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【短編小説】#5「わたし、その夢、売ります!」―Dreams for Sale―

第5話 夢世界の市場


午前零時を少し回ったころ、小夜のスマホが枕元で短く震えた。眠る支度はとうに終えていたのに、ベッドへ入る気にはなれず、空になった麻の巾着を指先で何度も確かめていた。サファイアはもうない。それでも布の柔らかさに触れるたび、あの青い石を見つけた朝と、久しぶりに悪夢を見ずに眠れた安堵が、今さら後ろめたさを伴って戻ってくる。

画面には、三日月と宝石のアイコンが浮かんでいた。

【夢世界の見学をご希望ですか?】
【お客様の夢が、どのように新しい眠りへ届けられるのかご覧いただけます】
【初回無料です!】

最後の一文だけが妙に明るく、小夜は眉を寄せた。人の眠れない夜まで扱っているくせに、どうしてこんなところだけ軽いのだろう。画面を閉じようとして指を止め、そのまま璃子へ転送すると、一分もしないうちに着信が入った。

「小夜、まだ押してないよね」
「押してない」
「そのまま閉じて」
「芽衣ちゃんの夢を見られるかもしれない」
「そう思わせるために送ってきたんだよ」
「でも、私が売った夢でしょう」
「もう違う。三日月屋自身が言ったでしょう。《現在の所有者》は芽衣ちゃんだって」

小夜は巾着を握り込んだ。璃子の言うことは分かる。むしろ、分かるからこそ苦しかった。自分のものではなくなった悪夢を、十歳の芽衣が毎晩見ている。その事実を知ったあとで、自分だけが「もう私のものじゃない」と眠ることなどできなかった。

「璃子は夢世界に行ったことある?」
「入口まで」
「中には?」
「入ってない」
「どうして?」
「帰れる保証がなかったから」

電話の向こうで、小さな物音が止まった。閉店後の《眠りの庭》にはSAYAも残っているのだろう。璃子の声からいつもの柔らかさが抜け、言葉の一つ一つが慎重になっていく。

「自分の夢なら、怖くなって目が覚めることもある。でも、誰かが作った場所の中で同じことができるとは限らない」
「じゃあ、どうすれば芽衣ちゃんを助けられるの?」
「現実で会って、買い戻しの条件を調べる」
「その間も、芽衣ちゃんは私の夢を見る」
「小夜」
「私はもう眠れるのに、芽衣ちゃんは眠れないんだよ」

声にした途端、その言葉が自分へ返ってきた。眠れるようになったことを喜んだ朝が、今は誰かの眠れない夜とつながっている。そのことを知ってから、夜中に一度も目を覚まさなかった朝ほど、小夜は枕元の空の巾着を長く見つめるようになっていた。

璃子はしばらく黙っていた。

「行くつもりなんだね」
「……うん」
「だったら約束して。市場にあるものには触らない。知らない夢へ呼ばれても入らない。それから、その場で新しい取引はしない」
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「小夜は『大丈夫』って言う時ほど信用できないから」
「今それ言う?」
「今だから言うの」

少しだけいつもの璃子の声に戻り、小夜もわずかに笑った。張りつめていたものが、その一瞬だけ緩んだ。

「朝になっても連絡がなかったら、SAYAとそっちへ行くから」
「家に?」
「必要なら管理会社でも呼ぶ」
「大げさだよ」
「大げさで終われば、その方がいい」

通話が切れたあと、部屋の静けさだけが急に濃くなった。小夜は三日月屋の画面へ戻り、【詳細はこちら】を開いた。

【見学中、夢の商品には触れないでください】
【他人の夢へ無断で立ち入らないでください】
【市場内で成立した取引は、現実世界においても有効です】
【市場で得た物品を現実へ持ち帰ることはできません】

