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【短編小説】#8「わたし、その夢、売ります!」―Dreams for Sale―

第8話 現実の引き受け方


スマホのアラームが枕元で震え、久我直人くがなおとは何の音なのか分からないまま目を開けた。カーテンの隙間から白い朝の光が差し込み、布団の外へ出した腕に冷えた空気が触れている。まだ身体の半分が眠りの中にいるようなまま時計へ手を伸ばし、表示された数字を見たところで指が止まった。

午前六時三十二分。

久我はしばらく画面を見つめた。親指で縁をなぞり、もう一度数字を確かめる。三時十七分を越えている。何日も途中で切れていた夜が、昨夜は自分の知らないところで朝まで続いていた。

胸いっぱいに息を吸うと、空気が思ったより深く入った。そのまま吐いても、次に何かが起こりそうな嫌な感じはない。久我は布団の上で両手を開き、指を一本ずつ曲げた。こんなことを確かめる自分がおかしくて、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

枕元の水を飲み、床へ足を下ろす。昨夜までなら何かを倒さないよう足元を見て、スマホが鳴れば悪い知らせかもしれないと身構えていたのに、今日は何も考えず洗面所まで歩けた。

蛇口をひねり、冷たい水を両手ですくって顔へ当てる。その瞬間、耳の奥で雨の音がした。

久我の手が頬で止まった。

濡れた道路、閉じた店、青い庇、その先へ延びる細い路地。知らない町のはずなのに、曲がり角の向こうまで知っているような、あの嫌な感覚が一気に戻ってくる。

鏡の中では、顎から水滴が落ちていた。

――小夜さよ

久我は息を止めた。

眠っている間にしか聞こえなかったはずの名前が、朝の静かな洗面所へまで残っている。濡れた両手を洗面台へつき、鏡の中の自分を見る。目の下の影は昨夜より薄い。それなのに、その二文字だけは少しも薄れていなかった。

口に出しかけて、やめた。

代わりにタオルを顔へ押し当てる。布越しに聞こえるのは、自分の呼吸だけだった。一度、二度と数えているうちに、肩へ入っていた力が少しずつ抜けていく。

タオルを外すと、窓から入った朝の光が洗面台の縁まで伸びていた。久我はその白さをしばらく見つめ、時計をもう一度確かめに戻ろうとして、足を止めた。

六時三十二分。

一度見れば、もう十分だった。

午後のコンビニは昼の混雑がようやく引き、レジ前を横切る客の影もまばらになっていた。久我直人くがなおとは発注端末を片手に冷蔵ケースの在庫を追い、飲料の欄へ数字を打ち込んでいく。
十二、と入れたところで指が止まり、端末を少しだけ顔へ近づけた。昨日までなら、その数字を二度、三度と見直していた。自分では十二と入れたはずなのに、確定したあとで百二十になっている気がして、しまいには自分の指先まで信用できなくなっていた。
画面には、ちゃんと「12」とある。久我は鼻からゆっくり息を抜き、戻るボタンへ向かいかけた親指をそのまま確定へ落とした。

「店長、それ今日も確認するんですか」
「するよ」
「十二ですよ」
「見れば分かる」
「百二十じゃないです」
「それはもう言うな」

段ボールを抱えたアルバイトの青年が笑いながらバックヤードへ消えていく。久我も口元だけで笑い、端末を棚へ戻した。
画面にはまだ十二の数字が残っている。親指が一瞬だけ止まりかけたものの、久我はそのまま冷蔵ケースの扉を閉め、次の棚へ身体を向けた。

雑誌コーナーでは、浅葱志保あさぎしほが一冊の雑誌を半分だけ棚から引き出していた。表紙を読んでいるような格好をしているのに、目はほとんど動いていない。
入口のガラスへ人影が映るたび、雑誌を持つ指にだけ力が入り、紙の角がじわじわと指へ食い込んでくる。
バッグの中にはスマホがある。四晩目の悪夢を送った男がこの時間にここへ寄ると知ってから、来るのはやめようと何度も思った。それでも今日も、気づけば同じ棚の前に立っていた。

何を確かめに来たのかは分かっている。
悪夢を四晩受け取った人間が、どんな顔で昼を過ごしているのか。それを自分の目で見たかった。
雑誌の角が痛みに変わり始めた頃、自動ドアが開いた。

