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中村昇「奥歯からオペラが聞こえる」〜土方巽『病める舞姫』について(ウェブマガジン・なぎさ)/土方巽『病める舞姫』

☆mediopos4281(2026.5.26)

■中村昇「奥歯からオペラが聞こえる」
 第16-25回 土方巽『病める舞姫』について
 (ウェブマガジン・なぎさ 2022.5,5〜2026.5.21)
■土方巽『病める舞姫』(白水社 1992/1)

哲学者中村昇の「奥歯からオペラが聞こえる」が
「ウェブマガジン・なぎさ」で連載されている。

舞踏家・土方巽を「唯一の生きた天才」と位置づけ、
自身の個人的体験・回想・哲学的考察を通じ、
土方と暗黒舞踏の本質を探るエッセイである。

「トイ人」でも、中村は
免疫学者・後飯塚僚、コピーライター・加藤博とともに
巴往復書簡「詩刑囚たち」を連載しているのだが、
(2025.06.30〜2026.05.19・現在全14回)
そこでの話も土方巽がらみのものになっていて、
加藤博も主に土方の『病める舞姫』をとりあげていたりする。

その巴往復書簡については別の機会にとりあげるとして、
中村昇の連載においては、第16回(2024.11.24)から
最新の記事第25回(2026.5.21)までの10回に渡って
特に『病める舞姫』について論じられている。

以下その内容をとりあげるが、
それとは別にまずは土方巽の著作『病める舞姫』について。

『病める舞姫』は、土方巽(1928-1986)が
1983年に白水社から刊行された著作で、
一貫して幼少年期の記憶に基づく心象世界が描かれ、
とくに筋書きはなく、断片的・詩的なイメージの連鎖。
秋田の田舎の風景(雪、川、虫、台所、押し入れなど)が、
身体の変容や「病める」状態と結びついて展開されている。

ちなみに『病める舞姫』は、
土方舞踏の原点を言葉で再現・創造したテキストとして、
後世の舞踏家に大きな影響を与えていて、
多くの舞踏公演やワークショップでもそのテキストから、
朗読・上演もされていたりする。

シュルレアリスム的自叙伝として、
肉体と言葉の関係が深く探求され、
意味追求を拒むような文体は、
読者に身体的な想像力を喚起してやまない。
また、秋田弁風の語り口や方言的表現も特徴となっている。

以上を前置きとして、連載内容について。

連載第16〜25回は、『病める舞姫』を
「土方巽の幻視世界の記録」として読み解いていく。

『病める舞姫』は、冒頭から異様なイメージで始まる。

「息がなくて虫も生きているよ。」
「そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。」

こうした表現は世界がすべて「生まれ変わりの途中」であり、
固定した形や自己同一性を持たない
流動的なプロセスであることを象徴している。

土方の身体はこのような観察によって「くもらされ」、
固体から気体状への変容を促されていく。
幼少期から「私の少年」という他者が内側に住み、
「ただ生きているだけみたいな異様な明るさ」を保ちながら、
既成の有用性や形ある世界を拒絶する
そんな土方独自の視線が育っていったことが伝わってくる。

また、「土方界」では、口腔から肛門までの
長い「管」(口肛空洞体)が世界の象徴となっている。

外界と内界は地続きで、虫や微生物が管内を蠢き、
身体の器官は「他者」として独立している。
脳が頭から4センチ浮遊し、
白魚や鼠取りを恐れる描写は、
器官が固定された位置に留まらない
「器官なき身体」のあり方を示している。

