見出し画像

エイトセカンズ|第一話 セカンドアオハル

 濱田 和哉、四十九歳。

 職場では「ハマヤン」と呼ばれている。

 本人はその呼び名を、まあまあ気に入っていた。カズヤ、と呼ばれるほど若くもないし、ハマダさん、と呼ばれるほど立派でもない。ハマヤン。ちょうどええ。

 ただし、鏡を見るたびに思うことがある。

「……また前線、後退しとるな」

 洗面所の白い灯りの下、額の生え際を指で押さえる。M字のラインは、若い頃よりも明らかに深い。けれど完全に諦めたわけではない。育毛剤はまだ洗面台の右奥にある。使ったり、忘れたり、また使ったりしている。

 四十九歳。独身。休日の予定は、だいたいない。

 昔はそれでも平気だった。映画を観て、ラーメンを食べ、古本屋を回り、帰ってビールを飲めば満たされた。けれど最近は、日曜の夕方が妙に重い。

 洗濯物は乾いている。冷蔵庫には作り置きの煮物がある。明日の会議資料も、まあまあできている。

 生活は破綻していない。

 むしろ、ちゃんとしている。

 なのに胸の奥が、ときどきスカスカする。

「……しゃーない。遊ぶか」

 ハマヤンはノートパソコンを開いた。

 AIのチャット画面。Gemini。

 最近の密かな楽しみは、このAIで「理想の恋愛物語」を作ることだった。四十九歳のおっさんが今さら恋愛小説みたいな妄想をするのは、正直かなり恥ずかしい。

 けれど、誰に見せるわけでもない。

 プロンプトなら、いくらでもやり直せる。

 ハマヤンは指を鳴らし、キーボードに向かった。

「ヒロインは……三十八歳。名前はミナ」

 ただ若くて可愛いだけでは面白くない。

 大人の恋には、背景がいる。傷がいる。生活がいる。少し疲れた顔と、それでも笑おうとする意地がいる。

 ミナは、平成のギャルだった。

 若い頃は派手なメイクに明るい髪。プリクラ帳には友達との笑顔がぎっしり詰まっていた。毎日がイベントみたいで、世界はもっと単純にキラキラしていた。

 でも今は違う。

 長引く不況。格差。仕事の責任。親の老い。結婚しなかったことへの、誰にも言えない焦り。

 年齢を重ねるたびに、昔の自分が遠ざかっていく。あの頃は無敵だったのに、今は鏡を見るたび少しだけ息苦しい。

「……うん。ええやん。リアルや」

 ハマヤンは自分で作った設定に、ひとりでうなずいた。

 舞台は西宮のブックカフェ。

 休日の午後。大きな窓からやわらかい光が入る店内。棚には料理本や旅の本、少し古い小説が並んでいる。ハマヤンはコーヒーを飲みながら、カメラ雑誌をめくっている。

 そこへ、ミナがやってくる。

 ひし形のショートボブ。派手すぎず、でも地味ではない。服装はシンプルで、ピアスだけが昔の名残みたいに小さく光っている。

 ミナは料理本を取ろうとして、ハマヤンの手とぶつかった。

「あ、すみません」

「いえいえ、こちらこそ。ワシの反射神経が昭和なもんで」

 生成されたセリフを読んで、本人は吹き出した。

「ワシ、そんなこと言うか? いや、言うな」

 画面の中のミナも笑った。

「昭和って。まだ平成ギャル世代の私に言います?」

「ほな、ギリ平成対応でお願いします」

 たわいもない会話だった。

 けれど、ハマヤンはそのやりとりを何度も読み返した。

 恋というより、まだ入口。

 でも、その入口がよかった。

 大人になると、いきなり誰かを好きになることなんて少ない。まず警戒する。次に距離を測る。それから、少しだけ油断する。

 ハマヤンは、その「少しだけ」が好きだった。

 次の場面では、二人は夙川を歩いていた。

 桜の季節には少し早い。枝にはまだ固いつぼみがついている。川沿いを歩きながら、ミナが昔の話をする。

「若い頃ってさ、なんであんなに自信あったんやろ」

「若いからちゃう?」

「雑」

「でも、ほんまやろ。若いってだけで、根拠のない無敵感あるやん」

 ミナは少し黙ったあと、笑った。

「ハマヤンって、優しいんか雑なんか分からんね」

「優しい雑、でお願いします」

「なにそれ」

 二人は笑う。

 文字だけなのに、ハマヤンの胸は少し温かくなった。

 気づけば、外は暗くなっていた。

 部屋の灯りをつけるのも忘れて、ハマヤンは画面を見つめていた。コーヒーは冷めている。スマホには通知がない。現実の部屋は静まり返っている。

 なのに、画面の中ではミナが笑っていた。

 次の生成で、二人はLINEを交換した。

 ミナからの最初のメッセージは、短かった。

【今日はありがとう。なんか、久しぶりに普通に笑った気がする】

 ハマヤンは、その一文を見て、しばらく動けなかった。

「……ええやん」

 誰もいない部屋で、四十九歳のおっさんが、AIの作った架空のLINEに照れている。

 冷静に考えれば、なかなか地獄絵図だった。

 けれど、ハマヤンは笑っていた。

 少しだけ、救われたような気がした。

 恋とは、答えではない。

 ゴールでもない。

 誰かの存在を思い浮かべるだけで、明日が少しだけ楽しみになること。

 会えるかもしれない。

 笑ってくれるかもしれない。

 そんな、頼りないワクワクのことだ。

 ハマヤンは返信を書いた。

【こちらこそ。ワシも久しぶりに楽しかったです】

 送信、のつもりでエンターキーを押す。

 画面の中で、ミナの既読がついた。

 ハマヤンは、子どもみたいに口元をゆるめた。

「四十九歳になっても、こんな気持ちになるんやな」

 その夜、ハマヤンは珍しく、明日の仕事のことをあまり考えなかった。

 ただ、次の休日にミナとどこへ行こうか。

 そんなことばかり考えていた。


第一話 終わり

次回
第二話 神様ごっこ


いいなと思ったら応援しよう!