藤田一照・中村昇『お坊さんになりたかった哲学者と哲学者になりたかったお坊さん 「有時」を遊ぶ』/道元『正法眼蔵』
☆mediopos4040(2025.12.11.)
■藤田一照・中村昇
『お坊さんになりたかった哲学者と哲学者になりたかったお坊さん
「有時」を遊ぶ』
(春秋社 2025/10)
■道元(水野弥穂子校注)『正法眼蔵(二)』(岩波文庫 1990/12)
「お坊さんになりたかった哲学者」中村 昇と
「哲学者になりたかったお坊さん」藤田一照による
道元『正法眼蔵』の「有時」の巻をテーマにした対談
第一部では
二人の個人的な背景や『正法眼蔵』との出会いを振り返り
第二部では
『正法眼蔵』「有時」の巻の原文を引きながら読解していく
中村は大学院の修士課程のとき
道元の『正法眼蔵』の言葉に衝撃を受け
「哲学の延長線上にある仏教の極致」として読むことで
「日常の言葉をひっくり返す」その「言語」に魅了され
『正法眼蔵』には
「この世界の本当のあり方が、一番書かれている気がする」
と考える
道元は「事事無礙の「事」が
「こと」(事)であると同時に、
「とき」(時)であると考えて」いて
『正法眼蔵』には
「宇宙は、空間的な構造であると同時に時間的な構造」であり
「全ての存在者の中に、宇宙が畳み込まれている」
ということが書かれている
西洋哲学者でいえばホワイトヘッドが道元に一番近いが
中村は西洋哲学を『正法眼蔵』に対応させるように
西洋哲学の大系をつくれたらと考えているのだという
また藤田は出家前は哲学書を読み漁り
ニーチェやハイデガーに傾倒していたが
唯一無二の自分はいったい何者なのかを究明したくて出家
坐禅の実践を通じ
哲学は頭で考えるものではなく体で感じるものと気づく
そしてその自己探求において
道元の教えは
「ここが舞台だ。ここで踊れ」と
「死後の世界」ではなく「生の今」を重視し
「雨に打たれてずぶ濡れになって
雨を直接に体験する」というように
「当事者」としてのものであり
それは科学者としての知り方ではなく
詩人の知り方ではないかとしている
中村はそれはまさに
「哲学は分析ではなく直観であり、
対象に入んなきゃダメだ」という
ベルクソンの方法論だという
また藤田は
言語に関していえば
言語はいわば流れを止めて限定し
二項対立をそこに導入するのが原則だが
道元は時間を止めないで
「それを裏返して、二項対立を外し、
それから限定的なものを指し示し、
止めたものを動かすっていうことを
当の言語を駆使してやろうとしている」という
以上は第一部の対談からの内容の一部だが
以下第二部での対談
『正法眼蔵』の「有時」の巻について
いくつかとりあげる
中村は「有時」を
ハイデッガーの「存在(有)と時間」のように
有と時としてではなく
「有=時」ととらえ
それは華厳の「事事無礙」が根底にあるとし
「事事無礙」は「時時無礙」でもあるという
「存在そのものは、〈あるとき〉の時であり、
かつそれは全宇宙の存在でもある」
「一つの時に全宇宙が畳み込まれているというのは、
全宇宙の存在がそこにあるし、かつ時というのも、
全宇宙がそこに畳み込まれているわけですから、
あるときの時というのは、
全宇宙の時にもなる」
そして「事事無礙」は「時時無礙」でもあるが
「自自無礙」でもあるとしてとらえている
また「無礙」である時間が
その都度切断されている時間が
「経歴(きょうりゃく)」(経験の功徳)である
木村敏がよく言及する「離人症」という症状があって
それは時間に関していえば時が流れない
「今今今・・・」というのはわかるが
今と今の間が流れない
そんな時間だが
藤田は
その症状は禅で悟ったときの状態の表現と似ていて
「ただビーイング(存在)している」みたいになるという
実際禅の修行をする人のなかには
自覚的にそうなったとしても
「それと日常生活とをうまく統合できる人と
できない人」がいて「行ったきり」になる人がいる
その意味でも「宗教的な行法でも達成を
日常生活にインテグレート(統合)する」というのが
大切なことだという
その意味においても
「経歴は、それ時の功徳」と
経験を功徳として活かし
「経歴といふは、
風雨の東西するがごとく学しきたるべからず」と
固定された履歴ではなく
学びの連続としてとらえねばならないという
また薬山の公案
(「教伊揚眉瞬目」=目瞬きの悟り)においては
悟りを「出発点」として位置づけ
公案の直観性と坐禅の修行を対比
「大寂の道取するところ」というように
悟りを「大寂」(大いなる静寂)の道として
日常回帰の重要性について示唆されている
以上は本書の内容の一部だが
(『正法眼蔵』からの言葉も「道元語」も
説明するのは難しい・・・)
『正法眼蔵』は
年を重ねるにつれ少しずつではあるが
座右の書のひとつともなってきているのだが
個人的には「お坊さん」にも
「哲学者」にもなりたいとは思っていなかったりする(笑)
お坊さんになりたくないのは
執着を脱することを求めながら
「悟り」というような
特別な状態へのこだわりへの違和感であり
哲学者になりたくないのは
「雨に打たれてずぶ濡れになって
雨を直接に体験する」ような日常的なありようが
否定されがちな思索に偏したところでもあるのだが
そうしたことを抜きにすれば
「事事=時時=自自無礙」ということを
日常的な生のなかで体現し得えることを願う者である
○藤田一照
1954年、愛媛県生まれ。曹洞宗僧侶。東京大学教育学部教育心理学科卒業。同大学院教育学研究科教育心理学専攻博士課程を中途退学し、兵庫県にある曹洞宗の紫竹林安泰寺にて得度。87年にマサチューセッツ州にあるパイオニア・バレー禅堂に住持として渡米。2005年帰国。2010~18年に曹洞宗国際センター所長を務め、アメリカの大学や瞑想センター、大手企業などで坐禅を指導。著書に『現代坐禅講義 只管打坐への道』(角川ソフィア文庫)、『学びのきほん ブッダが教える愉快な生き方』(NHK出版)など多数。訳書に『新訳 禅マインド ビギナーズ・マインド』(鈴木俊隆著、PHP研究所)など多数。
○中村 昇
1958年、長崎県佐世保市生まれ。中央大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。現在、中央大学教授。専攻は哲学。著書に『ルドルフ・シュタイナー 思考の宇宙』(河出書房新社)、『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』(亜紀書房)、『西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か』(講談社)、『落語―哲学』(亜紀書房)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)、『ホワイトヘッドの哲学』(講談社)、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)など。
