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【短編小説】#7「わたし、その夢、売ります!」―Dreams for Sale―

第7話 夢の続きを


買い戻した夢は、その夜、小夜が眠りへ沈むのを待っていたように、古い床板の冷たさを足裏へ押し上げてきた。
頬にまとわりつく湿気へ目を開くと、黄ばんだ壁の向こうに小さな窓があり、白く濁った光の中で赤い靴だけが妙にはっきり浮かんでいる。

靴から視線を上げた途端、舌の奥が乾き、紙袋を胸へ抱いて立つ小さな背中を、頭より先に身体が知った。
つま先を少し内側へ寄せる癖まで、自分のものだった。

声をかけようとして、小夜さよは自分の指に青いインクが残っていることに気づいた。

目の前の少女へ伸ばした腕も、足元の靴も二十八歳の自分のままで、七歳の身体へ戻ったわけではない。それでも少女のすぐ後ろに立つと、紙袋を抱く細い腕も、わずかに上がった肩も、手を伸ばせば届きそうなほど近くにある。

小夜はそっとその肩へ触れようとした。

指先は服にも肌にも触れず、そのまますり抜けた。掴めたのは、廊下に溜まった冷たい空気だけだった。

「誰か、いませんか?」
「お願い……」
「小夜……いるの?」

小夜はカップへ伸ばしかけた手を膝へ戻し、指先に視線を落とした。

「SAYA、昨日の夜……また見た」

茶葉を量っていた手が止まる。
「同じ夢ですか?」
「うん。でも、今度は少し先まで行けた。七歳の私が逃げたあと、私は残って、あの扉のところまで行ったの」
「開けたんですか?」
「開ける前に、目が覚めた」

悔しさが声に混じったことに、小夜自身がいちばん驚いた。以前なら夢から覚めることだけを願っていたのに、今はあの暗い廊下へ戻れなかったことの方が心に引っかかっている。

SAYAは向かいへ座り、急かさず続きを待った。

「七歳の私は、あそこに誰かがいることを知ってた。声を聞いた瞬間、本気で怖がってたから」
「その人の顔は?」
「見てない。手だけ。青白くて……扉の隙間から伸びてきた」
「小夜さんを呼んだ?」
「うん」

小夜はそこで言葉を切った。昨夜から何度も考えていた問いが、口に出した途端に重さを増す。

「私、あの人を知ってるのかな」

SAYAはすぐには答えず、湯気の向こうから小夜を見つめた。

「夢の中のことなので、そうだとは言い切れません」
「璃子なら、もっと夢占い師っぽいこと言いそう」
「私は助手なので」
「便利だね、それ」
「はい。こういう時は特に」

思わず小夜の口元が緩んだ。そのわずかな笑みが消えるのを待ってから、SAYAは静かに続けた。

「ただ、小夜さんが忘れているだけで、身体の方が覚えていることはあると思います」
「身体が?」
「扉を見た時、初めて見るものだと思いました?」
「……思わなかった」

木目も、剥げた塗装も、触れていないのに知っている気がした。七歳の自分が紙袋を落とした場所まで、夢が勝手につくった景色とは思えないほど鮮明に残っている。

「それに、紙袋があった」
「紙袋?」
「七歳の私が抱えてた。逃げる時に落として、中から何か転がった気がする。でも、何だったのか見えなかった」

SAYAの目がわずかに動いた。

「小夜さん、その紙袋をどこでもらったか覚えていますか?」
「……覚えてない」
「誰かに渡すものだったとか」
「分からない」
「では、赤い靴は?」
「それも――」

答えかけたところで、小夜の胸の奥を何かが掠めた。

赤い靴。

なぜ夢の中の自分がそれを履いていたのかではなく、その靴を誰かに見せたことがある。そんな感覚だけが一瞬浮かび、掴もうとした途端に消えた。

「今、何か思い出しました?」
「分からない。でも……あの靴、知ってる」

自分の言葉がおかしくて、小夜は眉を寄せた。

「自分が履いてたんだから、知ってて当たり前なのに」
「そういう『知ってる』じゃないんですね」
「うん。もっと……誰かと一緒にいた気がする」

SAYAはそれ以上尋ねなかった。

窓から差し込む朝の光がテーブルをゆっくり横切り、小夜の前に置かれたカップの縁を照らしている。小夜はようやくそれを持ち上げ、一口飲んだ。

温かいはずなのに、舌の奥へ残ったのは昨夜の廊下と同じ冷たさだった。

「また悪夢を見た」
「夢、ですよね」
「悪夢だよ。あんなの」
「怖かったんですか?」
「……怖かった」
「でしたら、怖い夢です」
「何が違うの?」

SAYAはすぐには答えず、小夜の前へカップを置き、立ち上る湯気が二人の間で薄くなるのを待った。

怖くて眠れないのだから悪夢に決まっている、そう言えば済むはずなのに、昨夜の自分がその言葉を邪魔する。逃げるどころか扉へ近づき、消え始めた瞬間には戻してほしいと叫んでいた。小夜は陶器の縁へ指を添えた。

