中村昇「同じものはちがう。ちがうものが同じ」(『思想』2025年6月号「哲学史の中のドゥルーズ」)/ホワイトヘッド『過程と実在』/ ドゥルーズ『差異と反復』/『仏教の思想 (存在の分析)』(刹那滅)
☆mediopos3930(2025.8.23.)
■中村昇「同じものはちがう。ちがうものが同じ」
(『思想』2025年6月号「哲学史の中のドゥルーズ」 岩波書店)
□A.N.ホワイトヘッド (平林康之訳)
『過程と実在〈1〉コスモロジーへの試論』(みすず書房 1981/8)
□A.N.ホワイトヘッド (平林康之訳)
『過程と実在〈2〉コスモロジーへの試論』(みすず書房 1983/6)
□ジル・ドゥルーズ(財津理訳)『差異と反復 上』 (河出文庫 (2010/8)
□ジル・ドゥルーズ(財津理訳)『差異と反復 下』 (河出文庫 (2010/8)
□上山春平・櫻部建『仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ>』
(角川ソフィア文庫 1996/10)
私たちが日々経験している「出来事」には「同じもの」がなく
常に新たに生成されているということについての話
とりあげるきっかけとなったのは中村昇の
ホワイトヘッドとドゥルーズにおける「出来事」
そしてそれぞれの代表的著作
『過程と実在』『差異と反復』の関係について
「同じものはちがう。ちがうものが同じ」という論考
ホワイトヘッドに関していえば
「われわれは「出来事」の連続性のただなかに」いて
「言語化も、分析もできない
唯一無二の連続的出来事が進行しているのが、
われわれのいる自然」だから
「とりだした複数の出来事を比較することなど思いもよらない」
ということであり
そうした観点から
「出来事」の関係性における「連続性の生成」が問題となる
またドゥルーズに関していえば
「「差異」を成立させる「同じ」「同一」」は
この世界には存在しない
「すべては差異だというとき、その「差異」は、
「純粋差異」であり、即時的にそれだけで「差異」」だ
ということであり
そうした観点から
差異の多様性と反復の流動性における
「潜在性の現実化」が問題となる
つまり「同じものなどどこにもない」が
全世界はそのつど「現在」として
連続的に生成されているとでもいえるだろうか
(と勝手に理解した)
論考の内容を厳密に追うことは手に余るので
論じられている観点を踏まえながら
(中村の意図とは異なることもあるかもしれないが)
いくつかの観点について敷衍し
ホワイトヘッドに関しては
さらにライプニッツのモナドや
仏教における刹那滅との関係についても
見ていくことにしたい
さてホワイトヘッドの哲学の核心をなすのは
「出来事」(event)・「抱握」(prehension)
そして「活動的存在」(actual entity)といった概念だが
これらは存在の本質を静的なものではなく
動的で関係的なプロセスとして捉えるものである
「出来事」とは
いわば「もの」(対象)に対する「こと」だともいえる
「われわれは「出来事」の連続性のただなかにいる。
そこでは、あらゆることが複雑に進行していて、
われわれの言語や認識ではとらえることはできない。
そのような自然の連続的推移の重層的な一断面こそが
「出来事」」であり
しかも「その出来事に立ちあい、
その出来事を「出来事」だと認識しているわれわれも、
出来事の一部」なのである
ホワイトヘッドにおける「出来事」はそのように
時間と空間の中で特定の位置を占める一回性の事象を指し
単なる物理的な出来事だけでなく
意識や経験を含むあらゆる現実の基本単位で
単に孤立した点ではなく他の出来事との関係性の中で存在し
すべてが相互に関連し合う動的なプロセスとして捉えられている
ホワイトヘッドはそこからさらに
出来事が他の出来事や存在を取り込む(把握する)
プロセスとしての「抱握」によって
「出来事」を単なる点からより複雑な構造を持つものへと発展させ
その「抱握」のプロセスが集積し統合されることで
自己を構成し完結する一時的な存在としての
究極的な実在の単位である「活動的存在」が形成されるとしている
それに対しドゥルーズも『差異と反復』などにおいて
「出来事」を中心的な概念としていて
それを物質的・因果的な現実を超えた純粋な生成の場であり
時間や差異の展開として存在するものとして
具体的な事象だけではなく
その背後にある可能性や仮想性の次元を含んだものとしてとらえている
以上のように
