【短編小説】#6「わたし、その夢、売ります!」―Dreams for Sale―
第六話 正しい呪い


夢占いサロン《眠りの庭》へ入った時、小夜は窓際の丸テーブルに置かれたスマホを見て足を止めた。璃子の向かいには浅葱志保が座り、白い画面に浮かぶ《配送完了》の文字をじっと見つめている。前に会った時と変わらない落ち着いた横顔なのに、今日はその静けさがかえって危うく見えた。
「……また送ったんですか」
「はい」
「妹さんを追い込んだ人に?」
「いいえ。あの人には、もう送っていません」
「じゃあ、誰に?」
志保はスマホを伏せ、ほんの少し考えてから「直接は知らない人です」と答えた。その言葉が、小夜の中にあった前回の続きを静かに壊した。妹を傷つけた一人への復讐だと思っていたものが、いつの間にか別の誰かへ伸び始めている。SAYAが小夜のために椅子を引き、レモンバームの香るカップを置いた。指先へ伝わる陶器の温かさはいつもと同じなのに、テーブルの上の《配送完了》だけが異物のように冷たく見える。
「最近、そういう相談を受けるようになったんです」
「浅葱さんが?」
「最初は前の会社の知人からでした。妹のことを知っている人です。その人から別の人を紹介されて、それがまた別の人につながって」
「三日月屋のことまで話してるの?」
「全部は話してません。悪夢を送る方法がある、とだけです」
「それ、もう代理みたいになってるよ」
「そんなつもりはありません」
「つもりの話をしてない」
璃子の声は強くなかった。それでも志保の指が止まり、店内の空気がわずかに張った。小夜は二人の間を見ながら、ずっと気になっていたことを聞いた。
「妹さんの件以外に、何人へ送ったんですか」
「今日で四人です」
四人。その数字が耳へ入った途端、曖昧だったものが急に形を持った。妹を苦しめた一人へ一晩だけ悪夢を送るなら、まだ復讐と呼べる。四人になると、もう少し別のものに見えてくる。
「その四人、浅葱さんが悪い人だって決めたんですか」
「私だけで決めたつもりはありません。相談した人の話だけじゃなく、共通の知人を探したり、辞めた人に聞いたりもしました」
「それで全部、本当だって分かるんですか」
小夜は、志保が「ちゃんと調べています」と言い返すと思っていた。ところが志保は視線を逸らさず、「分かりません」と認めた。言い訳も、自分を守ろうとする力みもない。その率直さが、小夜にはかえって怖かった。間違う可能性を知らないのではない。知ったうえで、それでも悪夢を送っている。
「今日の人は?」
「塾の先生です。生徒を皆の前に立たせて怒鳴ったり、答案を破いたりして、辞めた子も何人かいるそうです」
「それで?」
「三晩送りました」
「三晩?」
小夜が思わず聞き返すと、志保の目がほんの少し揺れた。
「最初は一晩でした。翌日も何も変わらなかったから、もう一晩。それでも普通に授業をしていたと聞いて、三晩目を」
「悪夢を見たら、人は反省すると思ったんですか」
「……少しは、分かると思っていました」
その声には怒りより落胆が滲んでいた。眠れない夜を一晩でも知れば、傷つけられた側の苦しさに触れるはずだと、どこかで期待していたのだろう。小夜の脳裏に、夢世界で見た《復讐夢・注文窓口》が蘇った。前と同じ夢を、今度はもう少し強く。誰かの苦しみが追加注文という形に変わった瞬間の、あの静かな恐ろしさ。
「その先生が変わるまで続けるんですか」
「……」
「四晩目も、五晩目も?」
「分かりません」
「じゃあ、どこで止めるんですか」
志保はすぐに答えなかった。スマホの黒い画面へ視線を落とし、指先で端を何度もなぞってから、ようやく低い声を出した。
「決めてなかったんだと思います。最初は、妹のことだけだったから」
「一人だけだった」
「はい。一晩眠れない夜を知ってもらえれば、それで終わると思っていました」
