昇進を断った。後悔していない。でも、誰にも勧めない。
「次の評価で、マネージャーに推薦しようと思う」
会議室のドアが閉まる音が、やけに小さく聞こえた。
テーブルの上には、飲みかけの紙コップが一つあった。
嬉しいはずだった。
認められることは、たぶん嫌いではない。
それなのに、その言葉を聞いた瞬間、胃の奥がすっと冷えた。
体のほうが、先に答えていた。
「驚いたな……」
辞退したいです、と伝えると、上司は少しだけ目を伏せた。
怒っているわけではなかった。
ただ、想定していなかったものを手渡された人の顔だった。
「今どきは、管理職になるのを罰ゲームって言うらしいね。うちもそうなのかな」
そう言って、少し笑った。
笑いきれないまま、手元のペンを置いた。
「推薦した以上、私にも責任がある。もう一度考えてみないか」
声は柔らかかった。
そこには、私への期待も、善意も、ちゃんとあった。
それでも私は、首を縦に振れなかった。
ここで頷いたら、しばらく自分の声が聞こえなくなる気がした。
面談を終えて、夜の道を歩いた。
駅へ向かう人たちの背中が、街灯の下を流れていく。
コンビニの白い明かりだけが、やけにはっきりしていた。
自分の靴音が、少し遅れて返ってくる。
何かが終わった気がした。
でも、それは負けた感じではなかった。
そのあと、不思議なくらい深い安堵が胸に広がってきた。
この道を帰った先には、玄関に散らばった小さな靴がある。
リビングから漏れる明かりがある。
誰かが見たままにした絵本がある。
少し騒がしい生活がある。
仕事が嫌いなわけではない。
会社を恨んでいるわけでもない。
上司の期待を軽く見ていたわけでもない。
ただ、私が守りたかったものは、そこではなかった。
夜の冷たい空気を吸い込みながら、そんなことを思った。
言葉にすると少し大げさになる。
でも、その夜の私には、それだけではっきりしていた。
昇進を断ったことを、後悔していない。
でも、誰かに勧めようとも思わない。
私が避けたものを、別の誰かは、まっすぐ引き受ける。
その人には、その人の人生がある。
出世しない生き方が素晴らしい、とは言わない。
昇進を断れば自由になれる、とも言えない。
ただ、あの夜の私は、自分の足元を照らす色だけは、自分で選びたかった。
家に着くと、玄関の小さな靴が少し斜めに転がっていた。
私はそれをそっとそろえて、部屋に入った。
それだけのことだ。
近いところの文章
この記事のマガジンはこちらです。よろしかったら・・・
玄関はコチラです。
いいなと思ったら応援しよう!
虹をありがとうございます。