「怖い夢と、悪い夢は、本当に同じなんでしょうか?」
「昨日より近くまで行けた」
「扉に?」
「うん」
「中を見ようとした?」
「……見ようとした」

言葉にすると奥歯へ力が入り、小夜はカップを持ち上げたものの、口へ運べず両手で包んだ。

あれほど聞きたくなかった声なのに、今は誰だったのか分からないことの方が舌の奥に残る。
白く消えた扉を思い出すたび、もう少しだったという悔しさが戻ってきた。

小夜は湯気越しにSAYAを見た。

「あと少しだったのに、そこで終わった。目が覚めたらほっとすると思ってたんだよ」
「しなかったんですね」
「腹が立った」
「怖かったのに?」
「怖かったよ」

SAYAは何も言わず、小夜が続きを口にするのを待っていた。急かされないことが、今はありがたかった。言葉にしてしまえば、昨夜の自分が本当にあの扉へ近づいたことまで認めることになる気がして、小夜はしばらくカップの縁を見つめた。

扉へ近づくほど膝の力は抜けていき、青白い手が見えた瞬間には、七歳の自分を追って逃げ出したかった。それなのに景色が白く崩れ始めると、今度は身体が勝手に前へ出た。怖いままなのに、ここで終わられたくなかった。

小夜はカップを両手で包み、掌へ伝わる熱を確かめるように指を少し強く寄せた。あの廊下の冷たさがまだ残っている気がして、短く息を吐く。

顔を上げた時には、声の震えはもう消えていた。

「消えた瞬間、戻してって思った。もう一度あそこへ行って、中に誰がいるのか見たいって」
「……」
「ずっと聞きたくなかった声なんだよ。名前を呼ばれるたび起きて、眠るのまで嫌になって、それで売ったのに」
「今は?」
「誰だったのか分からない方が嫌」

SAYAは自分のカップへ目を落とし、親指で縁をゆっくりひと回り撫でた。すぐに言葉は出てこなかったようで、一度息を吸ってから小夜を見る。

小夜も急かさず、そのまま待った。店の奥では湯の沸く小さな音がしている。

「夢って、本人より覚えてることがあるんです」
「本人より?」
「忘れたことも、忘れようとしたことも。匂いとか音とか、そういう形で残ってることがあります」
「答えを教えてくれるの?」
「答えだったら楽なんですけどね」
「じゃあ何?」
「ここを見て、くらいです」
「見たあと、どうするの?」
「そこから先は、自分で決めるしかないんだと思います」

小夜はカップを口へ運びかけ、揺れた水面を見たところで手を止めた。羊のぬいぐるみを抱いた芽衣の顔が浮かぶ。

知らない夢の中で怯えていた。それでも逃げるだけではなく、小夜の方へ近づこうとしていた。振り向かないで、と必死に声を出していた姿まで戻ってきて、小夜はカップをテーブルへ置いた。

乾いた音が少し大きく響き、SAYAの目が一瞬だけその手元へ落ちた。

「……あの子、逃げるだけじゃなかった」
「芽衣ちゃん?」
「怖かったはずなのに、私のところへ来ようとしてた」
「……」
「私が売った夢なのに、あの子の方が、その中で私を助けようとしてた」

【売る】の文字へ触れた夜と、その翌朝が一緒に戻ってきた。目覚ましが鳴るまで眠れて、久しぶりに身体が軽くて、布団の中で思いきり伸びをした。

あの時は嬉しかった。ただそれだけだった。自分が眠っている間に、誰かが代わりにあの声を聞いているなんて、考えもしなかった。

小夜はSAYAの顔を見かけ、何かを言われる前に目を伏せた。カップの水面が、まだわずかに揺れている。

「……私、眠れたんだよ」
「……」
「芽衣ちゃんがあの夢を見てる間、私は朝まで眠れた。久しぶりにちゃんと眠れたって、嬉しかった」

SAYAは仕方なかったとも、知らなかったのだから悪くないとも言わなかった。ただ、テーブルを挟んだ同じ場所に座っている。

その距離が、小夜にはありがたかった。

しばらくして、SAYAが静かに訊いた。

「買い戻す時は、怖くなかったんですか?」

小夜は膝へ落としていた視線を上げた。また三時十七分に目を覚ますことも、名前を呼ばれることも分かった上で《買い戻す》を押した夜が、指先の冷たさまで連れて戻ってくる。

