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【短編小説】#9「わたし、その夢、売ります!」―Dreams for Sale―

第9話 忘れていた人


《眠りの庭》の丸テーブルには、昨夜までより多くの紙が広がっていた。二十一年前の住宅地図、商店会の名簿、図書館から借りてきた地域史、璃子が朝から拾ってきた新聞記事の索引まで重なり、紙の端が浮くたびSAYAが小さなガラス瓶を置いて押さえている。
小夜は椅子へ浅く腰掛け、現在の地図と色褪せた住宅地図を交互に見ながら、久我が話していた道を指先で辿っていた。濡れた道路、細い路地、青い庇を思い出すたび、紙の上にはない雨音まで耳の奥へ戻ってくる。

夢の中なら考えるまでもなく歩けたはずなのに、現実の地図へ置き直すと急に自信がなくなった。それでも指だけは何度も同じ路地へ戻り、三度目に角をなぞったところで璃子が現在の地図を少し横へずらす。
小夜は二枚の道路を見比べながら、もう一度ゆっくり指を進めた。

「この辺?」
「うん。ここから少し下って、その先を曲がると店があった」
「今はマンションか」
「昔の方を見せて」

璃子が古い住宅地図を小夜の手元へ寄せた。道路の形を重ねるように見比べていくと、細い路地の脇に小さな文字が印刷されている。
小夜はすぐには読まず、文字の上へ人差し指を置いた。

《遠野文具店》

紙のざらつきが指の腹へ触れた瞬間、乾ききっていない何かへ指を突っ込んだような感触が戻り、小夜は反射的に手を引いた。何もついていない指先を親指で擦ると、その仕草までどこかでやったことがある気がして、手を下ろせなくなる。
右手を見つめているうち、誰かへその指を差し出した気配だけが記憶の奥でわずかに動いた。

「……青い」
「何が?」
「指に、青いのがついた気がした」
「インク?」
「たぶん。触っちゃいけないものを触ったみたいな」

SAYAが商店会名簿を引き寄せ、同じ住所を探し始めた。小夜は右手を見つめたまま、顔のない誰かを待ったが、そこから先は何も出てこない。
追おうとすると消えそうで、指先を擦るのをやめた。

「ありました」
「名前は?」
遠野綾子とおのあやこさん。五十二歳」

名簿へ目を落とした小夜は、四文字を一度読んでから黙った。《綾子》という名前そのものには何も引っかからないのに、次に口を開いた時、呼び方だけが先に出た。

「……遠野さん」

璃子が顔を上げ、SAYAも名簿から目を離した。小夜自身も驚いたまま、もう一度だけ小さく呼んでみる。

「遠野さん」
「今、考えなかったよね」
「うん。名前は覚えてないのに、これだけは知ってる」
「その先も出そう?」
「出そうな気はする。でも、今は追わない」

小夜は古い地図へ視線を戻し、《遠野文具店》の文字へもう一度指を置いた。しばらくそのまま動かず、やがて紙から手を離した。

市立図書館の郷土資料室は午後になっても人が少なく、空調の低い音と、どこかで紙をめくる音だけが続いていた。璃子が新聞縮刷版から見つけた記事のコピーを前へ置いても、小夜はすぐには手を伸ばさなかった。
二十一年間、自分の夜を止めてきた出来事なら、新聞の中でももっと大きく残っているような気がしていた。実際の記事は地方欄の端に数段だけで、見出しも思っていたより小さい。

《集合住宅火災 一名死亡》

建物名、出火時刻、消防車両の数、搬送された人数が並び、小夜は指先で行を追いながらゆっくり下へ進んでいった。最後の数行へ差しかかったところで、指の動きが止まる。

《遠野綾子さん(52)》

五十二という数字も、その横に続く文字も読めているのに、意味だけが少し遅れて胸へ入ってきた。小夜は唇を開き、一度声を出しかけたあと、乾いた喉を押さえるように息を飲み込んだ。