志保の指が止まった。

入ってきた男はスーツの襟を片方だけ折ったまま、ネクタイを緩め、目の下には濃い隈を落としていた。歩くたび肩が小さく上下し、止まればその場へ座り込みそうな足取りで冷蔵ケースへ向かっていく。
男はエナジードリンクを二本つかみ、もう一本へ手を伸ばしたところでやめた。棚をしばらく睨むように見てから菓子パンを一つ取り、歩きながらスマホを二度確かめる。
久我の前へ商品を置いたあとも、人差し指だけが落ち着かず、カウンターを細かく叩き続けていた。

「六百八十円になります」

男が財布を開き、千円札を抜こうとして二枚まとめてつかんだ。気づくと舌打ちし、一枚を乱暴に押し戻す。
久我が札を受け取って釣銭を差し出したところで、男の指が百円玉の縁を捉え損ねた。硬貨が床へ落ち、一度跳ねた百円玉が十円玉まで巻き込みながら棚の下へ転がっていく。
乾いた金属音が床を走った瞬間、男の眉間に深い皺が寄り、久我が謝るより先に掌がカウンターを叩いた。

「ちゃんと渡せよ!」
「申し訳ありません」
「何回待たせるんだよ。こっちは時間ないんだよ!」
「すぐ拾います」

久我はしゃがみ込み、棚の下へ手を差し入れた。百円玉はすぐ取れたものの、十円玉はもう少し奥へ入り込み、指先へ触れては逃げる。
背後でアルバイトが動きかける気配がした。久我は振り返らず片手だけを軽く上げ、その動きで青年の足音が止まった。
頭の上では男の荒い呼吸が続き、志保は雑誌を握ったまま、その音を聞いていた。

「もういいから早くしろよ」
「はい」

久我が腕をさらに奥へ伸ばしたとき、レジの横で小さな靴が床を擦った。
顔を上げると、次に並んでいた母親が幼い男の子を自分の後ろへ寄せている。子どもの手は母親の服の裾を強く握り、小さな指先が布へ食い込んでいた。
志保の目も、その手に止まった。

誰かに自分の袖口を引かれたような感触が、突然腕へ戻ってきた。
誰の手だったのか、その先まで追いかけようとした途端、息が浅くなる。志保は唇を結び、そこでやめた。
それでも、母親の服を握る小さな指からはなかなか目を離せなかった。

久我はようやく十円玉をつかみ、立ち上がった。釣銭をトレイの中央へ置き、今度は手渡さず男の前へ静かに滑らせる。
声の高さはさっきと変わらない。男はトレイと久我の顔を交互に見てから、硬貨を乱暴につかんだ。

「お待たせしました。三百二十円のお返しです」
「……最初からそうしろよ」

袋を引き寄せた角がカウンターへ当たり、小さな音を立てた。その音にまで腹を立てたように男は眉間へ皺を寄せ、舌打ちを残して自動ドアの向こうへ消えていく。
久我は閉じたドアを数秒見つめたあと、何も言わず床へしゃがみ、硬貨が転がったあたりを布巾で拭いた。
立ち上がる頃には次の客が待っていて、母親は少し困ったように笑いながら頭を下げ、その後ろから男の子だけが久我をじっと見ていた。

久我が目を合わせ、ほんの少しだけ笑ってみせる。
男の子は笑い返さなかった。ただ、母親の服をつかんでいた指が一本、また一本と緩んでいく。
志保はそれを見届けるようにして、手にしていた雑誌を棚へ戻した。

『ちゃんと悪い人に届いているなら、私はやめるつもりありません』

以前、自分が口にした言葉だった。
バッグへ手を入れるとすぐスマホの硬い角へ触れ、親指は慣れたように電源ボタンまで滑る。
そこへ置いたまま、動かない。

押せば画面がつく。
また誰かの名前が出てくる。
志保はしばらく指を置いていたが、やがて手を離した。スマホは暗いままだった。

ガラスの向こうでは、さっきの男がエナジードリンクを開けていた。一口飲むというより、止めていた息を取り戻すように何度も喉へ流し込み、まだ缶に残っているうちから片手で額を押さえている。
あんな人だから眠れないのか。眠れないから、あんなふうになるのか。
そこまで考えて、志保は男から目を逸らした。