「怖かった」
「はい」
「すごく」

芽衣の眠りへ置いたまま画面を閉じることだけはできなかった。それでも押す直前まで怖くて、スマホを持つ手は冷えていた。

小夜は冷めかけた茶を一口飲んだ。さっきより温度は下がっていたが、飲み込むと喉の奥が少し楽になった。

それからしばらく、二人とも話さなかった。

窓から朝の光が差し、薬草の入った瓶を通ってテーブルへ淡い影を落としている。小夜はその影を眺めていたが、朝からずっと引っかかっていた名前をようやく口にした。

「ねえ、SAYA」
「はい」
「三日月屋のこと、前から知ってたよね」

SAYAの目が窓辺の薬草瓶へ逸れた。

小夜は続きを促さなかった。SAYAは膝の上で指を組み直し、少し時間を置いてから息を吸う。

「……昔、何度も夢に出てきたんです」
「三日月屋が?」
「はい」
「いつ?」
「昼の私と、夜の私が、うまくつながらなかった頃です」

夜になると、小さな頃の自分が前へ出てくることがあったという。

小夜が怖くなかったのかと訊くと、SAYAはすぐには答えず、窓から差す朝の光へ目を向けた。やがて小さく首を横へ振る。

「怖かったのは、朝の方です」
「朝?」
「夜の方が息ができたんです。絵を描いたり、誰かと話したりしてる時だけ、迷路から出られた気がして」
「三日月屋は、その夢に?」
「いつも少し離れたところに立ってました」
「何かしてくれた?」
「何も。ただ見てるだけ」
「それ、嫌じゃなかった?」
「腹が立ちました」

小夜の口元が少し緩んだ。

「そりゃ腹立つよね」
「はい。かなり」

SAYAも笑った。その笑いが消えないうちに、小夜は続きを待つ。

夢の中でとうとう我慢できなくなり、SAYAは三日月屋へ「あなたは誰なんですか」と訊いたことがあるという。返ってきたのは、《岸と岸の間の住人です》という一言だけだった。

「岸と岸?」
「私も訊きました。何と何の岸なのかって」
「答えた?」
「いいえ」
「相変わらずだね」
「昔からです」

SAYAはそう言って、カップへ視線を落とした。

その頃、一人の男の子がSAYAの家へ何度も来ていた。家族から依頼を受けた事務所を通してやって来た子で、引きもっていたSAYAの部屋を訪ね、夜になると話を聞いてくれたという。

「アキラっていう子です」
「男の子?」
「私よりずっと年下です」
「何を話したの?」
「昼の私のことも、夜になると出てくる幼い私のことも。いろいろ」
「怖がらなかった?」
「全然」
「何か言われた?」
「分かったふりをしないで、ずっと聞いてくれました」
「……それで?」

SAYAの表情が少しだけ柔らかくなった。

「夜のあなたも、明るいあなたも、あなた自身ですよって」

その言葉を口にしたSAYAの表情がふっと柔らかくなり、小夜はその顔を見て少しだけ目を細めた。

「年下なのに、随分いいことを言うね」
「そうなんです」

SAYAが頷くと、小夜もつられて笑った。さっきまで二人の間にあった重さが少しだけ抜け、その短い間を惜しむように、小夜はもう一度三日月屋のことを訊いた。

「三日月屋は助けてくれたの?」
「何もしてくれませんでした」
「本当に?」
「本当に。ただ見てただけです」
「じゃあ、どうやって戻ったの?」
「アキラも、璃子さんも、何度も助けてくれました」

そこまで言うと、SAYAは足元へ目を落とした。

小夜は続きを訊かなかった。組んでいたSAYAの指が一度きつく重なり、しばらくしてゆっくり解けていく。窓辺の薬草瓶を通った朝の光が、その横顔に淡く落ちていた。

SAYAは自分の靴先を見たまま、小さく笑った。

「最後に立った時だけ、自分の足だった気がします」
「……ずるいね」
「何がですか?」
「最後だけ自分でやれって」
「私もそう思いました」

小夜は冷めかけた茶をひと口飲み、舌に残った苦みに少し眉を寄せた。

昨夜の半開きの扉がまた浮かぶ。あそこまで行っても、誰も代わりに開けてはくれなかった。中に誰がいるのかも、どうして自分を呼ぶのかも、まだ何ひとつ分からない。

SAYAもそれ以上は言わなかった。

小夜はカップを置き、しばらくそこに残った茶の跡を見ていた。

その夜、小夜は《眠りの庭》の奥に敷かれた布団へ横になっていた。

枕元には璃子が置いた水とタオルがあり、半分だけ閉じたカーテンの向こうには璃子とSAYAがいる。声を少し上げれば届く。その近さを確かめてから、小夜はようやく枕へ頭を沈めた。