「……遠野さん」
「小夜」
「大丈夫。読めるから」

璃子はそれ以上何も言わず、コピーを押さえていた手だけを離した。小夜はもう一度、遠野綾子という文字へ視線を落とした。
夢の中ではずっと青白い手しか見えず、誰なのか分からないから怖いのだと思っていたのに、名前が分かった途端、顔を思い出せないことの方が落ち着かなかった。

「これだけなんだね」
「新聞だからね」
「分かってる。でも……これじゃ、知らない人のままだ」
「写真、探す?」
「うん。見たい」

小夜はようやくコピーから手を離した。

商店会の古い冊子を見つけたのはSAYAだった。夏祭りや福引き、町内清掃、子どもの写生大会の写真が何ページも続き、小夜は椅子を寄せて一枚ずつ眺めていく。
途中でSAYAの指が止まり、袖を軽く引かれて覗き込んだ瞬間、写真の中央にある青い庇が目へ飛び込んできた。

夢の中ではいつも雨に濡れ、街灯の下で暗く沈んでいたひさしが、写真では陽を受けて明るい。店先にはノートや鉛筆を並べたワゴンがあり、ランドセル姿の子どもたちが商品を覗き込んでいた。
小夜の目は店より先に、一人の女の子の足元へ吸い寄せられ、赤い靴を見た瞬間、自分だと分かった。

「……私」
「うん」
「この人……」

胸の奥が一度強く鳴り、小夜は赤い靴の少女から少し後ろへ視線を動かした。店の入口にはエプロン姿の女性が立ち、片手に値札らしい紙を持って誰かへ声をかけている。

「遠野さん」
「分かる?」
「……分からない」

言ったあと、小夜は自分でも戸惑った。名前を見つけた時にはあれほど自然に《遠野さん》と呼べたのに、写真の女性を見ても何も戻らず、知らない人へ無理に記憶を重ねようとしているようで、少し身体を引いた。

「違うかもしれない」
「無理に決めなくていいよ」
「うん」

返事をした直後、写真の隅に写った透明なケースが目に入った。小さな鉛筆削りだった。
幼い自分が蓋の部分を何度も回し、そのたびに誰かの手が伸びて元へ戻す。目の前の写真は動かないのに、指先だけがその感触を覚えていた。

『小夜ちゃん、それ売り物だからね』

声が戻った。小夜はもう一度、写真の女性を見る。

「……遠野さん」
「思い出した?」
「顔じゃない。鉛筆削り」
「そっちなんだ」
「変だね」
「そういうものかもしれないよ」

小夜は写真の端へ指を置いた。そのまま見ていると、もう一つ声が戻ってくる。

『また来たの?』

怒っている声ではなかった。店の奥から顔を出した遠野綾子が、また来た子どもを見るように少し呆れながら笑っている。
保育園の帰りだったのか、小学校の帰りだったのかはまだ分からない。それでも、その声を聞くと胸の奥が妙に懐かしくなった。

「私、ここ好きだった」
「文具店?」
「うん。おもちゃ屋より好きだった気がする。消しゴムとか鉛筆とか、新しいノートを見るだけでずっといられた」
「毎回何か買ってたの?」
「そんなわけないじゃん。用もないのに来てた」
「それはちょっと迷惑だね」
「今さら?」

璃子が笑い、小夜も少しだけ笑った。

「遠野さん、よく追い返さなかったね」
「甘かったのかもね」
「……そうなのかな」

小夜は写真の女性をもう一度見た。今度は目を逸らさず、そのまましばらく眺めていた。

写真に写っていた当時の商店街を知る人を探すと、近くで長く乾物店を営んでいた男性が見つかった。七十代後半になった男性は今では店を閉じ、自宅の一階を小さな事務所にしており、小夜の名前を聞いてすぐには分からない顔をした。
しばらく考えたあとで眉が上がり、最初に口にしたのは遠野の名前ではなく赤い靴だった。

「成瀬小夜ちゃん?」
「覚えてるんですか」
「文具屋にいつもいた子だろ。赤い靴、よく履いてたな」

小夜は反射的に自分の足元を見てしまい、その動きを男性に笑われた。今履いているのは黒い靴で、もちろん何も戻ってこない。

「遠野さんのこと、覚えてますか」
「綾子さんならもちろん」
「どんな人でした?」
「どんなって……普通の人だよ」

予想していなかった答えに、小夜は思わず笑った。

「普通?」
「優しかったけど、何でも笑って許す人じゃない。子どもが商品いじりすぎれば怒るし、忙しい時は普通に機嫌悪かった」
「私にも?」
「小夜ちゃんには甘かったな。毎日のように来るから、半分店の子みたいになってた」

