【短編小説 2/2】いつか、なのか
↓この投稿はこちらの短編小説の続編です。
雨の日の出勤は、気持ちが重い。向かいのデスクの中井さんのタバコと生乾きの臭いがいつもより強まったように感じ、私はこれ以上ないほど気が滅入っていた。
駅まで歩く途中にあの窓を通りかかっても、かたく閉じられたカーテンの向こうからは何の気配も感じられず、ただ足早に通り過ぎてきてしまった。
ナチに呼び止められた日から数日後、バスの車中から私は一度だけ2人の姿を見かけていた。
あの道を歩かずに、バスで駅からの道を急いだのは天気のせいだけではなかった。
雨が降り注ぐ中で男の足にしがみつき泣き叫ぶナチと、力なくその横で立ち尽くすビニール傘の下のミキの様子を、信号が青になるまでの間、私は食い入るように見つめてしまったのだった。
ナチの鮮やかなピンクの雨合羽と、ミキがだらりと手に提げていたサルのぬいぐるみの黒い目。私はあの光景に、幼い自分の姿を重ね合わせていた。
大人たちの都合で一変する暮らし。ここは安心できる場所なのかそうでないのかと張り巡らせたセンサー。そして、気持ちの糸が切れてしまった瞬間の暴発。
…傘で隠れていた男の顔は、ナチにもミキにも似ているのかもしれない。
私は、チラチラと窓の外に目線をやりながら読みにくいA4サイズの紙片たちと格闘し続けた。
今日は夕方まで雨の予報だし、少し冷えるし、きっと、外で休憩するのは無理だろう。水筒と一緒にカバンに突っ込んできた四個入りのクリームパンは、昨日が賞味期限だった。
しかたない。しかたない。がまん。がまん。
呪文のように私は口の中で呟き、昼休みまでをやり過ごした。
「渕野さん、今日はさすがに外行かないんだね」
業務がもたつき、遅れて昼休みに入った私に声がかかる。中井さんと隣の長田さんは変わり映えのしない会話に飽きたらしい。水筒の茶を一口飲んで四個入りのパンを半分かじったところだったので、飲み込んでから応える。
「はい。家に食べるものがあったんで…それで済まそうかと」
私がパンのガサガサした包みを掲げると、長田さんが急に声を上げた。
「うお、それ好きなんだよな、俺。子供の時からあるやつ」
「…要りますか?一つ。あ、だめだっ、昨日までなんですこれ。賞味期限」
あ。言わなくてもいいことばかり並べて自爆した。
私はすぐさま後悔と恥ずかしさで俯いた。
「意外と気にしないタイプ?渕野さんも」
しかし2人はがはがはと笑い、長田さんは私のデスクの横へやってきた。
「俺も気にしないタイプ。じゃ、一個ください」
私は先程のあたふたと落ち着きのない言動を拒絶されなかったことに安堵し、包みを差し出した。
雨は強まりもせず止みもせず、静かに休憩時間にその音を響かせ続けた。
長田さんは結局クリームパンを2つ食べ、午後の業務中にほんの少し船を漕いでいたのがちらちらと目に入った。
*
大きな雨雲が2つ通り過ぎ、やっと晴天が訪れたのは木曜日の朝だった。
雨を言い訳に通っていなかったあの道を歩いて駅を目指すと、やがてあの窓に差し掛かる。小さな違和感にそっと目を凝らすと、要塞に見張り番が増えている。どうやらあの日見かけた、サルのぬいぐるみのようだ。そのだらりとした手と足が、窓に向けて何やらメモを掲げている。
《お は よ お な の カ》
ナノカ。
数日前に聞いたナチの屈託のない声が耳元に蘇り、私は足を止めた。
「…おはよう」
誰にも聞こえないほどのボリュームでそっと呟くと、再び駅へと向かって歩き出す。植え込みのツツジや名前のわからない街路樹の葉は、深夜まで降っていた雨でつやつやと葉を光らせている。いつしか、桜は満開を通り越して、散りかけている。
「ごめん渕野さん、たびたび昼休憩遅れさせちゃってたんだね。申告してくれたら、その分延長していいから」
突然、所長に廊下で声をかけられ、私は面食らった。