戻ってきた璃子には、昨夜の夢もSAYAから聞いた話もすべて伝えてある。それでも璃子は、見た方がいいとも、やめた方がいいとも言わなかった。

「無理しないで」
「うん」
「夢が来たら、その時に決めればいい」
「みんな最後は私に決めさせるんだね」
「小夜の夢だからね」

璃子の声に少し笑いが混じった。

小夜も口元を緩めかけた、その時だった。

枕元のスマホが一度だけ震えた。

画面に月と青い石の印が浮かび、その下へ《ご質問がおありですか?》と表示される。

小夜は身体を起こして入力欄へ触れた。

芽衣のことを打ちかけて消す。久我の名前まで入れて、また消した。何を訊こうとしても、最後には昨夜の半開きの扉が浮かんでくる。

指が止まった。

しばらく画面を見つめたあと、小夜は一文だけ打った。

《私の夢は、何を見せようとしてるの?》

送信する。

返事はすぐには来なかった。

暗い画面を見つめているうちに自分の呼吸ばかりが耳につき、小夜がスマホを握り直したところで文字が浮かんだ。

《こちらへお越しください》

続いて、

《入りますか?》

小夜の舌が上顎へ張りついた。

青白い手が扉の隙間から伸びてきた瞬間が、目の前へ戻ってくる。【入る】へ近づけた親指が止まり、そのまま少し離れた。

カーテンの向こうを見る。

璃子の影がある。

「璃子」
「来た?」
「うん」
「どうする?」
「……怖い」
「うん」
「本当に怖い」
「うん」

大丈夫とは言われなかった。

そのことに、小夜は少しだけ息を吐いた。

震えの残る親指をもう一度【入る】へ近づけ、カーテンへ目を向ける。璃子の影も、そばにいるSAYAの気配も動かなかった。

誰も急かさない。
誰も代わりに押さない。

小夜は画面へ視線を戻した。

「行く」

親指が触れた。

その瞬間、布団へ預けていた身体から重さが抜けていく。足元から冷たいものが這い上がり、小夜は反射的にシーツを掴んだが、その感触さえ指の間から遠ざかっていった。

「小夜さん」

SAYAの声が聞こえた。

「帰ってこなかったら……起こして」
「必ず」

その一言だけが、暗闇の中まで追ってきた。
布団も、部屋の匂いも、二人の気配も消えていく。
次に小夜の足裏へ触れたのは、冷たく硬い地面だった。

目を開けると、深い藍色の空が広がっていた。

足元には石畳にも濡れた水面にも見える道が遠くまで続き、その両側に淡い灯りが浮かんでいる。

小箱を胸へ抱えた老人とすれ違う。青い石を大切そうに両手で持つ女がその後ろを歩き、何も持たない男が俯いたまま反対側へ過ぎていく。

人は多いのに、話し声がほとんどない。

小夜は誰かにぶつからないよう身体を避けながら歩き、少し先で足を止めた。

一人の老人が、小さな箱を抱えている。

箱の中には食卓があった。

湯気の立つ料理を挟み、男と女が笑っている。老人はそこから目を離せず、箱を誰かへ差し出しかけては、また胸元へ引き戻した。

やがて指を伸ばし、中で笑う女性の頬へ触れようとする。

指は光の中をすり抜けた。

老人の手が止まる。

それでも諦めきれないように、今度は女性の髪を撫でるように指を動かした。

小夜は声をかけられなかった。

しばらくして老人の手が箱から離れた。

ほんの少し背中を丸め、そのまま人の流れへ入っていく。小夜は遠ざかる背中と、置かれた箱を交互に見た。

箱の中では、女性がまだ笑っていた。

何も知らないまま。

「……幸せそうな夢なのに」
「亡くなられた奥様との夕食です」

すぐ後ろから声がした。

小夜の肩が跳ねる。

振り返ると、黒い広いつばの帽子が見えた。目元は深い影に隠れ、胸元では青い石だけが淡く光っている。

三日月屋だった。

男はいつものように軽く頭を下げた。

「ここは?」
「《狭間》です」
「狭間?」
「岸と岸の間」

小夜の目が止まった。

朝、SAYAから聞いたばかりの言葉だった。

「SAYAにも、それ言ったんだよね」

三日月屋は答えない。

「岸って、何と何の岸なの?」

やはり何も言わなかった。

小夜が苛立って口を開きかけた時、二人の横を若い女性が通り過ぎた。

胸には赤い石を抱えている。

女性の前に淡い光が浮かび、その中で母親らしい人が幼い女の子の髪を結んでいた。女の子はじっとしていられないのか何度も身体を揺らし、母親が困ったように笑っている。

若い女性の足が止まった。

赤い石を握る指に力が入る。

小夜はさっきの老人を振り返った。

妻との夕食を手放した老人と、もう一度母親へ会おうとしている女性が、互いを見ることもなくすれ違っていく。

老人は振り返らない。

女性も老人を知らない。

小夜だけが、別々の方向へ遠ざかっていく二人を見ていた。

やがて三日月屋へ顔を向ける。

帽子の奥は、相変わらず見えなかった。

「悪夢だけじゃないんだ」
「夢に善悪はございませんので」
「だったら、なんで私には《悪夢、高価買取中》なんて送ってきたの?」
「手放したいと願う方が多いためです」
「都合がいいからでしょ」
「否定はいたしません」