もう一度レジを見ると、母親と子どもは店を出るところだった。久我はカウンターを拭きながら次の客を迎え、数分前に怒鳴られた時と同じ声で「いらっしゃいませ」と言っている。
志保はバッグから手を抜いた。
気づけば、レジの方へ歩いていた。

「……腹、立たないんですか」
「立ちますよ」
「そう見えませんけど」
「店長なんで」
「店長だったら、腹立たないんですか」
「立ちますって」

久我は布巾を裏返し、汚れた面を内側へ折り込んだ。レジ脇へ落ちていたレシートの切れ端を拾ってゴミ箱へ入れ、それからガラスの向こうへ一度だけ目を向ける。
男は空になった缶を持ったまま店先に立ち、さっきまでの勢いが嘘のように肩を落としていた。
久我はすぐ手元へ目を戻した。

「俺まで怒ったら、余計に長くなるんで」
「……」
「それに、眠れてない人って、普段なら言わないことまで言ったりしますから」

志保の息が止まった。
久我は男を庇うような顔もしていなければ、さっきのことを許したようにも見えない。
布巾を畳み直す手だけが、いつも通り動いていた。

「分かるんですか」
「少し前まで、俺も寝てなかったんで」
「どれくらい?」
「何日か、まともには」
「仕事で?」
「最初はそう思ってました」

久我は布巾を流しの脇へ置き、濡れた指を一度握ってから開いた。
志保の目が、その手へ落ちる。
久我もしばらく掌を見てから、指をゆっくり閉じた。

「夢を見るようになってから、おかしくなったんです」
「どんな夢?」
「雨の町でした」
「町?」
「知らない町です。でも、歩けるんですよ」

久我は片手をレジへ置き、入口でも商品棚でもない場所へ視線を向けた。
一度口を閉じ、どう話せばいいのか探すように眉を寄せる。
志保は何も言わず、その続きを待った。

「次を右に曲がるとか、この先に店があるとか。初めてなのに、知ってる感じがする」
「雨は?」
「ずっと降ってました」
「ほかには?」
「青い庇の店がありました」

志保の唇がわずかに開いた。
久我が顔を向ける。
バッグの持ち手を握る指へ、知らないうちに力が入っていた。

「……青い庇」
「知ってるんですか」
「続けてください」

久我は何か訊きたそうにしたものの、志保の顔を見て口を閉じた。
冷蔵ケースの低い機械音が二人の間へ流れ込む。
久我は少し考えてから続けた。

「その先に細い道があって、夜中に必ず目が覚める」
「何時?」
「三時十七分です」
「目が覚めても、声だけ残ってるんですよ」
「声?」
「女の人だと思います」
「何て?」
「名前を呼んでました」

そこで志保の指が止まった。

「……誰の?」
「小夜って」

店の奥で電子音が鳴った。
セルフレジで誰かが商品を読み取っただけの音なのに、志保には妙に遠く聞こえた。
持ち手を握った指先へ冷たさが集まり、口を開いてもすぐには声が出なかった。

「……その夢、心当たりがあります」
「心当たり?」
「話しておいた方がいい人がいます」
「誰です?」
「成瀬小夜さん」

久我はすぐには答えなかった。
「成瀬……」と小さく繰り返し、眉間へ皺を寄せる。
志保はスマホを取り出し、《眠りの庭》の住所だけを画面へ出して久我の前へ向けた。

「ここです」
「夢占いサロン?」
「《眠りの庭》」
「成瀬さんって、そこにいるんですか」
「今日はいると思います」

久我は画面を見たまま動かなかった。
志保は三日月屋のことまで言いかけ、唇を閉じる。そこから先を話すのは自分ではない。
スマホをバッグへ戻し、久我の顔をもう一度だけ見た。

「私はこれから行きます」
「今から?」
「ええ」
「……」
「来るかどうかは、久我さんが決めてください」

久我が顔を上げた。
志保は答えを待たず、自動ドアへ向かった。
開いた先の午後の明るさに一瞬だけ目を細め、そのまま外へ出る。背後でドアが閉まっても、バッグの中のスマホには触れなかった。