最後まで読み進めると、一行だけ間を空けて、意味の分からない文章が続いていた。

【あなた自身を除いて】

小夜は何度か読み返した。それでも意味は分からない。なのに、その一文だけが胸の奥へ引っかかったまま離れなかった。

触らない。入らない。取引しない。

璃子との約束を頭の中で繰り返してから、【見学する】へ指を置いた。

【夢世界へご案内します】
【そのまま目を閉じてください】

スマホの光がまぶたの裏まで届いていたはずなのに、次の瞬間には部屋の気配が遠ざかった。身体が眠りへ落ちるのではなく、自分だけが床をすり抜けて深い水の底へ引かれていくような感覚に包まれ、思わず目を開ける。

靴の下には雨上がりの石畳があり、頭上には濃い藍色の空が広がっていた。その中を大小いくつもの透明な泡がゆっくり流れ、一つが低く降りてきたので覗き込むと、少年が運動会のゴールテープを切った瞬間が何度も繰り返されている。

少年の顔には、勝った喜びよりも、誰かに褒めてもらえることを待っているような期待が浮かんでいた。その隣を流れる泡では、老女が若い男性と食卓を囲んでいる。二人は笑っているのに、男性の身体だけが途中から淡く透け、老女はそのことに気づかないように話し続けていた。

小夜は胸の奥を掴まれるような感覚に足を止めた。これも誰かが手放した夢なのだろうか、それとも今夜も誰かが大切に抱えている夢なのだろうか。考える間もなく、別の泡が肩の近くを通り過ぎる。

中ではスーツ姿の男性が、書類で身体を隠しながら会議室を走り回っていた。周囲の笑い声が遠くから聞こえ、男性の焦りまで泡の表面から漏れてくるようだった。

「……夢?」

背後から声がした。

「そのとおりです」

振り返ると、黒い帽子を深くかぶった人物が立っていた。長い外套がいとうも手袋も夜と同じ色で、帽子のつばに隠れた顔は口元しか見えない。DMの向こうにしか存在しなかった三日月屋が、人の形を持って小夜の前に立っている。

「三日月屋?」
「ようこそ。夢世界へ」
「あなた、人なの?」
「見学項目には含まれておりません」
「……そういう答え方するんだ」
「よく言われます」

笑ったような声なのに、口元はほとんど動かなかった。

「芽衣ちゃんはどこ?」
「井口芽衣様ですね」
「そう。私の夢を見てる」
「まずは市場をご覧ください」
「私は観光に来たんじゃない」
「《見学する》を選ばれました」
「それは――」
「規約にも同意されています」

三日月屋が片手を上げると、石畳の先に並んでいた灯りが一つずつともった。その光に押し出されるように、夜の市場が姿を現す。

細い通路の両側には屋台が続き、ランタンの中では炎の代わりに淡い光が呼吸するように膨らんだり縮んだりしていた。頭上を夢の泡が流れ、人の声と鈴の音が重なっている。

小夜はもっと恐ろしい場所を想像していた。顔を隠した人間が人目を避け、後ろ暗いものだけを取引する場所なら、ここまで戸惑わなかったかもしれない。実際には、子どものために瓶を選ぶ母親もいれば、贈り物を探すようにガラス玉を見比べる若者もいる。

最初の屋台には《悪夢専門》と書かれた看板が掛かり、棚には《追跡》《落下》《喪失》《遅刻》と札のついた黒い小瓶が並んでいる。その隣では《幸運交換所》の透明なガラス玉が淡く光り、探していた指輪を見つける瞬間や、駅のホームで誰かと再会する瞬間が小さな球体の中で何度も繰り返されていた。

少し先の《復讐夢・注文窓口》には数人が並んでいる。

「前回と同じ夢を夫にお願いします」
「三日連続でよろしいですか?」
「今回は相手の女も出してください」
「恐怖の強さは前回と同程度で?」
「もう少し強くしてください」

受付係は淡々と内容を書き留めている。そのやり取りのあまりの平凡さに、小夜は立ち止まった。誰かを苦しめたいという願いが、怒鳴り声でも呪いでもなく、注文票の一項目として処理されていく。