その返事を聞いた途端、羊のぬいぐるみを抱いた芽衣の顔が蘇った。
小夜は指先を握り込み、三日月屋が言い訳するのを待ったものの、男は何も言わずそこに立っている。
あの夜眠りたいと願った自分まで一緒に戻ってきて、腹の底へ溜まっていたものが熱を持った。
小夜は男を見上げた。

「知ってたら……芽衣ちゃんがあんなふうに泣くって知ってたら、私――」
「あの夜のあなたは、眠ることを強く望んでおられました」
「だから何」
「事実を申し上げただけです」
「私が自分勝手だったって言いたいの?」
「そうは申し上げておりません」

夢のない朝、久しぶりに目覚ましまで眠れた身体の軽さが鮮明に戻った。
小夜は唇の内側を噛み、三日月屋の胸元で光る青い石へ目を据える。
男は何も言わず、その視線を受けたまま立っていた。
小夜はゆっくり息を吐いた。

「最初に言ってよ」
「規約には――」
「読ませる気のない場所に書いてあるのは、言ったことにならない」
「ごもっともです」
「……謝らないんだ」
「謝罪で芽衣様の夜を返せるのでしたら」
「本当に嫌い」
「よく言われます」

小夜は男の横を通り過ぎ、道の脇を流れる淡い灯りへ目を向けた。
一つの光が遠ざかり、その向こうで別の光が小さく揺れる。
自分が眠った夜と芽衣が泣いた夜を思いながら足を止めると、少し遅れて三日月屋も横へ並んだ。
小夜は前を向いたまま口を開いた。

「芽衣ちゃんが泣いた分、どこかで誰かが幸せになったの?」
「いいえ」
「じゃあ、私が眠れた夜にあの子が泣いたのは何なの」
「一人が笑えば、一人が泣く、そのような計算ではありません」
「じゃあ何?」
「手放したものは、消えません」
「それを《均衡》って呼んでる?」
「はい」
「芽衣ちゃんにとっては《理不尽》だよ」
「そうでしょう」

三日月屋はそこで口を閉じ、さらに《均衡》を説明しようとはしなかった。
淡い灯りが二人の足元を流れ、長い影を一度だけ揺らす。
小夜はしばらく男の横顔を見つめてから、その影の奥へ届かない問いを投げた。
返事を待つ間、風のない藍色の空だけが広がっていた。

「誰が、そんな仕組みを決めたの?」
「私より遥か上におられる方です。」
「……神様?」

三日月屋は答えず、藍色の光だけが帽子の縁を滑って肩へ落ちた。何を訊いても返事をしてきた男が、その一言にだけ口を閉ざしている。

小夜は帽子の奥を見ようとしたものの、目は最後まで影に隠れたままだった。やがて三日月屋が歩き出し、小夜も黙って後を追った。

道の先には青や赤、紫や白の石が浮かび、その内側で小さな光が呼吸するように脈打っていた。

小夜は青い一粒へ近づき、枕元へ置かれていたサファイアの冷たさと《寿命決済免除》の文字を思い出す。三日月屋が石へ手をかざすと、その光が一度だけ強くなった。小夜は石へ伸ばしかけた腕を戻した。

「これ……誕生石?」
「はい」
「人のもの?」
「その方の《生》に結びついております」
「《生》って……命?」
「はい」

願いが叶ったあと砂のように消えた自分のサファイアが脳裏へ浮かんだ。最初に受け取った石では命を削っていないと聞かされても、その先まで願いを買えば自分の石から支払われるという。小夜は脈打つ青い光を見つめ、乾いた舌を上顎から離した。訊きたくない答えほど、声に出すまで時間がかかった。

「全部なくなったら?」
「石の終わりが、その方の最期です」

小さな石を大切そうに持つ若い女性がすぐそばを通り過ぎ、その光を見つめる顔は嬉しそうだった。小夜は反射的に「待って」と声をかけ、一歩追いかけたところで止まる。

亡くした人へ会いたいのか、今日だけ何かを忘れたいのか、その人が何を抱えてここまで来たのかは分からない。女性は振り返らず、人影の中へ消えていった。

「……あなたは止めないんだ」
「はい」
「命が減るって知ってても?」
「はい」

その返事を聞きながら、小夜は朝のSAYAを思い出した。
三日月屋が夢へ現れても何もしなかったこと、アキラや璃子がそばにいて、それでも最後には自分で立ったという言葉が蘇る。