「終わらなかった?」
「何も変わらなかったんです」
志保はカップを両手で包み、飲まずにその温かさだけを確かめるようにしていた。
「それから、相談に来る人を見るようになりました。眠れない人って、似た顔をするんですよ。目の下のくまとかじゃなく、話している途中でふっと遠くを見るんです。まだ昼なのに、もう今夜のことを考えてる。今日も眠れないかもしれない、布団に入ったらまた思い出す、その顔が……妹と同じなんです」
小夜の胸の奥に細い痛みが走った。午前三時十七分に目を覚まし、まだ何時間も残っている夜を恨んだことがある。朝になれば仕事へ行かなければならないのに、眠ろうとするほど眠れなくなる焦りも知っている。
「使えるものがあるのに使わない方が、ひどい気がするんです」
「だから送る?」
「はい」
短い答えだったが、今度は冷たく聞こえなかった。その時、志保のスマホが震えた。
【善夢配送が完了しました】
「善夢?」
「悪夢を送った時は、同じ回数だけ良い夢も送るようにしています。今日なら、塾を辞めた子へ」
「先生に悪夢を三晩、その子にも良い夢を三晩?」
「はい」
小夜は二つの履歴を見比べた。悪い人には眠れない夜を、傷ついた人には穏やかな眠りを。同じ三晩、同じ《配送済み》。
「……正しい気がしてきますね」
「そう思いますか?」
「一瞬だけ。だから怖いんです」
小夜は画面から志保へ目を移した。
「こうやって並べると、浅葱さんが夜の中だけでも釣り合いを戻してるように見える。でも、本当に釣り合ってるんでしょうか。三晩と三晩で、同じになるんですか」
「……なりません」
「ですよね」
一晩ぶん、一個ぶん、サファイア一つぶん。数えられるものにしてしまえば、少しだけ扱いやすくなる。
「浅葱さんは、誰かを苦しめたいんですか」
「違います」
「じゃあ、救いたい?」
「……はい」
「その二つ、いつから同じになったんでしょうね」
志保の表情からわずかに力が抜けた。璃子は何も挟まず、その横顔を見ている。もう一度スマホが震え、《追加配送を予約しますか?》の文字と《予約する》《今回は見送る》の二つのボタンが現れた。
「毎回来るんですか、それ」
「はい」
「上限は?」
「表示されたことはありません」
「三日月屋に止められたことは?」
「一度も」
志保の指が《予約する》へ近づいた瞬間、小夜の身体が先に動いた。
「待って」
指が止まる。
「今日も追加するんですか」
「今朝、相談してきたお母さんから連絡がありました。先生は昨日も普通に授業をしたそうです」
「だから四晩目を?」
「……」
押せば三日月屋は受け付ける。四晩目、それでも変わらなければ五晩目。止めるのは注文する人間しかいない。
「変わるまでですか。それとも、苦しんだって分かるまで?」
「成瀬さん」
「どこまで行ったら、もう十分なんですか」
「……分かりません」
「成瀬さんなら、どうします?」
小夜は反射的に「押しません」と言いかけ、その言葉を飲み込んだ。押さない自分を正しい側へ置くのは簡単だ。何もしなかったことで、また誰かが傷ついた時の責任を自分は負えるのか。
「私なら……怖くて押せないと思います」
「怖いから?」
「はい」
「その先生が明日また誰かを傷つけても?」
「それでも」
「それって、責任を負いたくないだけじゃないですか」
「そうかもしれません」
志保の唇がわずかに開いたまま止まった。
「何もしなかったせいで誰かが傷ついたら、私は自分を責めると思います。でも、押した悪夢で別の誰かが傷ついても同じです。どっちが正しいか分からないから、正しい方を選ぶんじゃなくて、自分がやったことを忘れない方を選びたい」
「忘れない?」
「間違ってなかったことにしない。正しかったって決めつけない。自分が選んだ結果を、都合よく消さない。それくらいしか、できない気がします」
