イージー♡ライター|第五話(最終話) 写真を撮らなかった日
卒業式の日の西高は、いつもの校舎ではないみたいだった。
廊下には、花のついた紙が貼られていた。
下駄箱の前には、写真を撮る人が集まっていた。
体育館から出てきた三年生たちは、泣いている子も、笑っている子も、泣いているふりをしている子もいた。
三月の風は、まだ冷たかった。
でも、誰も寒そうな顔はしていなかった。
ミナ先輩は、卒業した。
その事実が、スミレにはまだうまく入ってこなかった。
文化祭のあと、部室の空気は変わっていった。
ミナ先輩が部活に来る日は減った。来ても、すぐに帰る日が増えた。ギターケースを持っている日もあれば、持っていない日もあった。
三年生のあいだで、進路の話が増えていった。放課後の時間は、バイトや友達との約束や、スミレの知らない予定で少しずつ埋まっていった。
夏が終わり、制服が長袖に戻る頃には、ミナ先輩が部室に来ない日の方が多くなっていた。
スミレは、何かを言いかけて、何度もやめた。
アクタ前のことを言えばよかったのかもしれない。あの日のリライトのことを、もう一回笑えばよかったのかもしれない。
でも、言うタイミングを探しているうちに、言葉の方が先に古くなっていった。
ミナ先輩には、スミレの知らない友達がたくさんいた。
髪の明るい子。メイクのうまい子。携帯にストラップをじゃらじゃらつけている子。ピザ屋のバイトの話をする子。車の名前を、当たり前みたいに言う子。
その輪の中にいるミナ先輩は、スミレの知っているミナ先輩より遠かった。
スミレは、「ミナ先輩」と呼ぶタイミングを、だんだん失っていった。
卒業式の日、ミナ先輩はいつもよりさらに派手だった。
髪は明るく巻かれていた。
メイクは濃くて、制服の着方も、最後の日だから許されるぎりぎりのところまで崩れていた。
胸元の花だけが、妙にきちんとしていた。
ミナ先輩は、友達に囲まれて笑っていた。
その笑い声は、前と同じように大きかった。
でも、スミレのところまでは届かなかった。
「写真撮ろー」
誰かが言った。
ミナ先輩は、友達と肩を寄せて、携帯を構えた。
スミレは、離れたところからそれを見ていた。
フォークソング部の集合写真も撮った。
三年生を真ん中にして、後輩たちが周りに集まった。
誰かが「もっと寄って」と言った。
誰かが「ピース低い」と笑った。
スミレは、ミナ先輩の隣にはいなかった。
写真の中で、二人の間には、知らない後輩と、ギターケースひとつ分くらいの距離があった。
それでも、写真は撮れた。
ちゃんとした写真。
卒業式らしい写真。
あとで見たら、きっと懐かしいと言える写真。
でも、スミレは思った。
今日、ミナ先輩と二人では、写真を撮らないんやろうな。
そう思った瞬間、胸の奥が静かになった。
卒業式が終わって、人の流れが校門の方へ向かっていった。
スミレも帰るつもりだった。
帰って、制服を脱いで、鞄を置いて、何もなかったみたいに晩ご飯を食べる。
それでいいはずだった。
でも、校舎の角を曲がる時、足が勝手に止まった。
フォークソング部の部室は、体育館から離れた古い棟にあった。
誰かに会いに行くつもりではなかった。
忘れ物を取りに行くわけでもなかった。
ただ、あの部室を見たくなった。
廊下は静かだった。
卒業式のざわめきが、遠くに残っている。
誰かの笑い声。
階段を降りる足音。
花束のセロファンがこすれる音。
その中に、別の音が混ざっていた。
ポーン。
曲ではなかった。
ポーン。
コードでもなかった。
一本ずつ、弦を鳴らす音。
チューニングの音だった。
スミレは、部室の前で立ち止まった。
扉の向こうから、また一本、弦の音がした。
低い音が、わずかに高くなる。
ペグを回す小さな音が続く。
スミレは、ゆっくり扉を開けた。
ミナ先輩がいた。
卒業式のあとで、髪もメイクもいつもより派手だった。
胸元には、さっきの花がまだついていた。
でも、ギターに触れる時の手元だけは、部室にいた頃のままだった。
左仕様になった、あのギターを抱えて、弦を一本ずつ鳴らしていた。
スミレは、息を止めた。
「まだおったん」
自分の声が、思ったより普通に出た。
ミナ先輩は顔を上げなかった。
「チューニング狂ってたから」
「卒業式の日に?」
ミナ先輩は、ペグを回した。
「狂ったまま置いとくの、嫌やん」
スミレは、何も言えなかった。
ミナ先輩も、何も足さなかった。
ごめん、とも言わなかった。
久しぶり、とも言わなかった。
