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【短編小説 1/2】いつか、なのか

いつ、この壁は崩されるのだろう。

通るたびに妙に気にかかる、あるアパートの出窓を私は見つめた。ちょうど道が折れ曲がる部分に面した角部屋。明るい日差しがたっぷり差し込むリビング…もしくは、ワンルームなのか。間取りは分からないが、せっかくの大きな窓は大きな段ボールらしき箱と、ぬいぐるみのようなものが詰まった籠で半分以上塞がれていた。その内側に引かれたレースカーテンが部屋の静寂を守っている。部屋と歩道を隔てる植え込みのツツジやアジサイの枝葉が、少しずつ花を咲かせるための準備をそっと始めている。街路樹の中に点々と佇む桜の木は、確実に蕾を膨らませている。

駅まで行くにはいくつかの経路があったが、私が一番好んだのがこの道を通るルートだった。今日もそうして壁の存在感を確認し、私は電車の時間に間に合うかどうか腕時計をチラチラと見やりながら歩調を速めた。

「…各駅停車、……発車致します」
いつもの乗車位置から電車に乗り、私は車窓から街を眺める。いつもどの職場でもいまいち馴染めなかった自分を半ば諦めるようにしてたどり着いた今の仕事。好きになれる部分がちっとも無くても、もし辞めてしまったら今度こそ世間というものに戻れなくなってしまうように感じて、私はなんとかしがみついていた。

パソコンの画面に向き合っているうちに、他の事業所からの電話が鳴る。その電話に応対している間に、大量のファックスが流れる。
「もっと若い子、来ないかな」「来るわけねぇだろ。こんなとこ」
週に二度はそんな会話を聞きながら昼休憩には持参したおにぎりを1分で口に詰め込み、隣のスーパーを徘徊した。
そして休憩が開けるとまたデスクへ舞い戻る。時代に置き去りにされたようなそこで私は17時までへとへとに消耗して再び電車へと舞い戻る。この繰り返しだ。

疲れ切って最寄駅へと到着した私は、ふと思い立ちあの部屋の前を通るルートから帰宅することにした。
いつも夕方を過ぎると、もっと明るい大通りを歩くのだが今日はなぜかあの細く静かな裏通りを歩きたかった。

夜、あの窓に灯りがついているのを、そういえばあまり見たことがない。

…どんな人が、住んでるのかな…

私は好奇心を微かに膨らませた。
少しずつ、あの部屋に近づくたびに私の歩みは鈍くなった。仄かな灯りが、ぬいぐるみ達を背後から照らし、積まれた箱たちとガラス窓の間は舞台袖の空間のようにしんとしている。
主演俳優の姿は、カーテンに阻まれて見えない。私は立ち止まって見つめようとする自分を抑えることができず、ぬいぐるみたちの隙間へと視線を走らせた。

ふと、奥の人影が動く気配で私は我に返る。
慌てて自分の住む部屋へと再び歩き出しながら、私は自分の脈が速くなっていることを感じていた。

まさか、私だって、深窓の美青年が住んでるなんて妄想はしていない。もしかしたら、ゴミ屋敷かも。それなのに、なぜかどうしても心に引っかかってしまう。

その日眠りにつくまで、あの窓の残像は私の瞼に残り続けた。

金曜日の帰り道、私はまたもやあの部屋の前を通り過ぎるべく裏通りを歩いていた。ついに、今週はあの窓の様子を毎朝毎夕覗かずにはいられなくなってしまったのだ。

覗くっていっても、遠くからそっと見るだけだから、いいじゃん。大丈夫。

そんなふうに言い訳をしている自分がすでに「怪しい」のだと分かっていた。しかし、通りかかる人も少なく咎められることがないその行いに、私はどこか安らぎすら感じていた。

あの窓辺が近づいてくると、私は窓の明るさを遠目で確かめた。…居る。足の運び方が、自然と音を立てないようなものに変わる。積まれた箱と、ぬいぐるみの隙間に目を凝らす。

…と、そこには、人間の頭らしき小さなシルエット。窓の外に向いている。

私はつい後ずさった。
肘を出窓につき、こちらを伺っているのか、それともただ外を見ているのか。動揺が足音にまで伝わるような気がして、私はまるで見つかった泥棒のように足早にその場から離れた。