やがてスマホの画面が暗くなり、《追加配送を予約しますか?》の文字も消えた。志保はしばらく黒くなった画面を見つめ、それから静かに伏せた。
「今日は押しません」
「明日は?」
「また押したくなるかもしれません」
「その時、また考えればいいと思います」
「毎日?」
「たぶん」
「面倒ですね」
「人間って、面倒なんですよ」
志保が小さく笑い、小夜も少しだけ笑った。帰り際、志保は入口で振り返った。
「成瀬さんは、夢を売ったことを後悔していますか」
「売ったことだけなら、まだ分かりません。あの時は本当に眠りたかったから、それを嘘にしたくない」
「じゃあ、何を後悔してるんですか」
「売ったあとを、知らなくていいと思ってたことです」
誰に行くのか、何が起きるのか、知らなかった時の自分まで責めるつもりはない。ただ、今はもう知っている。その言葉を聞いた志保はしばらく黙り、「私も、そうなるのかな」と小さく呟いた。
「それは分かりません」
「また分からない」
「分からないことを、分かったふりしないって決めたんです」
「それ、思ったより難しいですね」
「かなり難しいです」
志保が帰ったあと、小夜のスマホが震えた。三日月と宝石のアイコン。その画面に表示された文字を読んだ瞬間、小夜の呼吸が浅くなる。
【お客様の売却夢について、所有者情報が更新されました】
【現在所有者 井口芽衣様】
【買い戻しをご希望の場合はこちら】
芽衣に渡ったことは分かっていた。それでも《所有者》と明記された名前を見ると、十歳の少女が自分の悪夢を持って眠っている事実が、もう逃げ道のない形になった。
「押さないで」
「まだ押してない」
「今すぐ全部どうにかしようとしてる顔してる」
「買い戻せるんだよね」
「制度としてはある」
「条件も知ってた?」
「全部じゃない」
「どうして教えてくれなかったの」
「知ったら、小夜は使おうとすると思ったから」
「それを決めるのは私でしょう」
璃子は苦い顔をしたあと、視線を逸らさずに「黙ってたことは謝る」と言った。
「ただ、知らない方がいいこともある」
「それ、前に璃子が私に言ったことと逆じゃない?」
「……」
「知らなかったことと、なかったことは違うって言ったよね」
「言った」
「じゃあ、条件だけ知りたい」
小夜は三日月屋へメッセージを送った。すぐに返信が届く。
【返品はできません】
【ただし、買い戻しは可能です!】
「感嘆符、腹立つなあ」
「そこは同意」
少しだけ笑ったあと、小夜は続きへ目を落とした。そこから先は、笑って読める内容ではなかった。
買い戻されるのは、売った悪夢だけではない。あの取引をきっかけに誰かの眠りへ流れた恐怖も、理由もなく積み重なった疲労も、失われたものへの痛みも、あとになって残った後悔さえも、一晩かけて小夜のもとへ戻ってくる。
しかも、始まれば朝まで止めることはできない。
さらにその下には、まるで小さな注意書きのように、自己認識の混乱や判断力の低下を招く可能性があると記されていた。
小夜は画面を見つめたまま、しばらく指を動かさなかった。
「これ……心が壊れるかもしれないってこと?」
「そうなる可能性はあると思う」
璃子の声が低く沈み、小夜は画面から目を離せないまま唇を結んだ。
「芽衣ちゃんが感じたものも?」
「入る」
「久我さんの分も?」
「たぶん。取引から生まれたものなら、全部」
画面の下には《買い戻す》の文字が静かに浮かんでいる。指を伸ばせば触れられるほど近いのに、その数センチがひどく遠く感じられた。
「今日は押さないで。一晩だけ考えて」
「私、あの夢のせいで、一晩がどれだけ長いか知ってるよ」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