小夜は口元を緩めたまま男性の話を聞いていた。遠野綾子の顔を頭の中へ作ろうとはせず、忙しい時には機嫌を悪くしたことも、子どもを叱ったことも、そのまま聞いていたかった。

「火事のことだろ」
「……はい」

男性は机へ視線を落とし、昔の道をそこへ描くように指をゆっくり動かした。裏の方から煙が上がったこと、店と住居がつながった古い建物だったこと、火の回りが早く、近所の人が外から声をかけ続けたことを話す。
小夜は膝の上で指を組み、ひとつずつ聞いていた。

「綾子さんも、一回は外へ出てたよ」
「外に?」
「ああ。ちゃんと外まで出た」
「それから?」
「急に小夜ちゃんがいないって言い出した。学校帰りに裏の階段の方まで行ってたの、綾子さん知ってたからな」
「……」
「止めた人もいたけど、戻ったよ」

小夜は男性の口元を見たまま、次の言葉を待った。

「私を探しに?」
「そうだったと思う」

――誰か、いませんか。

――お願い。

――小夜……いるの?

何度も悪夢の中で聞いた声だった。小夜は椅子の背へ手を回し、木の縁を強く握った。
半開きの扉から伸びた青白い手と、紙袋を落としたまま赤い靴で階段を駆け下りた七歳の自分が、順番もなく一気に身体へ戻ってくる。

吸ったはずの空気が胸まで届かず、小夜はもう一度ゆっくり息を入れ直した。

「助けを呼んでたんじゃない……」
「小夜」
「私を探してたんだ」

璃子の声がすぐ隣から聞こえているのに、遠く感じた。小夜は机の木目を見たまま、喉の奥へ引っかかっている言葉を押し出す。

「私、逃げました」

男性は何も言わなかった。

「遠野さんがいたのに、怖くて逃げた。外へ出たあと、大人に聞かれたんです。中に誰かいたか、声を聞かなかったかって」
「……」
「私、『知らない』って言った」

膝の上の指が震え始め、握って隠そうとすると指同士がぶつかった。あの時の《知らない》という自分の声だけがやけにはっきり戻り、その直後に遠野綾子の名札が浮かんだ。
そこから先へ考えようとすると、喉が詰まった。

「私が……」

言葉は続かなかった。

男性はしばらく小夜の顔を見たあと、静かに首を振った。

「俺が言えるのは、綾子さんが一度外へ出て、また戻ったことまでだ。消防がどう動いたかは、俺の記憶で決めちゃいけない」
「……」
「ちゃんと記録を見た方がいい」

小夜はゆっくり顔を上げた。

翌朝、璃子から届いたメッセージで小夜は目を覚ました。

【消防関係の保存記録、閲覧できるって】

枕元の時計は七時を少し過ぎていた。小夜は短く【行く】と返し、午前中に市の資料閲覧窓口へ向かった。

職員が出してきた複写記録には、出動時刻、到着時刻、周辺住民からの聴取内容、建物内部への進入記録が淡々と並んでいる。小夜は璃子の隣へ座り、薄い文字を追った。
途中にある一行へ視線が止まる。

《到着時、建物内に残留者ありとの情報》

小夜はその一行を何度も読み、紙を押さえる指へ少しずつ力を入れていった。

「璃子」
「見つけた?」
「これ……消防が着いた時には、中に人がいるって分かってた?」
「そう読める」
「私が外で何て言ったかは?」
「そこまでは書いてない」
「じゃあ……」

