAYAが少し腰を屈めた。芽衣は何かを言いかけてやめ、視線を窓の方へ逃がす。夕暮れの空には細い月が浮かび、その淡い光がガラスの端へかかっていた。

「芽衣ちゃん、何か困ってる?」
「ううん。まだ困ってない」
「まだ?」

芽衣は羊を胸へ抱き寄せた。何が気になるのか自分でもまだ言葉になっていないようで、しばらく月を見ている。SAYAも何も足さず、その横顔を待った。やがて芽衣が小さく息を吸い、SAYAへ顔を戻す。腕の中の羊の耳を、親指で一度だけ撫でた。

「ねえ、SAYA」
「はい」
「夢ってさ……」

芽衣はそこで一度口を閉じた。白い羊をさらに胸へ抱き寄せ、もう一度だけ窓の外を見る。細い月は何も答えない。SAYAは急かさず、その続きを待っていた。芽衣は少しだけ考えてから、SAYAへ振り返った。

「買うこともできるのかな?」
「え!?」

天高く
よいに浮かぶ三日月は
柔らかな微笑を
たたえていた

(第10話《最終話》おわり)
第9話へ

次の夢で、お会いしましょう!



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