女性の背中が見えなくなったあと、小夜は三日月屋へ向き直った。石の光が男の黒い衣服へ淡く映っていた。

「SAYAも、あなたが呼んだの?」
「そのお名前で生きておられるのですね」
「助けた?」
「いいえ」
「アキラって子がいたって」
「ええ」
「その子が戻したんじゃないの?」
「戻ることを決めたのは、彼女です」

小夜はそれ以上訊かず、石の浮かぶ場所を抜けていく三日月屋の背中を追った。青や赤の光が一つずつ背後へ流れ、代わりに半開きの扉が何度も瞼の裏へ浮かんでくる。

小夜は唇を結び、三日月屋との距離を詰めるように歩調を速めた。男は振り返らなかった。

再び人の行き交う道へ出たところで、小夜は世界中に夢を見る人間がいるのに、この場所を知る者がほとんどいないことへ気づいた。

前を歩く三日月屋へ声をかけると、男は振り返らず歩調だけを緩め、小夜が横へ並ぶのを待った。藍色の地面を流れる光が二人の足元を横切り、そのたび影の形だけが変わる。小夜はしばらく前を向いたまま歩いた。

「みんな、ここへ来られるの?」
「いいえ」
「じゃあ私は?」
「お呼びしました」
「最初から?」
「はい」
「なんで私を?」

三日月屋が足を止め、小夜も数歩先で止まって振り返った。
男は夢を見る者も、夢を恐れる者も、忘れたいと願う者も大勢いると静かに告げる。

それだけなら自分も同じだと小夜が返しても、三日月屋は否定しなかった。

小夜は眉を寄せた。

「私だって最初は売ったよ」
「存じております」
「逃げたんだよ」
「それも存じております」
「だったら、選ぶ相手を間違えたんじゃない?」
「戻ってこられました」

小夜は返す言葉を探しながら、三日月屋を見つめた。
売った夜も、買い戻した夜も、ここへ入ると決めた時も、男は一度として腕を掴んではいない。藍色の道を流れる光が靴先を横切り、足元から遠ざかっていった。

小夜はその光を追わず、顔を上げた。

「もし戻らなかったら?」
「その時は、それまでです」
「冷たいね」
「そうかもしれません」
「助けてくれるわけじゃないんだ」
「はい」
「じゃあ、何のために見てるの?」
「戻られるかどうかを、私が決めないためです」

芽衣の泣き顔と、昨夜の扉が一度に胸へ戻ってきた。
三日月屋の声はどちらにも慰めを与えず、正しさを押しつけることもしない。

小夜は男へ一歩近づき、喉の奥へ溜めていた言葉をそのままぶつけた。

三日月屋は動かなかった。

「だったら最初から言えばよかったじゃない。逃げるなって、夢から目を逸らすなって、芽衣ちゃんを巻き込む前にそう言ってくれてたら――」
「それでは、あなたがお選びになったことにはなりません」

小夜はしばらく何も言えず、そのまま三日月屋の横を通り過ぎた。背後から靴音が追いついてきても振り返らず、二人でしばらく藍色の道を歩く。

口の中へ残った苦いものを飲み込みきれないまま、小夜は鼻から短く息を抜いた。横を歩く黒い影へ目だけを向ける。

「……本当に嫌なことばっかり言う」
「よく言われます」
「それも聞いた」

《狭間》をどれほど歩いても、半開きの扉だけは小夜の中から消えなかった。亡き妻との夕食を手放した老人も、命と結びついた石も、三日月屋が沈黙した相手の存在も、今は扉の向こうへ重なっていく。

小夜が足を止めると、数歩先の三日月屋も止まり、ゆっくり振り返った。

今度は小夜の方から歩み寄った。

「私が知りたいのは、それじゃない」
「では?」
「私の悪夢が――」

口にしたところで、朝のSAYAの声が蘇った。
怖い夢と、悪い夢は、本当に同じなんでしょうか。

小夜は唇を閉じ、あの扉へ近づいていった自分を思い出してから顔を上げる。

三日月屋は何も言わず待っていた。

「……私の夢」
「はい」
「どうして私の名前を呼ぶの?」
「……」
「扉の向こうにいるのは誰?」
「……」
「私、何を忘れてるの?」

三日月屋はしばらく答えず、藍色の道を行き交う人々へ顔を向けた。

小夜がもう一度問いかけようとすると、帽子の影から静かな声が返ってくる。男の視線がどこへ向いているのかは、最後まで分からない。

小夜はその言葉を待った。

「夢は答えではございません」
「じゃあ何?」
「忘れたものへ戻るための標です」
「戻った先に、答えがある?」
「それをお確かめになるのは、あなたです」

欲しい名前も、扉の向こうの顔も返ってこなかった。
小夜は眉間へ力を入れ、何か言い返そうとして口を開く。
その声が出る直前、昨夜の自分が半開きの扉へ近づいていた姿が浮かんだ。