向かいには《善人救済便》の白い看板が光っていた。

【頑張っているあなたへ、誰かの幸せを】
【送り先指定可】

受付では年配の女性が、小さな光の入った瓶を両手で抱えている。

「娘に送りたいんです。最近ずっと眠れてなくて」
「どのような夢をご希望ですか?」
「何でもいいんです。あの子が笑っていられるなら」

母親の指は瓶を落とすまいと大切そうに添えられ、その横顔には迷いより願いの方が強く出ていた。昨日までなら「悪い人へ悪夢を、傷ついた人へ幸せを」という志保の考えを危ういものとして切り離せたのに、目の前の母親へ同じ言葉を向けられる気はしなかった。

「浅葱さんも、ここへ来たの?」

三日月屋は歩きながら答えた。

「お客様情報にはお答えできません」
「知ってるくせに」
「存じております」
「だったら答えてるじゃない」
「利用の有無については申し上げておりません」

小夜は呆れて息を吐いた。

「人の気持ちまで商品にするんだね」
「人間の皆様が持ち込まれます」
「あなたたちが作ったんじゃないの?」
「悪夢を捨てたい。幸せを分けたい。嫌いな人へ苦しみを返したい。忘れたい。もう一度会いたい。そう願ってここへ持ち込むのは、人間の皆様です」
「だから自分たちは悪くないって?」
「善悪のお話はしておりません」

その言い方が、小夜には一番腹立たしかった。正しいとも間違っているとも言わず、人間が望んだことだと返すだけで、自分たちは少しも泥をかぶらない。その横顔すら見えないことが、今は妙に三日月屋らしく思えた。

通路を曲がると、賑わいから少し離れた場所に人のいない屋台があった。

《返品夢》

棚の中央には大きなガラス瓶が一つだけ置かれ、その中で海辺の家に暮らす母娘が食卓を囲んでいる。十代半ばほどの娘が料理を頬張り、向かいの母親が笑いながら何かを話していた。

「これ、どうして返品されたの?」
「非常に幸福な夢でした」
「でした?」
「娘様は亡くなられております」
「……」
「母親が購入されました。夢の中だけでも、もう一度会いたいと」

小夜は瓶の中から目を離せなかった。

「会えたんでしょう?」
「毎晩」
「だったら……どうして返したの?」

三日月屋は札を裏返した。

【もう一度会える夜より、もういない朝の方がつらい】

瓶の中では、何も知らない母娘がまだ笑っている。

「朝になるたび、もう一度亡くすことになるそうです」

その言葉を聞いた瞬間、幸せそうな食卓が急に痛々しく見えた。小夜は志保の顔を思い出し、瓶の中で笑う母親からしばらく目を離せなかった。

「人間の世界は、もともと不公平です」

三日月屋が再び歩き出した。

「だから、ここで帳尻を合わせるの?」
「わたしたちは、人間の世界にあるものを扱っているにすぎません」
「責任逃れみたい」
「そう聞こえますか?」
「聞こえる」
「では、ひとつ伺いましょう」

三日月屋が振り返った。

「あなたは救われませんでしたか?」

その問いに、小夜の足が止まった。周囲の灯りも行き交う人も変わらないのに、その言葉だけが真っ直ぐ胸へ入ってくる。

「悪夢を売る前、あなたは眠ることが怖かった。午前三時十七分に目を覚まし、もう一度眠れば同じ町へ戻されると思って、朝が来るまで時計を見ていた」
「どうしてそこまで知ってるの?」
「買い取った夢には感情も含まれます」
「勝手に見たの?」
「査定です」
「人の心まで?」
「夢と心を分けられるとお考えでしたか?」

小夜は視線を落とした。

暗い部屋の中で時計だけが光り、眠らなければ明日がつらいのに、目を閉じる方がもっと怖かった。何度寝返りを打っても朝は来ず、3時17分が3時24分になり、3時41分になっていく。

誰にも言わなかった。大したことではないと思われるのが嫌だったし、自分でも大したことではないと思いたかった。

「悪夢を売ったあと、眠れるようになりましたね」
「……」
「サファイアも受け取った」
「その代わりに芽衣ちゃんが眠れなくなった」
「結果として」
「結果として、じゃない」
「では、今なら売りませんか?」

小夜は顔を上げた。

「仕組みを知っている今のあなたを、あの夜へ戻して差し上げましょう。午前三時十七分の部屋へ戻り、この先も悪夢を見ると知りながら、それでも売らないと選べますか?」
「……」
「あなたも救われたでしょう?」