夕方、久我は飲料を棚へ補充していた。
最後の一本を空いた場所へ差し込もうとしたところで、腕が止まる。
仕事へ戻ってからも「成瀬小夜」という名前が、どうしても頭の奥から離れなかった。

透明傘をレジへ置いた女の横顔が、不意に浮かんだ。
予報が外れて雨になった日の夜、濡れた髪を耳へかけながら、いつものように飲み物を一本カウンターへ置いた女性。
名前を訊いたことはない。それでも、何度も来る客の顔なら覚えている。

『今日は少し遅いですね』
『残業で』
『お疲れさまです』

それだけの会話だった。
久我はペットボトルを持ったまま棚の前から動けなくなり、濡れた髪や透明傘の柄を握っていた指、店を出る前にほんの少しだけ振り返った目を思い出していた。
そこへ、午前三時十七分の暗闇で何度も聞いた名前が重なる。

――小夜さよ

ペットボトルを持つ指へ力が入り、薄い容器が小さくへこんだ。
久我は「成瀬」と頭の中で一度だけ呼んでみる。雨の日の横顔が消えない。
もう一度呼ぶ。

成瀬。

喉が小さく鳴った。
久我は一度だけ目を閉じ、開いたあとも、ペットボトルを棚へ戻せないまま立っていた。

「……まさか」

背後で客のカゴが棚へ触れ、乾いた音がした。久我ははっと顔を上げ、手にしていた商品を棚へ戻して道を空ける。夕方の客が入り始めると、考えている暇はなくなった。レジへ入り、品出しへ戻り、また呼ばれて会計をする。その繰り返しの中でも、自動ドアが開くたび、目だけは入口へ向いた。

透明傘の女性が入ってきたら何を訊く。名前か、夢のことか。そこまで考えて、たぶん何も訊けないだろうと思った。

結局、その姿は現れなかった。勤務を終えて制服を脱ぎ、私服へ着替える。ロッカーを閉めてもすぐには動けず、久我はスマホを取り出して《眠りの庭》の住所を検索した。

歩いて15分。近いと思った瞬間、画面を閉じたくなった。

店を出ると、駅へ向かう人の流れが目の前を横切っていく。
帰ればいい。今夜も朝まで眠れるかもしれないし、夢がもう終わったのなら、知らない町のことも、呼ばれていた名前も、そのままにしておける。

久我は駅の方へ身体を向けたまま、しばらく動かなかった。

――小夜。

耳の奥に、あの声が戻った。
久我はスマホを握り直し、人の流れから外れた。
足が向いたのは、駅とは反対だった。

大通りを一本外れると、人通りが急に減った。飲食店の看板も途切れ、古い雑居ビルが並ぶ道へ入ると、さっきまで背後にあった駅前のざわめきまで遠くなる。

久我はスマホの地図を確かめながら一軒のビルの前で立ち止まり、細い階段を三階まで上がった。踊り場の壁に、《眠りの庭》と書かれた小さな札が掛かっている。

ちょうど扉へ手を伸ばしていた志保が、階段を上がってきた足音に気づいて振り返った。

「来たんですね」
「……気になったんで」

志保はそれ以上訊かなかった。

扉を開くと、乾いた薬草と茶葉の匂いが流れてくる。志保に続いて中へ入った久我は、丸いテーブルの前で足を止めた。

古い地図が何枚も広げられている。

成瀬小夜なるせさよは椅子へ浅く腰かけ、スマホに表示された古い町名と紙の地図を交互に見ていた。璃子が別の資料を横から差し込み、SAYAは地図の端が丸まらないよう小さな瓶を置いている。小夜の人差し指だけが、同じ道を何度も行き来していた。

久我は入口に立ったまま、その横顔から目を離せなくなった。

雨の日に、レジの向こうで見た顔だった。

小夜はまだ久我に気づいていない。
地図の上を往復していた指が、ある角で一度だけ止まり、また同じ道を戻っていく。

久我は喉の奥で息を詰まらせた。

夢の中で何度も呼ばれていた名前が、今は目の前にいる。

「……成瀬さん」

小夜の指が止まった。

「この辺だった気がする」
「駅からは?」
「歩いたと思う」
「七歳で?」
「……たぶん」

口にしてから、小夜はまた地図へ目を落とした。夢の中では迷わず歩けるのに、目を覚ました途端、道から名前だけが抜け落ちる。
角を曲がった感覚も、坂を下った時の足裏の重さも残っている。それでも、それがどこの町だったのかとなると、指は地図の上で行き場をなくした。