「他の事業所から連絡くるの、どうしてもずれ込むんでしょ?前任の人はさ、自分からそういうの言うタイプだったから…つい気づいてやれなくて。悪かったね」
「自分から確認、すべきでした。申し訳ありません」
頭を下げた私に、所長は続けた。
「礼なら、中井くんに言ってよ。もしかして、って俺に言ってきたからさ」
「…そうなんですか」
何も見ない、何も感じない、何も語らない。その方が自分を守れる。失敗ばかりの日々の中、私はいつもそれが最善だと信じるようになっていた。しかし、そうではないのかもしれない。弱さを隠さないこと、誰かから何かを受け取ることでしか、得られないものもある。それで傷つくことがあっても。
デスクに戻る前に、私は中井さんにお礼を言うべく声をかけた。相変わらずタバコと生乾きの臭いはきつかったが、彼のデスクに飾られた古そうな家族写真を覗き見ながら私はどこかさっぱりとした心持ちだった。
*
曇り空の広がる土曜日、私はスーパーで豪華な買い物をした。パックに入ったいちごと、いちご味のチョコレート。そして、いちごのアイスクリーム。なまぬるい空気に溶けてしまわないよう、氷に包んで。
「買っちゃったからには、渡さないと」
独り言を呟きながら、私は初めて目にした玄関のインターホンを、震える指でそっと押した。
「…はい」
低い声。おそらくミキのものだろう。
「あの、ナノカ…です」
恐る恐るマイクに向けて私が名乗ると玄関にドタドタとした足音が近づき、ドアがばん、と開け放たれた。
「ナノカ!!ねーえー、ミキ、ナノカきた!」
ボールのように飛び出してきたナチの後に、ゆっくりと顔を出したミキは私に軽く会釈した。その表情には困惑がはっきりと浮かんでいる。
「今日は、…ナチちゃんに、おみやげをもって来ました。受け取ってくれますか」
カサカサした白いビニール袋を手渡すと、ナチはすぐさま中を覗き込んでわぁ、と歓声を上げた。
「アイス!いちご!ありがと、ナノカ」
アイス、アイス、とスキップするような足取りで、そのまま部屋の中へと小さな後ろ姿は消えてゆく。
「…ナノカさん、…お気持ちはありがたいですが」
彼は目を伏せたまま言葉を選んでいる。その続きを待たずに、私は口を開いた。
「嫌な思いをさせてしまった、おわびのつもりです。これ以上、ナチちゃんに付き纏ったりするつもりもないので、安心してください」
一気にそう言うと、頭を下げて私は背中を向けて歩き出した。…これでいい。ナチの笑顔の素が、一つでも増えたなら。
知り合いもないこの街で、ずっとこのままで構わないとだけ思って暮らしてきた。
でも私は、自らを名前で呼んでくれる誰かがいることで、ほんの少しだけ明日を楽しみに生きられるような気がしていた。
そして。
もし彼が行き場のない思いを抱えているのならば、ここにほんの少しだけ、そのことを案じている人間がいる。そのことを、知ってほしい。
拒絶も受容もすべて、流れに任せるのだ。
*
まったく、やたらと雨の多い春だな。
私は、湿った折り畳み傘と重いレインシューズを疎ましく思いながら改札を出た。眩しい夕陽がバスのロータリーを染めているのを横目に、鈍い足取りで歩き出す。大きな水たまりには、昼までに雨と風が散らしただろう桜の花びらがごっそりと溜まっている。
ほんの少し逡巡したが、私は背筋を伸ばしてあの窓の前を通るルートを選んだ。
「あ」
窓際の見張り番のサルが掲げたメッセージを目にして、私は小さく声を洩らした。
《お カ` え り な の カ`》
おそらく後で書き足された、妙に三画目だけが太い「か」。
それはきっと、カーテンの向こうの二人が、でこぼこしたあたたかなやりとりで重ねた時間の小さな証。
文字の側には、いちごアイスの蓋が添えられている。
こちらを見ていなくても、かまわない。
出迎えてくれて、ありがとう。ただいま。
私は部屋の中の二人に大きく手を振り、再び歩き出した。
【完】