言い返したかった。そんなことは関係ないと言いたかった。

でも、関係ないはずがなかった。

悪夢を見ずに眠れた朝、小夜は確かに嬉しかった。目覚ましが鳴るまで一度も起きなかったことが、泣きたくなるほど嬉しかった。その自分まで否定してしまえば、今度は何を悔やんでいるのかさえ分からなくなる。

「救われたよ」

小夜は自分からそう言った。

「救われた。だからこそ、今は嫌なんだと思う」
「何がでしょう」
「私が楽になった分を、知らない誰かが受け取ってたことが」
「売る人が楽になることが悪いんじゃない。受け取る人が何も選べないことがおかしいんだよ」

三日月屋はしばらく黙っていた。

「興味深いご意見です」
「感想はいらない。私の夢を見せて」
「現在の所有者をご存じでしょう」
「芽衣ちゃん」
「はい」
「だったら見せて」

やがて三日月屋が黒い手袋の指を軽く上げると、市場の灯りが少しずつ遠のき、賑わいの向こうに一軒だけ暗い屋台が浮かび上がった。

棚には古い映画のフィルム缶に似た丸い容器が並び、その一つに小さな札が下がっている。

《N-0317》

小夜の胸がざわついた。

「0317って……」
「受付番号の一部です」
「午前三時十七分でしょう」

三日月屋は答えなかった。

近づくほど、缶の表面に雨に濡れた町が浮かんでくる。閉じたシャッター、古い自動販売機、細い路地、青い庇。見間違えるはずがない、何度も逃げてきた町だった。

その下には、

【現在所有者:井口芽衣】
【接続中:1】

と表示されている。

「接続中って何?」
「夢は、一度触れた人のところへ痕跡を残すことがあります」
「誰に?」

三日月屋は答えず、缶へ指を触れた。

表面に広がった波紋の向こうから、雨に濡れた路地がゆっくり開いていく。そこには紫色のパーカーを着た芽衣がいて、羊のマスコットを胸へ抱えたまま、不安そうに辺りを見回していた。

「芽衣ちゃん」

小夜の声は届かない。

芽衣は路地の奥から聞こえてくるすすり泣きへ顔を向けた。その先の暗がりには、女が顔を覆って座り込んでいる。

小夜の身体が勝手に一歩下がった。何度も見た人だった。それなのに、近づいたことは一度もない。

遠くから声がする。

――小夜。

芽衣の肩が揺れた。

それでも逃げずに、泣いている女を見つめている。

――小夜。

「小夜さん?」

芽衣の口から自分の名前が出た瞬間、文具店で呼び止められた時の違和感が、胸の中で一気につながった。

小夜は缶へ近づいた。

「芽衣ちゃん、そこから離れて」

声が届かないことくらい分かっている。それでも黙っていられなかった。

芽衣は反対に、泣いている女へ一歩近づく。

「大丈夫?」

小さな声だった。

自分は泣き声を聞くたび反対へ進み、名前を呼ばれても振り返らなかった。その夢を押しつけられた芽衣が、自分より先に女のそばへ行こうとしている。

「もういい」

小夜は三日月屋を見た。

「止めて」
「まだご覧いただくものがあります」
「何?」
「接続中の一名です」

芽衣へ伸ばしかけた小夜の手を置き去りにするように、濡れた路地がゆっくり歪んだ。雨に濡れた石畳も、芽衣の小さな背中も遠ざかり、その向こうから固く閉じたシャッターが浮かび上がる。

その前に、コンビニの制服を着た男がいた。

男が疲れたように顔を上げ、その横顔が店で何度も見てきたものと重なった瞬間、小夜の胸が強く縮んだ。

「……久我さん?」

久我直人だった。

いつも立ち寄るコンビニの店長が、なぜか小夜の悪夢の中にいる。

久我は小夜の声には気づかず、辺りを見回しながら細い路地へ入っていく。角を曲がったはずなのに、数秒後には同じシャッターの前へ戻り、もう一度進んでも結果は変わらない。三度目には足を止め、疲れを逃がすように壁へ掌を押しつけた。