「青いひさしは?」
「店だった」
「何の店?」
「そこが分からない」

青い付箋が貼りついたシャッターなら何度も見た。紙袋も、古い廊下も、赤い靴も覚えているのに、店の中に何が並んでいたのかだけが出てこない。
もう少しで届きそうなのに、思い出そうとするとそこだけ薄くなる。小夜が眉間へ指を当てたところで、SAYAが何か言いかけた。

入口の扉が開き、薬草の香りがわずかに揺れた。外の冷たい空気が床を這い、璃子が顔を上げ、SAYAの手もノートの上で止まる。
小夜は一拍遅れて振り返った。志保の後ろに、一人の男が立っている。
青い制服ではなかった。それでも、見間違えるはずがなかった。

「……あ」

久我の口からも、ほとんど同じ声が漏れた。
小夜は椅子の背へ手をかけて立ち上がり、久我と、その後ろにいる志保を交互に見る。何を訊けばいいのか決まらないうちに、胸の鼓動だけが速くなった。

「久我さん?」
「……成瀬さん」

名字を呼ばれ、椅子の背を握る指に力が入った。
いつものコンビニでは、互いの名前など知らなくても何も困らなかった。天気の話をして、残業の話をして、雨が降れば透明傘を一本買う、それだけの相手だった。
その久我が、今は小夜の名前を知っている。

久我も黙ったまま小夜を見ていた。
雨の日にレジの向こうで見た顔を確かめているような視線の中で、志保が一歩だけ横へ動いた。

「この人も、あなたの夢を見ていたみたい」

小夜の手が椅子から離れた。
久我が志保を見て、それから小夜へ目を戻す。璃子もSAYAも口を挟まず、その場にいる全員が次の言葉を待っていた。

「……私の夢?」

志保は答えず、久我へ視線を向けた。そのまま少し身体を引き、話す場所を譲る。
小夜も久我へ向き直った。

「夢って……どんな?」

久我は入口近くに立ったまま、すぐには答えなかった。
璃子が空いている椅子を引くと、小さく頭を下げて腰を下ろす。志保も少し離れた席へ座り、小夜だけが立ったまま久我を見ていた。

「雨の町です」

膝の裏が椅子へ触れ、小夜はゆっくり腰を下ろした。

「……雨」
「ずっと降ってました」
「人は?」
「ほとんどいません。店も閉まってる」
「店って……」
「シャッターが下りてて、古いところが多かったです」

小夜の指が膝の上で動き、爪がスカートの布へ触れて離れた。
久我はその手元へ一度目をやり、言葉を続ける。

「青い庇の店がありました」
「……青い?」
「はい」

小夜は吸い込んだ息をしばらく吐けなかった。
ほんの少し前まで地図の上で探していた色を、久我が自分の記憶のように口にしている。

「その先に細い路地があって、自販機があったと思います」
「古い自販機?」
「たぶん。光ってたのは、そこだけだった気がします」
「……同じ」

久我が顔を上げた。

「同じですか」
「私の夢にも出てくる」

璃子が地図から手を離し、SAYAもノートを開いたままペンだけを置いた。
壁の時計が小さく鳴る。小夜はその音が消えるのを待たず、久我へ問いかけた。

「ほかには?」
「毎回、同じ時間に目が覚めました」
「……何時?」
「三時十七分です」

小夜の指が一本だけ内側へ曲がった。
枕元のスマホに浮かんでいた青白い数字と、濡れた町から引き戻された直後の息苦しさが一緒に戻ってくる。

「毎回?」
「毎回です」
「声は?」
「声?」
「何か……聞こえませんでしたか」

久我が小夜を見る。
その目の動きだけで、小夜の喉が狭くなった。

「女の人だと思います」
「何て?」
「名前を呼んでました」
「……誰の?」
「小夜って」

小夜の肩がわずかに揺れた。
古い廊下の湿った匂いと、黄ばんだ壁、小さな窓、腕から滑り落ちた紙袋が一気に戻り、半開きの扉から伸びていた白い手まで瞼の裏に浮かぶ。

『誰か、いませんか?』
『お願い……』
『小夜……いるの?』

小夜はカップへ手を伸ばしたものの、指先が縁へ触れたところで止めた。
持ち上げず、そのまま久我を見る。

「それだけですか」

自分でも驚くほど低い声だった。
久我は少し考えてから、首を傾ける。

「夢だけなら、それくらいです」
「夢だけなら?」
「起きてる時も、変なことが続きました」
「どんな?」
「発注、十二本のつもりが百二十本になったり」
「……百二十?」