言葉が止まり、小夜は一度唾を飲み込んだ。

「私が『知らない』って言ったから、誰も中を探さなかったわけじゃない?」
「少なくとも、この記録を見る限りは違う。到着した時点で残ってる人がいる前提で動いてる」

小夜は紙から顔を上げられなかった。しばらくして指を離すと、爪を当てていたところだけ白くなっている。

「じゃあ……あの『知らない』は、何だったんだろ」
「怖かったんじゃない?」
「それだけ?」
「分からない」
「……そっか」

璃子は記録へ目を落としたままだった。小夜もすぐには次のページへ進まず、白くなった指先を見つめていた。
その指を一度握ってからゆっくり開くと、別のことが口をついた。

「璃子」
「何?」
「私、遠野さんが死んだことより前のことまで忘れてる」
「うん」
「なんでだろ」
「それは、資料には載ってないね」

小夜は少しだけ笑った。

「役に立たないなあ」
「夢占い師に言う?」
「こういう時くらい占ってよ」
「都合のいい時だけ頼らないで」

二人の声が小さく重なり、資料室の職員がこちらを見た。小夜は慌てて頭を下げた。

《眠りの庭》へ戻ると、SAYAが商店会冊子の別ページを開いて待っていた。写真の隅には遠野文具店のワゴンが写り、その横に薄茶色の紙袋が何枚も積まれている。
袋の中央には青い小さな店名印が押されており、小夜はそれを見た瞬間、夢の中で腕へ抱えていた紙袋の重さを思い出した。

「これだ」
「夢の中の袋?」
「うん。たぶん間違いない」
「中に何が入ってたかは?」
「まだ分からない」

小夜は袋の印へ指を近づけた。しばらく見ていると、青いスタンプ台がカウンターに置かれ、遠野綾子が紙袋へ店の印を押す場面が浮かんでくる。
その横から幼い手が伸び、乾く前のインクへ触れた。

『小夜ちゃん、触るから』

小夜は思わず人差し指を擦った。

「これだ」
「青いインク?」
「うん。私、店のスタンプ触ったんだ」
「怒られました?」
「たぶん。笑われた方が近いかな」

SAYAは小さく笑い、それ以上中身を訊かなかった。小夜も追わず、右手を開いてしばらく指先を見ていた。

「なんか……普通だね」
「何がですか?」
「青って、もっと嫌な色だと思ってた」
「今は?」
「まだ分かんない。でも、前よりは普通」

午後、《眠りの庭》の扉が開いた。小夜が最初に見たのは白い羊で、少しくたびれた毛と丸い耳、その胴体を両腕で抱えた井口芽衣いぐちめいが母親の後ろから入ってくる。
夢の中で見た紫色の袖まで戻り、小夜は立ち上がりかけた拍子に椅子へ膝をぶつけた。

「痛っ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……じゃない。普通に痛い」

芽衣が笑い、小夜もつられて笑った。芽衣は羊を抱いたまま椅子へ座り、小夜は話をしながら何度もぬいぐるみへ目をやった。

「それ、ずっと持ってるんだね」
「これ?」
「うん」

芽衣が羊を少し持ち上げると、母親が横から笑った。

「あの羊、父親にもらったんです。眠れない時のお守りだって」

小夜は返事をせず、羊を見た。

「悪い夢、もう見ない?」
「うん。最近は見ないよ」
「そっか」

ごめんね、という言葉が喉元まで上がったが、小夜はそのまま飲み込んだ。

帰り際、芽衣が羊を抱き直す。

「大事なんだね」
「うん。寝る時も一緒」

芽衣は羊の頭を撫で、母親と一緒に扉の向こうへ消えていった。

夕方、浅葱志保が《眠りの庭》へやって来た。手にはいつものスマホがあったものの、テーブルへは置かず、鞄の上へ伏せたままにしている。
璃子が茶を淹れている間、小夜は遠野綾子のこと、火事の日に自分を探して建物へ戻ったらしいこと、消防はすでに中に人が残っていると把握していたことを話した。