「何なんだよ、これ……」

声には苛立ちよりも、何度も同じ場所へ戻された人間の疲れが滲んでいた。

雨の向こうから女の声がする。

――小夜。

久我が顔を上げる。

「誰だ?」

小夜の背中が冷えた。

「どうして久我さんが、この夢にいるの?」
「以前、あなたから小さな災いを受け取った方です」
「サファイアで弾いた……」
「はい」

その言葉と同時に、久我の周囲へ別の景色が重なった。

シャッターへコンビニの白い照明が滲み、久我はそのままレジの中へ移っていく。弁当を袋へ入れた途端に底が抜け、床へ転がった商品を拾う久我へ客の苛立った声が降ってくる。

足元に散らばった箸や総菜は、次の瞬間には外れた自転車のチェーンへ変わり、しゃがみ込んで直しているうちに雨が降り始める。帰宅すれば買ったばかりの卵が袋の底を破って廊下へ落ち、次の朝には発注した商品が一箱足りず、新人から欠勤の連絡が入る。

店を閉める頃、レジの数字は三百二十円だけ合わなかった。

「店長、今日ついてないですね」
「今日だけならな」

アルバイトへ笑い返そうとした久我の口元から、その笑いが途中で消えた。

夜になり、ようやく布団へ入った久我は、眠りが深くなる前に目を開いた。枕元の時計は3:17を示している。

「……またかよ」

諦めたように瞼を閉じた途端、久我の足元へ濡れた路地が戻ってきた。

――小夜。

「誰なんだよ」

小夜は三日月屋へ向き直った。

「この人は何もしてない」
「井口芽衣様も何もしておりません」
「分かってるよ」
「では、何が問題なのでしょう」
「そうやって分けるから分からなくなるんじゃないの」

自分でも驚くほど強い声が出た。

「芽衣ちゃんが所有者とか、久我さんは痕跡だけとか、そんなこと受け取った側には関係ない。二人とも眠れなくなってる」
「仕組みが異なります」
「苦しんでる側には同じだよ」

三日月屋は黙った。

小夜はその沈黙を見つめたまま、もう一歩詰めた。

「消せないの?」
「可能です」
「どうすれば?」
「新たな取引になります」
「それはしない」
「賢明です」
「……何なの、それ」
「星名璃子様とのお約束でしょう?」

小夜の呼吸が止まった。

「璃子のことまで知ってるの?」
「市場には多くの声が届きます」
「聞いてるんじゃない」
「聞こえるのです」

小夜の背中に冷たいものが走った。それでも缶の向こうにはまだ芽衣がいて、羊のマスコットを抱えたまま、泣いている女へ近づこうとしている。

小夜は一歩踏み出した。

「触れてはいけません」

三日月屋の声が低くなる。

「見せるって言ったでしょう」
「はい」
「でも、あの子が泣いてる」
「夢です」
「私の夢だよ」
「現在は井口芽衣様の夢です」
「だから何?」
「売却済みの商品です」
「私が作ったのに」
「だからこそ、あなたは代価を受け取りました」

小夜は目を閉じた。

サファイアを受け取り、自分は眠れるようになった。その向こうで芽衣が眠れなくなっていたことを思うと、目を閉じたままではいられなかった。

璃子との約束も覚えている。触らない。知らない夢へ入らない。新しい取引をしない。それでも芽衣の背中は遠ざかっていく。

「小夜さん……」

小夜は目を開けた。

「今、呼んだ」
「夢の中の声です」
「私を呼んだ」
「偶然でしょう」
「あなたが偶然って言うんだ」

三日月屋は黙った。

芽衣が振り返る。

こちらが見えているはずなどないのに、その顔はまっすぐ小夜のいる方を向いていた。文具店で見た時と同じ、何かを確かめようとする眼差しだった。

小夜は缶へ手を伸ばした。

「触れてはいけません」

今度は明確な警告だった。

市場のざわめきが消え、屋台の店員たちが一斉にこちらを向く。空を流れていた夢の泡まで動きを止めたように見えたが、小夜の指はもう引き返さなかった。

「芽衣ちゃん」

指先が缶へ触れた。

冷たいと感じた直後、焼けるような熱が指から腕へ駆け上がった。市場の灯りが一斉に消え、頭上の夢の泡が次々と落ちてくる。

見知らぬ少年が歓声の中を走り、誰かが棺の前で泣き、震える声で告白した少女が笑い、黒い影から逃げる男が転ぶ。そのすぐあとには、失くした指輪を見つけて泣き笑う女性や、生まれたばかりの子どもを胸へ抱く母親の温度まで、小夜の中を次々と通り抜けていった。