小夜はゆっくり口を閉じた。

「もう一度、見せて」
「恐怖を伴います」
「知ってる」
「忘れていたものが戻る可能性もございます」
「……うん」
「後悔なさるかもしれません」
「するかもね」

また逃げるかもしれないと口にすると、三日月屋は否定も励ましもしなかった。足元を流れる淡い光が少しずつ暗くなり、藍色の道から人影が消えていく。

小夜は一度目を閉じかけ、すぐに開いた。
そのまま男へ向き直る。

「その時は、逃げたって覚えてる」
「では、お選びください」
「見る」

周囲の灯りも三日月屋の黒い姿も遠ざかり、足元から地面の感触が消えていった。落ちているのか浮いているのかも分からない暗闇の中へ、湿った木の匂いが入り込んでくる。そこへ焦げた臭いが混じった瞬間、胃の奥がきつく縮んだ。
黄ばんだ廊下が戻った。

半開きの扉の前には紙袋を抱えた七歳の自分がいて、小夜はその小さな背中から目を離さなかった。

女の声が「小夜」と呼び、青白い手が床を探るように伸びると、紙袋が落ちて赤い靴が走り出す。今度は迷わずその背中を追い、幼い身体が階段へ飛び込むのと同時に小夜も足を踏み出した。七歳の足が、一段だけ不自然に横へずれた。

小夜も同じ場所へ踏み込もうとして、身体が勝手に足を外へ逃がした。靴底が階段の縁を擦り、前へつんのめりかけたところで手すりへ身体を預ける。

視線を落とすと、三段目だけがわずかに沈み、端の木が黒く擦れている。記憶にはないのに、足はその段を知っていた。

小夜は遠ざかる赤い靴を追って階段を駆け下りた。
外へ飛び出した途端、眩しい日差し、自転車のベル、走る車、風に揺れる洗濯物が一度に押し寄せてくる。

建物の奥には助けを求める声が残っているのに、町は何事もない昼の続きを生きていた。七歳の小夜は道路の端で膝へ手をつき、息を切らしている。

青い自動販売機、その脇の細い路地、向かいの家を伝う錆びた雨樋へ目を移すたび、景色より早く足裏や肩が反応する。
角を曲がれば何があるのかまで、もう少しで思い出せそうになり、小夜は辺りを見回した。

その時、通りの向こうから「煙!」という声が飛び、七歳の肩が大きく跳ねる。

焦げた匂いが一気に濃くなった。

建物を振り返った大人たちが走り出し、窓を開ける音や電話をかける声が重なり、その向こうからサイレンが近づいてくる。幼い小夜は両耳を塞ぎ、肩をすくめたまま道路の端へ小さくなり、二十八歳の小夜の肩にもまだ誰にも触れられていない重みが戻った。

首筋から背中へ冷たいものが落ち、サイレンが近づくほど呼吸が浅くなって、胸の奥が一度ずつ狭まっていく。
小夜は目の前の少女から視線を外せなかった。

「この子、中から出てきたんじゃない?」

一人の女性が七歳の小夜へ駆け寄り、その前へしゃがみ込むと、幼い肩へ両手を置いた。顔だけは白く濁って見えないのに、その重さは二十八歳の身体にも生々しく蘇り、赤い靴のつま先が少し内側へ寄る。

小夜は息を詰め、その小さな身体を見つめた。
女性が顔を覗き込む。

「ねえ、中に誰かいた?」
「……」
「声、聞かなかった?」

女の人がいた、助けを呼んでいた、自分の名前まで呼んだ――言葉は二十八歳の小夜の喉まで一気に上がった。

今の自分なら、それだけ言えばいい。
七歳の小夜は泣かず、肩を掴まれたまま目を開き、サイレンが近づくたび唇から色を失っていく。
小夜は「言って」と叫びかけた口を閉じた。

大人の両手の中へ幼い肩がすっぽり収まり、紙袋を落として空になった指は、服の裾を皺になるほど握りしめている。

赤い靴のつま先がわずかに動き、少女は顔を上げないまま、その場から逃げることさえできずにいた。
小夜は目の前の子から視線を逸らさなかった。
大人がもう一度、同じことを訊いた。

「声、聞いた?」
「……知らない」

聞いたじゃない、という言葉が舌の裏まで上がり、そのあとに続こうとした声も、服の裾へしがみつく指を見た瞬間に消えた。

小夜は幼い肩へ触れようとし、すり抜けた腕をそのまま下ろさず、大人の手のそばへそっと重ねる。大人の掌に挟まれた肩は、思っていたよりずっと小さかった。

小夜の唇が、ようやく動いた。

「……七歳だったんだ」

大人が何かを話しかけると、七歳の小夜はその手を振りほどき、人の間を走り抜けた。赤い靴はどんどん遠ざかり、角を曲がる直前に一度だけよろけ、それでも振り向かず見えなくなる。