立ち去る瞬間、微かにガラス窓を叩くコン、という音が耳に届いたが、私は振り返らなかった。

…もう、覗き見るのはやめにしないと。向こうが気づいたのかもしれない。

いつしか走っていた私は、軽く息を切らしながら部屋へとたどり着いた。鍵を回し、暗い部屋へ滑り込んだ途端に身体の力は抜け、月曜日から積み重なった疲れが雪崩のように私の思考を押し潰し、覆い隠していった。

全てを忘れてとにかく休みたい。
ちょっとした悪事にもう救いを求めることはできない。とにかく、横になって、眠って…全てはそれから、考えよう。

部屋の鍵をそっと閉める指先はほんの少し震えていた。

お腹が減りすぎて動けない。

薄闇の中、私はきちんと落としきれていない化粧のせいでごろごろする目元を擦りながら身体を起こした。よたよたと洗面所まで足を引きずって顔と手を洗う。疲れが目元に影を落とし、自分の寝起き顔は35歳という年齢よりも老けて見えるように思えた。

誰のせいにもできない不機嫌を持て余して冷蔵庫を開けるが、すぐ私の栄養になってくれそうなものは冷凍ご飯とふりかけくらいだった。

「…なんで、卵くらい買っとかないわけ?缶詰とかさぁ。だからこういう時困るんじゃん、しっかりしてよ」

余計にいらいらすると分かっていても、自分を罵倒する言葉がつい口をついた。
しかし、腹が減っている私をどうにかできるのも私だけなのだ。諦めて私は電子レンジにご飯の包みを入れてボタンを押す。旧式のターンテーブルがラップ包みをつやつやと照らすのを横目に、私は水を注いだ片手鍋を火にかけた。

ふりかけご飯食べたら、お茶飲んで出かけよう。一番近くのスーパーか、すぐそこのコンビニにダッシュして、どっさり買い込もう。

そう決めて、私は、現段階では唯一の糧であるそれをいつもよりも長く噛み締める。
歯磨きをし眉毛を整えると、部屋着とたいして変わらないパーカーを羽織り、くたびれたデニムに着替えて私は部屋を出た。

なまぬるい風が頬を撫でる。
道をゆく全員の身軽な服装に、たしかな春の力が街の隅々まで行き届いているのを感じて私はこわばった身体を緩ませた。
昼食のための食材や惣菜を求める人々で賑わう休日のスーパーで、私はすぐ食べられるものをたくさんと保存がきくものをいくつか選んでカゴに入れた。

あとは、飲み物と、アイス。

そう口の中で呟き、私が一歩缶詰コーナーから踏み出そうとした時、まっすぐに私を指差すシルエットが目に入った。
「あの人、みてた。あの人」
小さな女の子が、隣の男の袖をぐいぐい引っ張りながら大きな声で主張する。

「うち、みてた」

その断定するような言葉に、男もこちらを見た。と、こちらへ走り寄ったその子は私のカゴに手をかける。
「ねぇ、なんで、みてたの」

取り繕う暇などこちらに与えない、まっすぐな問いかけ。私は狼狽えた。
「ねーえー、なんで」
そうしている間にも、小さな追求者の重みは私のカゴにさらにのしかかる。私は力が抜け、カゴを床に置いて膝に手をついた。
「…ごめんなさい……あんまり、窓がぬいぐるみでぎゅうぎゅうだったから。何だろう、って…見ちゃった…んです。よくないこと、しました」
自然と、顔は彼女の目線の近くまで顔が下がっていた。
「ごめんした」
彼女は、ようやく側に寄ってきた男に大きな声で叫んだ。
「ミーキー、この人、ごめんした。ぬいぐるみ、みたって。ごめん、した」

ミキ、と呼ばれた男はどこか彼女に似ていたが、父親かどうかはわからない。私をあまり見ないまま、そっと彼女に並ぶ。
「わかったよ。ごめん、したんだな」
ミキが手のひらを差し出すと、小さな彼女はすぐにそこへ掴まった。
「驚かせてすいません。…本人、納得したみたいなんで…。じゃ、失礼します」
小さく会釈すると、男は重そうなリュックの背中を向けて立ち去ろうとした。

「ほら、行くよ。ナチ、お腹空いてるだろ」

しかし彼女は抵抗した。

「いや。なまえきく。おはなししたい」
「アイス、溶けちゃうぞ」
「いっしょにきて」
そんな問答が繰り返され、男は観念したように私を見た。
「…じゃあ…今から、お金、払うところだから」