幸せな夢だけなら耐えられると思ったのに、誰かの喜びまで自分のものではないまま身体へ流れ込んでくると、胸を内側から押し広げられるように痛かった。

「小夜さん!」

璃子の声が聞こえた気がした。

現実なのか記憶なのか分からないまま足元の石畳が沈み、小夜の身体は暗闇へ引き込まれていく。その途中で、三日月屋の声だけがはっきり追ってきた。

「規約違反です」

足が地面へ触れた時、靴の中まで冷たい水が入り込んだ。

雨に濡れた道路には閉じたシャッターが続き、古い自動販売機の先から細い路地が伸びている。その向こうに青い庇が見えた瞬間、小夜の身体は昔のように逃げる方向を探しかけたが、遠くから聞こえてきた子どもの泣き声が足を止めた。

今度は、その声のする方へ歩いた。

角を曲がると、街灯の下に芽衣がいた。

羊のマスコットを胸へ抱き、濡れた髪を頬へ貼りつかせている。小夜の足音に気づいて顔を上げた芽衣は、驚いたように目を見開いたあと、長い間探していたものをようやく見つけたように、小夜の顔をじっと見つめた。

「芽衣ちゃん」
「……やっぱり」
「何?」
「やっぱり、小夜さんだ」

その声に、小夜はすぐ言葉を返せなかった。

「ごめん」
「何が?」
「この夢、私のだったの」
「知ってる」
「え?」
「ずっと名前、呼ばれてたから」

責められると思っていたのに、芽衣はようやく見つけた人を前にしたように、小さく息をついた。

芽衣が路地の奥を指さす。

「あの人も、小夜さん?」

暗がりには、顔を両手で覆い、壁際に座り込んで泣いている女がいた。何度も見てきた人でありながら、小夜は一度もその女へ近づいたことがなかった。

「分からない」
「かわいそうだよ」
「うん」
「ずっと泣いてる」
「うん」
「助けないの?」

小夜の喉が詰まった。泣き声が聞こえれば逆を向き、名前を呼ばれても振り返らなかった自分の足が、今度は女の方へ向こうとする。

一歩踏み出そうとした時、別の通りから水を踏む足音が近づいてきた。

「……誰かいるのか?」

男の声に振り返ると、街灯の下へコンビニの制服を着た久我直人が現れた。久我も小夜を見て足を止め、夢の中で何度も歩いた場所に現実の知り合いが立っていることに戸惑うように目を細めた。

「あなた……店に来る人ですよね」
「久我さん」
「何で俺の名前を?」
「……」
「ここ、どこなんですか」

小夜が答えられずにいる間も、久我は周囲を見回していた。

「最近、毎晩ここなんです。角を曲がっても同じ場所へ戻るし、誰かがずっと名前を呼んでる」
「誰の名前?」
「さよ、って」

久我が小夜を見る。

「あなた、小夜さんっていうんですか?」

芽衣が羊のマスコットを抱き直し、久我を見上げた。

「この人も聞いてるんだ」

小夜は芽衣と久我を交互に見た。どちらの顔にも、自分の名前が残っているように思えた。

何か言わなければと思った時、姿の見えない三日月屋の声が路地の上から降ってきた。

「これで、お分かりになりましたか」

小夜は顔を上げた。

「何が」

市場にいた時と変わらない、穏やかな声だった。

「売った夢は、もうあなただけのものではありません」

返す言葉を探すより早く、路地の奥で泣いていた女の手がゆっくり顔から離れた。

女が、初めてこちらを見た。

(第5話 おわり)

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