「私、逃げたんです」
「七歳だったんですよね」
「うん」
「怖かった?」
「すごく。今でも夢の中では逃げたい」

志保は親指でスマホの縁を一度なぞった。

「私だったら……」
「うん」
「分からないですね」
「私も」
「本人なのに?」
「本人だからかも」

志保の口元が少し緩み、やがて鞄の上のスマホを手に取って一度だけ画面を開いた。以前集めた名前や、悪夢を送った相手の記録がまだ残っている。

「嫌いな人のこと考えるのに、ずいぶん時間使ってました」
「……」
「何やってたんだろ」
「……」
「もったいなかったな」

志保は画面を閉じ、そのまま少し笑った。

「やめるの?」
「まだ分かりません」
「そっか」
「ただ、前みたいには押せないと思います」
「じゃあ今日は?」
「今日は、こっちにします」

志保はスマホを鞄へしまい、璃子が置いた茶へ手を伸ばした。小夜も自分のカップを持ち上げた。

その日の夕方、今度は《眠りの庭》の扉の前で足音が止まった。SAYAが入口へ向かい、少しして一人の男を連れて戻ってくる。
小夜は顔を上げた。コンビニでは制服姿しか見たことのない久我直人くがなおとが、私服の上着を着たまま立っている。

「……久我さん」

久我も丸テーブルの小夜を見ると、しばらく何も言わなかった。

「やっぱり、あなたでしたか」
「私のこと……分かったんですか」
「店に何度か来てましたよね。雨の日に透明傘買ってた」
「覚えてたんだ」
「常連さんの顔くらいは」
「名前は?」
「それは知りませんでした」

久我はそう言って、少しだけ困ったように笑った。小夜は椅子から立ち上がり、両手を身体の前で組んだ。

「最近、夢は見なくなりました」
「……よかった」
「ただ、町のことは覚えてます」
「青い庇も?」
「ええ。それと、小夜って名前も」

小夜の指がわずかに動いた。

「消えなかったんですね」
「全部は」

久我はテーブルに広がった古い写真へ目をやり、青い庇の文具店を見つけた。

「これです」
「夢に出た?」
「もっと暗かったですけど、たぶん」

小夜も写真へ目を落とし、少しして顔を上げた。

「久我さん」
「はい」
「ごめんなさい」

久我は少しだけ眉を動かした。小夜はその先を言わなかった。

「かなり困りましたよ」
「はい」
「仕事までおかしくなったんで」
「はい」

小夜は目を逸らさなかった。久我もそれ以上は責めず、写真の青い庇へもう一度目を落とした。

「まあ、今は寝てます」
「……よかった」
「三時十七分も過ぎて」
「うん」
「朝って、普通に来るんですね」
「私も最近それ思いました」

二人とも少しだけ笑った。

久我は写真の青い庇へ目を戻し、小夜もその隣を見た。しばらく、どちらも何も言わなかった。

夜、小夜は自宅のテーブルへ資料を並べた。火災記事、古い住宅地図、遠野文具店の写真、その端には赤い靴を履いた小さな自分がいて、少し後ろに遠野綾子が立っている。
小夜は長い間、写真を見ていた。名前は戻り、声も少し戻った。青いインクのついた指も、透明な鉛筆削りも思い出したのに、遠野綾子の顔を頭の中で作ろうとすると、写真の輪郭より先へ進めない。

小夜は写真へ指を置き、遠野綾子の姿を隠さないよう、そのすぐ横へそっと触れた。

「……遠野さん」

返事はない。

もう一度呼ぼうとして、小夜はやめた。そのまま写真を見ていると、炎ではなく文具店のカウンターが浮かぶ。
青いスタンプ台の蓋を開けた遠野綾子が紙袋へ店の印を押し、その横から幼い小夜の手が伸びて、乾く前のインクへ触れる。

『小夜ちゃん、また触ったでしょ』

笑っている。

その声の奥へ、別の声が重なった。

――小夜。

小夜は写真から目を逸らさなかった。

「……遠野さん」

返事はなかった。

それでも写真から指を離さず、そのまましばらく待っていると、テーブルの端に置いたスマホが短く震えた。
月と青い石の印が画面へ浮かび、一行だけ表示される。

【お探しの方を、思い出されましたか?】

小夜は写真の遠野綾子と、スマホの文字を交互に見た。返事を打たないまま待っていると、しばらくしてもう一行だけ増えた。

【続きをご覧になりますか?】

(第9話 おわり)
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