「ごきげんよう」の中に流れていた時間|祖母の言葉が教えてくれた礼節
いつもの帰り道。
祖母とは、ときどき喫茶店へ寄った。
窓際の、いつもの席。
祖母は決まって少し濃いめのコーヒーを頼み、砂糖をひとつだけ入れた。
カップを両手で包みながら、ゆっくり飲む。
そこで交わされる話は、たいしたことではなかった。
近所で咲き始めた花のこと。
最近読んだ本のこと。
私の仕事のこと。
急ぐ話は、ひとつもなかった。
それでも祖母は、いつも楽しそうに聞いてくれた。
私が仕事の悩みを話したとき、
「そういう時もあるよ。」
と、静かに笑った。
励ますでもなく、
答えを出すでもなく、
ただ受け止めてくれた。
帰る時間になる。
祖母は店の外まで見送ってくれた。
そして、いつものように手を振る。
「ごきげんよう。」
私は、
「またね。」
と返す。
少し古風な挨拶。
祖母らしい言葉。
そのくらいにしか思っていなかった。
時間の中で育つ言葉
ある日。
喫茶店を出た帰り道だった。
ふいに、祖母の声を思い出した。
「ごきげんよう。」
なぜ、祖母はいつもこの言葉だったのだろう。
考えているうちに、少し違って見えてきた。
「またね」は、次に会う約束の言葉だ。
でも、
「ごきげんよう」は、その間に流れる時間まで願っている言葉なのではないか。
会わない日も。
離れている時間も。
どうか穏やかに過ごせますように。
たった6文字の中に、長い時間が包まれていた。
祖母は、別れを告げていたのではなかった。
私が帰った後の毎日を、静かに見送っていたのだと思う。
言葉に宿る人
不思議なことがある。
「ごきげんよう」という言葉を思い出すと、言葉だけでは終わらない。
喫茶店の窓から差し込む午後の光。
少し揺れるカーテン。
コーヒーカップを包んでいた祖母の手。
帰り際に見せた、あの穏やかな笑顔。
言葉の奥から、景色まで戻ってくる。
言葉は、意味だけを運ぶものではないのかもしれない。
その人が過ごした時間まで、一緒に運んでくる。
だから、美しい言葉は消えない。
使う人が少なくなっても、
誰かの記憶の中で、静かに生き続ける。
私も誰かへ
別れ際の言葉は、難しい。
「またね」では軽すぎる日がある。
「さようなら」では遠すぎる日もある。
その間にある、小さな願い。
「ごきげんよう」は、そんな言葉なのかもしれない。
いつか私も、誰かを見送る日が来る。
そのとき、
祖母が私に渡してくれたように、
この一言を、そっと手渡せたらいい。
「ごきげんよう。」
あの日の祖母の声は、
今でも静かに残っている。
あなたの中には、
誰かから受け取った、
忘れられない一言がありますか。
あなたにも、なぜか忘れられない景色や言葉はありますか。
よければ、そっとコメントに置いていってください。
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