久我が日にちを口にした途端、小夜の手が膝の上で重なった。
その夜なら覚えている。会社で入力ミスが見つかりそうになり、掌のサファイアを握って願った。

今日だけ、見逃して。

青い原石は細かな粒へ崩れ、指の隙間から消えた。
翌朝、誰からも何も言われなかった。小夜は助かったと思った。
目の前の久我が、苦い顔で笑った。

「百二十本……届いたんですか?」
「届きました」
「全部?」
「全部です」

小夜は久我の顔を見たまま、膝の上の手を重ね直した。

「どうしたんですか?」
「他店に連絡して、引き取ってもらったりしました」
「何時まで?」
「その日は、日付変わる少し前だったと思います」

青い石が消えた夜、自分はもうベッドへ入っていた。
誰にも責められずに済んだことへ安堵し、朝まで眠れるよう願っていた同じ時間に、久我は店の奥で百二十本の飲料を動かしていた。

「誰かに怒られました?」
「俺が店長なんで」
「……」
「怒る人がいない分、片づけるのも俺です」

久我は笑いかけたものの、小夜の顔を見ると途中でやめた。

「商品の箱が崩れたこともありました」
「怪我は?」
「大したことないです」
「どこに?」
「腕です」

袖を少し引いたところに、薄い痣が残っていた。
小夜の唇が開いたが、何も出てこない。

「端末が何度も止まって、レジの金額が合わない日もありました」
「……」
「そのうち、自分のミスなのか何なのか分からなくなってきて」
「眠れてなかったから?」
「それもあると思います」

久我は左手で右手の指を押さえた。
その動きに、小夜の視線も落ちる。

「十二って入れても、画面を閉じたあと百二十になってる気がするんですよ」
「……」
「一回確認して、もう一回確認して、それでも戻る途中で心配になって、また見る」
「今日も?」
「今日は二回です」
「昨日までは?」
「覚えてません」

小夜は久我の手を見たまま、自分の指をゆっくり開いた。
その掌にはもうサファイアはない。

「怖くなかったですか」
「怖いっていうより……疲れました」
「疲れた」
「何しても、自分が間違ってる気がするんですよ」
「……」
「音がすると何か落ちたと思うし、電話が鳴ると、また何かあったと思う」

羊のぬいぐるみを抱いていた芽衣の小さな手が一瞬だけ浮かび、小夜は膝の上で開いた指をそのままにした。

「今朝は眠れました」

小夜が顔を上げた。

「……今朝?」
「六時半まで」
「六時半?」
「はい。アラームで起きました」
「三時十七分は?」
「過ぎてました」

久我の口元がほんの少し緩んだ。
小夜はその顔を見つめたまま椅子から立ち、膝をテーブルの裏へぶつけた。小さな音に久我が顔を上げる。

「久我さん」
「はい」
「……ごめんなさい」
「何がです?」
「その夢、たぶん私が手放したものです」

久我はしばらく何も言わなかった。
やがて息をひとつ吐き、小夜から目を逸らさないまま口を開く。

「かなり困りましたよ」

小夜の唇が動いた。
言い慣れた言葉が喉まで上がり、そこで止まる。

大丈夫です。

久我の視線は逸れなかった。
璃子もSAYAも、志保も何も言わず、羊のぬいぐるみを握っていた芽衣の小さな指だけが小夜の頭をよぎった。
小夜はその言葉を飲み込み、握っていた右手を開いた。