小夜は少しだけ笑ったものの、その笑みはすぐに消えた。スマホを握る手に力が入り、夢を売った夜の感覚が指先から蘇ってくる。布団へ入ることさえ怖くなり、時計を見るたび午前三時十七分へ近づいていくのが嫌で、朝を待つだけの時間に身体の内側から少しずつ何かを削られていった。
あの夜、自分はただ眠りたかった。その切実さまで、今になって間違いだったことにはしたくない。
「私ね、夢を売った自分を悪かったことにしたくないんだ。本当に眠りたかったし、もう限界だった。今の私が全部知ってるからって、あの時の私に『我慢すればよかった』なんて言いたくない」
璃子は何も言わずに聞いている。その沈黙に急かされることも慰められることもなく、小夜は自分の言葉を探しながら続けた。
「売らなきゃよかった、私が悪かった、だから全部苦しんで償いますって言えば、きっと話は分かりやすいんだと思う。でも、それは違う気がする」
「……うん」
「私が今夜どれだけ苦しんでも、芽衣ちゃんが怖い夜を過ごしたことは消えない。久我さんが眠れなかったことも、疲れたことも、なかったことにはならない」
画面には井口芽衣の名前がある。十歳の少女が、自分の知らないところで何度あの町を歩いたのか。それを思うと胸の奥が痛んだが、その痛みを自分への罰にして終わらせることだけはしたくなかった。
「もともと私の夢だったんだよね。欲しくないし、二度と見たくない。できるなら、この先ずっと思い出したくもない」
「小夜」
「それでも、芽衣ちゃんに持っててもらう理由にはならないよ」
声が掠れ、小夜は一度唇を噛んだ。怖さは喉の奥までせり上がっている。それでも画面から目を逸らさず、震える親指を《買い戻す》の近くまで運んだ。
「私、眠りたかっただけなの。誰かに渡したかったわけじゃない」
「……うん」
「知らなかった時の私は、それでよかった。知らなかったから押せた。でも今はもう、芽衣ちゃんのことも、久我さんのことも知ってる」
「だから、返してもらう」
親指が画面へ触れる寸前、璃子の手が小夜の手首を掴んだ。止めようとする指には思いのほか強い力がこもり、小夜の震えまでその手に伝わっていく。
「全部受けたら、本当に心が壊れるかもしれない」
「怖いよ」
「本当に分かってる?」
「分かってるつもりなんかない。何が来るのかも、どこまで耐えられるのかも分からない」
小夜は震えている手を隠そうとはしなかった。強くなったわけでも、覚悟ひとつで恐怖が消えたわけでもない。
「午前三時十七分にまた目を覚ますのも怖い。芽衣ちゃんが感じた恐怖が自分の中へ入ってくるのも、久我さんがどんなふうに疲れて、どんな顔で『ついてないな』って笑ってたのか知るのも怖い」
「小夜……」
「全部怖いよ」
そこで小夜は顔を上げ、璃子の目をまっすぐ見た。手首を掴む指の温かさが、引き止めたいという璃子の気持ちまで伝えてくる。
「でも、怖いからって……また誰かに持っててもらうの?」
璃子は答えなかった。握っていた指から少しずつ力が抜け、小夜の手首に残った温もりだけが二人の間に残る。
「ここでやって。家で一人では絶対にやらせない」
「璃子」
「止めても押すんでしょう」
「……うん」
「だったら、戻ってこられる場所くらい作らせて」
「私も残ります」
それまで二人を見守っていたSAYAが迷いなく頷いた。その声を聞いて、小夜の張りつめていた息がわずかに緩む。
怖さは消えない。指の震えも止まらない。それでいいと思えた。怖くなくなったから選ぶのではなく、怖いまま、自分の意志で選ぶ。
小夜はスマホへ目を戻した。
《買い戻す》
震える親指を、その文字へ重ねた。
【買い戻しを承りました】
【現所有者 井口芽衣様】
【返還先 成瀬小夜様】
【返還開始 次回入眠時】
【完了条件 日の出】
最後に現れたのは、【良い夢を】の一行だった。夜十一時を過ぎ、《眠りの庭》の明かりは奥のランプ一つだけになった。休憩室に布団を敷き、枕元へ水とタオルを置く。