アクタ前の話もしなかった。
文化祭のあと、どうして離れていったのかも言わなかった。
ただ、ギターの弦だけが、一本ずつ鳴った。
「持って帰るんですか、それ」
「さあ」
「さあ、て」
「重いやん」
「じゃあ何しに来たんですか」
「チューニング」
「意味わからん」
「スミレに言われたないわ」
二人は笑いそうになった。
でも、笑いきれなかった。
部室は、あの日からあまり変わっていなかった。
机の上には、古い譜面。
棚には、日焼けしたCD。
壁には、文化祭のタイムテーブルがまだ貼られていた。
イージー♡ライターの名前が、小さく残っていた。
端の折れた譜面の中に、こいのうたのコード譜があった。
スミレは、それを見た。
ミナ先輩も、たぶん見ていた。
アクタ前の風が、一瞬だけ部室に入ってきた気がした。
でも、二人ともその話はしなかった。
スミレは、譜面を手に取らなかった。
ただ、窓の方を向いたまま、ふっと歌い出した。
GO!GO!7188「こいのうた」
最初、ギターは鳴らなかった。
ミナ先輩も歌わなかった。
スミレの声だけが、部室に小さく置かれた。
卒業式の日の声だった。
文化祭の声でも、アクタ前の声でもない。
誰かに聴かせるための声でもなかった。
ただ、そこに置くしかなかった声だった。
ミナ先輩は、チューニングの合ったギターを抱えたまま、何もしなかった。
弾くかどうか、迷っているのがわかった。
歌うかどうか、迷っているのもわかった。
スミレは、歌うのをやめなかった。
やめたら、もう何も言えなくなる気がした。
ミナ先輩の左手が、ゆっくりサウンドホールの上へ動いた。
今はコードを押さえる手ではない。
でも、スミレが最初に気づいた、あの左手だった。
昔、逃げるように止まった手。
笑い声で隠されていた手。
ギターの形を変えたあと、自分の鳴る場所を見つけていった手。
ミナ先輩の右手が、ネックの上でコードを探した。
一度、音が鳴り損ねた。
詰まった音がして、ミナ先輩の指が止まった。
スミレは、歌うのをやめなかった。
次の音は、鳴った。
左仕様になったギターが、部室に小さく響いた。
大きな音ではなかった。
アクタ前のリライトみたいに、広場を跳ねさせる音でもなかった。
でも、ちゃんと鳴っていた。
ミナ先輩は、ギターで入った。
遅れて、声も重ねた。
最初は小さかった。
スミレの声に、そっと触れるくらいの声だった。
それが、だんだん近づいてきた。
同じ方向に叫ぶ声ではなかった。
追いかけたり、離れたり、時々重なったりする声だった。
スミレは、ミナ先輩の方を見なかった。
見たら、歌えなくなりそうだった。
ミナ先輩も、たぶんスミレを見ていなかった。
それでも、二人の音は、何度か同じところで合った。
部室の窓の外で、誰かが笑った。
廊下を走る足音がした。
卒業式のざわめきは、まだ遠くにあった。
でも、その間だけ、部室の中だけが、あの日の少し手前に戻った。
イージー♡ライター。
少しダサい名前。
申込用紙に勝手にハートを入れた名前。
誰にも頼まれていない場所で、勝手に鳴った名前。
スミレは、歌いながら思った。
たぶん、戻ったわけではない。
戻れるわけでもない。
でも、あれが嘘だったわけでもない。
最後の音が、部室の壁に当たって、小さく消えた。
歌い終わったあと、しばらく誰も動かなかった。
ミナ先輩は、ギターを抱えたまま黙っていた。
スミレは、窓の外を見たまま、息を整えた。
言うことは、いくつかあった気がする。
でも、どれも今さらだった。
どれも、どこか違っていた。
ミナ先輩が、ゆっくり手を上げた。
スミレは、それを見た。
遅れて、自分も手を上げた。
ハイタッチ。
パン。
音は、思っていたより小さかった。
アクタ前の時みたいに、大きくもなかった。
痛くもなかった。
誰かの拍手もなかった。
でも、ちゃんと鳴った。
ミナ先輩は、少しだけ笑った。
スミレも、少しだけ笑った。
また、とは言わなかった。
さよなら、とも言わなかった。
ミナ先輩はギターケースを開けた。
スミレは、机の上の譜面をそろえた。
部室の窓から、三月の光が入っていた。
文化祭の紙の端が、その光で白く見えた。
二人では、写真を撮らなかった。
それでも、スミレは、これは忘れないと思った。
卒業式の日の部室。
一本ずつ鳴る弦。
派手な髪。
ギターに触れる、あの手元。
小さく鳴ったハイタッチ。
その音だけは、卒業しなかった。
― 完 ―
『イージー♡ライター』は全五話で完結です。