掌には、爪の跡が赤く残っていた。
小夜は手を身体の脇へ下ろし、久我を見た。

「はい」

久我の眉がわずかに動いた。
それ以上は何も言わず、小さく息を吐いてテーブルへ視線を落とす。
その先には、一枚の古い地図が広がっていた。

折り目は白く擦れ、端には小さな破れがある。二十一年前の町並みが細い線になって紙の上へ残っている。
久我は少し身を乗り出し、一つの道へ指を近づけた。

「これ、夢の町ですか」
「たぶん」
「この辺、少し下ってませんでした?」
「……下ってた」

小夜も地図へ目を落とした。
久我の指が止まったのは、夢の中で何度も通った角のすぐ近くだった。高低差など描かれていないはずなのに、雨を含んだ坂道を下った時の重さが靴底へ戻ってくる。

「この先に自販機があったと思います」
「私も」
「じゃあ、ここですかね」
「……たぶん」

璃子が古い地域案内のコピーを横へ置いた。
細かな文字で店名が並び、印刷が擦れて読めない箇所も多い。小夜は久我の指した道と見比べながら一行ずつ追い、途中で指を止めた。

《文具》

店名らしい文字の最初は潰れて読めない。
住所だけは残っていた。
久我が示した曲がり角のすぐ近くだった。

「文具店……」
「成瀬さん、文具メーカーでしたよね」
「……はい」

久我はそれ以上訊かなかった。
小夜は《文具》の二文字を見つめたまま、青い付箋が貼られたシャッターと腕に抱えていた紙袋を思い出していた。
その横でSAYAが、コピーの別の行へ指を置く。

「この住所、集合住宅と同じ区画です」
「集合住宅?」
「店の裏か、上かもしれません」

耳の奥で階段を駆け下りる音がした。
古い床板、黄ばんだ壁、小さな窓。三段目だけを避けた足の感覚まで戻り、小夜は地図から手を離した。
そばの椅子へ指をかけ、ゆっくり息を吐く。

「……少し待って」
「うん」

璃子はそれだけ答えた。
小夜は椅子へ座り直し、両足を床につけた。靴底へ返ってくる木の硬さを確かめながら何度か呼吸を繰り返し、もう一度地図へ目を戻す。
久我は何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。

「怖いです」

久我は短く頷いた。

「明日、図書館へ行ってみようか」
「古い新聞?」
「住宅地図も。今の資料だけだと店名が読めない」
「火事の記録も?」
「残っていれば」

火事、と聞いた瞬間、道路の端で両耳を塞ぐ赤い靴の少女が浮かんだ。
近づいてくるサイレンと、大人たちの声が重なる。

『中に誰かいた?』
『声、聞かなかった?』
『……知らない』

小夜は地図の角へ指を置いた。

「明日、行きます」
「一緒に行こうか」
「……最初は、一人で行ってみたい」
「分かった」

璃子は理由を訊かなかった。
SAYAも小さく頷き、久我は地図に残る《文具》の文字をもう一度見てから椅子を引いた。

「俺、そろそろ帰ります」
「久我さん」

立ち上がりかけた久我が振り返る。
小夜も椅子から立った。

「今日、来てくれてありがとうございました」
「いえ」
「それと……」
「はい」

小夜は少し迷ってから、久我の目を見た。

「さっき言われたこと、忘れません」
「そうしてください」
「はい」

久我は小さく頷き、それ以上何も言わず入口へ向かった。
志保も少し遅れてバッグを持ち、椅子から立つ。小夜はその背中を見送ったが、呼び止めなかった。
扉が閉じると、《眠りの庭》には紙の擦れる音だけが残った。

璃子は使い終えたカップを一つずつトレイへ移し、SAYAは古い地域案内をもう一度開いていた。
小夜は椅子へ戻らず、テーブルの端に立ったまま地図を見る。久我が指した坂道と、《文具》の文字がそこに残っている。
SAYAが一枚の紙を横へ置いた。

「ここの住所、明日の住宅地図で確認しましょう」
「うん」
「店名も出るかもしれません」
「……うん」

SAYAはそれ以上話さず、紙の端を地図へ揃えた。璃子も何も言わないまま奥へトレイを運んでいく。
窓の外を一台の車が通り、乾いた道路を擦るタイヤの音がゆっくり遠ざかった。

小夜は地図へ手を伸ばした。
折り目の白くなった一角には、夢の中で何度も歩いた細い道があり、その先へ小さな区画が続いている。
指先をそっと置くと、古い紙は思っていたより薄かった。

(第8話 おわり)
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