両者とも「出来事」が動的で関係的なプロセスとしてとらえれていて
生成と変化の場としての存在において
関係性・創造性・非人間中心主義が強調され
静的な実体主義が拒否されているといえるだろうが
両者の相違点としては
ホワイトヘッドの出来事が
活動的存在や抱握を通じ
具体的な形而上学的体系に組み込まれているのに対し
ドゥルーズの出来事は
仮想性や差異の抽象的な次元に焦点を当てているように
ホワイトヘッドは宇宙論的な秩序を目指し
ドゥルーズは差異の解放と哲学的脱構築を志向しているといえるだろうか
続いてホワイトヘッドの「出来事」「抱握」「活動的存在」と
ライプニッツの「モナド」との関係について考えてみる
当初ホワイトヘッドは「出来事」を
ライプニッツの「モナド」になぞらえて論じていたが
「抱握」そして「活動的存在」へとその観点を変化させていく
ライプニッツのモナドは
内的原理に基づいて活動的な自己展開する実体であり
宇宙全体を内部に反映する精神的な実体であるとしているように
ホワイトヘッドの活動的存在も
自己を生成する過程を通じて活動的であって
宇宙の基本単位が静的ではなく動的であるとみなされ
抱握を通じて他の活動的存在や宇宙全体のデータを「感じ取り」
自己の中に取り込む
物質的存在ではない経験や関係性の場として捉えられていて
両者とも宇宙の基本単位を動的なものとし
個々の存在は全体と深く結びついているとしているが
相違点としていえば
ライプニッツの「モナド」が
時間や空間を超えた形而上学的実体で
個々の実体の内的な自立性を重視しているのに対し
ホワイトヘッドの「出来事」は
活動的存在が関与する具体的な時間的・空間的プロセスを強調し
関係性と変化を強調しているといえるだろう
ホワイトヘッドは
当初の「出来事」というライプニッツのモナド的な概念から
「「抱握」というあらゆる出来事の関係性を表現する概念を経て、
「活動的存在」という非連続性を強調する原子状の出来事へと
変化していった」(中村)のである
さて中村の論じていることからは外れるが
「モナド」との比較とあわせ
仏教的な「刹那滅」と
ホワイトヘッドの「活動的存在」の関係についても
見ておきたいと思う
「刹那滅」は刹那ごとの生成と消滅であり
縁起(相互依存)に基づく因果の流れの中で存在し
刹那という最小の時間単位で存在が変化する
「活動的存在」もまた生成の瞬間であり
他の存在との関係性によって定義され
連続性ではなく瞬間的な出来事の集まりであるように
両者とも「持続する実体」を否定し変化とプロセスを重視
孤立した実体を認めず関係性の中で存在が成り立ち
時間の本質を非連続的なものとして捉えているが
相違点としていえば
「刹那滅」は仏教の無我・無常の教義に根ざし
形而上学的な実体や神の概念を明確に否定
経験よりも因果の連鎖や現象の無常性に焦点を当て
意識そのものも刹那的な現象として扱い
解脱(涅槃)への道を示す実践的な仏教教義の一部であり
倫理的・宗教的な文脈が強いのに対し
「活動的存在」は
汎経験主義や宇宙の秩序を支える原理的な存在としての
「神」の概念を含み
すべての存在が何らかの形で意識や感覚を持つとし
宇宙の構造や存在のプロセスを説明する
形而上学的な体系を目指している
つまり「刹那滅」と「活動的存在」は
存在の一時性・関係性・時間の非連続性を強調する点で
深い類似性を持っているが
刹那滅が執着を離れ悟りに至るための実践的指針を示唆し
「活動的存在」が科学や倫理・宗教を統合する
形而上学的な枠組みを示唆しているが
両者の視点は
生態系の相互依存性や持続可能性の哲学といった
現代的な倫理や環境哲学へと展開させる可能性があるといえるだろうか
そこにホワイトヘッドが
ライプニッツのモナド的な概念から
「出来事」「抱握」そして「活動的存在」へと
展開していった視点をあわせて考えることもできると思われる
さて
以上のように
わかりにくいまとめ方になったかもしれないが
最初にふれておいたように
私たちが日々経験している「出来事」には「同じもの」がなく
常に新たに生成されている
モナドや刹那滅のような
世界の「出来事」「活動的存在」でもある
独立した「もの」「こと」は
「差異」そのものとして
常に新たに連続し「反復」しながら宇宙を形成しているように
わたしたち自身の存在もまた常に新たに生成されている
その一回性の存在ゆえの「自由」をいかに生きるかを
わたしたちはみずからに問いかける必要がある
同じものなどどこにもなく
世界はそしてわたしはいつもあたらしいのだから