二十八歳の小夜は追わず、空いた道路の先を見つめたまま、その場に残った。近づくサイレンが耳の奥を震わせる。

その音の向こうから、建物の中に残された女の声が再び「小夜」と呼び、踵が反射的に半歩下がった。耳を塞ぎたい衝動に肩が上がり、小夜は足元へ目を落とす。そこにあるのは赤い靴ではなく、二十八歳の自分が履いてきた靴で、つま先は建物の方を向いたままだった。

小夜は乾いた口の中を一度飲み込み、顔を上げた。

「……いるよ」
「聞こえてる」

焦げた匂いもサイレンも消えないまま、小夜は建物へ一歩近づいた。頬を涙が伝っても拭わず、女の声が遠ざかるたび自分から追うように、さらに一歩を重ねる。

半開きの扉があるはずの場所へ目を凝らし、白く濁る奥へ向かって息を吸った。次の声は、自分の耳にもはっきり届いた。

「聞こえてるから」

景色が激しく揺れ、紙袋の落ちる音、肩を掴まれた感触、赤い靴、サイレン、《知らない》と答えた幼い声が一度に押し寄せてくる。

小夜は額を押さえながら建物から目を逸らさず、白く濁った向こうに人影だけが残っているのを見つけた。顔は見えないまま、その影が扉の奥へ沈もうとしている。

小夜は一歩踏み出した。

「誰なの……」
「どうして私を呼んだの」

建物の輪郭が白く滲み、集まっていた大人たちも道路も光の中へ薄れていく。赤い靴まで沈み始め、小夜は扉があった場所へ駆け出し、崩れていく景色の中へ身体を乗り出した。

もう少しで届きそうな距離のまま、足元から世界が失われていく。小夜は消えかけた人影から目を離さなかった。

「まだ分かってない!」

遠くから「小夜!」と呼ぶ声が届き、それが扉の向こうの女ではないと分かった瞬間、白い光が視界を埋め尽くした。

次に感じたのは肩を支える温かさと、額へ押し当てられた冷たい布の感触だった。焦げた匂いの残る息を吐きながら目を開けると、《眠りの庭》の天井が涙で滲み、その向こうに璃子とSAYAの顔がある。

小夜は何度か息を吸い、ようやく璃子へ焦点を合わせた。

荒い呼吸のたび寝衣が背中へ張りつき、璃子が肩を支え、SAYAが額へ冷たいタオルを当てている。夢の中で身体に残った冷たさが少しずつ引き、小夜が璃子の名を呼ぶと、すぐに「うん」と返ってきた。

璃子はそれ以上急かさず、背中へ添えた腕を離さない。
小夜は布団の端を掴んだ。

「私……いた」
「うん」
「小さい頃、あそこにいた」
「……うん」
「誰かが助けを呼んでた。私の名前まで呼んでた」
「誰だったの?」
「分からない」
「そこだけ、見えない」

三段目だけ沈む階段も、青い自動販売機も、錆びた雨樋も、もう夢の中にしかない景色とは思えなかった。

小夜が口を開こうとするたび、七歳の《知らない》が耳へ戻り、布団を掴む力だけが強くなる。璃子もSAYAも言葉を挟まず、その声が出てくるまで傍にいた。

やがて小夜は俯いたまま口を開いた。

「あのあと、大人に聞かれた。中に誰かいたかって」
「……」
「私、知らないって言った」

璃子は何も言わず、SAYAも視線を逸らさなかった。小夜の目の奥には、赤い靴のつま先と、大人の両手に収まっていた肩、服の裾を掴んでいた小さな指だけが残っている。涙が頬を伝い、顎の先から布団へ落ちても拭わず、しばらくそのまま座っていた。やがて小夜は枕元のスマホへ視線を向けた。

町の名前も建物の名前も、いつ起きた出来事なのかも思い出せず、検索欄へ一文字打っては消し、別の言葉を入れてはまた消す。

扉の向こうにいた人が死んでいたら、その時、自分が大人へ伝えていれば助かったのだと分かったら――画面を閉じる印へ指が近づいた。触れる寸前、両耳を塞いだ赤い靴の少女が浮かんだ。

小夜の指が止まった。

肩を掴まれても顔を上げられず、服の裾へしがみついていた小さな姿が白い検索欄へ重なる。

小夜は画面を閉じかけた指を戻し、震えの残るまま一文字だけ打った。点滅するカーソルの横へ文字が残り、今度は消さなかった。

璃子が、そっと横顔を見る。

「あの子には、もうやらせない」
「何を?」
「続きを」

(第7話 おわり)

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