反応に困った私が苦し紛れにそう切り出すと、ナチは当然のように隣に並び、そのまま2人と共にレジに並ぶことになってしまったのだ。
「なまえ、おしえて、なんていうの」
「私の名前は、ナノカ」
「…ナ、いっしょだね」
「ナチ、アイス大すき。ナノカもアイスすき?」
「うん、大好き」
「また、いっしょだ。ナチは、いちごのがすき」
「ナノカは、チョコレート」

レジで会計を済ませるまでかと思ったら、まだ離してもらえなかった。とめどなく、おしゃべりは続く。

…小さい子、ずっと苦手だと思ってたのにな。いつのまに話せるようになったんだろう。

おそらく、私が話せるようになったのではない。ナチのおしゃべりのリズムを、ほとんど傍観しているだけなのだろう。適当に切り上げようとか、こちらを好きになるように誘導しようという思いがない。それだけのことなのだろう。熱烈な猫好きは、猫に避けられがちだというエピソードをなんとなく私は頭に浮かべた。

「アイスたべる。アイス、ねぇミキ、アイス」
ほぼ引きずられるように私はスーパーの小さな飲食コーナーへ足を踏み入れた。テーブルが二つ寄せられ、四つの椅子が用意された一角に私たちは腰を下ろした。降参した様子の彼–ミキ–はリュックサックの口を開き、飛び跳ねそうにはしゃぐナチの前にアイスクリームのパッケージと、木の平たいスプーンを差し出した。赤いフタをぺりぺりとめくると、ナチは私とミキの目を交互に見つめながらそのフタをぺろりと舐めた。

「おーいしー、いちご。いちごアイス」

彼女が使いにくそうな木のスプーンでアイスを掬いとることに集中しはじめると、その様子を隣で見守っていた彼は顔を上げて私を見た。

「付き合わせてしまって、すいません。…なかなか頑固者なんで」

その声には、肩の力がなぜか抜けていくような、まるで温室の中のしっとりとしたぬるさがあった。私は、そのテーブルに満ちた気配に自分が馴染んでいるのを感じた。

「いえ。そもそも、私が、覗き見したせいだから」

アイスクリームにナチが突き立てたスプーンは、次々と彼女の小さな口に運ばれてゆく。

「ぬいぐるみも、箱いっぱいの洋服や絵本も…眺めるだけで、触れようとしない」
「え」

私の発した一音に、彼ははっとしたように口を噤み、手元に抱えたリュックサックの中身をゴソゴソと整え直すようにしてからゆっくりとバックルを閉め直した。
私もそれ以上彼に尋ねることはせず、いよいよ空になりそうなアイスクリームのカップを眺めた。

「はい、おしまい。…ごみ、ポイできるな?」
ミキが促すと、ナチは頷いてアイスクリームの容器とスプーンを隅のゴミ箱へ運んだ。

「じゃ、バイバイして。部屋でお絵描き、するんだろ」
「うん!おとうさんに、みせるの、かく」

邪気のない宣言にほんの少しミキの表情が曇ったが、彼はすぐにナチの方へ目線を落としてまるで何も聞かなかったように振る舞った。
そのおかげで、私もどきりとして肩に力が入っていたのを見られずに済んだ。

「バイバイ、ナノカ」

はしゃいだ笑い声や、あのぬいぐるみの壁に、言葉にならない苦しみを塗り込めているのだろうか。この小さな彼女は。

私はひとり、椅子から立ち上がれないまま短く手を振った。跳ねるような動きの小さい背中と、注意深く距離感を探るような大きな背中のペアはどんどん遠ざかり扉の外へと消えた。
それを見届けて、私は自分の買い物袋からチョコレート菓子をひとつ取り出して包みを破って口へ入れた。大人は、誰にも言ってもらえないのだ。もう帰るよ、とも、そんなに食べちゃだめ、とも。
私はもうひとつ菓子の包みを破った。

自室に重い買い物袋を抱えて戻り冷蔵庫に生ものをしまうと、私は座布団に頭を乗せて敷物の上に横たわった。首からつま先までが、少しずつ床下からの空気に冷やされてゆく。
あの壁は舞台袖ではなく塹壕だったのかもしれない。ふと私はまたあの窓のことを思った。彼女は小さな眼で、自分の確かではない暮らしに、こっそり侵入しかけた私をきっちりと見定めていた。

明日からは、あの道を通ること自体、もう止めたほうがいいだろうか。

そうも考えたが、全くの他人であるはずのナチとミキの後ろ姿を瞼に浮かべると、どうしてもこのまま会わずに忘れ去ってしまえそうには思えない。
答えが出ないまま、私は静かに眠りの中に落ちていった。



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