窓辺のラベンダーが夜風に揺れ、その乾いた香りが薄く部屋を満たしていた。
「夢の中で自分が誰か分からなくなったら、名前を言ってください」
SAYAがカーテン越しに言う。
「成瀬小夜、二十八歳。ここは《眠りの庭》。それを何度でも」
「分かった」
小夜は目を閉じた。

やがて雨の音が耳の奥へ入り込んだ。目を開けると、いつもの町だった。ただし今夜は視線が低く、腕の中には羊のぬいぐるみがある。小さな手、紫色の袖。
芽衣だった。
怖くて、帰りたくて、今すぐ目を覚ましたい。それなのに路地の奥で泣く女を放っておけず、芽衣はぬいぐるみを抱きしめたまま一歩ずつ近づいていく。
――小夜。
肩が跳ねる。それでも逃げない。
「あなた、小夜っていうの?」
その声を聞いた瞬間、小夜の胸が締めつけられた。違う。呼ばれているのは、この子じゃない。私だ。十歳の芽衣は、自分の悪夢の中で、自分より先に泣いている誰かを心配している。自分はどうだった。その問いが浮かんだ瞬間、景色が崩れた。
*
白い蛍光灯の光と、淡々と繰り返されるレジの電子音が交差する店内で、久我はいつものように仕事をこなしていた。スタッフの欠勤、発注ミス、納品の遅れ、客からの苦情――ひとつなら苦笑いで流せる程度の不運が、なぜか途切れることなく彼のもとへ集まってくる。
それが二日、三日と続くうち、最初は「ついてないな」と笑っていた久我から冗談が減り、客に向ける笑顔にも少しずつ無理が滲み始めた。眠っても疲れは抜けず、白い蛍光灯の下に立つその顔には、本人も気づかないほど濃い疲労が積み重なっていた。
「店長、最近ついてないですね」
「今まとめて厄落とししてんだよ」
久我は笑う。胸の中ではもう笑っていない。夜、布団へ入り、ようやく眠りかけた瞬間に声がする。
――小夜。
久我が目を開ける。時計は3:17。
「……またかよ」
その一言に詰まった疲れが、小夜の胸へ流れ込んだ。続いて、大きな苺のケーキを諦める女の子、目の前で電車を逃す男、最後の傘を買えなかった人、予約した店が臨時休業だった人。誰も泣かない。十円足りなかったことも、電車に一本乗り遅れたことも、その日の終わりには「ついてなかった」で片づいていく。
小夜は、サファイアを握った自分を見た。今日は怒られませんように。電車に間に合いますように。少しだけ、良い日になりますように。その「少しだけ」の向こうに、誰かの「少しだけ」があった。
「成瀬小夜」
遠くから璃子の声。
「二十八歳」
SAYAの声。
「ここは《眠りの庭》」
小夜は現実の声を掴むように、自分の名前を繰り返した。景色が暗く沈み、やがて遠くから女の泣き声が聞こえた。
――小夜。
古びた廊下が、暗がりの向こうからゆっくりと浮かび上がってきた。黄ばんだ壁には長い年月の染みが残り、小さな窓から差し込む光が、何度も人の足に踏まれて艶を失った床を細く照らしている。その光の先に、赤い靴を履いた七歳ほどの女の子がいた。
小夜は息を呑んだ。肩まで届かない髪も、胸の前で抱えた紙袋も、赤い靴のつま先を内側へ寄せる癖も、忘れたはずなのに身体のどこかが覚えている。
幼い日の自分だった。
奥の部屋から、押し殺したような泣き声が漏れてくる。女の子は紙袋を抱え直し、聞こえなかったふりをするように足を速めたが、廊下の半ばまで来たところで声が追いかけてきた。
「誰か、いませんか」
足が止まる。
廊下の突き当たり近く、閉まっていると思っていた扉が指一本ほど開いていた。その細い隙間の奥には光がなく、何があるのか見えない。女の子はそちらを見つめたまま動けず、紙袋が胸元で小さく音を立てた。
「お願い……」
握りしめた指が紙へ食い込み、くしゃりと皺が寄る。それでも扉へ近づこうとはせず、赤い靴のつま先がほんの少し後ろへずれた。
「小夜……いるの?」
名前を呼ばれた瞬間、女の子の顔から血の気が引いた。