 「私は水のなかを潜っていくしか
 手がなかったのだろうか。」

 「……白い菖蒲の根っこを遠くで振っている。」

吉本隆明も指摘しているように、
土方の舞踏は暗喩の連続・重畳法であり、
「銀蠅のような」直喩を超えて
「銀蠅である」状態を目指すものである。

身体を文字のように使い、リズムや物語を失調させ、
歩行の起源へと遡るのである。

また、土方は既成の形容詞・副詞を避け、
「ざくらっと」「ぽしゃらっと」「ひやらっとした」
などの独自の造語を多用する。

 「梅雨どきは鯰に切られ、
 春先にはざくらっと川に呑まれたりして……」

 「眼の前には、ひやらっとした足袋が
 縄に挟まれて吊るされていた。」

こうした語は、音(擬音)、様態(擬態)、
事物のイメージが多層的に重なり合い、
世界の渾沌が表現される。

酸っぱい李や梅、赤や青の砂糖水、
包丁の錆びた長十郎梨など、
味覚・視覚・触覚が融合・亀裂する
感覚の錯乱(ランボー的)が展開され、
純粋貧相の子供たちや
「あやふやであやふや」な存在が浮かび上がる。

中村は、ドゥルーズ=ガタリの概念を援用し、
「器官なき身体」が卵として描かれているとしている。

有機体以前の未分化な強度・エネルギー場であり、
生成変化の極限であって、
吉岡実の詩「卵」や作品中の茹で卵の皮を剥く描写、
少年と転がる小さな卵などもまた、
この未分化で潜在的な状態を象徴しているが、
われわれは恒常的に「途中存在」であって、
死体へと漸近しつつ命がけで立つ存在なのだとされる、

 「茹で卵の皮を丹念に剥けるように
 振る舞える男になれるのか。」

『病める舞姫』の最大の特徴は
水屋(台所)を世界の中心に据えた液状的世界観であることで、
水屋は15回以上登場し、家の中と外、固体と液体、
昼と夜、生と死を流動的に繋いでいる。

 「私は立ちあがり、土間を流れる浅い川を渡って行き、
 大きな鼾が聞こえてくる時間を跨いで水屋のなかを覗き込むと、
 誰かの形見のように箸が流しに浮いていた。
 水の中で密談をしながら暮らしたがっている私には、
 夏座敷のなかを寒がって歩いている人がよく見かけられた。」

 「川もまた、私のからだに感染していたのだ。
 水のなかに立っている私の足には、
 川上から草が次から次へ流れて寄って絡まっている。」

水は声を発し、絵を描き、身体に感染し、蒲団に溜まり、
川となって人を飲み込む。
時空そのものが液状化し、夜が吊るされ、色情が一人歩きし、
カルシウムが生涯を営むような
擬人化・擬物化が日常的に起こる。

固体的な「役に立つ」世界はここで溶解・破砕され、
土方独自の幻視が全篇を貫いているのである。

中村昇は『病める舞姫』を単なる自伝や舞踏論ではなく、
土方巽が実際に生きていた異郷の記録として提示している。

そこは固定点のない液状のカオスであり、
事物・概念・感情が相互に浸透し、感覚が錯乱し、
すべてが「器官なき身体=卵」の状態で生成変化する世界。

土方の暗黒舞踏はこの世界を身体で踊ったものであり、
『病める舞姫』はその言葉による再現なのである。

吉本隆明も指摘しているように、
土方は「歩行の起源」へ遡り、
生活と舞踏の境目を消滅させ、
読者はこの「土方界」の磁場に引き込まれ、
自身の固体的な日常認識が揺らぐ体験をすることになる。

最後に、
最新記事第25回のおわりのところに書かれている、
中村の言葉を引く。

「土方巽が、『病める舞姫』で描きつづけている世界に、
土方自身も本当に生きていたのであって、多くの事物や
空間や季節や概念や形容詞たちと同等の資格で、悪夢の
ような豊潤な世界で舞踏家は息づいていたのだ。このよ
うな世界で生きていたのでないならば、どうして『病め
る舞姫』を書くことができただろうか。

 土方巽の暗黒舞踏は、新奇な舞踏概念を新たに創った
わけではない。土方が幼い頃から生きてきた、物質と形
と空気と概念と欲望とが混在しているカオスを、深層と
表層との反転する目くるめく幻視を、ただただ踊りに代
えただけのように思われる。『病める舞姫』の世界を生
きていたからこそ、それを舞台で表現しただけなのでは
ないか。だからこそ土方巽は、唯一無二の舞踏神なのだ。」

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