扉の隙間から、青白い手がゆっくりと伸びてくる。何かを掴もうとしているのではない。ただ、そこに誰かがいることを確かめるように、震える指先が廊下の空気を探していた。
女の子は後ずさり、そのまま身を翻した。
赤い靴が床を激しく叩き、紙袋が腕から滑り落ちる。中から転がった何かが背後で乾いた音を立てても足は止まらず、階段を一段飛ばしで駆け下り、息が喉に引っかかっても振り返らない。
外へ飛び出した途端、眩しい光が目に刺さった。
自転車のベルが鳴り、向かいの道では買い物袋を提げた人が誰かと笑っている。遠くから車の音が近づき、軒先の植木には風が通り抜けていく。あの扉の向こうで誰かが泣いていることなど、この町のどこにも書かれていなかった。
幼い小夜の赤い靴が、その何でもない日常の中へ消えていく。
追いかけることも、呼び止めることもできず、小夜だけが廊下に取り残されていた。落ちた紙袋が足元にあり、開いた扉から流れてくる冷たい空気が頬を撫でる。
そのとき、背後で息を吸う気配がした。
「――小夜」
あのときと変わらない恐怖が胸の奥からせり上がり、膝が震えた。それでも小夜は逃げず、床を踏みしめる足に力を込めると、わずかに開いた扉から目を逸らさないまま一歩を踏み出した。
暗い隙間の奥で、何かが動いた。
姿までは見えない。ただ、そこに誰かがいる。その気配がこちらへ近づいた瞬間、眩しい白い光が視界いっぱいに弾けた。
「小夜!」
呼び声に引き戻されるように瞼を開くと、《眠りの庭》の天井がぼんやりと浮かんでいた。荒い息を繰り返すたび、汗に濡れた寝衣が肌へまとわりつき、夢の中で感じた冷たさがまだ身体のどこかに残っている。
「小夜、大丈夫?」
すぐそばで璃子が肩を支え、SAYAが額へ冷たいタオルをそっと当てる。その冷たさにようやく現実の感触を取り戻しながら、小夜は何度か息を整えた。
目は覚めたはずなのに、あの半開きの扉だけが、まだ瞼の裏に残っていた。
「名前」
「成瀬……小夜」
「年齢」
「二十八」
「ここは?」
「眠りの庭……」
時計は3:17を示していた。
「女の人がいた。子どもの頃の私は知ってたみたい」
「誰なの?」
「分からない。でも、私、逃げたんだと思う。誰かが助けを呼んでたのに、怖くて逃げた」
言葉にした途端、胸の奥に鈍い痛みが走った。それでも小夜はもう、その痛みから目を逸らさなかった。窓の向こうでは夜の名残を押し流すように朝の光が広がり、薄暗かった室内の輪郭を少しずつ現実へ戻していく。
身体には、幾つもの夜をひとりで歩き続けたような疲れが深く沈んでいた。起き上がる気力さえ惜しいほど重いのに、不思議と心だけは静かで、小夜は布団の上に横たわったまま、自分の呼吸が胸を満たしては抜けていく、その当たり前の音をじっと聞いていた。
その静けさを断ち切るように、枕元のスマホが短く震えた。
【買い戻しが完了しました】
【所有者 成瀬小夜様】
【井口芽衣様への夢配送は終了しました】
芽衣から消えた。その文字を見た瞬間、小夜はようやく深く息を吐いた。続いて、
【ご利用ありがとうございました】
【またのご利用をお待ちしております!】
「……二度と使わない」
椅子で眠っていた璃子が目を開ける。
「三日月屋?」
「またのご利用をお待ちしております、だって」
「商売だからね」
「性格悪い」
「それは否定しない」
SAYAが三人分のハーブティーを淹れ、朝の香りが部屋へ広がった。
「璃子」
「何?」
「浅葱さん、また送ると思う?」
「分からない」
「そっか」
小夜はカップを両手で包み、もう一口飲んだ。少し苦い。
「正しい呪いって、あるのかな」
璃子は答えなかった。
日常の音が満ち始めた窓辺で、小夜がふと目を伏せた時だった。
――小夜。
小夜はカップを持ったまま、ゆっくりと振り返った。
(第6話 おわり)
